中編
がくがくと震えるあまり目を覚ました。とてつもなく寒い。
洞窟だった。暗く、湿っている。私がいるのは洞窟の最奥部らしく、背後には無骨な石壁があった。その反対側、角の向こう側から炎の明かりが壁に映って揺らめいていた。
体を起こそうとすると、びたんという音と共に地面に叩きつけられた。手足が縛られている。どうもよくない状況らしい。
「ん?」
洞窟の入り口の方から声がした。私が目を覚ましたことに気が付いたらしい。
「おい、お前がやつらが連れてきた人間だな?」
姿を現したのは、2メートルもの背丈のある、巨躯の女性であった。洞窟が薄暗いせいもあり、その顔ははっきりとは見えない。しかし、彼女の眉間の少し上に、すっくと生えた一本の角が、その非人間性を示していた。
彼女が例の鬼というやつなのだろう。
「おい、返事をしろ」
思案していると彼女は苛立った声を上げた。
「おい、おい! おいって! おい!」
なおも黙っていると、彼女は徐々に不安げになっていった。
「もしかして、死んでる……? まずい、どうしよう……。なあ、おいって」
いよいよ彼女は心配になっているらしく、足の先で私の腹のあたりを小突いた。
「いたい」
「なんだよ、生きてるのかよ! 返事しろよ!」
彼女は最初の元気さを取り戻し、地団太を踏んだ。まるで地鳴りのような轟音が洞窟内に響き渡った。
「きみは、鬼だね?」
「おうとも! 俺こそ森の頭領、円澄よ!」
彼女は声高らかに宣言したが、その名前よりも、洞窟内で無限に反響する大声が苦痛でたまらなかった。
「僕は源治。よろしく」
「ゲンジ……ゲンジというとあのゲンジか?!」
「それはよく言われるけど、違う」
「そうか……」
彼女はなぜだか落胆したが、すぐに元の気勢を取り戻した。
「そんなことより、ゲンジ! お前には今すぐこの森から去ってもらう!」
彼女はどこからか取り出した巨大な金棒を私に突き付けて言った。金棒には無数の棘が付いており、仮に振り下ろされずともそれに触れるだけで相当に痛そうだった。
「わかった」
「ふん、抵抗しても無駄だぞ。痛い目に合いたくなければ……なんだって?」
「わかったよ。この森から出て行く」
「そ、そうか。随分と物わかりがいいな」
「よく言われる。さあ、森から出て行くからこの縄をほどいてくれ」
「できん」
「なんで」
「解いたら、ゲンジは奴らの元に戻るだろう?」
「もちろん」
「だから駄目だ」
「じゃあこの森から出て行けないんだけど」
「それも駄目だ、出ていけ」
無茶を仰る。
「どうして、僕が彼らのところに戻るのがいけないんだ?」
「お前を誘拐したのが俺のせいだとばれてしまう」
「そしたらどうなるんだ?」
「ものすごい怒られる」
彼女は両腕で自分の体を抱きながら慄いて見せた。私はそれを見て思わず笑ってしまった。
「お前は知らないだろうけど、あの狐はめちゃくちゃ怖いんだぞ!」
「まさか」
「この俺を疑うっていうのか!?」
「いたい、いたい。ささってるから」
彼女が金棒を突き出したことで棘が頬に刺さった。
「とにかく、お前はこの森から出ていけ」
「どうして俺がこの森から出て行かなければならないんだ?」
「お前はしつもんばかりだな、いい加減にしろよ」
彼女はそういって凄んだ。そこには確かに、人のものとは思えない迫力があった。
だが、私が無言で居続けていると、焦れたのか説明をしてくれた。
「あの狐が人間と結婚した。それは森の代表者が人間の代表者と、ゆ、ゆ……」
「癒着?」
「そう、それだ! 癒着をしている? ということになる。このままでは、森は人間の思い通りになってしまう。だから、今回のかいぎで森の強さを見せつけて、森が人間の思い通りにならないことをしめさなければならない。そして俺が森の代表者となって、人間を再び従属させるのだ」
「そのためには僕が邪魔だと」
「そうだ」
なるほど、と口の中で呟いて、けれどどうにも怪しいものだと思った。彼女はたぶん、かなり頭が弱い。私なら彼女を森の代表になどしない。
と、私は目前に差し迫った危機に気が付いた。
この圧迫感、焦燥感。間違いない、尿意だ。
「あの、円澄さん。縄をほどいてくれませんか?」
「だめだ」
「いやもう、本当にやばいので」
体中を先ほど摂取したアルコールが出口を求めてさまよっている。膀胱は破裂寸前だ。
「何を言ってる?」
「ほんと、あっ、その、おしっこが漏れそうなんです」
「なに? そんなことを言って、俺を騙そうとしてるんだろう」
「いや、違くて。……あ、」
若干、本当に若干熱いものがパンツに沁みた。冷たい空気が直ぐにその熱を奪い、敗北と悲しみとが混じり合った冷たさが感じられた。
「ん? このニオイ、お前まさか……!」
「父さん、母さん、先立つ不孝をお許しください」
「ま、まて! 諦めるな! ここは俺の寝床だぞ!」
彼女は大慌てで私の縄をほどいた。が、あまりの尿意に一歩でも動けば漏れてしまいそうだった。
「あ、これ駄目なやつだ。立ったら出る、動いても出る」
「くそ!」
彼女は私を抱きかかえ、洞窟の外まで連れ出してくれた。しかし、もはやそれは流れに乗り、すぐそこまで来ていた。
「ズボン、脱がせて……」
それすらもままならない私は、必死の懇願をした。
「はあっ? ちくしょう、これどうなってんだよ!」
「あ――」
「ええい!」
彼女が私のズボンに手を掛けたのとまったく同時に、アポカリプス・デイは訪れた。
「ひどくない?」
「いや、悪かったとは思うけど……でも、そんなに我慢してたならもっとはやくいってくれたら……」
「信じてくれなかったのはあなたじゃないか」
「そうだけど……」
彼女はこちらに背を向け、しょんぼりと背中を丸めて膝を抱えている。
私はというと、手ごろな岩に腰掛け、火にあたっていた。下半身裸で。
「脱がせてくれとは言ったが、まさか破り捨てるとはね」
「うぐ」
彼女は鬼らしい剛力を発揮し、パンツごと私のズボンを文字通り粉々にしてしまった。
確かに、服を着たまま漏らすことはなかったものの、結果として私は人里に降りるにはあまりに頼りない恰好になってしまった。
「これじゃあ森を出ることなんてできないよ」
「うぅ……」
すかさず追撃しておく。正直なところ、非常事態だっただけに対処自体は間違っていなかったわけだが、そもそもの原因は彼女にあるわけだから、ここで釘をさしておくことにする。
ねちねちと小言を言い続けることおよそ20分。どうやら彼女は相当に参ったらしく、金棒をうっちゃっていた。
「とりあえず、あなたのことは何も言わないから、彼らの家に帰してもらえないかな」
多少無理はあるが、散歩していたら迷子になって、こけた拍子にズボンとパンツが吹き飛んだと言うしかない。信じてはもらえないだろうが、意図は伝わる。
「……」
「円澄さん?」
「……きない」
「え?」
「……できない」
「どうして? 道覚えていないとか?」
「そうじゃない」
「じゃあ、なんで――」
「だってお前、丸出しじゃないか!」
彼女は背を向けたまま大声で叫んだ。奥に向かって叫んだだけに、大きな反響音が私を襲った。丸出し、まあ確かに丸出しだ。
「そんなこと、外は暗いし、どうせ見えないよ」
「そういう問題じゃない! 下半身を丸出しにしたおとこが一緒にいるんだぞ! だいたいお前は恥ずかしくないのかよ!?」
「もっと恥ずかしいもの見られちゃったしね……」
正直、鬼とはいえ女性に用を足す手伝いをさせた上、それを見られたというのは私の人生でもっとも恥ずかしいできごとだった。ちなみに次点は親に自慰行為を見られたことだ。
「円澄さん、意外と初心だね」
「だ、だれが処女か!」
「そこまでは言ってないよ」
「ただでさえ数が少ないのに、この森はあの狐がいるせいで他の鬼が寄り付かない! 仕方ないだろうが!」
「それが、この森の代表者になりたい理由?」
「……うん。そう言ったら、ネズミがこうすればよいと教えてくれたのだ」
鬼は鬼で苦労しているらしい。
「うう……一生独り身なのか」
「まあ、そのうちいい出会いがあるよ、円澄さん美人だし」
勝手にヒートアップして勝手に落ち込んでいる彼女が気の毒で、思わず声を掛けた。あながち世辞と言うわけではなく、さきほどちらとみた彼女は、奥方とは違う美しさをしていた。厳しい自然の中で、おのずと磨き上げられていった美だった。
「ほんとうか?」
彼女の声の調子は、絶望の淵にあった病人が、唯一の治療薬を与えられたようなものだった。
「うん」
「嘘ではないか?」
「うん」
「本当に、本当なのだな?」
「うん」
「……そうか」
彼女は口の奥でかみしめるようにそう言うと、洞窟の壁に掛けてあった布を投げて寄越した。
その意図がくみ取れず固まっていると、彼女は背を向けたまま言った。
「それを腰に巻け。洞窟を出たらまっすぐ進め。そうしたら池がある。それを超えてなおまっすぐ行くと、今度は川がある。川に沿って下流に行けば道路に出る。道路に出たら、あとは東にむかって進めばやつらの家に着く」
急に態度の変わった彼女に驚きながらも、私は指示された通り、布を腰に巻き付けた。
「急にどうしたの」
「いいから、行け」
突き放すような彼女の言葉に、私はそれ以上何も言えず、ただ彼女の指示に従って洞窟を出た。
彼らの家に戻ったのは、遠く東の空がその端を白みがからせ始めたころだった。
「どこに行ってたんだ?」
「ちょっと散歩に」
玄関で待ち受けていた彼にそう答えると、彼は無言でパンツとズボンを差し出した。
私はいそいそとそれを履いた。新品のパンツ特有のゴムの締め付けと冷たさが心地よかった。
散々と言えば散々な目に合った私はその後よく眠り、起きたころには夕暮れだった。
彼らは気を遣ってくれたらしく、起きていくと簡単な食事が用意されていた。
おそらく、すべての事情を把握しているに違いないとは思ったものの、私は何も言わなかった。
夕食までの時間、私は庭や、彼らの家の近くの木立を散策した。
その間中、誰かに見られているような気がしてならなかった。
「今晩、昨日話した集まりが開かれる」
夕食を摂りながら、彼が言った。
奥方は昨日のことを相当に恥じているらしく、始終顔を紅くして俯いていた。
「場所はここ。満月が空の真ん中にきたころに、彼らはやってくる」
彼の言葉には、私に与える印象をできるかぎり和らげようとする慎重さがあった。
「やることはごく簡単だ。相手が質問する。君がそれに応える。それだけだ。できそうだろうか?」
「まあ、美味しいご飯を頂いているからね。それに友人の頼みだし」
「ありがとう。助かるよ」
彼と奥方はともに神妙な顔で頭を下げた。顔をあげたころには、彼の顔からは感謝の念は消え去っていた。
「ま、思っている以上に大したことではないけどな」




