6-1 音が、変わった
雪解けの斜面に、小さな緑が顔を出していた。
冬の間、じっと息を潜めていたものが、ようやく顔を上げた──そんな朝だった。
野うさぎが一匹、ぴょんと跳ねて茂みに消える。
その跡を踏むように、生徒たちが校舎へと続く道を歩いていく。
マフラーをまだ手放せない者、上着の前を開けてもう春だと言わんばかりの者。
冬休み明けの学園は、少しだけ空気が違った。
──(そろそろ来る頃なんだけどな)
ルシエルはいつもと変わらないスタイルで挨拶をしてくるエバンのことを待ち構えながら歩いていた。
──変わらぬスタイル。
それは背後からこっそりやって来てはぶつかってくるという荒っぽい挨拶。
初日くらいは肩透かしを見舞わせようと背後に集中していた時、ドンっと重たい衝撃がルシエルを驚かせた。
「よっ、ルーシー、元気だった?」
驚いて振り向くと、そこには屈託のない笑顔のエバンがいる。
「お、おはよう。エバン」
何も聞こえなかった。それに、感じなかった。
ルシエルは目を丸くしてエバンを見たとき、気づいた。
「なんか、雰囲気変わったな、エバン。どこがとは言えないんだけれど」
「ん? そうか? 何も変わったことはしてないけどな。髪型だって同じだし」
確かに見た目は何も変わっていない。だが、エバンから聞こえる「音」が以前と少し違う。
「なあ、ルーシー。冬休み、どうだった?」
「な、なんだよ。その顔、気持ち悪いな」
じとっとした目を向けるエバンは、「言わなくたって分かるだろ?」と顔に書いてあるようだ。
「色々と話すことはあるよ。まあ、それはゆっくりと」
「くーッ。もったいぶるねぇ」
エバンの聞きたいことは、大体察しがつく。けれども、それ以外に話すことがたくさんある。
「そういうエバンはどうだったんだ? 伯父さんの家に行ったんだろ?」
エバンは伯父にひたすら稽古をつけられた話をした。
伯父の同僚にこてんぱんにやられたこと、初めて魔獣を倒したこと。
誕生日祝いに、食べられないくらいの料理が食卓に並び、本当に腹が破裂するかと思ったことも。
ルシエルはフッと笑い、鞄を持ち直した。
しかし、彼は何故伯父の家に帰ったのかは話さなかった。
それはいずれエバンの口から話してくれるだろうと、あえて追求はしなかった。
しばらく歩いていると、「やあ」と声を掛けられた。
あまりの小さな声に聞き逃しそうになったが、二人は同時に振り向いた。
「ノエルじゃないかー」
エバンは頬を持ち上げ、ノエルの肩口をポンポンと叩く。
目を泳がせながら、下を向いてボソボソと何やら話しているがうまく聞き取れない。
「久しぶり、ノエル。元気そうだね」
ルシエルはノエルに向かって目尻を下げた。
後夜祭後の騒動以来の再会に、やや微妙な空気が漂うが、
それをものの見事にエバンが打ち砕いた。
「なあ、あれシャルたちじゃないか? おーい、シャルー!」
辺りにいる全生徒が振り返るほどの大きな声に、ルシエルとノエルは苦笑し、
お互いの顔を見て、快活に笑った。
「初日から全開だね、エバン」
エバンは、前を歩くシャーロットたちに向かって大袈裟なくらい大きく手を振り、走っていった。
遅れをとった二人は小走りで後を追う。
「みんな、久しぶりー。元気だった」
「あら、お揃いで。お久しぶり」
シャーロットの長い黒髪が、朝の柔らかい光をやさしく受け止めている。
シャーロットの隣には、赤茶の髪をゆるくおさげにしているハンナ・クレイリッジ、
鞄に色とりどりの装飾を施しているメルバ・ベルローズもいる。
久しぶりの再会に顔を綻ばせていると、
「ちょっとぉ、ノエルじゃない」
「やあ、メルバくん」
メルバはすぐにノエルの隣に行き、肩を近づけた。
ノエルの口から「メルバくん」という意外な言葉を聞き、ルシエルとハンナは目を合わせて頬を緩めた。
そして、空を見上げ、大きく息を吸い込んだ。
──(この半年で、色んなことが変わったなぁ)
* * * * *
授業が終わり、教室が賑やかになったところで、ルシエルは担任のマーレ・クルシア先生に呼ばれた。
エバン・ヒルティとハンナ・クレイリッジも同様に。
「今から校長室へ行ってください。話があるそうです」
三人は顔を見合わせた。皆、頬を硬くしている。
校長直々の呼び出しなど、過去に一度もない。
廊下を歩く彼らに会話はなく、やや重い足取りで校長室へと赴いた。
──(ハンナは呼ばれてメルバは呼ばれない。何故なんだろう……)
ルシエルはハンナの顔を見た。
彼女は俯きながら歩いている。その隣を歩くエバンもあまり見ることのない顔をしている。
扉の前に立ち、エバンは緩めているネクタイを締め直し、ルシエルに合図を送った。
ノックをして中に入ると、ヴァレント・ハイラード校長、セレナ・フィンレスト教頭、騎士科教師アーチャー・ヴァリス、
そして、その隣には胸に多くの勲章を掲げた近衛騎士団の制服を着た男が立っていた。
錚々たる顔ぶれに身体を硬直させたとき、ひとりの生徒が立っているのが目に飛び込んできた。
「──あ、シャル」
「ごきげんよう」
ルシエルは拳を強く握り、身構えた。
目を横にやると、エバンも青白い顔をしている。
──(騎士団?……もしかして……)
「やぁ、諸君。冬休みは満喫されたかな?
おや、ヒルティくん、顔色が優れないようだが、気分でも悪いかね? 大丈夫なら続けさせてもうが、よろしいかな?」
穏やかな表情で話す校長の言葉はやけに重たい。
エバンは緊張のあまり、「はい」という声が裏返っていた。
「うむ。では改めて。君たちに来てもらったのは他でもない、ローウェン・アッシュくんに関することでね。
と、その前に。こちらにおられるのはローウェンくんの父君で、ガレス・アッシュ殿だ。
見ての通り、近衛騎士団の団長を務めておられる」
四人の唇は硬直した。
ハンナは、慌ててハンカチを両手で持った。だが、その手は震えている。
ルシエルは隣に立つアーチャー・ヴァリスを見た。
しかし、彼は口を強く結び俯いたままだった。
その時、団長のガレスが一歩前に出て腰を九十度に折った。
「この度は、我が息子ローウェンの暴挙、誠に申し訳なかった」
ルシエルは、その光景に目を見張った。
「近衛騎士団団長として、本来ならば民を守るべき立場にありながら、
身内の愚行を止められなかった。……弁明の余地もない」
「あ、いや。そんな」
四人は何も言えなかった。
ルシエルの脳裏には最悪のシナリオが浮かんでいた。あの時、アーチャー先生は確かにローウェンの父親のことを先輩と言った。
結局、今回も黙認されてしまうのだろう……そう覚悟していた。
しかし、ガレスは違った。
首謀者のローウェンは僧院送りとなり、加害者である他の者は退学となった。
そして、ガレスの要望により、ルシエルは事の発端である、エバンの姉アイリスのネックレス強奪のことから静かに語った。
ガレスは俯いたまま、それを聞き、最後にもう一度深く頭を下げた。
友達を傷つけたこと、それは絶対に許されない行為である。
しかし、それを親の責任だと頭を下げられるのは複雑な思いがある。
ましては、この国の安全を担うトップの者。
いくら、ルシエルたちが若くとも、これがどれほどのことなのかくらいは分かる。
四人は誰も口を開くことなくその場を後にした。
会話の糸口が見つからず冷たい石廊を静かに歩いていると、前方に人の姿が見えた。
メルバとノエルだ。
あの時、先生に知らせてくれたのはメルバたちだった。
メルバはいつもの調子でお茶でも飲みに行こうと声をかけた。
気を遣うでもなく、詳細を聞くでもなく、気さくに接して、
気がつけば明るい笑い声が六人の足取りを軽くした。




