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ルシエルの残響  作者: 此崎 りつ
五章 冬休み編
55/71

5-4 逃げないって決めたんだ

馬車が止まると同時に、エバンは無言で飛び降りた。

冷たい空気が肺に刺さる。

見慣れたはずの景色なのに、どこか他人のものみたいに遠かった。


「──母さん」


枯草を踏む乾いた音がエバンの耳を刺激する。

隣りを歩く姉のアイリスも口を結び、神妙な面持ちだ。

前方に、石造りの煙突から白い煙が上がっているのが見えた。

二人は言葉を交わすことなくひたすらに歩く。


──「リカルド伯父さん」


背後からの突然の声に、男は動きを止めた。

足元には細く割られた木が散らばっている。

鉈を地面に置いた男は振り向き、あごひげを触った。


「──おいおい、エバンじゃないか。大きくなったな。

来るのはアイリスだけだと聞いていたが」


リカルドは二人を抱き寄せ、それは強い力で背中を叩き、歓迎した。

二人は熱い抱擁にむせ返り、リカルドの腕から逃れようとしている。

キーっという扉の開く音に合わせて、妻のカレンが出てきた。


「あら、二人とも。おかえりなさい。寒かったでしょう?」


カレンは二人の鞄を持ち、中に招き入れた。


「意外と早かったのね。到着は夕方になると思っていたのよ」


「たまたま最初の馬車に乗れたから、早かったの」


「エバンも元気そうね。どう? 学園生活は楽しい?」


「うん。楽しいよ。ご飯も美味くてさ、いつもシェフが大盛りにしてくれるんだ」


「あんたはいつも食べることばかりね」


「えー、いいじゃないかよ。そんな姉ちゃんだって、残ったデザートもらってるの知ってるんだぜ」


「ちょ、なんであんたがそれ知ってんのよ!」


カレンは上品に笑い、二人の前に温かいスープを置いた。

エバンはスプーンを口に運んだ。

温かさと、懐かしさ、愛情が身体を巡り、思わず込み上げた。

悲痛な面持ちをしているエバンを見たアイリスは、彼の背中をさすり、口を開いた。


「リカルド伯父さん、カレン伯母さん。──見つけたの、エバンが。手がかり。

──母さんの手がかりを」


エバンの表情が一瞬にして鋭いものに変わった。

そして、学園で拾った白百合のバッジのことを話した。


リカルドは腕組みをしたまま黙っている。

重い沈黙が続く。

その均衡を破ったのがエバンだった。

強く握られたバッジをテーブルに置き、鋭い目つきで正面を向いた。


「リカルド伯父さん、俺、やるよ。母さんを取り戻す。──だから、俺、強くなりたい」


リカルドは、動かない。

視線だけが、エバンを射抜いている。

ただそれだけで、空気が張り詰めた。

薪の弾ける音だけが、小さく響く。


「本気か?」


「うん。今度は逃げない。だから、教えてほしい」


「手がかりを見つけたというだけで、まだ何もわかってはいないんだろう?」


「うん。けど、伯父さんの言う通り、学園に関係者がいたよ。俺、これから色々と調べてみる。だから強くなりたいんだ」


エバンが十三歳の時、父バルクの行き過ぎた教育方針に、母のアニエルは命の危険性を感じ、エバンとアイリスを連れて家を飛び出した。

アニエルの兄、リカルドに相談をし、一度は匿ってもらうも、兄夫婦に迷惑を掛けてはならないと、村を出た。

そして、三人でひっそりと暮らしていたある日、黒装束の連中に襲撃された。

必死で抵抗する三人、そこへ心配で駆け付けたリカルドの偶然の発見により制圧された、かのように見えた。

しかし、アニエルの姿がなかった。

拉致されてしまったのだ。


その時、部屋に落ちていたのが、──白百合のバッジ。

その後、リカルドはエバンとアイリスを連れ帰り四人で暮らしていた。

リカルドは元戦士。

唯一の手掛かりとなるバッジを頼りに、様々な情報網を駆使し、ある情報を得た。

それは、


──あの白百合のバッジは『恩寵のしるし』という新興宗教団体のものということ。

──あの襲撃を手引きしていたのは父、バルクだったということ。

 

最悪な事実だった。

あろうことか、夫であり、親であるバルクの暗躍だったとは。

リカルドは激昂し、単身で団体へ乗り込もうとした。

しかし、仲間たちに止められた。

──死にに行くようなものだ、と。


エバンは剣を持つことを嫌っている。

そもそも、戦いというもの自体を厭っている。

その背景には、幼い頃からの父からの暴力、母への暴力が大半を占めていた。

 

「やるからには生半可なことはしないが、それでもついてこれるか?」

 

「はい」

 

翌朝からリカルドによる稽古が始まった。

午前中は基礎体力の鍛錬。午後は剣術、武術の基礎訓練に、型と組み手。

学園が始まるまで一ヶ月、毎日ひたすら繰り返し、身体に染み込ませる。

幼い頃、困難なことがあると、すぐに逃げていたあのエバンが、歯を食いしばり、満身創痍で食らいついている。

それでもリカルドは決して褒めることなく、心を鬼にして、木刀を叩き込んだ。

エバンの手はマメが潰れ、木刀の柄は血で染まり、それでも毎日素振りをした。

 

──(もっと早く。もっと)

 

ある日、リカルドの冒険者時代の仲間が来た。

 

「悪いな。わざわざ来てもらって。エバン、コイツはカイルだ。昔の仲間でな、風の魔術師だ」


「おっ、この子がエバンか。なかなかいい目してるな」


「えっと、こんにちは……」

 

挨拶もほどほどに済ませたカイルは、早速木刀をエバンに持たせた。

 

「まずはどのくらいの実力かを見たいな。

手合わせ願おうか。言っとくが、本気で来いよ」

 

「はい。って、あの……、木刀は?」

 

「必要ねえよ。まず当たらないから」

 

エバンは身体が熱くなるのを覚えた。

カイルの挑発に眉根を寄せ、鋭い目つきを向け、木刀を中段に構えた。

カイルは構えない。

ただ、そこに立っているだけだった。


なのに──近づけない。


足を踏み出そうとした瞬間、空気が変わった。

肌に触れる風が、冷たく、鋭くなる。


(……やばい)


理由は分からない。

けれど、本能が警鐘を鳴らしていた。


「どうした? 来ないのか?」


その声で、ようやく身体が動いた。

エバンは地面を蹴る。

一気に間合いを詰める──はずだった。

風が、揺れた。

次の瞬間、カイルが消えた。


(──くっ)


思考が追いつく前に視界がぶれ、気づいた時には、目の前にいた。


「遅い」


声と同時に、衝撃。

身体が宙に浮き、背中から地面に叩きつけられ、息が詰まった。


何をされたのか、分からない。

ただ一つ分かるのは──


(勝てない)


その事実だけだった。

喉の奥が震える。


カイルが目の前に迫ってきた時、本能的に危険を察知した。

ビリビリと凍てついた空気が頬に刺さるような。

初めて感じた殺気。

実戦の恐ろしさを肌で体感した。

しかし、エバンはもう逃げないと決めたのだ。

だから、歯を食いしばり、立ち上がり、木刀を握った。


「もう一度、お願いします」

その声に、迷いはなかった。

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