第五節 ― 管理対象レベル上昇
白環管理区域は、すぐには消えなかった。
雨に濡れた旧北口商店街の敷石の上で、白い円環は何度も薄くなり、また浮かび上がった。まるで、消しゴムで消した文字の跡が紙に残るように、光の輪郭だけがそこに留まっている。
白紙監査官たちは消えた。
白いバインダーも、顔のない職員の影も、雨の中へほどけていった。
けれど、消えたからといって、何もかもが元に戻ったわけではなかった。
古書店《紙魚の巣》の看板は、まだ少し滲んでいる。
《紙魚》の文字は読める。
けれど、《巣》の最後の一画が薄い。
時枝時計店の老人は、店先で自分の看板を見上げていた。
「時枝……そうだ。時枝だ」
老人は何度か口の中で繰り返した。
「わしは時枝時計店の時枝だ。何を忘れとったんだ、まったく」
冗談めかして笑おうとしていた。
だが、その笑いは少しだけ震えていた。
隣にいた妻らしき女性が、彼の腕を強く握っていた。彼女もまた、何かを取り戻したばかりの顔をしている。
古い薬局の表札も、完全には戻っていない。
《柊木薬局》。
読める。
読めるが、雨に濡れた墨のように輪郭がぼやけている。
ユウリは、それらを一つずつ見た。
戻った。
けれど、完全ではない。
その不完全さが、ひどく現実的だった。
怪異を祓えばすべてが元通りになるわけではない。記憶も、名前も、恐怖も、一度白く塗られかけたものは、何かしら跡を残す。
雨宮ソウタは、白環相談所の入口近くに座っていた。
職員の一人が毛布をかけ、温かい飲み物を渡している。彼はまだ顔色が悪い。けれど、首元に浮かんでいた《信徒》のタグはもう見えない。
代わりに、彼のスマホ画面には、短い表示が残っていた。
《雨宮ソウタ》
《契約未遂後反応》
《恐怖記憶:保持》
《対話処理へ移行》
恐怖記憶。
その言葉は、少し冷たい。
でも、《信徒》よりはずっといい。
《通信障害被害者》だけにされるよりも、ずっといい。
雨宮は紙コップを両手で持ちながら、ぽつりと言った。
「俺、忘れなくていいんですよね」
誰に聞いたのか分からなかった。
マシロか。
職員か。
ユウリたちか。
それとも、自分自身か。
マシロが彼の前に立ち、静かに答えた。
「はい。ただし、一人で抱え込まないでください。思い出すことで苦しくなる場合があります。その時は、ここへ来てください」
「また消されるんじゃなくて?」
「同意なく封鎖はしません」
雨宮は、疑うようにマシロを見た。
当然だと思った。
ついさっきまで、彼は自分の記憶を白く塗られかけていたのだから。
それでもマシロは、目を逸らさなかった。
「ただし、危険な残響が再活性化した場合は、緊急措置を取ることがあります」
「それって、結局消すってことですか」
「消すのではありません」
マシロは一度言いかけて、そこで言葉を止めた。
ユウリは、その沈黙を見逃さなかった。
たぶん、いつものマシロなら即答していた。
封鎖です。
消去ではありません。
日常復帰のために必要です。
そう言えたはずだ。
けれど、今は一瞬だけ止まった。
雨宮ソウタの名前を、ユウリたちが呼んだあとだからかもしれない。
マシロは言い直した。
「あなたが戻ってこられる形を、こちらでも検討します」
雨宮は、完全に納得した顔ではなかった。
それでも、小さく頷いた。
「……お願いします。俺、怖いのは嫌です。でも、何もなかったことにされるのは、もっと嫌です」
マシロはその言葉を端末に記録した。
ユウリは、その動作を見て少し複雑な気持ちになる。
また記録している。
でも、今度は管理番号ではなく、雨宮ソウタの言葉として記録していた。
それだけでも違うのかもしれない。
いや、違っていてほしいと思った。
*
白環相談所の職員たちは、商店街の人々に声をかけて回っていた。
ただし、さっきまでとは少し様子が違う。
スマホを一方的に確認し、記憶を通信障害へならしていくのではなく、まず名前を尋ねていた。
「お名前を確認してもよろしいですか」
「このお店の名前を覚えていますか」
「昨日、どなたと一緒にいましたか」
「思い出したくない場合は、無理に言わなくて大丈夫です」
その言い方はまだ事務的だった。
それでも、白い仕切りの向こうへ一方的に連れていく感じは薄れている。
レンは、濡れた前髪をかき上げながら、口を尖らせた。
「最初からそうしろって話だよな」
ユウリは答えなかった。
そう言いたい。
でも、言い切れなかった。
最初から一人ずつ名前を確認し、話を聞いていたら、偽日輪事件の記憶はもっと広がっていたかもしれない。誰かが恐怖を語り、別の誰かがそれを面白半分に撮り、また誰かが検索し、再臨チャレンジの噂が強くなっていたかもしれない。
マシロたちは、それを恐れたのだ。
恐れたから、早く、広く、白くならした。
それが間違いだったのか。
部分的には間違っていた。
でも、全部が間違いだったと言えるのか。
ユウリには分からなかった。
「……難しいな」
思わず呟くと、レンがこちらを見る。
「何が」
「マシロ先生を、完全には否定できない」
レンは嫌そうな顔をした。
「まあ、それは分かる。むかつくけど」
「うん」
「でも、俺はログ消されるのは嫌だ」
「僕も」
「ミオを隔離とか言われるのも嫌だ」
「それも」
ミオは二人の会話を聞きながら、学生証を見つめていた。
彼女のAVIS画面は、まだ白い。
中央の数字は変わっていなかった。
《現在名:星宮ミオ》
《現在名安定率:61%》
《白環補正干渉:軽度》
《本人現在名保持:確認》
六十一。
上がっていない。
下がってもいない。
それを良いことと考えるべきなのか、悪いことと考えるべきなのか、ユウリには判断がつかなかった。
「ミオ、大丈夫?」
ユウリが聞くと、ミオは少しだけ考えた。
「はい。少し疲れましたけど」
「名前、変な感じしない?」
「今は大丈夫です。さっき、自分で名前を言えたので」
彼女は学生証を胸元へ戻した。
「でも、白い線の中にいると、少し怖かったです。私の名前を守ってくれるような顔をして、別の棚にしまおうとしている感じがしました」
「別の棚……」
「はい。なくすわけじゃない。でも、私の手が届かない場所に置かれる感じです」
ユウリは、その表現を胸に留めた。
消すのではない。
封鎖する。
保護する。
預かる。
管理する。
言葉は違う。
けれど、本人の手が届かなくなるなら、それは本当に守ることなのか。
ユウリにはまだ分からない。
*
白環管理区域の縮小が始まったのは、それから十分ほど後だった。
商店街の敷石に残っていた白い線が、少しずつ雨に溶けていく。
まず、円環の外側が薄くなった。
次に、古書店や時計店、薬局の前に残っていた補正ラインが消えた。
最後まで残ったのは、白環相談所の入口と、カフェ《ノーネーム》の前だった。
相談所の前に残るのは分かる。
そこが処理拠点だからだ。
だが、カフェ《ノーネーム》の前に残った線は、奇妙だった。
白い線は、店の入口へ触れようとして、触れられずにいた。
木枠の扉の前で、円環がほんの少しだけ歪む。
真鍮の札に引かれた黒い一本線。
その前で、白環の処理が止まっている。
まるで、そこだけ記録できない空白があるように。
マシロもそれを見ていた。
彼女の端末が、短く警告音を鳴らす。
《局所記録照合失敗》
《対象店舗:店名未取得》
《位置情報:不安定》
《白環補正:適用不能》
レンが小声で言う。
「やっぱあの店、普通じゃないな」
「うん」
ユウリはカフェの扉を見た。
中には、老紳士がいるはずだ。
名前を聞かない店主。
こちらの事情を知っているようで、何も直接は教えない人。
黒いシルクハットと銀の杖。
そして、白いものはいつも清いとは限らない、と言った声。
マシロはしばらくカフェを見ていたが、すぐに視線を戻した。
「現時点では、優先順位を下げます」
「調べないんですか」
レンが聞く。
「調べます。ただし、今ではありません」
「へえ。管理機構でも後回しにするんだ」
「危険度が不明な対象へ不用意に干渉することは、管理ではなく事故です」
レンは少しだけ黙った。
その返しは、妙に説得力があった。
マシロは端末を操作し、職員たちへ指示を送る。
「白環管理区域を一時解除。相談所は縮小運用へ移行。対話処理対象者を優先し、強制補正は停止してください。商店街固有記憶への干渉ログは全件再確認します」
職員たちが動き出す。
白い腕章の大人たちは、てきぱきと机や端末を整理し始めた。だが、完全撤収ではない。相談所はまだそこに残る。白い入口も、白い椅子も、白い仕切りも。
この商店街に、管理機構の窓口ができた。
その事実は消えない。
白い線が消えていく中で、マシロはユウリの前に立った。
雨は弱くなっていた。
アーケードの屋根から落ちる雫が、一定の間隔で敷石を叩いている。
マシロはしばらく何も言わなかった。
ユウリも黙っていた。
さっき、彼女はユウリを支えた。
白紙監査官を止めた。
雨宮ソウタを名前で呼んだ。
だからといって、彼女の思想が変わったわけではない。
ユウリも、それは分かっている。
「天瀬さん」
マシロが口を開いた。
「あなたは、危険です」
その声は、静かだった。
責める声ではない。
ただ、診断結果を伝えるような声だった。
「あなたの契約相は、神名偽装だけでなく、記録補正の下にある現在名にも干渉しました。これは通常の契約者には見られない性質です。使い方によっては、多くの人を助けられるでしょう」
そこで一度、言葉を切る。
「ですが、同じ力で、多くの人を傷つけることもできます」
ユウリは左手を見る。
白い鍵はもうない。
でも、熱はまだ残っている。
「分かってます」
「分かっていません」
マシロは即座に言った。
その厳しさに、ユウリは顔を上げる。
「あなたは今、自分が危険だと知識として理解しているだけです。危険な力を使ってしまった時に、どれだけの記録が壊れ、どれだけの名前が戻らなくなるかを、まだ実感していません」
ユウリは言い返せなかった。
偽日輪の名札を剥がした。
雨宮ソウタの名前を救った。
その二つは、うまくいった。
だから、自分はどこかで、またやれると思っているのかもしれない。
その思い上がりを、マシロは見ている。
「あなたの行動は、結果として雨宮ソウタさんを救いました」
マシロは続けた。
「それは認めます。ですが、結果がよかったからといって、過程が安全だったことにはなりません」
「でも、先生の補正だって危険でした」
「はい」
マシロは、今度は否定しなかった。
「白環補正にも危険があります。だから管理者が必要です。監査が必要です。許容値が必要です。失敗した時に、責任を負う者が必要です」
「責任を負うなら、名前を預かっていいんですか」
ユウリの声が少し震えた。
「危険でも、勝手に名前を預けたくありません」
マシロの目が、わずかに細くなる。
「星宮さんのことですか」
「ミオだけじゃないです。雨宮さんも、倉持も、商店街の店の名前も。先生たちは守るために分類する。でも、分類された側は、自分の名前から遠くなる」
「分類しなければ、救えない場合があります」
「でも、分類だけで見たら、その人じゃなくなる」
雨が、細く降り続いている。
白い相談所の光。
古い商店街の暗がり。
カフェ《ノーネーム》の扉。
濡れた看板。
薄く戻った店名。
その全部の真ん中で、ユウリはマシロと向き合っていた。
マシロは、静かに答えた。
「では、あなたは危険を知ったまま生きる自由を、全員に与えられますか?」
言葉が、胸に刺さった。
「え……」
「雨宮ソウタさんは、忘れたくないと言いました。だから今回は、記憶を保持する道を選びました。ですが、もし別の被害者が、思い出したくないと泣いたら。毎晩、白い日輪の夢を見て、スマホを触ることもできず、学校にも行けなくなったら。あなたはその人に、危険を覚えていろと言えますか」
ユウリは答えられない。
マシロは続ける。
「昨日の神宮にいた全員が、雨宮さんと同じではありません。覚えていたい人もいれば、忘れなければ壊れてしまう人もいます。知ることで備えられる人もいれば、知ることで二度と日常に戻れなくなる人もいる」
静かな声。
けれど、逃げ場がない。
「あなたは、名前を呼ぶことを大切にしている。それは正しい。ですが、名前を呼ばれることに耐えられない人もいます。自分が何に巻き込まれたのか、まだ知りたくない人もいる。危険を知ったまま生きる自由は、時に人を救います。けれど、その自由を全員に背負わせることは、本当に正しいのですか」
ユウリの喉が詰まった。
言いたいことはある。
勝手に消すな。
勝手に補正するな。
勝手に分類するな。
それは本心だ。
でも、マシロの問いには答えられない。
もし雨宮ソウタが、忘れたいと言ったら。
もしミオが、全部忘れたいと言ったら。
もし倉持ハルトが、自分の名前が消えかけたことを覚えていたくないと言ったら。
自分は、それでも覚えていろと言えるのか。
言えない。
少なくとも、今のユウリには言えない。
レンも黙っていた。
彼なら反論すると思った。
けれど、彼も何も言わなかった。
ログを残すことの重さを、彼も分かっているのだ。
ミオが、そっとユウリの袖を掴んだ。
慰めるというより、そこにいると知らせるような手だった。
ユウリは、その手の感触でようやく息を吸えた。
「……分かりません」
声は小さかった。
「でも、勝手に決められるのは嫌です」
それだけは、言えた。
マシロは頷いた。
「では、考えてください」
彼女は責めなかった。
勝ち誇ることもしなかった。
ただ、静かに言う。
「私も考えます。管理がどこまで許されるのか。どこからが喪失になるのか」
その言葉は意外だった。
ユウリはマシロを見る。
「先生も、考えるんですか」
「当然です」
マシロの声に、少しだけ疲れが混じった。
「私は機械ではありません。判断する以上、迷いもします。ですが、迷っている間に被害が広がるなら、決めなければならない」
その目は、やはり大人の目だった。
ユウリたちよりも多くを見てきた目。
たぶん、失敗も知っている目。
「あなたたちは、まだ選ばないと言うことができます」
マシロは言った。
「ですが、私は現場管理官です。選ばないことを選べない場合があります」
ユウリは、神楽坂レイジの言葉を思い出した。
決めない者も、いつかは選択の場に立たされる。
神々の理を選べと言ったレイジ。
管理が必要だと言うマシロ。
二人は違う。
けれど、どちらもユウリに問いを突きつけてくる。
いつまでも「まだ決めない」でいられるのか、と。
ユウリは左手を握った。
「それでも、今はまだ決めません」
マシロは、少しだけ目を伏せた。
「そうですか」
「でも、見ます」
ユウリは言った。
「先生たちが何を守ろうとしているのかも、何を削っているのかも。レイジさんの光も、先生の白い線も。見ないまま否定はしません」
マシロはユウリを見た。
その表情からは、感情が読み取りにくい。
けれど、少しだけ、何かを評価するような沈黙があった。
「だから危険なのです」
マシロは言った。
「あなたは、見てしまう。そして、見たものを簡単には手放さない」
「それが危険でも?」
「はい」
「なら、危険でいいです」
ユウリは答えた。
「勝手に名前を預けるよりは」
マシロは、それ以上言い返さなかった。
*
白環管理区域がほぼ解除された頃、空は少し明るくなっていた。
雨はまだ降っている。
だが、さっきまでの白い消毒液のような匂いは薄れ、古い商店街の匂いが戻ってきていた。
濡れた木の匂い。
錆びたシャッターの匂い。
紙と埃と珈琲の匂い。
白環相談所は、まだ残っている。
けれど、入口の光は少し弱まっていた。
職員たちは雨宮ソウタを中へ案内し、商店街の人々には任意の相談カードを配っている。
マシロは少し離れた場所で、端末を開いた。
ユウリたちからは画面の細部までは見えない。
だが、AVISが一部を拾った。
《天瀬ユウリ:管理対象レベル上昇》
《分類:未確定名の観測者》
《契約相:未署名の観測翼》
《能力傾向:神名偽装解除/補正下現在名探索》
《対応方針:監視強化・強制措置保留》
続いて、ミオ。
《星宮ミオ:隔離推奨》
《現在名安定率:61%》
《女神照応過多》
《理触疑い》
《対応方針:本人同意を前提に保護説得継続》
レン。
《久遠レン:情報拡散リスクあり》
《高密度ログ保持》
《独自解析能力:中》
《対応方針:聴取継続・ログ流出監視》
そして、区域情報。
《旧北口商店街:補正不完全》
《商店街固有記憶:一部復旧》
《白環処理:段階縮小》
《再補正必要性:要観察》
最後に、一行。
《カフェ《ノーネーム》:記録不能》
《店主情報:取得失敗》
《白環補正:適用不能》
《対応方針:保留》
マシロは、その最後の項目を長く見ていた。
カフェ《ノーネーム》。
名前のない店。
白い管理区域でも記録できない場所。
ユウリも、同じ方向を見る。
カフェの扉は閉じている。
真鍮の札には、相変わらず黒い一本線だけが引かれていた。
中の灯りは、まだ点いている。
老紳士はきっと、冷めた珈琲を見ているのだろう。
あるいは、何もかも知った顔で、新しいグラスを磨いているのかもしれない。
レンが小さく息を吐いた。
「戻るか」
ユウリは頷いた。
「うん」
ミオも、静かに頷く。
三人は歩き出した。
その背後で、マシロが言った。
「天瀬さん」
ユウリは振り返る。
マシロは、白い相談所の前に立っていた。
「今日の件は、終わっていません」
「分かってます」
「あなた方の保護についても、私は撤回していません」
「それも、分かってます」
「なら、忘れないでください。私はあなた方を敵とは見なしていません」
ユウリは少し黙った。
「僕も、先生を敵とは思ってません」
それは本当だった。
敵なら、もっと簡単だった。
マシロは正しい。
正しいから、苦しい。
「でも、ミオを勝手に分類するなら止めます」
マシロは頷いた。
「その場合、私はあなたを止めます」
二人の間に、静かな線が引かれた。
白環の線ではない。
もっと見えにくく、もっと深い線。
ユウリはそれ以上言わず、踵を返した。
カフェ《ノーネーム》へ向かって歩く。
雨上がりの敷石に、白い線の跡がまだ薄く残っている。
それを踏まないように、ではなく。
踏んだことを忘れないように。
ユウリは、一歩ずつ歩いていった。




