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第九話 腐るもの、残るもの

ローデン村に“余り”が生まれてから、五日が経った。


 水路は止まっていない。畑へ回す水も少しずつ増え、見張り台の火も夜ごと灯るようになっていた。干し台には肉が並び、加工小屋の裏では血抜きされた獣肉が縄に吊るされている。以前なら考えられなかった光景だ。


 だが、回り始めたからこそ、新しい問題も増えていた。


「縄そっち引け! 濡れるぞ!」


「もう濡れてる!」


 朝から降り続く雨で、村は泥だらけだった。地面はぬかるみ、荷桶を運ぶだけで足を取られる。湿った木は煙ばかり吐き、加工小屋の周囲には血と煙と獣脂の臭いが混ざっていた。


 その中で、不意にミリアが動きを止める。

「……待って」

 棚の奥へ近づき、干し肉を一つ掴む。指先で押した瞬間、嫌な柔らかさが返った。

 酸っぱい臭いが広がる。

「うわ、なんだこれ……」

 近くにいたカインが顔をしかめた。

「腐ってる」

 ミリアの声は短かった。

 棚の奥には、黒ずみ始めた肉がいくつも残っていた。湿気を吸い、表面がべたついている。

「昨日の奥側か……詰め込みすぎたな」

「風が通ってない」

「ちゃんと干しただろ」

「足りてない」

 雨音の混じる小屋の中で、空気が少し重くなる。誰もすぐには手を出さなかった。


 そこへ、外からクロノが入ってきた。

「どうしたの?」

 濡れた外套を軽く払ったクロノは、臭いに気づいた瞬間、表情を変える。

 棚を見る。

 腐敗は思ったより広がっていた。

(……急がせすぎたね)

 頭の中で、すぐに原因が繋がる。量を増やした。だが、干し台も保存場所もまだ足りていない。雨まで重なった。

 

 クロノは腐った肉を一つ持ち上げ、静かに言った。

「これは捨てよう。食べるのは危ないからね」

「捨てるのかよ……?」

 最初に声を上げたのはカインだった。鼻を押さえたまま、腐った肉を睨んでいる。

「これ、昨日みんなで処理した分だぞ。せっかく増えてきたのに」

「食べて腹を壊したら、もっと面倒だね」

 クロノはそう返しながら、棚の奥の肉を一つずつ確認していく。表面がぬめり始めている物はもう駄目だった。

「……こっちも駄目か」

「まだ食えるんじゃねえのか?」

「君が食べる?」

「いや……それは嫌だけどよ」

 周囲から苦い笑いが漏れる。だが空気は重いままだった。

 ようやく“余る”ようになったのだ。以前なら腐る前に全部腹へ入っていた。だからこそ、捨てるという判断に誰も慣れていない。

 

 クロノは腐った肉を桶へ放り込み、軽く息を吐いた。

「おれの読み違いだね」

 小屋の中が少し静まる。

 ミリアが顔を上げた。

「クロノ様の?」

「加工量を増やすのが早かった。干し台も保存場所も足りてないし、雨まで来た。完全に見積もり不足だったね」

 そう言いながら、クロノは棚の隙間へ手を入れる。湿気が籠もっていた。

「詰め込みすぎだ。風が死んでる」

 ゲルドが鼻を鳴らした。

「だから言った。雨前に増やしすぎだと」

「うん。その通りだね」

 クロノは素直に頷く。

 逆にゲルドの方が黙った。

 カインが苛立ったように頭を掻く。

「でも止めたら減るぞ。商人来る前に数作らねえと」

「腐った物を混ぜて売ったら次から来なくなるよ。おれでも嫌だ」

「……そりゃそうだけど」

「今は量より残る方を優先しよう。せっかく増え始めたのに、ここで崩したくない」


 外では雨音が強くなっていた。湿った風が吹き込み、吊るされた肉がゆっくり揺れる。


 クロノは周囲を見回す。

「今日は加工量を増やさない。干し台と保存場所を見直す」

 すぐに不満が飛ぶ。

「また作業増えるのかよ……」

「雨の中か?」

「面倒だな」

「うん、面倒だね」

 クロノは苦笑した。

「でも、腐らせ続ける方がもっと面倒だね」


 その日の加工は半分で止めた。


 止まったのではなく、止めざるを得なかった。干し台の空きを作るため、残った肉は先に血抜きだけ済ませて布を掛ける。小屋の外では雨が泥を叩き、桶を運ぶたびに地面がぬかるんだ。


「滑る! おい押せ!」

「押してる!」

「そっち持ち上げろって!」

 怒鳴り合いながらも、誰も手は止めない。


 クロノも縄を引きながら干し台の位置を見ていた。今の場所は風が弱い。湿気が溜まりやすい。雨避けの布まで水を吸って重くなっている。


「ハンス、この裏側って風抜ける?」

 声を掛けられたハンスは、濡れた髭を拭いながら空を見た。

「南風なら抜けるじゃろうが、今日は逆じゃな。林側に湿気溜まっておる」

「じゃあ小屋寄りは駄目か」

「雨が続いたら全部腐るじゃろうな」

「それは困るね……」

 クロノは苦笑しつつ、泥を踏み越える。


 後ろではカインが腐った肉の桶を運んでいた。臭いに耐えきれず顔をしかめている。

「くっせぇ……なんで俺がこれ」

「…若いからだろ」

「理由になってねえ!」

 ゲルドの適当な返しに周囲から笑いが漏れた。空気は重いままだが、完全には止まっていない。


 その時、ミリアが小屋から出てくる。板を抱えたまま、寝ていない顔をしていた。

「昨日腐ったの、奥側に寄せた分が多い。あと塩薄いのが混ざってる。……担当は、」

 ミリアが言いかけた所で、クロノが遮った。

「今回は誰が悪いかより、これから同じ事を繰り返さない形をつくろう」

 クロノは板を覗き込み、小さく眉を寄せる。

「……確認、多すぎるね」

「まだ見れてない所もある」

「寝てないでしょ」

「寝る前に腐る」

 即答だった。

 クロノは思わず笑いそうになり、それを堪える。

「返しが強いなあ」

「強くなる」

「いや、そこはならなくていいよ」

 ミリアは少しだけ視線を逸らしたが、すぐまた板へ目を戻した。

 クロノは泥だらけの手で頭を掻く。

「確認役を増やそう。一人で抱える量じゃない」

「でも細かい管理は――」

「君が倒れた方が困る」

 クロノは遮るように言った。

「今の村、止まる時って大体“誰かが抱え込みすぎた時”だからね」


 昼過ぎには、干し台の位置替えが始まっていた。


 雨は弱まらない。濡れた縄は重く、木杭を抜くだけでも泥が絡みつく。村人たちは文句を垂れながら台を引きずっていた。

「おい、そっち沈む!」

「地面が柔らけぇんだよ!」

「だから板敷けって言ったろ!」

 ぬかるみに足を取られたカインが危うく台ごと倒れかけ、周囲から笑いと怒鳴り声が飛ぶ。


 クロノも反対側を支えながら息を吐いた。

「……重いねこれ」

「お前、領主だろ。もっと偉そうに立ってろ」

「残念ながら今はただの荷運び係だね」

「似合ってるぞ!」

「嬉しくないなあ」


 泥だらけのやり取りの横で、ルナが無言のまま木杭を打ち込んでいた。

 湿った地面へ杭を叩き込み、少し傾いた干し台を片手で持ち上げる。近くの男二人が苦戦していた重さを、ほとんど力任せに支えていた。

「……あれ、人いる?」

 クロノがぼそりと呟く。

「龍人と比べんな」

 カインが即座に返した。

 その時、ルナが濡れた布を押さえながらこちらを見る。

「クロノ。そっち、沈む」

「え?」

 次の瞬間、クロノの足元が泥に埋まった。

「うおっ」

 ぐらついた干し台を、ルナが反対側から支える。木が軋み、吊るされた肉が大きく揺れた。

「危な……助かった」

「鈍い」

「最近ちょっと寝不足でね……」

「知ってる」

 短い返事だったが、ルナはそのまま離れず、台が安定するまで支えていた。

 クロノは少しだけ視線を向ける。

 雨に濡れた銀灰色の髪、泥の付いた腕。疲れているはずなのに、ルナは何も言わず動き続けていた。

「……そっちこそ平気?」

「問題ない」

「それ、限界の人も言うやつなんだよね」

 ルナは少し黙る。

「クロノほどではない」

「僕はまだ喋ってる分元気だよ」

「うるさい時は元気」

「ひどくない?」

 小さく笑いが漏れる。

 その空気を横からゲルドが潰した。

「喋る暇あるなら杭打て」

「はいはい」

「返事軽いぞ坊主」

「重くすると疲れるので」

「訳分からん理屈だな……」


 夕方になる頃には、加工小屋の周囲がさらに酷い有様になっていた。

 泥。煙。獣臭。湿った灰。

 濡れた薪は火力が安定せず、燻煙小屋からは白い煙ばかり溢れている。目に染みる臭いに、作業していた老人が咳き込んだ。


「駄目だ、火が弱ぇ……!」

「薪替えろ!」

「乾いたのもう少ねぇぞ!」

 怒鳴り声の中を、グランが鍋を抱えて歩いてくる。

「ほら食え! 倒れたら余計面倒だ!」

 鍋の中身は薄い肉汁に香草を入れた程度のものだったが、冷えた身体にはありがたかった。村人たちは手を止めきれないまま木椀を受け取っていく。

「味うっすー」

「文句あるなら雨水飲め」

「こえーよ料理番」

「今忙しいんだよ!」


 グランは怒鳴り返しながら、燻煙小屋の中を睨んだ。

「煙逃げすぎだな……穴塞ぐか」

「完全に塞ぐと火が死ぬ」

 クロノが椀を持ったまま答える。

「分かってる。だから面倒なんだろうが」

「だねぇ……」

 クロノは熱い汁を飲みながら空を見る。雨は少し弱まったが、湿気は消えない。干し台の布も重く垂れ下がっていた。


 その横で、ミリアがまた板に何か書き込んでいる。

「まだやるの?」

「今書かないと忘れる」

「今日だけで何回それ聞いたかな」

「覚えてない」

「末期だね」


 ミリアは返事の代わりに板をクロノへ向けた。

 腐敗した場所。時間帯。塩の量。担当。風向き。びっしり書き込まれている。

 クロノは少し目を細めた。

「……かなり整理したね」

「おじいちゃんの話も入れた。雨の日は林側が湿る」

「経験則ありがたいなあ」

「ゲルドも追加で言ってた。吊るす間隔狭いって」

「うん、完全にその通りだね」

 クロノは苦笑する。


 村が回り始めてから、こういう事が増えた。

 一人でどうにかするのではなく、知っている人間の言葉を拾って繋ぐ。少しずつ形にしていく。

 その時、外から子供の声が飛んだ。

「布飛ぶぞー!」

「押さえろ押さえろ!」

 老人たちが慌てて走り、濡れた布を掴む。小さな子供まで泥だらけになりながら縄を押さえていた。

 クロノはその様子を見て、小さく息を吐く。

「……休めないね、本当に」

 隣でルナが短く返した。

「止めたら腐る」

「それ、今の村の合言葉みたいになってるなあ……」


 夜になっても、加工小屋の火は消えていなかった。


 湿った薪がぱちぱちと嫌な音を立て、煙が風に押されて管理館の方まで流れてくる。窓の隙間から入り込んだ臭いに、クロノは思わず顔をしかめた。


「うわ、煙い……」

「今日は風向きが悪い」

 机の向かいで、ミリアが板に書き込みながら返す。目の下には薄く疲労が浮いていた。


 管理館の床には泥の足跡が増えている。誰かが出入りするたびに湿った空気まで入ってきて、部屋の中は妙に冷えていた。


 外ではまだ作業音が続いている。


「縄もっと寄越せ!」

「そっち杭浮いてるぞ!」

「子供は下がれ、危ねえ!」


 怒鳴り声に混じって、木槌を打つ音が響く。

 クロノは窓の外を見た。

 以前なら、日が落ちれば終わっていた。だが今は違う。干し台を守る火も、雨避けの布も、水路の確認も止められない。

 残したい物が増えた分だけ、止まれなくなっている。

「……回り始めると、今度は維持で手が足りなくなるんだね」

「増やしたから」

「うん。完全に増やしすぎた」

 クロノは苦笑しながら板へ書き足した。

 ――加工量制限。

 ――確認役分散。

 ――雨天時、干し台間隔拡張。

 書きながら、自分でも少し笑ってしまう。

「問題が増える速度の方が早いなあ」

「順調」

「これ順調って言うの?」

「止まってない」

 ミリアは淡々と言う。

 その返答に、クロノは少しだけ目を丸くした。

「……ああ、なるほど」

 確かにそうだった。


 腐った肉は出た。失敗もした。それでも誰かが火を見て、誰かが縄を結び、水路はまだ流れている。

 止まってはいない。


 その時、管理館の扉が開いた。


 雨の匂いと一緒に、ルナが入ってくる。濡れた髪の先から水滴が落ち、床へ小さな跡を作った。

「干し台、固定した」

「ありがとう。まだ向こうやってたの?」

「子供が縄を結べなかった」

「あー……濡れて滑るのか」

 ルナは頷き、そのまま壁際へ立つ。

 クロノは少し眉を寄せた。

「ちゃんと休んでる?」

「クロノほどではない」

「おれは今のは聞かなかった事にしたい」

 

 ミリアが横から口を挟む。

「昼から椅子座ってない」

「忙しかったからね」

「言い訳」

「厳しいなあ」

 クロノが肩を回した瞬間、背中が小さく鳴った。

 ルナがじっと見る。

「ほら」

「今のは偶然」


「老人みたいな音したぞ」

 外からカインの声まで飛んできた。

「聞こえてんぞ坊主!」

「最悪だなこの村!」

 笑い声が混じる。


 煙臭く、泥だらけで、雨まで降っている。


 それでもローデン村は、文句を言いながらまだ動いていた。

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