5-3 冬の朗読会
手元のページに目を落とし、スッと息を吸い込んだ。
ゆっくりと紡ぐ言葉たちは、その場にいる者に安らぎを与える。
店主の低い声は、包み込んでくれるような優しさがあった。
──雪はすべての足跡をけしてゆく。
名前を呼んでも、返事はない。
それでも彼女は立ち止まらなかった。
見えなくても、確かに「そこにいる」と、知っていたから。
彼女は耳を澄ました。
風の音、鳥の声、小川のせせらぎ。
やさしい風が、頬をなでた。
振り返ってみても、誰もいない。
けれども彼女は確かに感じた。
雪の中を手を差し入れる。
凍えた指先が小さなぬくもりに触れたとき、彼女は息を吐いた。
「ああ……ここにいた」──
静かに続く拍手の音。
隣に座るハンナは、目を輝かせながら手を叩いている。
ルシエルも、黒猫、ルルの体温を膝に感じながら拍手を送った。
しかし、その顔に笑みはなく、どこか遠くに目を向けている。
──最後の一言だけが、妙に鮮明に残っていた。
まるで自分に向けられた声みたいに。
ルシエルたちは、店主の所に向かうと、ルルがルシエルの腕の中から窓際に飛び移った。
寡黙な店主は頬を掻いて、咳払いをひとつついたところで、奥から女性が出てきた。
「お礼のしるしってわけではないんだけれど、これ、よかったら受け取ってもらえる?
うちの人が作ったの」
女性の手にはふたつのキーホルダーが乗っていた。
木彫りの黒猫。
よく見ると、首に赤いリボンを巻いている。
──ルルだ。
歩いているルル。伸びをしているルル。
どちらも愛らしい表情をしていた。
「いつでも遊びに来てね。ルルもきっと喜ぶわ」
「気兼ねなく本を読みにくるといい。いつでも歓迎する」
相変わらず店主は表情を変えない。
しかし、その言葉に、何ものにも代えがたい喜びを感じた。
いつの間にか陽も暮れて、店の端にある薪ストーブの炎が二人の頬を照らす。
「また来ます」と、別れを告げ、店を後にしたルシエルとハンナは大通りへと歩いていった。
夕暮れ時、通りのあちこちから夕飯のいい匂いがする。
ルシエルたちも香ばしい香りに誘われて店へと吸い込まれた。
二人は朗読会の話題になり、読まれた本をハンナから借りる約束をした。
その時ふと、朗読の最後の一節を思い出した。
──(やっぱり、クリストフは森に何かを隠して、僕に託したんじゃないか?)
確信はないがその思いが徐々に強まってきた。
ルシエルは思い切って、自分宛に届いたクリストフからの手紙の話をハンナにした。
最初に届いた暗号めいたメッセージと、先日受け取った手紙のこと。
そして、今の胸にある思いを打ち明ける。
「わたしもそう思う。クリストフさんはルシエルに何かを見つけて欲しいんじゃないかな?
それと、最後の一節は、クリストフさんがどこかに潜伏しますって意味なのかなって思う。
ヴァレン・コールってルシエルの生まれ育った街でしょ? その生家の裏の森に何かあるんじゃない?」
「そうだよね。やっぱり僕の考えは間違っていなかったんだ。──ヴァレン・コールか……。」
「ルシエル? どうしたの?」
「あ、ごめん。ちょっと行きにくいなと思って。
それに、探すと言っても広すぎるし……。ごめん、ごめん。話題を変えよう」
「いいよ。ルシエル、良ければわたし、手伝うよ」
ハンナは耳を赤く染め、少し俯いた。
それを見たルシエルは、テーブルの水を口に含み、ハンナの顔を見た。
「ありがとう。すごく嬉しいんだけど、もしかしたら、危険な目に遭わせちゃうかも知れないんだ。
だから、やっぱりひとりで……」
「それだったら、シャルも一緒に。シャルなら色んな道具を持ってるから。
わたしもルシエルの役に立てるように頑張るよ。
それに、危険かもしれないって知っちゃったのに、
『気をつけてね』なんて言えないよ。
──だって、心配だもん」
「ハンナ……」
ハンナはいつになく鋭い目をしていた。
ルシエルの鼓動は大きくなり、背筋に粟立つものを感じた。
「それに、森でしょ? 森はわたしの得意分野だよ」
「エヘヘ」と目尻を下げながら頬をかく姿は、いつも見ているハンナの顔だった。
ルシエルは心地よい安心感を覚え、同行を頼んだ。
ハンナは快諾し、シャーロット・リンデルにも伝えると約束してくれた。
そこに、湯気を上げながら料理が二人の元へと運ばれてきた。
ハンナはそれを取り分け、ルシエルの前にそっと置いた。
楽しい時間というものはあっという間に過ぎてしまう。
そろそろ最終の乗合馬車が出る頃になってきた。
街の喧騒も消え、星が輝きはじめている。
二人は静かに歩く。──外は、いつの間にかだいぶ冷えてきていた。
「ハンナ、今日はありがとう。楽しかった。それで、その……、また今度、二人で遊びに行かない、かな?」
心臓が口から飛び出そうなくらい、跳ねている。
さらに、指先は震えていた。
「二人で」という言葉の意味の重大さに、ルシエルはハンナの顔を見ることが出来ない。
二人の間に沈黙が降りたとき、ルシエルは、誘った事を後悔した。
「わたし、実は、今日の朗読会にルシエルと行けたらいいなって思ってたんだ。けど、自分から言えなくて……。
あの日、誘ってくれてすごく嬉しかった。今日は、ありがとう。それと、また遊びに行きたいな。──二人で」
──プハーッ
ルシエルが大きく息を吐いた。
身体は前かがみに、肩を揺らしている。
ハンナは目を丸くして、半歩下がった。
「あ、ごめん。返事を聞くのが怖くて、つい息を止めちゃってた……」
ルシエルは手を握りしめていた。
指が白くなるまで。
二人は顔を見合わせ、豪快に笑った。
ハンナは涙を浮かべながら、鞄に手を入れモゾモゾと動かし、ルシエルに差し出した。
「これ、前にくれた栞のお礼に。よかったら使って」
ハンナの手を見ると、小さな包みが乗っている。
ルシエルは両手で受け取り、丁寧に包みを開け、思わず息を呑んだ。
白いハンカチに、刺繍が縫われている。
さりげなく角にあるそれは、いつも手にしているエルダーの杖。
それと羽のモチーフ。更に、それらを覆うように装飾された「L」の文字。
「えっと、もしかして──。僕に?」
「うん。使ってもらえたら、嬉しいな」
鈴の音がルシエルを高揚させ、衝動的にハンナの手を取った。
「ありがとう。めちゃくちゃ嬉しい! すごいね、これ、僕の杖だ」
ハンナの顔はあっという間に赤く染まり、それでも目だけは逸らさずに、ルシエルを見つめた。
「喜んでもらえてよかった。どうしてもお礼がしたかったんだ」
月明かりを受けたその髪は、やわらかく光をまとっている。
馬車に乗り込んだあとも、
その残像だけが、ルシエルの中に残り続けていた。




