後編
果たしてその時間はやってきた。
月が中空に浮いているのを見届け、彼は障子を閉めた。大広間はか細い蝋燭の光のみが揺らめいている。
私は必要だからと着せられた和装に慣れないものを感じながら、じっと火を見つめていた。それは風もないのにゆらゆらと揺らめいていた。
ふと、部屋の空気が重くなるのを感じた。蝋燭の光が、いちど強く揺れたかと思うと、消えた。あたりは本物の闇と静寂とに包まれた。
すると、そこには自分一人しかいないのではないかという錯覚に見舞われた。彼も奥方も実はおらず、あるいはこの大広間という空間すらも私の抱いた幻想で、結局のところ私は外的宇宙の隅でこうして座っているだけなのではないか。
が、そういった空想は、突如として再び点った蝋燭の光によって消え去った。しかし、かわりに現れた光景もまた、私の空想なのではないかと思えるものだった。
さきほどまで三人しかいなかった大広間に、無数の生物が重箱のように詰まっていた。
蝋燭のちかくにはムカデやゴキブリといった虫の類が集まっており、少し離れて亀や鳥、さらに奥には鹿や熊などがいた。
そして蝋燭の手前、正面には、昨夜私を攫った鬼が、胡坐をかいている。か細い蝋燭の光は遠近感を狂わせる。彼女が自分の数倍もあるように映った。
彼女は険しい目をして、私の少し上の方を見ていた。
ふと視線を落とすと、彼女の足元に、今回の騒動の発端であるネズミの姿が見えた。
これだけの生命がいるにも関わらず、広間はひっそりとまるで死んでいるようだった。
やがて私はその沈黙の原因が、目の前の彼女であることに気が付いた。どの生物も、呼吸を忘れるほどに緊張し、彼女の一言を待っている。
彼女は言葉を発しようとして、そして取りやめた。それを何度か繰り返した。その度に、後ろで見ている群衆が身を固くし、そして拍子抜けしたように力を抜いた。
10度目程だったろうか、周囲の生物からいよいよ苛立ちが漏れ出していた。露骨に咳ばらいをするものや、関節の調子を整えるものが現れ始めていた。それでも彼女は何もいえなかった。
20度目にもなると、声が上がり始めた。
「姉御、なにびびってんすか! ぶちかましてやってくださいよ」
「そうですよ姉御! さっきまで余裕って言ってたじゃないですか!」
「姉御!」「姉御!」「姉御!」
「うるさい! もう言うから、黙っていろ!」
「さっきもそう言ったじゃないですか」
「わかった! 今度こそ本当に言う! だからすこし黙っていろ!」
「おい、長吉! 手伝ってやれ」
「合点」
長吉というのは、ネズミのことらしい。彼はすばやく彼女の体を耳元まで駆け上がった。
「いいですかい姉御、あっしの言った言葉を繰り返すんです」
「……わかった」
「行きますよ」
ネズミは口元をその耳元に寄せ、体全体を使って彼女に指示を出した。
「ゲンジ、此度はよくぞこの会合に参った」
私は肯いた。
「さっそくだが、議題に移る。人は我々のような動物を使い、実験を行っていると聞く。それは誠か」
私はまたしても肯いた。これは前提条件の確認に過ぎない。問題は次の質問だ。
「我々の要求は簡単だ。我らが同胞を贄としているならば、諸君らもまた、我らに贄を差し出すべし」
「それは――」
「つまり」
答えようとした私は、彼女がその続きを述べたことで遮られた。
「俺のものとなれ、ゲンジ。俺と夫婦になれ……あ!? 何を言わせるんだ、長吉!」
「さあ、ゲンジ殿。お答えになられよ。我らが姉御と契りを結ぶか、それとも否か。仮にあなたが姉御を娶らなかった場合、姉御は姫様の代わりに、正式にこの森の代表者となってしまいそれはもう大変なことになってしまうので本当にお願いしますなんとかもらってはいただけはしませんか」
「長吉! 何を――」
「姉御!」
長吉の強い口調に、円澄は目を丸くして体を固くした。
「我々はもううんざりなのです。自分に恋人がいないからと、我々に管を巻かれることにも、やっかまれることにも」
「うっ」
「留吉のところは姉御が来たせいで家が壊れ、一族総出で半年かけて再建しました。お吉は産卵中に姉御が来て文句を言ったせいで、最後の一個がなかなか出ずに危うく命を落とすところでした」
「うぐっ」
「姉御も今年で500歳でしょう! いい加減伴侶を見つけ、そのような嫌がらせに終止符を打っていただきたい」
「し、しかし、ゲンジとは昨晩であったばかりだ。すぐに惚れた腫れただのと――」
「今更何を言っておりますか! 良治殿がご友人を連れてこられるとわかった途端そわそわとし始め、一目見るなり『あれが俺の旦那になるかもしれんのか』とほくそ笑んでいたのは誰ですか! かと思えば、振られるのが怖いからと誘拐して逃げるように諭し、はたまた『美人』と言われただけで、洞窟の深さが倍になるほど喜び暴れたのは誰ですか!?」
「そ、それを言うな!」
「いいや、この際すべて洗いざらい言わせていただきますぞ! そのうえで、ゲンジ殿!」
「あ、はい」
あまりの展開に置いていかれていた私は、長吉に話しかけられてようやく我に返った。
「この不出来な鬼を娶るかどうか、決めていただきたい」
「はあ」
「やめてくれぇ」
そこからはもう、怒涛のような話の連続であった。大広間に集まった森の生き物たちが、一つずつ円澄にやられたことを述べ、円澄が嘆き、長吉が次を促した。
「君、僕を騙したな」
その合間を縫って、私は彼に訊ねた。
「悪いな」
彼は悪びれもせずに言った。
「お前に恋人がいないことは百も承知だったよ。それに、単にお見合いと言ったのでは、お前は絶対に素直に来なかっただろ。まあ、ここまで盛り上がるのは予想外だったが」
したり顔に腹が立ったものの、図星だったのでそれ以上はなにも言わないでおいた。
「逆に聞きたいんだが、僕で本当にいいんだろうか」
イタチの権三郎が、円澄が嫉妬の余り山を揺らし、そのせいで木の実が未成熟なまま落ちて食料不足に陥った話をしているとき、私は割り込んで訊ねた。
「それはもう、もうもうもうもう勿体ない位です」
長吉が言うとみなが一様にに肯いた。
「国立大学の薬学部に通われており――素晴らしいことです、国家資格は重要ですから――成績も優秀。性格もいたって真面目と伺っております。なにより、女遊びをまったくなさっていない! こう見えて姉御は純情で、浮気などされた日には山が一つ消えてしまいますからな」
照れるところなのか、それともちょっとは怒って見せるところなのかわからなかったので、曖昧に笑っておくことにした。
円澄を見ると、愚痴大会が堪えたのか、ぐったりとしている。
「まあ、本人も反省しているようですから」
なおも話を続けようとしている長吉を制すと、今度はみながこちらにぐっと一歩近づいてきた。
「それではゲンジ殿! 決めていただけますかな!? 姉御を娶るかどうか」
びくっと、円澄の体が震えた。うつむいたままだが、その体は緊張して強張っていた。
最初、蝋燭の光に照らされているのを見た時とは違い、彼女の体は、まるで幼い子どものように小さなものに見えた。
私は少し考え、思ったことを言うことにした。
「結婚とは、どちらかがどちらかを甘んじて受け入れるというものではないでしょう」
「……」
みなが、小さな虫から大きな哺乳類、彼と奥方、長吉、そして円澄がじっと私の言葉に耳を傾けていた。
「僕があなたを受け入れた、というのではそこには幸福などあり得ない、と思うのです。だから、あなたのことを、あなたの言葉で教えていただきたい。僕のことを僕の言葉で知ってもらいたい。それでも、一緒にいたいとお互いに想えたなら、その時は夫婦になりましょう」
円澄が顔を上げた。
「それはつまり――」
「まあ、なにはともあれ、まずは友だちから」
大広間どころか、この森全体を揺るがすほどの歓声があがった。
『いや、あれはいい演説だったよ』
「やめてくれ、黒歴史なんだ」
『そんなことないだろう。うちのなんか、あのあと『源治さんは本当に素敵な方ですね』と感心していた』
「わかった、わかったよ。降参だ。しかし、どうして、僕が高身長の女性が好きだと知っていたんだ?」
『以前、自分で言っていた』
「そんなこと、言ったっけ?」
『言ったさ』
「思い出せないな」
『あの頃はお互い若かったからな、覚えていなくても仕方がない』
「……いや、思い出したぞ。たしか修学旅行の、二日目の夜だろう。そうだ、そのときだ。君は言ったな。『胸は大きい方がいい』」
『待て、その話は止めろ。それはまずい』
「奥方が聞いたらどう思うかな?」
『そっちがその気ならこっちにだってあるぞ。お前は『教養のある女性が好きだ』と』
「……」
『……』
「お互い、何も言わない方がよさそうだ」
『まったくだ、ってどうしたんだ? すごい声がしているが』
「いや、卵焼きを焦がしたらしい。――分かったよ、今行く! それじゃあ、また」
『ああ、また』
電話を切ると、台所の方から悲鳴が上がった。それに呼応するように、赤子の泣声が響いた。
「ああ、泣くんじゃない。大丈夫、ちょっとばかり焦げただけだ。ゲンジ! 早く来てくれ!」
「わかってる」
まったく、そろそろ卵焼き位作れてもいいんじゃなかろうか。そう思ったものの口には出さない。
そういう不器用なところも嫌いではないのだ。恥ずかしくてとても口には出せないけれど。
ストーリー性が無い。主人公のキャラクターが鼻に着く。構成に面白みがない。そういった感想、お待ちしております。




