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第十話 当たり前を作る


 腐敗騒ぎから、三日。


 ローデン村は――止まらなかった。

 朝の加工小屋には、もう怒鳴り声が響いている。


「そっち詰めるな! また湿気籠もるぞ!」

「分かってるって!」

「昨日もそれ聞いた!」


 雨は止んでいたが、地面はまだ泥を吸っていた。踏み固められた道には板が敷かれ、干し台の周囲だけ少し歩きやすくなっている。以前は一列だった木枠も、今は間隔を空けて並び、吊るされた肉の間を風が抜けていた。

 雨避けの布まで変わっていた。高さが揃えられ、端が少し斜めに落とされている。溜まった雨水を逃がすためだろう。布の下では、子供たちが縄束を抱えて走り回っていた。


「そっちの縄足りねぇ!」

「裏にある!」

「昨日そこに置いたのお前だろ!」

 怒鳴り合いながら、誰も手を止めない。


 クロノは加工小屋の入口で足を止めた。

「……増えてる」

 思わず漏れた声に、板を運んでいたカインが振り返る。

「昨日の夜にな。ゲルド爺が『風が死んでる』ってうるせぇから」

「うるせぇとはなんだ坊主」

 干し台の奥からゲルドの声が飛んだ。

「事実だろ!」

「事実でも言い方ってもんがあるんだよ!」

 そう怒鳴り返しながらも、ゲルドは木杭の固定を続けている。以前より干し台の高さが揃い、台の下には泥避けの石まで置かれていた。

 クロノは周囲を見回す。

 板を敷いたのは、荷車が沈まないように。

 干し台の間隔を広げたのは、湿気を逃がすため。

 雨避けの角度を変えたのは、水が溜まらないように。

 全部、前回の失敗から増えた工夫だった。


「……誰が考えたの?」

 答えたのはゲルドだった。

「ハンスが風向きを見て、わしが台を組み替えて、グランが煙の流れを直した。ついでにカインが板を運ばされた」

「最後だけ雑じゃない?」

「実際雑だったぞ!」

 カインが泥だらけの板を抱えたまま文句を飛ばす。

 その横を、小さな子供が縄束を引きずりながら走っていった。

「おい! 泥ん中落とすな!」

「重いんだよ!」

「だったら二人で持て!」


 以前なら、大人の怒鳴り声が飛べば子供たちは離れていた。だが今は違う。文句を言われながらも、ちゃんと動いている。

 クロノはその光景を見ながら、小さく息を吐いた。

 最初は全員で同じ事をしていた。水汲みも、見張りも、畑も、誰かが呼べば全員動く。だから毎回どこかが足りなくなる。


 だが今は違う。見張りは見張り。加工は加工。畑は畑で動いている。それぞれが自分の仕事を覚え始めていた。


「そういえばゲルドさん、最初は三日で駄目なら戻すって言ってたよね」

 クロノが何気なく言うと、ゲルドは鼻を鳴らした。

「ふん、言ったな」

「もうとっくに過ぎてるけど」

「……今さら元に戻せるか馬鹿」

 周囲から笑いが漏れる。

 カインが肩を揺らした。

「今、全員が水汲み作業に戻ったら終わるぞ」

「前と同じじゃねーか、ってなるね」

「今の方が忙しいけどな!」

「止まると腐るからねぇ」

「その言葉この村で流行りすぎだろ……」

 笑い混じりの声が広がる。


 泥だらけで、怒鳴り声もうるさい。干し台だってまだ歪んでいるし、水路も仮設のままだ。

 それでもローデン村は、もう以前みたいに止まったままではなかった。


 加工小屋の裏側では、朝から燻煙用の火が焚かれていた。


 湿った薪がぱちぱちと嫌な音を立て、白い煙が低く流れていく。以前なら煙に目を細めるだけだった村人たちも、今は火の強さを見ながら勝手に薪を入れ替えていた。

「乾いたの混ぜろ! 湿ったのだけだと煙が重くなる!」

「これ、昨日避けといた分か?」

「そうだ、それを先に使え!」

 グランが怒鳴りながら鍋を掻き回している。その横では、若い男が燻煙小屋の隙間へ板を打ち込んでいた。


 クロノは少し目を丸くする。


「穴、塞ぐのやめたんだね」

「前は煙を逃がさねぇようにしてたからな」

 グランが答える。

「塞ぎすぎると今度は火が死ぬからな。昨日ゲルドと揉めながら直したんだよ」

「揉めたんじゃなくて、お前が勝手に板打ち始めたんだろうが」

「うるせぇな。結果良くなっただろ」


 確かに、以前より煙の流れが安定している。目に刺さるような濃さが減り、肉へ均一に煙が回っていた。

 クロノは小屋の中を見渡すと、吊るされた肉の間隔も変わっている。奥へ詰め込まず、風が抜けるよう少し隙間を作っていた。前なら「もったいない」と言われていた空間だ。


「それ、誰が広げたの?」

「ハンス爺さんだ」

 近くの男が答える。

「『詰め込んで全部腐るよりマシじゃ』って」

「言い方そのままだね……」

 クロノが苦笑する。


 その時、小屋の奥からハンス本人が出てきた。抱えているのは干し草だった。

「風は通せ。じゃが乾きすぎも駄目じゃ。今度は固くなるからの」

「そこら辺は感覚なんだよなあ」

「長くやっとれば分かる」

「反論できないなあ……でも、こういうのを残せるようになるといいね。今までは知ってる人が休んだら終わりだったし」

 クロノは吊るされた干し肉を見ながら続ける。

「でも今は"前に失敗した場所"をみんなが覚えてる。これは大きいよ」

 その横では、カイン達が塩袋を抱えて棚を行き来していた。

「こっちの追加はどこに置く?」

「棚の手前!」

「また場所変わってんじゃねぇか!」

「濡れた手で触る馬鹿がいるから変えたんだよ!」

「誰だよそれ!」

「昨日のお前だ!」

 笑い混じりの怒鳴り声が飛ぶ。


 クロノはそのやり取りを見ながら、小さく息を吐いた。

 以前なら、誰か一人が指示しなければ動かなかった。今は違う。失敗した場所を見つければ、誰かが直し、上手くいった方法があれば、勝手に広がる。

 知識が、少しずつ村へ残り始めていた。


 


 加工小屋の外から鈍い音が響く。


 振り返ると、ルナが木材を抱えたまま立っていた。長い丸太を片側だけ肩へ担ぎ、そのまま運んできている。

「……毎回思うけど、人の持ち方じゃないよねそれ」

「龍人だからな」

 近くで杭を打っていたカインが即答した。


「便利だけど感覚狂うんだよ。昨日もあいつ基準で持ち上げようとして腰やった奴いたし」

「学習してほしいなあ……」

「お前が一番無茶振りしてる時あるだろ」

「否定しづらい」


 クロノが苦笑した瞬間、ルナがこちらへ視線を向ける。


「クロノ。そっち傾いてる」

「え?」

 振り返った直後、干し台の片側が泥へ沈んだ。

「うおっ!?」

 木枠が大きく軋む。吊るされた肉が揺れ、縄が悲鳴みたいな音を立てた。

 その反対側を、ルナが片手で持ち上げる。

「……いや、支え方がおかしいんだよなあ」

「持てばいいだけ」

「その“だけ”が普通じゃないんだって」


 クロノは泥へ埋まりかけた板を慌てて押し込み、台の下へ石を噛ませる。ルナは完全に安定するまで無言で支え続けていた。


 近くで見ていた老人が息を吐く。

「助かるのう、ほんに」

「力仕事だけで三人分あるからなあ」

 別の男も苦笑した。

「最近もう普通に呼ばれてるよな、ルナ」

「そりゃ居ねぇと回らん時あるし」

 以前なら聞こえなかった言葉だった。


 少し前ならルナが近づくだけで親が子を隠していた。そんな空気はまだ完全には消えていない。それでも今は、“居ないと困る側”へ少しずつ変わり始めている。


 その時、小さな子供が縄束を抱えて走ってきた。


「ルナー! これどこ!」

「そっちの杭」

「どっち!?」

 ルナは少し黙り、子供の後ろを指差す。

「……後ろ」

「あっ」

 子供は慌てて向きを変え、また走っていった。


 クロノはその様子を見て、小さく笑う。


「普通に子供の相手するようになったね」

「最近よく捕まる」

「懐かれてるんじゃない?」

「うるさいの増えた」

「嫌?」

 ルナは少し考える。

「……悪くない」

 短い返事だった。だがクロノは、その言葉に少しだけ肩の力を抜く。


 ルナはずっと“外側”の人間だった。龍人族というだけで警戒され、戦えるから利用され、怖がられて終わる事も多かったのだろう。


 でも今のローデン村では違う。


「ルナー! 杭こっち!」

「分かった」

「悪い、そこ押さえてくれ!」

「沈む?」

「めちゃくちゃ沈む!」

 怒鳴り声の中へ、ルナが自然に混ざっていく。特別扱いではない。ただ、そこに居るのが当たり前みたいに。

 クロノはその光景を見ながら、干し台へ手を掛ける。


「……ちゃんと村になってきたなあ」

「まだ泥だらけ」

「うん、そこは否定しない」


 クロノが笑うと、ルナは小さく目を細めた。

 風が吹き抜ける。


 以前より広く空けられた干し台の間で、吊るされた肉がゆっくり揺れていた。


 昼過ぎになる頃には、加工小屋の周囲はまた泥だらけになっていた。


 朝のうちは踏み固められていた道も、荷車が何度も通ればすぐ掘り返される。干し台用の木材を積んだ荷車が、水路脇のぬかるみへ片輪を取られ、大きく傾いた。


「うわっ、またか!」

「止めろ止めろ! 倒れる!」

 若い男たちが慌てて荷台を押さえる。だが車輪は完全に泥へ沈み込み、押すたび嫌な音を立てていた。クロノも駆け寄り、沈んだ車輪を見る。

「……深いなこれ」

「朝より酷ぇぞ!」

 カインが泥だらけの足で悪態をつく。

「板敷いても沈む!」

「水路の水が横へ逃げてるな」

 後ろから来たゲルドが、しゃがみ込んで地面を掴む。湿った土を指先で潰し、眉をしかめた。

「仮設のまま無理やり回してるからこうなる。流れが偏っとる」

「やっぱり水路側か……」

 クロノは小さく息を吐いた。


 今の水路は、あくまで“使えている”だけだ。地面を掘り、板と石で簡単に補強している程度だから、雨が続けばすぐ泥を呼ぶ。

 最近は荷車の往復が明らかに増えていた。干し台用の木材に、保存用の塩袋、燻煙小屋へ運ぶ薪まで、全部同じ細い道を通っている。


「前より運ぶ量増えすぎなんだよなあ……」

 クロノが呟くと、ゲルドが鼻を鳴らした。

「増やしたのはお前だろうが」

「否定できない」

「保存分が回り始めたから余計だ。腐る前に運ばんとならん」

 その間にも、荷車はじわじわ傾いていく。

「おい! そっち沈む!」

「押してるって!」

「板追加しろ!」

「もうねぇよ!」


 怒鳴り声が飛び交う中、ルナが無言で前へ出た。

「どかしていい?」

「え?」

 次の瞬間、ルナは荷台側を持ち上げた。

 木が軋み、沈んでいた車輪が泥から浮く。周囲が一瞬静まり返った。

「……毎回思うけど、その光景慣れねぇな」

 カインが引きつった顔で呟く。

「見てると感覚狂う」

「今のうちに板!」


 クロノが声を飛ばすと、村人たちが慌てて木板を差し込む。泥を掘り、水を逃がし、石を噛ませる。


 以前なら、ここで止まっていた。

 誰かが指示するまで動けなかった。だが今は違う。


「そっち石足りねぇ!」

「裏から持ってこい!」

「水逃がせ! また沈むぞ!」

 文句を言いながらも、手だけは止まらない。

 

 保存が安定し始めた。加工も少しずつ回ってきた。だから今度は、“運ぶ側”が足りなくなっている。改善したから、新しい問題が出る。以前なら生き残るだけで終わっていた村が、今は次の段階へ進み始めていた。ゲルドが泥を踏みながら立ち上がる。


「道を先に触るか」

「やっぱり必要だよね」

「最低限でいい。荷車が沈まん程度にはせんと、そのうち全部止まるぞ」


 クロノは水路脇のぬかるみを見る。


 仮設の水路だけでは、水を逃がし切れない。ぬかるんだ道へ、最近は荷車まで増えた。保存が回り始めた結果、今度は道の方が悲鳴を上げ始めている。


「……一個直すと、次の問題が出るなあ」

「当たり前だ馬鹿。村ってのはそういうもんだ」


 ゲルドはそう言って、泥の付いた靴底を板へ擦りつける。

 クロノは少しだけ笑った。前なら、こんな会話は無かった。問題が起きれば、ただ耐えるだけだった。でも今は違う。止まる前に、次を直そうとしている。


 夕方になる頃には、空を覆っていた雲も少し薄くなっていた。


 加工小屋の前では、最後の干し台調整が続いている。増設された木枠はまだ新しく、縄の張り方にもばらつきがあった。それでも以前みたいに肉を詰め込み過ぎる事はなくなり、干し台の間を風が抜けていく。


 吊るされた肉が、静かに揺れていた。


 クロノは少し離れた場所から、その光景を眺める。

 踏み固めたはずの道も、荷車が通るたび形を崩していく。水路脇にはまだ泥が溜まり、仮設で置いた板も端から歪み始めていた。


 問題なんて山ほど残っている。

 それでも、前より腐臭が薄かった。

「……昨日より、ちゃんと残りそうだね」

 隣へ来たグランが鼻を鳴らす。

「腐らせたらまた面倒だからな」

「完全に村の共通認識になってるなあ、それ」

「止まると腐るんだろ?」

「便利な言葉になってきた」


 クロノが苦笑すると、近くで縄を結んでいたカインが顔を上げた。

「実際止まったら終わるしな。干し台も、水路も、見張りも」

「前は全部その日暮らしだったからね」

「今も余裕ある訳じゃねぇけどな」

「うん。でも、“明日の分”を考えられるようにはなってきた」


 クロノはそう言って、燻煙小屋へ目を向ける。周囲には湿った薪と乾いた薪が分けて積まれ、壁際には新しい保存棚まで増えている。以前は肉を置く場所すら足りなかったのに、今は“残すための場所”が少しずつ増え始めていた。


 以前のローデン村なら、余った食料を腐らせる前に全部食べていた。そもそも、“残す”という発想自体が無かったのだ。


 だが今は違う。残すために動いている。維持するために考えている。失敗したら、次はどう直すかを話している。その変化は、クロノが思っていたよりずっと大きかった。


 その時、水路側からまた怒鳴り声が飛ぶ。


「おい! また車輪沈んだぞ!」

「だから板足りねぇって言っただろ!」

「誰か来い!」

 少し間を置いて、ルナの声が返る。

「行く」

 クロノは思わず笑った。

「完全に呼ばれ役になってるなあ」

「便利だからな、あいつ」

 カインが当然みたいに言う。

 その言葉に、クロノは少しだけ目を細めた。


 最初、ルナは村の外側にいた。怖がられ、遠巻きに見られ、必要以上に近づかれなかった。でも今は違う。誰かが困れば名前を呼ばれる。

 そこに居るのが当たり前みたいに。


 クロノは風に揺れる干し肉を見る。


 干し台の下には泥避けの石が置かれ、水路脇には新しい溝が掘られている。昨日まで沈んでいた場所にも、今は板が渡されていた。全部、小さな改善ばかりだ。けれど、その小さな積み重ねで、ローデン村は少しずつ形を変え始めていた。


「……次は道かな」

 誰に言うでもなく呟く。

 保存が安定すれば、今度は運ぶ必要が出る。

 運べなければ、結局また止まる。

 クロノはぬかるんだ道へ視線を向け、小さく息を吐いた。


「やる事、全然減らないなあ……」

 だが不思議と、前ほど悪い気はしなかった。

 ローデン村はまだ未完成だ。

 泥だらけで、不格好で、問題だらけの辺境村。

 それでも今は、“昨日より良くしよう”と動く人間がいる。


 止まらない限り、きっと前へ進める。


 夕暮れの風が吹き抜け、吊るされた肉がゆっくり揺れた。

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