5-9 守る理由
白い息が煙のように立ち込めている。
モルグリスは目の前にそびえ立つ木の幹を大きな爪でガリガリと引っ掻き、そして噛みついた。
木は食いちぎられ、大きな音と共に倒れた。
地響きがエバンの足裏にまで伝ってくる。
腹の足しにもならない木の幹を齧るその姿は、まるで理性を失った亡者のようだった。
背後から近づくエバンは枯れ木を踏まないよう一歩、また一歩と距離を縮めている。
──(……嘘、だろ? なんだこのデカさ)
倒木に貪りついているその黒い背中は、そびえ立つ山を連想させた。
なんとも不気味な山だ。
斧を持つ手に力が入る。
ギュッと握った音が微かに鳴った時、モルグリスの動きはピタリと止まり、ゆっくりとこちらに振り向いた。
その目は血走り、口から垂れた涎が草木を溶かし、シューッと白い煙をあげた。
獣の臭いが鼻腔を刺激し、エバンは腕で口元を隠した。
腐敗した空気がエバンの決意を削ごうとしている。
目を背けたら、やられる。──そう感じ、腹に力を込めて見据える。
グルルルルと喉を鳴らしているモルグリスは今にも飛びかかってくる勢いだ。
エバンは深く息を吸い、ゴクリと唾を飲み込んだ。
腰を低く下ろし、足を地面に食い込ませる。
その時、ほんのわずかに風が揺れた。
──(来る)
こちらが反応する前に、モルグリスの身体がぶれ、消えた。
そして、モルグリスはどこからともなく突然姿を現し、鉤爪をエバンの背後に向けようとした。
が、しかしそこにエバンの姿はない。
モルグリスは顔を左右に向け、咆哮する。
「こっちだよ」
声に反応し、見上げたモルグリスの顔は驚愕と苛立ちが伺える。
見下ろすエバンは、斧を上段に持ち替え、一気に振り下ろした。
* * * * *
「ねえ、リカルド伯父さん。なんで戦士になろうって思ったの?」
エバンたちは森の中にある静かな湖を見ながら火を囲っていた。
先程撃退したモルグリスの角を火で炙り、毒素を落としている。
この角を細かく砕いたものは切り傷に効く。
「子供の頃住んでいた谷は魔物がよく出てな。
農作物は食い荒らされ、酷い時は家の中まで荒らされる始末だった。
その度に戦士に依頼して討伐してもらっていたんだが、その時は皆他の地域に討伐に行っていて
誰もいなかったんだ。そういう時に限って、厄介な魔物が出没するんだ。
そして、真っ先にやられるのが女性や子供たち……」
リカルドの視線は炎だけを見ている。
その瞳には怒りの色が写し出されていた。
軽い気持ちで聞いてしまったことに後悔を覚えたエバンは、背筋を伸ばした。
「その時、俺は一番仲の良かった友人と谷で遊んでいたんだ。
そこで魔物に遭遇してしまい、二人で逃げた。
だが、このままでは二人とも喰われてしまう、奴はそう思ったんだろうな。
俺を川へ突き飛ばしたんだ。自分を犠牲にして……」
エバンは両手で口元を覆った。
そして、声にならない声で言った。
「……そんな」
「俺は何も出来なかった。助けることも、戦うことも。
ただ、目の前であいつが苦しんでいるのを見ていることしかできなかったんだ。
その時言われたんだ。妹を頼む……と」
「──それって、もしかして」
リカルドの顔はこわばったまま。
エバンは唾を飲み込んだ。
「ああ、カレンだよ。俺は死んじまったアイツに誓ったんだ。彼女だけは守り抜くと。
それが、きっかけだよ」
パチンと火の中の木が爆ぜ、火の粉が舞う。
「なあ、エバン。お前の母さんを救い出したい気持ちは痛いほどわかる。
けど、お前一人でどうにかなる相手ではないんだ。だから、焦るなよ?
絶対に一人で動こうとするな。これは約束だ。いいな?」
エバンは何も言わず火を見つめている。
「リカルド伯父さん、俺、これから、どうしたらいい?」
エバンの目には怒りと不安が入り交ざっていた。
リカルドはそっとエバンの頭に手を置き、髪をくしゃっとした。
「お前を危険な目に遭わせるわけにはいかんからな。俺に任せろ。
勿論、俺一人で解決できる問題ではない。だから、お前にも手伝ってもらう。
けど、それは今ではない。機が熟すまでしっかり鍛錬しておけよ。そして、決して過信するな。
これは、男同士の約束だ」
エバンの目は潤み、身体は小刻みに震えている。
そして、ゆっくり頷いた。
「わかった。約束するよ」
「お前のその目、母さんにそっくりだな」
リカルドは口元を緩ませながら、エバンの肩をポンと拳で叩いた。
* * * * *
その日の夜、食卓には乗り切らないほどの料理が並べられていた。
湯浴みを終えたエバンは、目を丸くした。
「わあ、どうしたの? すっごい御馳走が並んでるよ? 今日って何かの記念日なの?」
「エバン、あんた分かってないの? 今日ってあなたの十七歳の誕生日じゃない」
エバンは口を開けたまま硬直している。
「あ、そうか。今日、オイラの誕生日だったか。毎日夢中になっていたら忘れていたよ」
「そうね。エバン、毎日頑張っていたものね。だから、今日はお祝い。ほら、早く座って」
カレンはエバンの肩を持ち、席に座らせた。
アイリスは山盛りのチキンのグリルをエバンの目の前に置いた。
「これ、全部エバンのよ。カレン伯母さんが朝から仕込んで、焼いてくれたのよ」
「さあ、アイリスも座って。料理が冷めないうちに乾杯しましょ」
四人で囲む食卓は祝いの歌に包まれていた。
乾杯のあと、リカルドは足元から包みを取り出し、エバンに差し出した。
「誕生日おめでとう。これは俺からのプレゼントだ」
包みを開けたエバンは思わず息を呑んだ。
細かな彫刻が施された鞘に納められた短剣。
握ると、エバンの手に吸い込まれるほどしっくりくる。
そして、ゆっくりと引き抜くと、風の守護者「ゼフィール」を表す紋章、裏面にはエバンの名が刻まれていた。
「『エバンの誕生日に剣を贈るなんて』とカレンには言われたがな、これでも俺は毎日お前の事を見てきた」
リカルドはグイッと酒を煽った。
「今まで、厳しい訓練に泣き言ひとつ言わず、よく食らいついてきたな。
勿論明日も、いつも通りやるつもりだ。まだまだやるべきことはたくさんある。
けど、一度ここで区切りをつけるという意味で、お前にこれを与えたかったんだ。
まあ、これは俺からのおせっかいだと思ってくれ」
エバンは下を向き、大粒の涙をこぼした。
嗚咽が止まらないほどに。
そんなエバンの背中をさすりながら、優しい目を向けるリカルド。
まるで本当の親子のような二人の姿を見て、カレンもアイリスも瞳を潤ませた。
「リカルド伯父さん……。あ、ありがとうございます。俺、これからも、頑張るよ」
宴も進み、いつも通りの顔に戻ったエバンはものの見事に料理を平らげた。
ポンポンと膨らんだ腹を叩き、「さすがにもう入らないや」と独り言を言っている。
隣ではいい感じに出来上がったリカルドが気持ちよさそうな顔でいびきをかいている。
──「あんなにホッとしたエバンの顔、初めて見た」
洗い終えた食器を拭きながらカレンとアイリスは顔を見合わせて微笑んだ。
翌日、リカルドとエバンは盛大に寝坊をしたが、誰も二人を起こしたりはしなかった。




