31・新しい風が吹くだけ
時は聖暦879年、緑葉の輝く季節。
フィロテラス王国南部、セファリカ大半島にあるフィロテラス山脈の南側を領地とするフェルヴェルフォン伯爵家。
その当主であるライアス=フェルヴェルフォンが急病に倒れ、意識不明の重体に陥ったのは貴族社会を激震させた。元々王都で数々の女性と良好な関係を築き、王家とも繋がりのあった伯爵が病に伏したのは、地方貴族たちに大きな混乱を齎した。
更に驚くべきは、その代理となって領主権を握った人物である。
アイリス=フェルヴェルフォン。
貴族たちの交流に一切姿を見せないため、数々の良からぬ噂が漂う伯爵の妹だった。
______曰く、その体躯は豚のように巨体である。
______曰く、その性格は猫のように傲慢である。
______曰く、その顔面は形容し難い醜さである。
フェルヴェルフォン領や近隣でしか囁かれていなかった、小さな噂の数々はやがて王都まで届いた。
様々な醜聞が飛び交う中、新聞社は一躍王都で有名になったアイリスが最初に行った政策が『ゼベット侯爵領との農作物関税制度再稼働』であることに注目し、これは不当である、爵位が上位の相手に対して不敬ではないか……などと面白可笑しく記事を書いた。
他人の醜聞を聞いて蜜の味を覚える上品な貴族夫人たちや令嬢たちは、アイリス=フェルヴェルフォンに関する悪評を並べ立て、一体どのような世間知らずの傍若無人な人間______いや、豚、なのだろうと噂した。
そんなある時。
一人の公爵令嬢が噂に聞いたアイリスのことを、
『かのアイリスとやらは、私が今読んでいる【白薔薇の王城】という小説に出てくる悪役の令嬢みたいですわね』
と呟いたのが火種となった。
それは人伝に瞬く間に広まり、いつしか王都でのアイリスの渾名は『悪役令嬢』となっていたのだった______
♡♡♡
「……ああああああっ! 私が! 一体! 何したって言うのよぉぉぉおおおお!」
清潔感のある書斎の中、整えられた仕事机に突っ伏して絶叫するのはアイリス=フェルヴェルフォン。そう、今まさに王都で散々な評価を受けているフェルヴェルフォン領主代理である。
彼女の手には、仕事仲間である伯爵子息ウィリアム=ティフェルバーニャから届いた【王都新聞】が握られていた。そこには様々な醜聞が書かれており______ついに、王都にある格式高い新聞社ですらアイリスの敵に回ってしまったのである。
「いや分かるわよ。ゼベット侯爵家にあんな風に強引に迫ったら、そりゃあ私の醜聞も広がるわよ。でもね! 幾ら何でも人様の未来を潰すことだけはやめて欲しかったわ……」
アイリスの目的は『転生後の世界で恋をすること』だ。しかし元々のポテンシャルが最悪な為、一先ず良からぬ噂の漂ってないであろう王都に出会いを求めようとした矢先にこれだ。
無論、気分は最悪である。
「……でも頑張らないと。色々あったし」
さて、時系列順に説明しよう。
ライアスと『子兎の城』でディナーをしたとき、アイリスが領主代理となってゼベットと交渉をすること、ライアスは重病の振りをして屋敷に引き篭もることが決定した。
シシアや身近な使用人たち以外には打ち明けず、極秘裏に行われた計画は難なく成功。アイリスが領主代理の権限を任される際、近隣の領から疑問を唱える通達が届いたものの、全て封殺した。
その後、数日してから突如ゼベットへ一方的な『関税再設定』の通知を叩きつけ、向こうが混乱している隙に不法商店の取り締まりを強行。
もちろん領主代理であるアイリスの元に、ゼベット侯爵やあちら側の商会などから苦情の手紙が相次いだが、全て暖炉に放り込んで完全無視の姿勢をとった(夏なので火は灯してないが)。
もののついでとばかりに、『万能回復薬』の販売会議をしに中央商会へ再び赴くことになったのは、つい1週間前のことだ。
結局、アイリスの作った薬は一定の期間をあけてから王都に輸出することになった。他の薬売店の混乱を避ける為らしい______と、ドネス支部長は言っていたが、果たして何処までが真実なのやら。
兎に角、存在自体が胡散臭いのである。
それからと言うものの、アイリスは領主代理として辺境の見回りを行ったりしつつ、きちんとハリボテではあるが仕事はしていた。因みに書類などは、実際は全然元気なライアスが全て片付けていてくれるため______まぁ、所謂名誉職というわけだ。負担は少ないのである。
外に出る用事がなければ限りなく暇なアイリスは、机の上でだらけた姿勢のまま呟いていた。
「はぁ……そろそろゼベットに送り込んだ間者から情報が来るはずなんだけど……まだかしら」
アイリスは数日前、領内にある酒場に身分を隠して潜り込み、数人の少年少女をスカウトしてゼベットに送り込んだのである。
『間者』、とは言うものの、実際はゼベットで暮らしてもらい領内の雰囲気や動きを見てもらうだけの簡単な仕事だ。しかも全員がスラム出身の貧しい子供たちなので、どう足掻いても重要な書類などを盗むことは出来ないのである。
しかし。
彼らには定期的に報告に来るように伝えていたはずだったが、数日前から連絡がない。少し心配になったアイリスは、ルカに命じて子供たちの行方を探るように命令していた。
さて、何事も無ければいいのだが______
(うーん……流石にルカは戻って来るはずよね。いやでもやっぱり気になるわね……)
手探りの状況で、何の音沙汰もないと言うのは一周回って様々な推測を呼び起こしてしまうのだ。
気分が段々悪くなってきたアイリスは、
(あー……もうダメだ、我慢出来ない。ちょっと散歩しに行こう、そうしよう)
至極単純な思考で、気分転換を決意する。
執務室を出て廊下を軽々しく歩くアイリスの容姿は、領主代理を引き受けてからみるみるうちに痩せていっている。
とは言っても、肩周りや腰、尻などはまだ贅肉が付いているため同年代の貴族令嬢に比べるとどうしても見劣りしてしまうのが難点である。
そして。
以前メイドが『お嬢様って歩くときに轟音が発生しますから、地震が来てもわかりませんわ』という陰口を言っていたのを聞いたアイリスは、それ以降極力足音を出さない軽やかな歩き方を研究していた。
(う、うーん? これは音は出ているのかしら。今まで気付かなかったけれど、意識しても分からないとは私の感覚は狂ってるわね……)
意識しても気付けない歯痒さに奥歯を噛みしめるが、現実は非情である。時々幻聴のように聞こえてくるメイドの話し声が、自分の陰口を言っているような錯覚も覚えてしまうほどに、アイリスの精神は案外ダメージを受けていたのだった。
そんな何の利益にもならないことを考えて歩いていたアイリスは、自室に戻ってクローゼットから外出用の衣裳を取り出す。
選んだのは夏らしくない、足元まで丈あるカジュアルな若葉色のドレスだった。
薄い絹で編まれたドレスは僅かな光沢を放ち、所々に小さな花の意匠が組み込まれているため、一見シンプルにも見えるが貴族としての風格を失わない程に威厳のある珍しい品だ。
そのドレスに腕を通し、化粧台の前に座ったアイリスは髪に手をやる。
最近までは質素なポニーテールにしていたが、やはりアイリスも世間一般の少女と同じく、痩せて来ると御洒落をしてみたくなるものである。
少しウェーブがかった長い金髪を左側に寄せ、頭部の左斜め上で結びサイドテールの形にする。
「おっ、おぉっ……! なんだかそれっぽい感じがするわね。貴族の令嬢になった気分だわぁ……」
無論部屋にはアイリス一人しか居らず、冷静な突っ込みを入れてくれる者がいない為、空虚な独り言は空気に溶けるように消えていった。
「よしっ、よしっと。ぐふふっ、メイクだって見ていれば勝手に覚えるものよ!」
今度は化粧品を弄り、メイドの手を借りずに化粧に挑戦するアイリス。
化粧道具がどのように使われるかは毎朝じっくり被験体となって確認していた為、関心を持ってからアイリスの化粧術はどんどん上達している。
試行錯誤の末に薄い紅を唇に塗り、頰に少しばかりの赤みを施せば仕上がりは完了する。
最後に鏡の前で顔を左右に振り、多面的な見栄えを確認したアイリスは喜ぶのも束の間一気に落胆した。
「……上出来だけれど、素が太すぎてどうにもならないわね。これは本格的に『万能回復薬』使いまくって痩せるしかないかしらねぇ……」
どこか遠い目になった若葉色の少女は、化粧台の両開きの鏡を閉じて部屋を後にする。しばしの間散歩をするだけなので、最低限小さなバッグに小遣い程度の金を入れてエントランスへ向かう。
最近のアイリスの流行りは、メイドの仕事時間を考えて誰も自分の様子を見ない時間にこっそり外に出ることである。
ライアスとの食事の時、道中で誰もアイリスが伯爵家の令嬢だということに気付かなかったため______味を占めて、身分を隠しながら散歩をするのが趣味になってしまったのだ。
加えて言うならば、使用人を伴わずに外出することに一種の恍惚感や背徳感を覚えていると言ったほうが正しいだろう。
本人が気付いているかどうかはさて置き、だ。
さて、今日の使用人達のシフトは確認済み。
丁度誰もエントランスに居ない時間を見計らい、まるで東洋の『忍者』の様に足を忍ばせて玄関へ向かう。
「……よしっ、さぁっ、行くぞ!」
と、勢いよくドアを開き。
外に飛び出した、次の瞬間______
「わぁっ!?」
「きゃあっ!?」
ゴツンッッ!、という鈍い音が響いた。
アイリスは玄関のドアの反対側に立っていた何者かと正面衝突したのである。
その衝撃で、呻き声と共に思わず尻餅をついてしまう。
痛む額を抑えながらも前を見ると、ぶつかった誰かも尻餅をついて同じく額に手を当てているようだ。
未だに眩む視界を二、三度瞬きを繰り返して、半ば強引にハッキリとさせる。
そこでふと、アイリスの視界の端に赤い何かが見えた。慌てて額に当てていた右手を見るが、僅かに血が絡み付いていた。
恐らくぶつかった衝撃で小さな傷ができてしまったのだろう______
「あぁっ、だっ、大丈夫ですか、御嬢さん!?」
焦った様な少年の声がした。
正面衝突した相手は、いつの間にかアイリスの側に駆け寄り背中に手を当てて支えていた。
そこで、デブスな伯爵令嬢はぶつかってしまった相手の姿をようやくはっきりと確認した。
倒れたアイリスを心配げな表情で見つめるのは、同年齢か少し下程度の様な、幼げな印象の少年だった。
太陽が後光の様に射しているため、檸檬色の淡い金髪が輝いており、長い睫毛に縁取られた大きな瞳は透き通る様に美しい『真紅』。
整った鼻筋から続く唇は薄く、何処か儚げな雰囲気を漂わせる少年。
アイリスはその美麗な雰囲気に圧倒され、思わずと言った拍子で小さく呟いていた。
「…………あなた、は」
その言葉を聞いた少年は、小さく微笑みを浮かべながら______甘く優しい声色と共に、耳元で囁いた。
「僕の名は、イザヤ・ラティニア=フィロテラス。……この国の、第二王子です」
まさかの第二王子、登場______
【補足説明】
『真紅』はラーヴァ・ルビエと読みます。
“ラーヴァ”、または“ラヴァ”はフィロテラス語で『王者』の意味です。ルビエはルビーに似た、鮮やかで毒々しい色の宝石の名前です。
フィロテラス王家の人間は、美しい金髪と真紅の瞳が特徴です。先天的にコントロールできない強大な魔力を持つので、如何なる魔術でも偽装は不可能と言われています(余談)。




