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第七話 残すための手間


 行商人の荷車が去ってから三日。ローデン村の空気は、ほんの少しだけ変わっていた。


 井戸の前で怒鳴り合う声は減り、水桶を抱えて走る姿も前ほど見かけない。仮設の水路には今日も細く水が流れ、泥だらけだった道も少しだけ踏み固められてきている。


 それでも、村が楽になったわけではなかった。


 昼前の管理館裏には、生臭い匂いが重く漂っている。湿った風に乗って流れてくるのは、解体途中の魔物素材の臭いだった。


 小屋の中には、剥ぎかけの毛皮や切り分け途中の骨、血抜きした肉が雑に積まれている。まだ処理しきれていない部位には蠅が集り、湿気を吸った木床には赤黒い血が広がっていた。


「……早いな」

 クロノが小さく呟く。


 隣では、ミリアが鼻を押さえながら板を確認していた。

「昨日の分、まだ終わってない」

「人が足りない?」

「足りないというより、回ってない」


 小屋の奥では、村人たちが嫌そうな顔で肉を切り分けていた。刃が骨を擦る嫌な音に混じって、苛立った声が飛ぶ。

「うわ、臭っ……」

「血抜き甘いんだよ」

「分かってるって!」

「分かってねえから腐るんだろ!」


 怒鳴り声のあと、水桶へ肉を放り込む鈍い音が響いた。

 クロノはしばらく黙って、その様子を見ていた。

 魔物を倒して終わりではない。持ち帰り、血を抜き、切り分け、干し、残す。そこまで回せなければ、結局は腐る。

 腐れば終わりだ。


「……明日には駄目になるね」

 クロノが言うと、ミリアが頷いた。

「特に内臓周り。もう危ない」

 その時、小屋の奥からカインが顔を出した。腕まくりした布には血が飛び、乾きかけた脂がべったり付いている。


「おいクロノ様よ。これマジで全部やんのか?」

「そのつもりだけど」

「見張り終わってから解体とか無理だぞ。手ぇ臭ぇし腹減るし」

「分かるよ」

「分かるなら減らせって……」

 ぼやきながら、カインは肉の入った桶を乱暴に地面へ置いた。赤黒い水が少し跳ね、湿った土へ染み込んでいく。


 クロノは小屋の中を見回す。


 作業が遅いわけじゃない。むしろ皆、限界近くまで動いていた。問題は、全部を同時にやろうとしていることだった。

 水路。見張り。畑。修繕。解体。保存。どれも必要だ。だから逆に、全部が中途半端になる。


 クロノは積まれた毛皮を指先で持ち上げた。まだ湿っている。このまま放置すれば、臭いが回る。

「……使い方を変えるしかないね」

 ミリアが視線を上げる。

「また組み替える?」

「少しだけ」

 クロノは毛皮を戻した。

「仕事を増やすんじゃない。残る形に回したい」

 小屋の外では、風に揺れた干し布がぱたぱたと鳴っていた。


 昼を少し過ぎる頃には、管理館裏の臭いが村の中央近くまで流れていた。湿った血と脂の臭いが夏前の生ぬるい風に混じり、鼻の奥へ張り付く。


 管理館の前には、呼ばれた村人たちが重そうな顔で集まっていた。


「また集まりかよ……」

「今日は休めると思ったんだけどな」

「無理だろ。あの臭いだぞ」

 ぼやきながらも、誰も帰ろうとはしない。


 視線の先では、解体途中の魔物肉に布が掛けられている。だが臭いは隠しきれず、近くを通るだけで腐りかけの気配が分かった。蠅も増えてきているのか、ぶんぶんという羽音が耳につく。


 カインが桶を地面へ下ろした。どさり、と鈍い音が鳴る。

「これ以上仕事増やしたら回んねぇぞ」

 額の汗を腕で拭いながら、露骨に嫌そうな顔をする。

「水路見て、見張りして、次は解体だろ? 寝る時間なくなる」

「もうなってる」

 後ろの男が低く返した。

 笑いは起きない。

 皆、疲れていた。


 村の空気は少し良くなった。怒鳴り合いは減り、水運びも前より回っている。

 それでも、やること自体が減ったわけじゃない。

 クロノは集まった顔をゆっくり見回した。泥の付いた靴、日に焼けた腕、乾ききっていない汗。誰も余裕なんて持っていない。


「また仕事を増やすのか」

 ゲルドが低い声で言った。

「水路作ったと思えば見張りだ。今度は肉か」

 その言葉に、何人かが無言で頷く。不満というより、疲労だった。

 クロノは少し考えてから口を開く。

「増やしたくはないね」

「ならどうする」

「入れ替える」

 村人たちの顔が曇る。

 分かりにくい説明をされた時の顔だった。

 カインが露骨に眉を寄せる。

「……つまり?」

「優先度の低い作業を少し減らす」

「どれを」

「全部少しずつ」

「それ一番揉めるやつだろ……」

 カインが頭を抱え、後ろで誰かが「そりゃそうだ」と呟いた。

 クロノは小さく息を吐く。

「全部必要なのは分かってる。でも、このままだと腐る」

 管理館横に積まれた素材へ視線を向けた。布を被せていても臭いは隠しきれず、蠅の羽音がぶんぶんと耳につく。


「せっかく持ち帰っても、駄目になったら意味がない」

「だからってよ」

 カインが地面を軽く蹴った。乾きかけた泥が崩れ、靴裏に張り付く。


「解体ばっかやってたら、今度は水路が止まるぞ」

「見張り減らしゃ魔物来るしな」

 後ろから別の男が口を挟む。

「畑だって放っとけねえよ。今サボったら後で詰む」

 誰かが鬱陶しそうに顔の前の蠅を払った。


 次々に文句は出る。全部正しい。全部必要だ。

 だから誰も強く否定できない。


 クロノはしばらく黙っていた。村人の言葉を無理に止めない。少し前なら、もっと早く怒鳴り合いになっていたはずだ。今は不満を言いながらでも、まだ話が続いている。


 やがて声が少し落ち着いた頃、クロノは静かに言った。

「だから、“残るもの”を優先したい」

 ゲルドが目を細める。

「残るもの?」

「肉も、毛皮も、脂も。今しか残せない」

 クロノは積まれた素材を見る。

「水路は、今日半日止まっても残る。でも肉は待ってくれない」

 

 湿った風が吹き、また蠅の羽音が耳元を掠めた。

 村人たちはまだ納得していない。それでも、話は聞いていた。


「……残したところで、冬を越せん時は越せん」

 ゲルドが低く言った。


 周囲の空気が少し止まる。

 老人は積まれた毛皮を見たまま、続けた。

「昔もやった。干し肉も作った。薬草も集めた。だが冬が長けりゃ終わりだ」

 乾いた指で、自分の腕を掻く。

「備えても死ぬ時は死ぬ。辺境はそういう場所だ」

 

 誰も反論しなかった。村の年長者ほど、その言葉を知っている。蓄えが尽きた冬。雪で閉ざされた道。病人。魔物。春まで持たなかった家族。

 ローデン村では、珍しい話じゃない。

 カインが小さく息を吐く。

「……まあ、分からなくはねえよ」

 強く否定できない声音だった。


 クロノはしばらく黙っていた。

 無理に言い返す言葉を探さない。ゲルドの言葉は間違っていないからだ。

「死なないとは言えない」

 やがてクロノが言う。

 老人の目が向く。

「でも、何もしなければもっと早い」

「……若いな」

「そうかもね」

 クロノは苦笑した。


「でも、何も残らない方が嫌なんだ」

 ゲルドは鼻を鳴らした。

「綺麗事だ」

「うん。綺麗じゃないよ」


 クロノは積まれた肉へ視線を向ける。血の臭いに混じって、湿った毛皮の臭気が鼻についた。蠅も増えてきている。このまま放っておけば、明日には腐臭が回る。


「だから、こうして手を汚してる」

 静かな声だった。

 カインが桶の中を覗き込み、嫌そうに顔をしかめた。血抜き途中の水は赤黒く濁り、脂が浮いている。

「実際かなり汚れてるしな……」

「臭ぇし」

「お前さっきからそればっかだな」

 後ろで誰かが笑う。小さい笑いだった。

 張っていた空気が少しだけ緩む。


 ゲルドはその様子を見ていた。

 少し前の村なら、こうはならなかった。疲れていれば怒鳴り合いになって終わりだ。今はまだ、不満を言いながらも立っている。


「……やり方が違うだけか」

 ゲルドがぽつりと言う。

「昔は、動ける奴が全部抱え込んだ」

 視線がクロノへ向く。

「お前は、回そうとしてる」

 クロノは否定しなかった。

「全部一人じゃ無理だからね」

「当たり前だ」

 ゲルドは吐き捨てるように言った。だが、その声には最初ほどの硬さはなかった。


 しばらくして、老人はゆっくり腰を上げる。

「干し方くらいは見てやる」

 カインが目を丸くした。

「お、やるのかよ」

「黙れ小僧。お前よりは手が動く」

「それはねえだろ」

 ぼやくカインの横を通り過ぎ、ゲルドは小屋へ向かう。


 湿った風が吹き込み、生臭さがまた鼻についた。それでも、今度は誰も顔を背けなかった。

 

 作業が始まると、管理館裏の空気は一気に重くなった。

 湿った土に血が落ちる。桶に水を汲む音。刃が骨に当たる鈍い感触。生臭さに混じって、焚き火の煙がゆっくり流れていく。


「おい、そっち皮傷つけんな!」

「分かってるって!」

「分かってねえ切り方してるだろうが!」

 ゲルドの怒鳴り声が飛ぶ。

 その横では、若い村人が慣れない手つきで毛皮を剥いでいた。力の入れ方が雑で、短刀の先が何度も皮を引っかける。

「貸せ」

 見かねたゲルドが短刀をひったくった。


 年寄りの手とは思えない動きだった。刃を滑らせる角度が浅い。皮を裂かず、肉だけを切り離していく。


「……おぉ」

「昔はもっとやった」

 ゲルドは顔も上げない。

「冬前は毎日血の臭いだったぞ」

 その言葉に、近くの村人たちが少し黙る。


 クロノはその様子を見ながら、干し台代わりに組んだ木枠を確認していた。縄の張り方は粗い。木も湿っている。それでも地面に積むよりはずっとマシだった。


「クロノ様、これをどこまで干すんだ?」

 カインが肉を持ち上げながら聞く。腕には血と脂がべったり付いていた。


「風通るくらい。重ねないで」

「簡単に言うなよ……」

 ぼやきながらも、カインは肉を縄へ掛けていく。赤黒い雫がぽたりと落ち、下の土を濡らした。


 少し離れた場所では、グランが鍋を覗き込んでいる。

「脂、捨てんなよ!」

 大声が飛んだ。

「焦がさず煮れば使える!」

「これ食えんのか?」

「工夫すりゃマシになる!」

 相変わらず豪華な飯には程遠い。それでも、ただ腐らせるよりは良かった。


 ルナは少し離れた木陰で、その光景を見ていた。

 自分が狩った魔物が切り分けられ、干され、壺に詰められていく。肉だけじゃない。骨も、皮も、脂も捨てない。

 昔なら食える分だけ食って終わりだった。残りは腐る。

 魔物の臭いを嫌って、早く離れることの方が多い。

「……面倒だな」

 ぽつりと呟く。

 クロノが振り向いた。

「そうだね」

「狩る方が早い」

「その日の分だけなら」

 クロノは縄に掛けた肉を指で離した。張り付いていた面が剥がれ、湿った音がする。

「でも、残らない」

 ルナはしばらく黙っていた。


 風が吹き、吊るされた肉が揺れる。血の臭いはまだ濃い。手も汚れる。疲れる。それでも、誰も途中で投げ出していなかった。


 ミリアは板を片手に歩き回り、作業量を確認している。

「そっち干し過ぎ。硬くなる」

「どっちだよ」

「だからそこ」

「分かりづれぇ!」

「見れば分かる」

「分かんねえから聞いてんだろ……」

 言い合いは増えているが、手は止まらない。少し前のローデン村なら、途中で投げていた。臭いだ、疲れただと文句だけ残って終わっていたはずだ。

 今は違う。不満を言いながらでも、人が動いている。

 クロノは小さく息を吐いた。

 上手く回っているわけじゃない。失敗も多い。肉の切り方も雑だし、保存方法もまだ粗い。それでも、“残そうとしている”。そこが、前とは違っていた。


 日が傾く頃には、管理館裏の空気は血と煙の臭いで重くなっていた。

 焚き火の火は弱く揺れ、干し台には切り分けられた肉が並んでいる。厚さはばらばらで、切り口も雑だったが、とりあえず地面には置かれていない。縄から落ちた血が土へ染み込み、黒っぽい跡を作っていた。


「……腰いてぇ」

 カインがその場にしゃがみ込み、腕をぶらぶら振る。服にも腕にも脂がこびり付いていて、乾きかけた血が布を固くしていた。

「見張りより疲れるぞこれ」

「お前、見張り中かなり座ってるだろ」

「座ってねえよ」

「見た」

「……ちっ」

 小さい笑いが漏れる。


 近くでは、グランが鍋を覗き込みながら木杓子で脂をかき混ぜていた。火加減を間違えたのか、焦げ臭さが少し混じる。

「おい! 焦がすなよ!」

「分かってる!」

「その臭いは分かってねぇ!」

 怒鳴り声は飛ぶが、前みたいな刺々しさは薄かった。疲れてはいる。それでも、誰も手を止めていない。


 クロノは干し台を見上げた。夕方の風で肉が小さく揺れ、まだ抜け切っていない生臭さが漂ってくる。保存としては粗い。数日持てば良い方だろう。それでも、腐ってはいない。

 今日狩ったものが、明日に残る。

「……これが“残す”ってやつか」

 カインが干し肉を見ながら呟いた。

「そんな感じだね」

「地味だな」

「うん」

 クロノが頷くと、カインは疲れた顔のまま鼻を鳴らした。

「もっとこう、一気に楽になるもんかと思ってた」

「おれも欲しいよ、それ」

「無ぇのかよ」


 思わず吹き出したカインに釣られて、後ろでも何人かが笑う。

 明日になれば、また水を運ぶ。見張りもあるし、畑だって放っておけない。冬の不安も消えてはいなかった。

 それでも今日は、腐らせずに残った肉がある。干し台に揺れるそれを見ていると、“無駄じゃなかった”と思えた。


 少し離れた場所では、誰かが縄を張り直し、別の誰かが木箱を運んでいる。鍋番をしていた男は吹きこぼれそうになった脂へ慌てて木杓子を突っ込んだ。


 文句も怒鳴り声もある。それでも、不思議と崩れていなかった。


 ルナはその光景を黙って見ていた。


 少し前までのローデン村は、その日を越えるだけで精一杯だった。疲れ切った顔で水を運び、何かを残す前に力尽きていた。今も余裕があるわけじゃない。

 干し肉だって粗いし、保存法もまだ不完全だ。臭いも強い。

 だが、人は動いていた。残すために。

「……変な村だな」

 ぽつりと漏らす。

 クロノが隣へ来た。

「そうかもね」


 風が吹き、吊るされた肉が揺れる。血と煙の臭いはまだ消えない。


 それでもルナは、前よりその臭いを嫌だと思わなかった。

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