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一章「ミラトア王立ラナクス学園」

 八月の晴天を映し出す海の波の音が遠くで響き、花の神を讃える声が白の石畳に反射して島中に響いていた。歌いながら通りをかけていく子供達は麦わら帽子をかぶり、それは今朝咲いたばかりの色とりどりの花で飾られている。どの子も皆、爪ほどの小さな花びらを散らす不思議な風車を持っていた。

 この日は、アルカンナ島を護っているという花の神様の祝祭日。そして、ベンチに一人で、帽子を膝に乗せ、俯きがちに風車を吹いている少年が島を出る日でもあった。

「シャルル、こんなところにいた」

 少女の声に少年、シャルルは顔を上げた。彼の蜂蜜色の髪が風を受けてふわりと揺れた。

「リリ」

「……今日、出るんだよね」

 また下を向いて頷いたシャルルは、帽子につけていた黄色い花を引き抜いた。リリが隣に腰を下ろすと、手にした花を彼女の帽子にさした。

「父さんの母校なんだって。僕に行くようにって、父さんが」

 シャルルが泣きそうになりながらいうと、余計に悲しい気分になった。この幼馴染ともしばらく会えなくなるし、学校の友達にも、大好きなこの島にも長い間のさよならを言わなければいけない。

「お母さんは?」

 控えめに聞いてきたリリに情けない顔を向けないようにと、風車から勝手に出てくる花びらを見つめた。

「もう本土にいるんだ」

「じゃあ、会えるようになるね。……お母さん、きっとすぐ元気になるよ。中央病院はすごいんだって、お兄ちゃんが言ってた」

「うん。そうだね」

 相槌を打つだけで一向に動く気配のないシャルルを見て、リリは立ち上がって手を差し伸べる。もう風車ばかり見ているなというように。

 ここでずっと座っていてはいけないことを、シャルルは本当は知っている。リリが来たのも、先生に言われて自分を探しに来ているのだということを、彼は感じていた。

「わかってるんでしょ」

 ベンチに風車をさして、シャルルはリリの手を取った。幼馴染のように強ければよかったと思ったが、強かったところで自分の思うようにできるわけではないのだと、シャルルは泣きそうな顔をもう隠さずに、苦しげに笑った。

「リリも一緒ならいいのに」

「……そうだったらよかったな」


 この地球上には、広く普及している地図には載らない、魔法文化圏と呼ばれる地域が隠れている。この中央に存在するニウェスアールという大陸には、古来より天の加護を受けたミラトア王国がある。王国領の南の海に浮かぶアルカンナ島。

 島の中心部とも言える場所には、マルガリア教会学校が建てられている。シャルルとリリはそこに通っていた。十二歳の誕生日までにどこの学校へ行くかということが決まるが、島にいる子供たちはほとんど全員と言っていいほど教会学校に通っている。小さな島から王国の本土の学校へ行く子供は毎年片手に収まるほどの数しかいないし、全くいない年も珍しくない。彼らは特別な理由で王国本土の学校へ行っているらしい、と噂だけが流れている。十四歳のシャルルは三年生に上がったところだった。

 シャルルがリリと一緒に帰ってくると、教会学校の門に立っていた先生が安心したように笑顔を見せた。

「あちらの先生がもうお見えになるから、それまでに荷物を確認しておきなさい。リリ、連れてきてくれてありがとう」

 それを伝えると、慌ただしく先生は校舎へと走っていった。きっと転校に必要な資料などがあるんだろう。そう考えながら、シャルルはリリと一緒に教室へと向かった。祝祭日だから生徒は誰もいない静かな学校に、二人の足音だけが大きく鳴る。

「嵩張りそうな荷物は先に送ってるんだ。だからスーツケースとリュックだけ、今朝ここに持ってきたの」

 置かれた少ない荷物に向けられたリリの不思議そうな顔を見て、シャルルは尋ねられる前に説明した。もう昨晩何度も持ち物確認をしたから、きちんと閉まっていることだけを見て、近くにあった椅子を引いて座った。リリもそれにならって隣の席に座る。

「おうちは?」

「おじいちゃんが居るから大丈夫だよ。祭りの準備のあとこっちに来てくれるって」

「そっか」

 話す言葉をなくしたリリは、帽子を脱いで、シャルルがくれた黄色の花に触れた。シャルルは次の休暇までは帰ってくることができない。今まで一緒に遊び、学んできた幼馴染が、遠くへ行ってしまう。

「絶対に連絡するからね」

 シャルルがそう言ってリリは笑顔になった。本当に会えなくなるわけではないのだ。

「たくさん向こうのことおしえて。そしたらシャルルのこと、みんなに自慢するから」

「もちろん」

 本土はどんな所だろうかと、噂話や想像を互いに話していると、先程と同じように忙しそうに先生が走ってくる音が聞こえる。

「行かなくちゃね」

「わたしもお見送りする」

「ありがとう、リリ」

 立ち上がった二人が扉の前に行くと、勢いよく来た先生が目を丸くして、子供たちは声を出して笑った。シャルルがはじめてこの日笑った。


 先生に連れられ、学校の裏にある噴水広場に来た。いつもはたくさんの子供たちが遊んでいるここも、お祭りのある教会の方に人が吸い取られている。シャルルはてっきり港から船で出るものだと思っていたので、広場で何をするのかと不安でならない。

 ガランとして水だけが溜まっているその前に、一人の大人が立っていた。今朝学校の花壇に咲いていた朝顔のような、薄青がかった灰色の髪を、きっちりと後ろに流してまとめている。顔のしわは多いが、背はしゃんと伸びていて、ボタンをきちっと留めた黒いジャケットの胸元には、いくらかのバッジが付けられていた。装飾の控えめなステッキを腕にひっかけている。シャルルはいつかの父と同じようなその人の出で立ちに、少し興味が湧いた。父のことを知っている人かもしれない。

 シャルルたちに気づくと、その人は手にした小さな箱のようなものから目を上げた。

「お待たせしました。連れて参りました。ラナクスの先生ですよ、ほら」

 先生がそう言ってシャルルの背中を押した。

「こ、こんにちは」

 つんのめりそうになりながら、シャルルが挨拶をすると、厳格そうな見た目と裏腹に優しそうな声が返ってきた。

「こんにちは。君がシャルル・リーヴスだね」

「はい」

 恐る恐る顔を上げると、微笑みを返されて握手を求められる。

「アルフレッド・ディキンズです。私のことはディキンズ先生と呼んでください。ラナクス研究院と学園で教授をしています」

 手を離すと、シャルルは気になっていた事を尋ねるでもなく呟いた。

「研究院……じゃあ、父さんのこと」

 小さな言葉を聞き取ったディキンズ先生は、ああ、と目尻を下げて答える。

「もちろん、レイモンドのことは良く知っているよ。だがその話は後で。今は、おじいさまに挨拶をしてきなさい」

 そう言われてはっと振り向くと、教会の方から走ってくる祖父が居た。祭りの手伝いを途中で抜けてきたようで、花びらを頭に付けたままだった。

「いやぁ、すまんな、思いのほか、長引いてな。ふう」

 シャルルは祖父が一息つくのを待って口を開いた。

「おじいちゃん。ありがとう」

 何を言えばいいものかと、昨晩から悩んでいたが、あまりに多くのことが溢れ出てくるので、ありふれたことしか言えなかった。学費のことや書類の手配、何から何まで、母が病院を移り、シャルルの転校が決まってから、祖父が自分の代わりにしてくれたことがたくさんある。言葉の代わりに出てきそうになる涙を堪えるために、シャルルは拳を握りしめた。

「シャルルはええ子だ、どこへ行っても大丈夫。家のことは心配するな。な?」

 祖父はいつも「シャルルはいい子。大丈夫だ」と伝えてくれる、とても優しくて頼りになる家族だった。シャルルが一人になっても頑張ろうとしている姿を見守ってくれているのだ。頷いた孫の頭を花の色が移った手のひらで、一つ、ぽんと撫でた。

「ミニョンも、お前の母さんも、わしのように思うはずだ。母さんの様子、じいちゃんに教えてくれな?」

「うん。電話するし、手紙も送るよ」

「それでこそ、わしの孫だ。お、そうだそうだ。お前に渡そうと思ってたもんがあってな……」

 祖父は羽織ったベストのポケットに手を突っ込んで、デイジーを象った銀の小さなピンバッジを取り出した。シャルルの手のひらに乗せると、銀色が白に色を変え始めた。

「マルガリア様のお守りだ。むかーし、おばあちゃんがくれたんだがな、わしにはちっと可愛すぎる」

「ありがとう。大事にするよ」

 ピンバッジをシャツの襟に付けると、どこか温かくなるような気がした。何らかの魔力が宿っているのだろう、懐かしいおばあちゃんの手を思い出した。

 シャルルはお別れに祖父にハグをした。そうして、同じようにリリにも向き直る。

「元気でね。シャルル」

「リリも、元気で」

 これまで気丈に振る舞っていたリリの頬にも、幼馴染との別れに涙が流れていく。シャルルはそれを拭って優しくハグをすると、静かに待っていたディキンズ先生へと振り返った。先生同士で話し合っている様子は背後に感じていたが、それはすでに終わっていたようだった。

「もう、大丈夫かな?」

 ディキンズ先生の手元には、小箱の代わりに教会学校の先生が渡したらしきファイルがあった。自分の成績なんかが書かれているに違いない、とどこか冷静にシャルルは考えていた。

「はい。大丈夫です」

 しっかりとした返事を聞いて頷くと、ディキンズ先生は姿勢を正す。

「それでは行きましょうか。トランクをきちんと握っていなさい。流されるかもしれないからね」

 シャルルは言われたように持ち手をしっかりと掴んだ。流されるかも、とはどういうことだろうか、とまた不安になりディキンズ先生を見た。

 彼はトランクとシャルルの肩をステッキで軽く触れると、最後に噴水の下に溜まっている水面にステッキを掲げる。その一番上は鳥の羽のような装飾がされていることに気がついた。シャルルがそう思ったところで、水面から雫がいくらも跳ね上がってくる。小さな球だったものがいくつも連なって、まるで波のようになるとシャルルの頭上へ覆い被さるように大きくなった。怖くなって振り向くと、祖父もリリも心配そうな顔をしていた。

 ディキンズ先生は残されるアルカンナの人々に深くお辞儀をすると、ステッキで彼自身の胸元にひかるエメラルドのバッジに触れた。

「アルカンナ島に天の加護がありますよう」

 その言葉とともに、さらに大きくなった波がシャルルを飲み込んだ。思わず目を瞑って息を止めた。シャルルの耳には鈴のような音色が聞こえてくる。アルカンナを囲う海の波とは違う音だった。

 煌びやかな音が急に消えて静かになり、シャルルはそうっと瞼を開いた。教会学校の噴水広場ではない。背の高い木々が、ひんやりとした風に緑の葉を揺らしている。濡れたと思ったけれど、波に飲み込まれる前と何ら変わりがなかった。半袖の腕を撫でていく風が少し寒い。

「ふむ。二人での転移は久しぶりだったが、大成功だな。半分は君の魔力のおかげかな」

 声に驚くとディキンズ先生が満足げな顔でシャルルの隣に立っている。その向こうに、大きな建物が見えた。見たこともない光景にシャルルは震えた。この景色だけではない。この土地自体が持っている空気に、四方八方から見つめられているような気がしたのだ。

「ここは……?」

「ラナクス学園。これから君が通う学校だ」

 つまり今の一瞬で、アルカンナ島から本土の学校まで移動してきたということなのか。シャルルは目を丸くして再度辺りを見回した。写真で見たような林が広がっていて、アルカンナよりも数度低いだろう気温。教科書で学んだミラトア王国本土の北部の気候だ。空は澄んでいて、まだ八月なのに秋のようだ。

「先日送ってきた荷物は一旦、仮の部屋に入れてある。トランクもそこへ持っていこう。それから少しやらなければいけないことがある」

  ◇

 シャルルはディキンズ先生のあとを、トランクを引きずりながらついていった。建物は重厚な作りで、アルカンナの学校とは比べ物にならないくらい広く大きい。迷ってしまわないだろうかと思いながら、前を歩く先生の背中を見た。生徒がいる気配がない。先生と自分だけが今この建物にいるのだと思うと石の壁が怖く感じた。まさか全然生徒がいない、なんてことはないだろうけれど、知らない場所があまりに静かで不気味だ。

「広いだろう。でも、すぐに慣れる」

 シャルルの気持ちを察したように、ディキンズ先生は前を向いたまま話した。

「入学式は明日だが、進級式は今日でね。子供たちが帰ってくる夕方までに、転入の手続きを済ませてしまわないといけないんだ。私としては、ぜひうちの寮に来てもらいたいんだが、試験をしてみない限りには、わからないからね……」

「試験があるんですか?」

 ずり落ちてきたリュックを担ぎ直した。寮に入らないといけないことは聞いていたが、試験があるなどシャルルは初耳だった。

「試験といってもテストなんかをするわけじゃなくて、どこが向いているかを調べるものだ。ちょっとした質問に答えてもらって、能力を見せてもらって終わり。心配しなくても、これが評価につながるわけではないよ」

 廊下をずっと歩いていると、階段の手前でようやくディキンズ先生が立ち止まった。何の変哲もない扉には、天文学準備室と書かれていた。

「私が使える場所って言うとここくらいなんだ。狭くてすまないがひとまずトランクとリュックを置いてくれるかな」

 部屋には、入り口のすぐそばに先日島から送ったシャルルの荷物が積まれていて、奥にはみたこともない道具が棚や机に並べられていた。中には、勝手に動いているようなものや、一定のリズムで音を鳴らしているものもある。

「ここに置いていいですか?」

 不思議な道具に気がとられたが、すでに積まれている自分の荷物の横を指さして尋ねた。ディキンズ先生は頷くと腕時計を確認した。重たいトランクとリュックから解放されて身軽になったシャルルは、急いでいるんだったと思い出して部屋を出る。ディキンズ先生がドアを閉めると、勝手に鍵がかかる音がした。

「では、試験場にいこう。ラナクスの話はレイモンドから聞いたことはあるかな?」

 再び歩き始めながらディキンズ先生はシャルルに話しかける。シャルルはゆるく首を振った。

 シャルルの父、レイモンドは王国本土の出身で、ラナクス学園の卒業生だった。それだけしか知らない。シャルルが五歳になるときまではアルカンナの病院で勤めていたが、それ以降は本土に戻り研究院で働いていた。会える時は年に三回の短い休暇の間だけだった。そして、二年前から軍部に招集され、海軍専属医として働いていたのだ。

「そうか。忙しくしていたからあまり話せる時がなかったんだろう。レイモンドのことは……本当に残念に思う。とても良い後輩だったから、話を聞いて驚いたよ」

「そういってくれると、きっと父さんも喜びます」

 最後に見た花に囲まれた父の顔を思い出して、シャルルは俯いた。父はアルカンナの教会の裏に横たわっている。シャルルの様子を見てとると、ディキンズ先生は明るい話題へ変えようとした。

「学生時代からとても優秀な人だったよ。私と寮は違っていたが、まあ色々あって仲良くなってね。もし興味があれば、レイモンドの学生時代の話をしてあげよう」

「ぜひ、お願いします」

 微笑んで答えるシャルルの声は少し弱々しいものだった。


 中庭を通り抜けて階段を登り、二階の廊下をずっと進んでいった突き当たりに、大きな両開きの扉がある。その前でディキンズ先生と同じような服装の人物と、シフォンのブラウスと長いスカートを身につけた人物がシャルルたちを待っていた。

「お待たせしました」

 ディキンズ先生は片手を上げて、二人に声をかける。シャルルを見て、スカートの人物は人の良さそうな笑みを浮かべた。器用に結んでまとめられた髪が、母と同じような赤みがかかった色で、シャルルはどことなく親近感を覚えた。

「お待たせ、と言うほどではないですよ。ね、ジュネット先生」

「ああ。まだちょっと時間があります。そろそろ準備ができると思いますが。……君が転入生?」

 ジュネット先生と呼ばれた人はウェーブした長い髪を耳にかけると、シャルルに向かって微笑んだ。長い髪や細い体格に一見女性のように感じたが、シャルルに差し出された角張った手がそうではないような印象を与える。

「はい、シャルル・リーヴスです」

「私はジュネット。歴史学などを教えている。こちらはベルトット先生」

 ジュネット先生はひんやりとした手を離すと、そのまま隣の女性をさして紹介した。ベルトット先生も同じように握手を求めた。薄い紫色の手袋をはめていて、手首にはアメジストのような石がついたブレスレットをしていた。

「よろしく、リーヴス。私は今日はジュネット先生の助手です」

「よろしくお願いします」

 優しそうな雰囲気の先生ばかりで、シャルルはかなり安心した。怖い先生がいたらどうしようかと、転校が決まった時からずっと悩んでいたのだ。

「緊張しているね?」

 ジュネット先生が固まっているシャルルに声を掛ける。その通りで、試験は大したことがないと言われても、どんなことをするのかが全くわからないのだ。失敗しないだろうか、入学させられないと言われないだろうか、というようなことを思っていた。

「はい……」

「一応説明はしたんだが」

 消え入りそうなシャルルの返事に、頬を掻いてディキンズ先生が弁明するが、ベルトット先生に笑われる。

「ディキンズ先生は言葉足らずな時がありますからね。不安になるのも仕方ないですよ」

 ジュネット先生はそれに数度頷くと、シャルルの目線に合わせて屈んだ。

「大丈夫。君が不安に思うようなことは何も起こらないからね。今からやることは」

 そう言いかけたところでジュネット先生の背後の扉が勢いよく開いて、彼の腰にぶつかって鈍い音を立てた。ぐ、と唸るような声を出したジュネット先生は、出てきた人の肩を咎めるように叩いた。他の二人の先生が笑いを堪えているのがわかった。

「おっと、居たのか。すまん」

「わかってただろうに。……まあいい。準備できたんですね?」

 ジュネット先生は呆れているようだが、扉から出てきた人物は気にした様子もなさそうに、彼に鍵を預ける。小さく縮こまっているシャルルを見ると、にかっと大きな笑みを見せた。

「おう。今から正門へ行くから、終わったら鍵しておいてくれ。転入生、頑張れよぉ」

 彼はそう言い残して階下へと向かっていった。

「気を取り直して、はじめようかね」

 ディキンズ先生の声に、大きな扉の向こうへ進んだ。

 長机や椅子が、一組だけ残して部屋の端によけられている。中央に置かれた机には、平たい大きな皿のようなものと、紙とペンが置かれている。ジュネット先生とベルトット先生がその机の前に動くと、ジュネット先生はどこからかディキンズ先生と同じようなステッキを取り出した。よく見ると色も装飾も違うようだ。

 ディキンズ先生は単にシャルルの付き添いなようで、その辺りの椅子に腰掛けて休んでいる。ジュネット先生は大きな皿に透明な液体を注いで、ステッキをかざして何やら呟いている。

「ここに座って」

 ベルトット先生がシャルルに声を掛ける。おずおずと椅子を引くと、まず目の前に何か色々と書かれている紙と、それに書くためのペンを渡された。

「本当は入学前に書いてもらうんだけど、君は転入だから訳が違ってくるの。そこに名前と、あ、ちゃんと全部正しく書いてちょうだいね? 名前と、住所と、あとはその下の質問に色々答えていって、当てはまるものに丸をつけて、わからなかったら飛ばしてね」

「はい、わかりました」

 本当に大したことない内容で、シャルルは気が抜けようだった。質問は二十個ほど並んでいて、そのどれもがリリとよく遊びでやっていた性格診断によく似ていた。例えば、十番目の質問はこうだ。

「もしあなたの大切な持ち物がなくなったら、どうしますか? ①出てくるまで自力で探す。②少し探して出てこなかったら諦める。③誰かに頼んで一緒に探してもらう。④同じようなものを買う。⑤そのほか(記入すること)」

 この質問には三番に丸をして、難なく最後まで終えた。途中、よくわからない言葉もあったが、言われたように空欄にした。

「終わりました」

 シャルルがペンを置いて顔をあげると、二人の先生はそれぞれの準備を終えて見守っていたようだ。ジュネット先生が微笑んでシャルルが記入した紙を手に取る。一通り目を通すと、ベルトット先生に渡した。

「しっかり考えていたね」

「はい。難しい質問もあって……」

「よく考えることは、とてもいいことだよ。さっき書いてくれてもので寮を決めるんだ。ベルトット先生が後で教えてくれる」

 ベルトット先生は教段の上にいて、置かれた書類の山の後ろから顔を覗かせて微笑んだ。

「うちは三寮制なのは知ってる? リブラール、クラシセント、ステルクスで、この質問に答えてもらって決まる。普段の生活も授業もその寮の仲間と過ごしてもらうからね」

 どうやって割り出すんだろうかと気になったが、ジュネット先生がコンと皿を叩いた音に引き戻される。

「さて、次は君の能力を測るんだけど、今の魔力階級はいくつかな?」

「Bです」

 シャルルは去年やったテストを思い出して答えた。確か、リリよりも少し高かったような気がする。

「よろしい。能力の種類は?」

「わからないです」

「四種類あるのは知っているかな?」

 その質問には頷くことができた。王国本土の出身の父から教わったのだ。癒しのサナティオ、身体能力のフォルツォ、天と自然のシエロ、そして、いくつかの力を持つ始まりのミデン。それぞれ得意な分野が違うから、職業も違っていると聞いた。医者だったシャルルの父はサナティオだと言っていた。シエロとミデンはとても少なくなってきていると言っていたことも思い出した。

「能力がわかれば、自分の力を最大限に高めることができるし、上手く使うことでいろんなことに役立たせられる」

 興味深そうにシャルルの様子を見ていたディキンズ先生が説明してくれた。ジュネット先生もそれに肯首して続ける。

「大抵が親と同じような能力になるけど、まれにそうではないこともある。こういった特例は先祖の力が隔世遺伝すると言うようなことで……難しいことだから今は説明は省こう。さあ、ここに手を伸ばして」

 父さんと同じ能力だったらいいな、と思いながら言われるままに右手を伸ばす。ジュネット先生が掲げた黒いステッキの上部には、植物の蔦が絡み付いているような銀の装飾がされていて、ディキンズ先生のものよりも豪華な印象を与える。

「手のひらを上に……そう。ちょっと痛いかもしれないけど、すぐに治る」

 痛いのは嫌だと引っ込めそうになる手をジュネット先生に抑えられ、手のひらに銀の葉っぱが触れると、火傷をしたような一瞬の痛みが走る。思わず目をぎゅっと閉じてしまう。そろりと目を開けると、今度は手を裏返されて、皿に並々と注がれた透明な液体に付けられた。ジュネット先生に手首を掴まれたままじっとしていると、冷たい液体に沁みような痛みは引いて、皿を満たす液体は薄い緑に色を変えた。

 それを確認するとジュネット先生は手を離し、ポケットからハンカチを取り出す。

「乱暴してすまなかった。これで終わりだ。手を拭いて……まだ痛むかな?」

 涙目になっている様子に、心配した様子で聞いてくる。シャルルはハンカチを受け取って右手を拭った。色がついてしまわないかと思ったが、杞憂だった。

「ありがとうございます。ちょっと痛いのが苦手で……今は大丈夫です」

「そう、よく頑張ったね。リーヴス、君の能力はシエロだ。そして、濁りのない色だから星読の力が強いだろう」

 ジュネット先生は安心したように微笑むと、作業を終えたらしいベルトット先生も再び机の前にやってきた。その手には、これもまた緑色のネクタイがあった。


  ◇


 ネクタイには星の模様とSを象った紋章が刺繍されてある。受け取ってじっと見ていると、ジュネット先生が声を掛けた。

「シエロにふさわしい寮だね。ステルクス、ディキンズ先生の寮だ」

「私の希望が叶ったか! 急いで寮棟に荷物を運ばせよう。では後ほど!」

 嬉しそうに部屋を出ていくディキンズ教授を見て、シャルルもほっとした。

「寮って、能力も関係してるんですか?」

 緑色のネクタイと液体を交互に見て、気になったことを聞いてみた。ベルトット先生が今度はカゴを持ってきてテーブルの上に置いた。教科書らしき本や道具がいくつか入っている。

「ジュネット先生がそう言うだけよ。組分けに能力はあまり関係しない」

「私は能力と性格が相互に影響し合う説が有力だと思っているんだけどな……」

 苦笑いを浮かべたジュネット先生は椅子を引っ張ってきて、シャルルに向かい合うように座った。

「そんなことは置いといて、進級式の前に軽く学園のことを説明しておこうか。ベルトット先生、入学説明書ありましたっけ?」

「ええ、ファン先生が用意してくれていましたよ。こちらに」

 カゴの一番上に置かれた薄いパンフレットをシャルルの前に置いた。

「ありがとう。詳しくは自分で読んでおいてくれるといいんだけど、気になっているだろうから寮と能力の話だけ先にしておくね」

 ジュネット先生はパラパラとめくっていき、三色に分けられた見開きの「寮紹介」のページで止まった。

「三つの寮はそれぞれの色が決められている。リブラールは赤、クラシセントは青、そしてリーヴスが入ることになるステルクスは緑。それぞれに寮監督の先生がついている。さっきの様子でもわかると思うけど、ステルクスの寮監はディキンズ先生だ。授業以外の生活の相談は基本的に寮監の先生にするようになっている。寮棟は校舎から離れたところにある。色分けされているし、場所も違っているから間違うことはない。それに、幸運なことにここから緑寮はすぐだね。あと、寮について何かあったっけ?」

 そう確認を求めると、隣にいたベルトット先生は、大切なことを忘れてますよ、と付け足す。

「寮は基本的に二人部屋なの。ルームメイトがいるから仲良くしてね。六年生で監督生に選ばれると一人部屋をもらえるようになってるから、頑張ってみるのもありね」

「うん。監督生はいわば寮の代表生徒だから、いつでも頼るといい。彼らはバッジをつけているし、君のところは帽子をかぶっているからすぐにわかるよ」

 パンフレットに載っている星空の写真を見つめたままシャルルは頷いた。どうやらステルクス寮棟の屋上には天文台があるようだ。どんな人たちがいるのだろうと、わくわくすると同時に、やはり緊張も同じだけあった。

 ジュネット先生はまたページをくって説明を続ける。さまざまな教室で授業を受けている生徒たちが写真に収められていた。

「普段の授業は学年別で他寮の生徒とも受けることになる。能力別のクラスは縦割りもある。このカゴの中に、今週一週間の時間割と一年間のスケジュールを書いたものを入れてあるから、授業が始まるまでにしっかり確認しておくこと。一週間後に選択授業を確定してもらうので、同封した紙に記入して寮監に提出しなさい。授業に必要なものも書いてある。……そんなところか」

 ベルトット先生はそれに頷いて、壁にかかっている時計を確認した。ここにきてかなり時間が経ったような気がしたが、まだ着いてから先生にしか会っていない。他の生徒たちとはいつ会うのだろうとシャルルはぼんやりと思った。

「大丈夫だと思います。あとで寮に行くときに、忘れずこのカゴを持っていってね。たくさん言ったけど同じことを毎年してるから、分からなくなったらルームメイトに聞けばいいよ」

「はい。ありがとうございます」

「質問はあるかな? 能力については君が気になるものを教えよう」

 何せ膨大な量を話す羽目になるからね、と小声で付け足してジュネット先生は笑う。この学園の先生はどの人も、生徒に対してこんなふうに優しいのかな、とまた少し緊張が解けるような気がした。

「じゃあ、えっと、星読って何ですか」

 シャルルは先程聞いた耳慣れない単語を口にした。

「君の能力だね。シエロの代表的で重要な能力だ。授業でディキンズ先生が解説してくれるとは思うけど、簡単にいうと、天文学と占星術を合わせたようなものだ。わかりにくくて申し訳ないけど、こればかりはやってみないとわからないと思う」

 難しげな表情を浮かべたジュネット先生にお礼を言って、他に何か聞けそうなことはあるかと考える。一気にいろんなことを言われたから、気になったけれど覚えていないものもあって困った。

「ちなみに、ジュネット先生もシエロを持ってるよ。私はサナティオ」

 口籠るシャルルを見てベルトット先生が助け舟を出してくれた。

「そうなんですか?」

「私はサナティオとの混合で、つまりミデンというわけだけど、星読はできない」

「星読以外にも、その……できることがあるんですか?」

「自然のエネルギーを操ることに長けている人も多い。例えば、ディキンズ先生は水を操ることができるし、私は植物に縁があるね」

 島から移動してくるときにディキンズ先生が噴水から大きな波を作っていたことを思い出した。自分にもそんな能力があるのだろうか、とシャルルは自分の右手を少し握った。

「……ベルトット先生はどんな能力なんですか?」

「サナティオは細かく分けるとたくさんの種類があるの。お医者さんのように人を癒す力があったり、芸術作品を作って人を楽しませたりね。私は声に魔力を宿らせることができるから、言ったことを再現できる。もちろん、できないこともあるし、無闇にはしないけど」

「ちょっとやってみせたらいいんじゃないですか?」

 ジュネット先生がそういうと、目を瞬かせたベルトット先生が悪戯っぽく笑う。

「あら、じゃあ実験台になってくれます?」

「……仕方ない」

 肩をすくめたジュネット先生に、ベルトット先生がさっきとは違う声色で「髪をまとめなさい」と言った。すると、どこからかリボンが現れて長いジュネット先生の髪を後ろで一つに結んだ。

「私の髪が気に入らなかったのか」

 少し不満げにジュネット先生が呟いたが、シャルルは鮮やかに魔力が使われるのをみて感動していた。これまでずっと、魔法の道具のためだけに魔力を使うのだと思っていた。アルカンナではこんなふうに使っている大人を見たことがなかったから。すごい。こんな風に魔力が使えたらきっと母さんもまた笑ってくれる。

 先程まで不安でかげっていた顔が明るくなったことに二人とも微笑んだ。

「能力は学ぶことで洗練されていくから、リーヴスも自分自身の力を大切にしてね。それに、ここの生徒たちは、どの子もみんな素敵な能力を持っているのよ」

「フォルツォにも様々な得意分野の人がいるから、これから知っていくといい」

 ジュネット先生がそう言うと、ドアをノックする音が聞こえた。ディキンズ先生がまた戻ってきたのだ。

「リーヴス、一度寮に行きますよ。制服に着替えないといけないから」

 シャルルは立ち上がってカゴを持つと、二人の先生に頭を下げる。

「ジュネット先生、ベルトット先生、ありがとうございました」

「また進級式で会いましょうね」

 ベルトット先生が微笑むと、ジュネット先生もリボンを解いた手を振ってシャルルたちを見送った。


 ディキンズ先生に案内されてついた建物は話に聞いたように緑色の屋根で、壁にはネクタイに書かれた紋章と同じものが掲げられていた。

「君が来てくれて本当によかった。緑寮はここ数年かなり人数が少なくなっているんだ」

 寮の扉を開きながら、先生は嬉しそうに言った。

「僕の他にもいますか?」

「もちろん。三年生は君を含めて四人だが……」

 そんなに少ないのか、と寮棟の廊下を見渡しながら驚いた。その数少ない生徒はまだいないようだ。

 「心配しなくても、しばらくすると来るはずだ。君の部屋に行こう。二階だ」

 一階と同じような作りになっているようで、階段から二番目の部屋の前で立ち止まる。先生は小さな緑色の星型のチャームを取り出した。

「これが寮の入口と部屋の鍵になっているから、無くさないように。身につけていると勝手にドアが開く。チェーンを通してネックレスにする生徒もいるし、ピンで服に留めているのもあるな」

「わかりました」

 ネックレスにしておいた方が心配ないな、と思いながら返事をした。

「万一無くせば罰則がある。とはいっても寮の掃除なんかの雑用だ」

 厳しくなくてよかった、と安堵してシャルルは頷いた。

 ドアにはプレートがかかっていて、シャルルの名前と別に「グレイ」という名前が書かれていた。ルームメイトのことだろう。部屋にはすでに先程の荷物が運ばれていて、ベッドのうえに真新しい制服が置かれていた。右側の壁沿いに同じようにベッドが置かれているので、恐らくそちらがルームメイトのもの。

「机とベッドは左側のものを使ってくれ。進級式の時はマントまできちんと着用すること。そのネクタイも締めてくるように」

 持っているものを指さされ頷いた。カゴを左側の机に置いて、載せていたネクタイを制服と一緒に置いた

「わかりました。あの、先生が荷物を全部運んでくれたんですよね。ありがとうございました」

「いや、事務員の方に手伝ってもらったんだが、礼は私の方から伝えておこう」

「はい、ありがとうございます」

「じきにルームメイトが来るから、寮生全員で監督生に従って大広間に集まってくれ。では改めて、これから期待しているよ、リーヴス」

 ディキンズ先生が去ってから、シャルルはまず用意されていた制服に着替えることにした。ジャケットは黒で、襟の部分に緑色のラインが入っている。マントは着方が分からないため、ルームメイトに聞いてみようとベッドの隅に寄せた。ころんと星形のブローチが転がった。服の間に隠れていたようだ。これで留めるのだろうか。なんにせよ後回しだ。

 白シャツに緑色のネクタイを締め、同じ色のジャケットとトラウザーに身を包むと、どこか気が引き締まるような気がした。測っていないはずだが、仕立てたようにシャルルの身体に丁度の大きさだ。

 服を畳んでいると、外から人の声がいくつかしてきた。生徒が来たのだ。シャルルは緊張から居心地の悪さを感じて、カゴの中身の本を整理し始めた。いじめっ子だったら、大人しすぎる人だったら、よく怒る人だったら、離島出身の自分を嫌がったら、話せなかったら、仲良くなれなかったら、どうしよう。いくつかの足音が階段を上がってくる。二人分通り過ぎて、シャルルの部屋の前で一人分が止まった。ドアが三度叩かれて、シャルルの心臓も三度跳ねる。怯えた「はい」という返事を聞いてからドアが開いた。

「やあ」

 微笑んだ薄い唇。さらりと黒髪が青い目にかかる。几帳面に切りそろえられ、額の中央で左右に分けられている。スーツケースを引きずって部屋に入った少年は、シャルルより少し上背があるようだ。同じ制服を身につけていて、手にマントがある。

「君がリーヴス?」

 彼は荷物を置きながら尋ねた。シャルルは頷いて名乗る。

「うん。シャルル・リーヴス」

「シャルル、でいいかい? 僕はヴィンセント・グレイ。ヴィンスって呼んで」

 涼しげな笑みのまま手を差し伸ばす。シャルルは握手をして安堵した。心配しすぎで終わった、と。

「よろしく、ヴィンス」

「よろしく」

 ヴィンスはマントを椅子の背にかけると、一休みするようにベッドに腰を下ろした。

「今日来たのか?」

「うん、昼頃に」

「なら疲れてるだろ。座って話そう。寮長が呼びに来るまで、ちょっとは時間があるから」

「ありがとう。そういえば、なんで僕の名前分かったの?」

 シャルルも同じようにベッドの縁に腰掛けた。思いのほかふかふかで、寝心地は良いだろう。

「転校生と同室っていうことはさっきディキンズ先生から聞いたから。アルカンナ出身なんだっけ? オレンジと花が有名なとこ」

「そう! よく知ってるね」

 嬉しそうにシャルルが言うと、ヴィンスは少し照れてはにかんだ。

「そういうのが得意なだけだよ。じゃあ、あんまりこっちのこと分からない?」

「本土のことは全然……。自分の能力も今日初めて知ったんだ。ここの人はみんな調べてるんだよね」

「うん。能力調査は一歳になったらすぐやるんだ。分からないことあったらなんでも聞いてくれ。僕が答えられるものなら教えるから」

「ほんと? ありがとう」

「マント着用ぉーーう!」

 突然の叫び声に驚いたシャルルは、子猫のようにベッドの上で飛び跳ねた。シャルルとヴィンス、お互いの自己紹介が一区切りするのを見計らったかのように、上階から声が聞こえてきたのだ。

「寮前集合ーー‼︎ 急いでも走るなあー‼︎」

 腹の底から出したような良く通る声で、周囲の部屋からドタバタと慌てる足音が聞こえた。呆れたように笑うヴィンスは肩をすくめた。

「寮長だよ。びっくりするだろ?」

「なんか、すごいね」

 シャルルはヴィンスに教えてもらいマントを羽織った。黒のマントは奇妙な形だ。肩に引っ掛けるようにして、緑のラインが入っている三角になった部分を胸のところで合わせ、同じ色の手のひら大のバッジで留める。魔力の込められたバッジのようで、マントがずり落ちたりしないようになっている。

 鍵はひとまずジャケットの内ポケットにいれて、シャルルはヴィンスと共に部屋を出る。

「式典の時は着ないといけないんだ。冬はとても寒いからみんな普段も防寒に着てる」

「雪降るの?」

「積もるくらいね」

 階段を降りながらそんな話をした。ここからずっと南の温暖な島で育ってきたシャルルにとって、雪とは写真などで見るものだったから、どんなに寒いのか想像もつかない。

 途中追い越して走っていく生徒がちらりとシャルルを一瞥した。短い髪の下、目にはきらきらと光を反射するイエローのアイシャドウ。知らないやつが居る、という視線が刺さる。

「アディーブ、階段を走るなよ。危ない」

 その後ろ姿にヴィンスが声をかける。

「クロエに見られてないからだいじょーぶー!」

「見えてるわ」

 入口の脇に立っていた平たい帽子を被った人が腕組みをして、走ってきた少女を睨む。不思議な形の帽子と制服のマントを纏った姿には、小さな頃にサーカスで見たピエロのような、絵本に出てくる遠い国の魔術師のような雰囲気があった。黒い髪は清々しいくらいに、ばさばさと眉のあたりで切られていて、切長の目がより強く見える。この人が監督生なんだろう。

「げ」

「げ、じゃない。走るなっつったろ。スカートのポケットの中に入ってるもの出しとけよ。着こなし悪いってベルトットに没収されるぞ」

「はーい」

 ポケットから化粧品をいくらか出して、ジャケットの方へと移すと、彼女は外へ出ていった。

 シャルルたちも寮を出ると、寮長は施錠を確認して生徒をざっと見回した。何人かはもう校舎へ歩いているようだ。夕暮れのオレンジ色に染まっている辺りは、楽しげなざわめきが響いている。

「グレイと転入生で最後だな」

 そう言うと、寮前に出ていた生徒たちに向かってまた叫ぶ。

「大広間に移動ーう! ……マントに手間取っただろ?」

 くるり、とシャルルに顔を向ける。びっくりしてシャルルは裏返った声で、はい、と返事をした。集団の後ろの方を歩いていきながら、帽子の寮長が話し始める。厳しそうな印象を持っていたが、存外に親しげな口調だった。

「俺は黒江秋。クロエは名字でシュウは名前。みんなクロエって呼んでる。日本出身でこの寮の六年監督生。よろしくな」

「よろしくお願いします。シャルル・リーヴスです」

 日本、とは聞いたことがあるが、「外側にある国」のことだろうか、と考えながらシャルルは微笑む。それに笑い返したクロエは小さな袋を二つ取り出した。

「リーヴスに歓迎のプレゼント、っても地元によくあるせんべいだけど。グレイにも、はい」

「ありがとうございます」

 丸いクッキーのようなものを受け取って、シャルルとヴィンスは礼を言った。後で食べようとシャルルはポケットにしまう。

「君もシエロだって寮監から聞いたよ。変な試験させられた?」

「あ、はい」

 火傷の痛みを思い出して手のひらをちょっと見る。傷跡というか、虫刺されのように小さく赤くなっている。

「特別生だから、クロエもこっちに来てから能力調査したんですよね?」

 ヴィンスが言う「特別生」に首を傾げるシャルルを見て、クロエが苦笑いする。

「ああ。非魔法文化圏……外側って言うんだっけ、ま、そこから来た生徒のことをこの学園では特別生って呼んでる。全然特別なんかじゃない。ちなみに、俺もグレイもシエロだ。一学年に一人いていいくらいなんだけど、君らの学年は二人。そりゃ、寮監も飛んで喜ぶよな」

 校舎に入るとざわめきが途端に増えた。石の壁を伝って、休暇明けの生徒たちの声が明るく反響している。

「シエロってそんなに少ないんですね」

「零なら片方隠してるやつもいるだろうけど、それでも少ないよな……」

 そう言って、クロエは前方の人が集まっている所に目をやる。あちらに大広間があるらしい。するとクロエの名前を呼んでいる声が聞こえた。

「あれ、呼ばれてませんか?」

「え? よく聞こえるな。ちょっと待て」

 シャルルが指をさしている方向に首を動かし、クロエは目を凝らすようにすると大きくため息をついた。

「他寮の監督生たちだよ。また誰かが何かやらかしたな。君たちは他の生徒と並んでてくれ」

 人混みから外れていった寮長を見送って、シャルルとヴィンスは大広間へと向かう。

「さっきクロエが言ってた零ってなんの事?」

 扉の前で混雑しているので立ち止まったときに、ヴィンスに尋ねてみた。

「ミデンの別名だよ。隠語とも言うけど。あと、癒はサナティオ、武はフォルツォ、天はシエロ。で、あの人もミデンらしい。どんな能力なのかは知らない」

「へえ……そう言えば、ミデンも少ないって聞いたんだけど、ホント?」

 ジュネット先生がミデンと言っていたが、他にもいると知って、父が言っていた通り少ないのだろうかという疑問が浮かぶ。

「本当。教授に一人と、今生徒にはクロエ含めて三人くらいじゃないかな。大っぴらにすると面倒だから隠している人もいるのは確か」

 ヴィンスは声を落として話す。周りの生徒たちは新学期にはしゃいでいる様子でこちらには気を止めていないようだ。あまり話題にしてはいけないのか、とシャルルは同じように声を落として相槌を打つ。

「大変なんだね……」

「シエロもかなり、ね」

 呟いたヴィンスの唇は少し固く閉じられたようだった。


  ◇


 正方形に近い大広間は、教会学校の校舎の敷地分ほどあるのではないかと思うほど。天井は見上げれば吸い込まれるように高い。ラナクス学園の全生徒が集まっている様子を見て、これまで小さな島から出たことがなかったシャルルは目を丸くした。皆同じような出立ちで、違うと言えばその個人の容姿と、制服にデザインされた所属寮を表す色くらい。知らぬ世界へ迷い込んだような旅人の気分になり、軽く目を回す。

 首を伸ばして見ると、一番奥には壇があり、そのすぐ手前には上級生が長い棒を持っていた。棒の先には寮の紋章を掲げた旗が吊るされて、生徒たちが集まるための目印になっている。左から、リブラール、クラシセント、ステルクスの順で、長椅子で列を作っている。寮をまたいでおしゃべりをしにいっている生徒もいるし、退屈そうに長椅子の背にだらりと腕をかけている者もいる。

 職員たちは左右の壁に並んでいた。ディキンズ先生が旗を持つ生徒に何やら話しかけている様子が見える。シャルルの能力を測ってくれたジュネット先生は、右の壁際で背の高い男の人と話をしている。ベルトット先生は扉近くで、生徒たちがきちんと制服を着用しているかの確認をしているようだ。たまに「シャツを入れろ」と言うようなことが聞こえてきた。

「順番は適当だよ。こっち空いてる」

 ヴィンスが呆然としていたシャルルの手を引いていく。空いた席に並んで腰を下ろすと、シャルルは、ふう、と息を吐き出す。

「これで全校生徒?」

「いいや、明日、新入生がこれに加わる」

 肩をすくめてヴィンスが答えた。

「入学式はまだなんだね。それにしても、多いなぁ……」

 独り言のように言って、シャルルは他の寮の列に目をやった。明らかに自分の寮の生徒が少ないことに気がつく。あとの二つの寮は同じくらいのように見えた。

「アルカンナの学校ってどれくらい?」

 人数に圧倒されているシャルルにヴィンスが尋ねた。

「全員合わせて五十人くらいだったと思う。その十倍は居るみたい」

「もっとだ。一年生を合わせると八百人程度かな。千以上の年もあったと聞くけど」

「そんなに! 僕の島の人口より多いかも」

 ちらりと後ろの扉を見ると、全生徒が広間に入ったらしく、ベルトット先生はほかの先生達に合流していた。


 鐘の音がした。前方で先生らしき人が振って鳴らしている。それを聞いて、散らばっていた生徒たちは自らの寮の列へと戻る。進級式が始まるのだろう。

 コツコツコツと早歩きの足音が広がる。クロエが二人の生徒と共に入ってきた。白金に光る髪をまとめて後頭部で青いリボンで結んだ人は、胸元にたくさんの徽章をつけている。そして一番背の高い人は、ヘーゼルで軽く波打った前髪を右側に垂らしたアシンメトリーな髪型をしている。クロエは先端に緑の石が付いた白いステッキを持ち、ほか二人は佩刀していた。

「髪の長い方がクラシセントの寮長のノーランド。もう片方がリブラール寮長のサマセットだ」

 三人が一番前へと歩いていくのを見ながら、ヴィンスが耳打ちをした。彼らは旗をもつ生徒の横に並んで立ち、恭しく一礼をする。それと同時に旗が降ろされ、旗持ちも着席した。

 寮長たちはそれぞれが持つ剣と杖を高く掲げる。しんとした大広間の中、三人が合わせて息を吸う、かすかな音すら聞こえてくる。

「新たな年、我々ラナクス学園の学徒はこの聖なる地に再び集い、星地の神々、ミラトア国王陛下の名において、学び励まんと誓いたてまつる」

 広がる声が静寂に溶けていくと、彼らは杖を下ろし、剣をしまった。礼をするとそれぞれの寮の一番前の椅子に腰をかけた。

「お芝居みたいだね……」

 沈黙の後、咳やくしゃみが聞こえてくる中に紛れてシャルルがこっそりと伝えると、同意するようにヴィンスも笑って頷いた。

「あ、今、壇上に来たのが学園長のイベール先生」

 言われて前に視線を戻すと、先程ジュネット先生と話していた男の人が壇上に置かれた演説台の前に立つと、まるで全員と目を合わせるかのように静かに大広間を見渡していた。遠く見えないはずなのに、シャルルは一人の生徒である自分自身を見られているような気がした。満足したようで、彼はマイクに向かって話し始めた。

 声は明朗、学園長と言うには些か若いようで、四、五十程ではなかろうかという見た目だった。ディキンズ先生らと同じようなジャケットの上に、菫色の装飾が施されたローブを羽織っている。

「みんな、おかえり。夏休暇は楽しかったかな? また君たちのきらきらとした顔がこうやって見られて、私たちもとても嬉しく思っていますよ。いつものように、進級式でお話することは三つです。新しい先生の紹介と、規則の確認と、今年ある行事についてです。前年度で辞められたサーリ先生の後任として、今年からは軍から来られたケインズ先生が武術を教えてくれます」

 そう言って学園長が左の壁沿いに立っていた、スーツを着た先生に目線を送る。ケインズ先生は一歩前に出ると黒い中折れ帽を脱ぎ、生徒たちと壇上に向かって軽くお辞儀をした。生徒たちが学園長にならって拍手をするので、シャルルも慌てて同じようにした。「武術」を教える人という割には細身に見えるが、動作はきびきびとしている。

「次は、校則の確認です。何度も言いますが、規則は守りなさい。罰則になるのは、破る人自身のせいです。第一に、廊下で能力や魔法道具を使ってはいけません。他の生徒や先生に当たると危ないですからね。昨年、賭け事をした生徒もいましたが、生徒間の金銭のやり取りも禁止です」

 学園のある地区の外や教会近くの森など、行ってはいけない場所がいくつかあげられて、外の世界の道具は勝手に使ってはいけないことなどが続けられていく。能力に関すること以外は、シャルルがこれまで通っていた教会学校とほとんど同じようなものだった。立ち入り禁止の場所がどこか、寮に帰ったら確認しようと頭に留める。

 学園長は一息ついて、また生徒たちの様子を伺うように首を動かした。

「当たり前のことをして初めて、行事が楽しいのですからね。今年度も秋の星祭りを行います」

 わっ、と歓声が生徒たちの間に広がる。星祭りとは何のことだろうか、とシャルルは学園長が続ける話に耳を傾ける。

「静粛に。毎年のことですが、マーケットができるのは五年生以上です。四年生までの皆さんはできないので注意してくださいね。今年は新しく能力での出し物や展示を許可しますので、やってみたいという人は寮監督の先生に相談してくださいね。また詳しく決まると先生方や監督生から連絡があります」

 在校生のための式だから、わざわざ説明し直すことはしないようだ。少し残念に感じながらも、楽しい行事なのだろうと言うことは、シャルルにも十分わかった。ざわめきの絶えない大広間を、にこやかに眺めると学園長は手を叩いて注意を向ける。

「この一年も同じ学園に過ごす仲間と、しっかりと学び、遊んで、良い毎日を過ごしていきましょうね。天が皆をお見守りくださいますように」

 そう言って学園長が降壇し、そのまま奥の小さな扉から大広間を出ていった。あんなところに出入り口があったのかとシャルルが思っていると、寮長たちがまた立ち上がった。

「リブラール生より順に退席! 連絡事項があるため、評議員はこの場に残ること!」

 真ん中で声を張り上げるクラシセントの寮長。その声と同時に、広間に漂っていた緊張が解けて、生徒たちのざわめきが大きくなり、進級式は終わったのだと知る。シャルルがヴィンスの方を向くと、数時間前に初めて会った時のように涼しげな微笑みを見せた。

「どうだった? 進級式」

「思ったより早かった。学園のことが全然わからないから、何とも言えないや」

「それもそうだよな。さっき学園長が言ってた、星祭りって言うのは他の寮生との交流を深めるための行事で、基本的によく街であるお祭りと同じだ。何かするのも自由で、しないのも自由」

「へえ! 生徒がお祭りをできるなんてすごいね。ヴィンスは去年何かしたの?」

「僕は何も。上級生のマーケットへ行って、古本を集めて並べてる人から小説を一つ買ったくらい」

「それも素敵だ」

 肩をすくめるヴィンスの横で、星祭りを想像しながらシャルルは笑顔になる。アルカンナで今日あるはずの夕暮れのお祭りと同じように楽しいかな、と思うとほんの少し寂しくもあるが、新しい生活への期待が大きくなるのを感じた。


 寮の窓から見える西の空は、もう濃紺のカーテンを下ろし始めている。木陰の隅から昼を惜しむような橙色の光が次第に細くなっている。

「暗くなるのが早いね」

 大広間から戻り、寮の食堂で夕食を取っていた。校舎にあるカフェテリアと各寮の食堂は、開放されている時間帯ならいつでも利用可能らしい。料理好きな生徒のために、自由に使えるキッチンも各寮の食堂に備えられている。

 シャルルが生まれ育った島では日が暮れる前までに、食事を終える人が大半で、夜にはたくさん食べない習慣があった。シャルルも例外でなく、昼食は多め、学校から帰るとサラダなどの軽食を食べていた。夜は好きな飲み物を手に、家族との会話を楽しんでいた。

 学園では、他の生徒と同じ時間に食事を摂るなどのきまりはほとんどないようで、シャルルは習慣が大きく変わらないことに安堵した。学期の変わり目などには、体調を崩してしまうことが多く、変化が小さくなることは、シャルルにとって願ってもいない事だった。

 シャルルとヴィンスは、窓際から吹いてくるそよ風が気持ちの良いテーブルについていた。食堂には、彼らの他に勉強をしている上級生も数人見られ、比較的静かだった。

「ここはアルカンナよりもずっと北だから」

「うん……」

 あまり食欲もなく選んだ野菜スープにスプーンを浸したまま、シャルルはぼうっと空を見ていた。それを見て、ヴィンスが気遣うようにグラスを差し出す。

「疲れてるね」

 礼を言ってひんやりと心地よいグラスを受け取り、両手で掴んだ。疲労と眠気で熱くなったシャルルの手のひらが、中に入った氷を溶かすようだった。

「……一日目だからかな。早く慣れると良いんだけど」

「無理もないよ。明日は入学式で僕らは授業も無いから、ゆっくり休むといいさ。長く寝たければ、起こさないように静かにしてるし」

「ありがとう」

 シャルルはやけに重たく感じるスプーンを握って口へ運んだ。先程までは湯気が立っていたが、風で冷まされている。細かく刻まれたトマトと玉ねぎが優しい甘みを作っている。ほんのりとハーブが効いていて、島の郷土料理の味が思い出されて少しほっとした。

 ヴィンスはサラダとチキンのソテー、それにスライスしたバケットを選んでいた。丁寧な手つきで、チキンを切って口に運ぶ。マナーに厳しい家で育ったのだろうか、とシャルルは思った。座っている姿勢がいいことも、人を気遣うような言葉も、上品な人間の特性のように見えてくる。そう思ったとしても、初対面で色々と聞きすぎるのは良くないな、とシャルルはまたスープを啜る。

「あのさ」

 シャルルの視線を少し感じてか、ヴィンスは顔をあげる。

「どうしたの?」

 話しづらい話題なのだろう。シャルルが続きを促すが、「どうしよう、でも言い出したからな……」とヴィンスは口の中でためらうように呟く。意を決したように持っていたフォークを置いた。

「答えにくかったら無視して欲しいんだけど」

「うん?」

「どうして転校してきたか、聞いてもいい?」

 ヴィンスが申し訳なさそうに尋ねた。

 この類の質問はきっと聞かれるだろう、ということは転校が決まった時から想像していたから、シャルルはそこまで驚かなかった。理由を話すことに抵抗はあれども、自分が考えていた以上にするりと答えがでる。あらかじめ考えていた定型文のようだ。

「父さんの遺言で、ここに転校することになったんだ。僕はきちんと力に向き合う必要があるんだって」

 父の死が伝えられた時、母はすでに病に臥せっていた。母は知らせを聞く数日前から急に具合を悪くして、島の病院に入院していたため、シャルルは一人だった。休暇がはじまる一週間ほど前で、その日の月が異様に白かったことを覚えている。

 シャルルは自分自身の魔力のことについては、父も母もそれまで一切口にしなかったのに、遺言を届けてきた同僚の軍医によって初めて明かされたのだ。

「両親に、祖父に頼らずとも生きていくために魔力を正しく使いなさい。そのために、シャルル、お前は学園へ行かねばならない」

 と、父の同僚が淡々と書面を読み上げた。前後はあまりの衝撃ではっきりとは覚えていないが、どうしてかこの言葉だけ明確に記憶にある。なぜ初めから本土へ行かせなかったのか、とその時、場違いにも思ったことも。

「……不躾に聞いてごめん」

 ヴィンスは頭を下げて謝った。シャルルは慌てて手を伸ばしてヴィンスの肩を叩いた。

「大丈夫だよ。気にしないで」

 そろりと面を上げるヴィンスに、シャルルは柔らかな笑顔を見せた。不躾というのはもっと深入りしてくるものだ。ヴィンスとは会ったばかりだけれど、その言葉に悪意がないことを感じ取っていたため、本心から「大丈夫だ」と言った。転入生に学園のことをあれこれと教えるなんて、手間のかかることだ。どれだけお人好しでも、単なる親切心だけでできるものではない。ヴィンスが仲良くなろうとしてくれていることは、シャルルにはよく分かった。

「もちろん父さんが居なくなって悲しいことには変わりないよ。でも、新しいことを勉強できるのは楽しみなんだ。それに、転校してヴィンスに会うこともできたし」

 ぬるくなったスープを飲み込んで、シャルルは正直に話す。気持ちを隠しすぎても良いことはない、と祖父がよく言っていたのを思い出していた。

「やさしいんだな」

 眉を下げて微笑んだヴィンスに、首を傾げながらもシャルルも笑い返した。

「君もだよ、ヴィンス」 


 日は暮れ落ちて、校舎の明かりも消えた。生徒たちは寮に戻る時間となり、新学期一日目の夜をめいめいに過ごしている。消灯時間まではあと少しだが、そよ風に乗って聞こえて来る話し声は止みそうにない。それはシャルルとヴィンスの部屋も同じことだった。

「夜は『暗色の皇帝』が作っているって話、シャルルは知ってる?」

「暗色の、なんて?」

 荷物の整理をしていると、ヴィンスが聞き慣れないことを言った。彼はとっくに片付け終えたらしく、ベッドに腰掛けて窓の外を見ていた。街の明かりが周囲にない学園からは、星がよく見えた。

「『暗色の皇帝』だよ。まあ、神話の一つだけど……」

 窓からシャルルへと顔を移して言う。先程までつけていたデイジーのピンバッジを思い浮かべて、シャルルは首を横に振る。

「神話、たくさんあってあまり覚えてないよ。アルカンナはマルガリア様の話ばかりだから」

「アルカンナの守り神、花の神様だよね」

「そう。ヴィンスは神話に詳しいんだ?」

「詳しいってほどじゃない。シエロの生徒は必修みたいなものなんだ。歴史や占星術の授業でもちょっとやるし、上級生は神話学を取らないといけないからね」

「授業で勉強するんだ……」

 面白そうだな、とシャルルは手を止めて自分の椅子に座り、ヴィンスと同じように外を眺めてみた。北の空に明るく光る星が、遠くに見える蝋燭のあかりと等しく、微かに、何かを誘うように揺らめいていた。雲はない。  ◇


 神話は全て天界の話だと言うのは有名だから君も知ってるだろ。この土地を守る神様たちはみんな空にいるって、君は信じてる? 僕も確かな話かどうかは分からないんだけど、自分の力を見たら、もしかすればいるかもしれないって思ってしまうし、否定はしない。

 これは、僕たちの世界と地下の世界が分かれてなかった頃の話だ。

 天界、雲上星地とも言われる世界では神様たちが僕らの世界を動かしていると考えられている。

 その中でも一番有名なのが、夜と昼の神々のお話だ。

 夜を作り出すという「暗色の皇帝」は、夜の世界の玉座に座る神と言われている。彼は夜より黒いマントを羽織り、頭上には冷たい星の欠片と月の針金で作られた王冠が煌めいている。

 彼の対極には昼を見守る「光明の王子」がいる。王子は黄金色に輝くマントを着ていて、頭には暖かな星の欠片と雲の綿で作られた王冠をかぶっている。

 この二人の神様は兄弟だ。皇帝が兄、王子が弟で、二人とも規則正しい時間を作っている。

 昼を見守る王子は、太陽を引っ張ってくる。明るい昼は人も動物もみんな、それぞれの足で立つことができるから、王子はただ雲と遊ぶだけ。たまに悪戯をしてくる太陽が退屈しないように話し相手になるくらい。

 でも皇帝はそうはいかない。暗闇を作り出して、今度は生き物を眠らせなければならない。そして気まぐれな星々が目を覚ますから、彼らがあちこちへ行かないように見張っているんだ。光りたがらない星がいれば突ついて起こし、「月の乙女」が泣けば、綺麗な服を用意してなぐさめる。

 夜の昼の間で面倒ごとが起きると王子も兄を手伝った。

 それでも足りなかった。兄弟だけで全部出来ないこともあるから、二人はついに人々に助けを求めた。役に立ちたいと思った人々は、夜空を見つめ続けて、どこにどの星が、どのように光っているかを測って、皇帝に伝えた。太陽や昼間の月がどんなに踊っているかを記録して、王子にも伝えた。

 人々の働きに兄弟はたいそう喜んで、お礼に力を与えた。人々は二人の神様の仕事をより一生懸命に手伝った。彼らは暗闇の中でも小さな光だけで立っていられるから、些細な変化に気づくようになった。中には風の歌や、草木の囁きにも応えるものも現れた。

 それが、僕達シエロのご先祖さまという話だ。

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