5-4 逃げないって決めたんだ
馬車が止まると同時に、エバンは無言で飛び降りた。
冷たい空気が肺に刺さる。
見慣れたはずの景色なのに、どこか他人のものみたいに遠かった。
「──母さん」
枯草を踏む乾いた音がエバンの耳を刺激する。
隣りを歩く姉のアイリスも口を結び、神妙な面持ちだ。
前方に、石造りの煙突から白い煙が上がっているのが見えた。
二人は言葉を交わすことなくひたすらに歩く。
──「リカルド伯父さん」
背後からの突然の声に、男は動きを止めた。
足元には細く割られた木が散らばっている。
鉈を地面に置いた男は振り向き、あごひげを触った。
「──おいおい、エバンじゃないか。大きくなったな。
来るのはアイリスだけだと聞いていたが」
リカルドは二人を抱き寄せ、それは強い力で背中を叩き、歓迎した。
二人は熱い抱擁にむせ返り、リカルドの腕から逃れようとしている。
キーっという扉の開く音に合わせて、妻のカレンが出てきた。
「あら、二人とも。おかえりなさい。寒かったでしょう?」
カレンは二人の鞄を持ち、中に招き入れた。
「意外と早かったのね。到着は夕方になると思っていたのよ」
「たまたま最初の馬車に乗れたから、早かったの」
「エバンも元気そうね。どう? 学園生活は楽しい?」
「うん。楽しいよ。ご飯も美味くてさ、いつもシェフが大盛りにしてくれるんだ」
「あんたはいつも食べることばかりね」
「えー、いいじゃないかよ。そんな姉ちゃんだって、残ったデザートもらってるの知ってるんだぜ」
「ちょ、なんであんたがそれ知ってんのよ!」
カレンは上品に笑い、二人の前に温かいスープを置いた。
エバンはスプーンを口に運んだ。
温かさと、懐かしさ、愛情が身体を巡り、思わず込み上げた。
悲痛な面持ちをしているエバンを見たアイリスは、彼の背中をさすり、口を開いた。
「リカルド伯父さん、カレン伯母さん。──見つけたの、エバンが。手がかり。
──母さんの手がかりを」
エバンの表情が一瞬にして鋭いものに変わった。
そして、学園で拾った白百合のバッジのことを話した。
リカルドは腕組みをしたまま黙っている。
重い沈黙が続く。
その均衡を破ったのがエバンだった。
強く握られたバッジをテーブルに置き、鋭い目つきで正面を向いた。
「リカルド伯父さん、俺、やるよ。母さんを取り戻す。──だから、俺、強くなりたい」
リカルドは、動かない。
視線だけが、エバンを射抜いている。
ただそれだけで、空気が張り詰めた。
薪の弾ける音だけが、小さく響く。
「本気か?」
「うん。今度は逃げない。だから、教えてほしい」
「手がかりを見つけたというだけで、まだ何もわかってはいないんだろう?」
「うん。けど、伯父さんの言う通り、学園に関係者がいたよ。俺、これから色々と調べてみる。だから強くなりたいんだ」
エバンが十三歳の時、父バルクの行き過ぎた教育方針に、母のアニエルは命の危険性を感じ、エバンとアイリスを連れて家を飛び出した。
アニエルの兄、リカルドに相談をし、一度は匿ってもらうも、兄夫婦に迷惑を掛けてはならないと、村を出た。
そして、三人でひっそりと暮らしていたある日、黒装束の連中に襲撃された。
必死で抵抗する三人、そこへ心配で駆け付けたリカルドの偶然の発見により制圧された、かのように見えた。
しかし、アニエルの姿がなかった。
拉致されてしまったのだ。
その時、部屋に落ちていたのが、──白百合のバッジ。
その後、リカルドはエバンとアイリスを連れ帰り四人で暮らしていた。
リカルドは元戦士。
唯一の手掛かりとなるバッジを頼りに、様々な情報網を駆使し、ある情報を得た。
それは、
──あの白百合のバッジは『恩寵のしるし』という新興宗教団体のものということ。
──あの襲撃を手引きしていたのは父、バルクだったということ。
最悪な事実だった。
あろうことか、夫であり、親であるバルクの暗躍だったとは。
リカルドは激昂し、単身で団体へ乗り込もうとした。
しかし、仲間たちに止められた。
──死にに行くようなものだ、と。
エバンは剣を持つことを嫌っている。
そもそも、戦いというもの自体を厭っている。
その背景には、幼い頃からの父からの暴力、母への暴力が大半を占めていた。
「やるからには生半可なことはしないが、それでもついてこれるか?」
「はい」
翌朝からリカルドによる稽古が始まった。
午前中は基礎体力の鍛錬。午後は剣術、武術の基礎訓練に、型と組み手。
学園が始まるまで一ヶ月、毎日ひたすら繰り返し、身体に染み込ませる。
幼い頃、困難なことがあると、すぐに逃げていたあのエバンが、歯を食いしばり、満身創痍で食らいついている。
それでもリカルドは決して褒めることなく、心を鬼にして、木刀を叩き込んだ。
エバンの手はマメが潰れ、木刀の柄は血で染まり、それでも毎日素振りをした。
──(もっと早く。もっと)
ある日、リカルドの冒険者時代の仲間が来た。
「悪いな。わざわざ来てもらって。エバン、コイツはカイルだ。昔の仲間でな、風の魔術師だ」
「おっ、この子がエバンか。なかなかいい目してるな」
「えっと、こんにちは……」
挨拶もほどほどに済ませたカイルは、早速木刀をエバンに持たせた。
「まずはどのくらいの実力かを見たいな。
手合わせ願おうか。言っとくが、本気で来いよ」
「はい。って、あの……、木刀は?」
「必要ねえよ。まず当たらないから」
エバンは身体が熱くなるのを覚えた。
カイルの挑発に眉根を寄せ、鋭い目つきを向け、木刀を中段に構えた。
カイルは構えない。
ただ、そこに立っているだけだった。
なのに──近づけない。
足を踏み出そうとした瞬間、空気が変わった。
肌に触れる風が、冷たく、鋭くなる。
(……やばい)
理由は分からない。
けれど、本能が警鐘を鳴らしていた。
「どうした? 来ないのか?」
その声で、ようやく身体が動いた。
エバンは地面を蹴る。
一気に間合いを詰める──はずだった。
風が、揺れた。
次の瞬間、カイルが消えた。
(──くっ)
思考が追いつく前に視界がぶれ、気づいた時には、目の前にいた。
「遅い」
声と同時に、衝撃。
身体が宙に浮き、背中から地面に叩きつけられ、息が詰まった。
何をされたのか、分からない。
ただ一つ分かるのは──
(勝てない)
その事実だけだった。
喉の奥が震える。
カイルが目の前に迫ってきた時、本能的に危険を察知した。
ビリビリと凍てついた空気が頬に刺さるような。
初めて感じた殺気。
実戦の恐ろしさを肌で体感した。
しかし、エバンはもう逃げないと決めたのだ。
だから、歯を食いしばり、立ち上がり、木刀を握った。
「もう一度、お願いします」
その声に、迷いはなかった。




