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第六話 辺境に来た荷車

 朝の空気はまだ冷たかった。


 ローデン村では、夜明け前から火が起こされる。辺境の朝は早い。日が昇ってから動けば、水も仕事も足りなくなるからだ。


 管理館の裏では、大鍋から薄く湯気が立っていた。

 薪の爆ぜる音。湿った土の匂い。煙に混ざる、薄い肉の香り。


「おい、そっちの水入れすぎるな」

 鍋をかき回しながら、グランが顔をしかめた。

「これ以上薄めたら味が死ぬ」

「最初から薄いだろ」

 薪を抱えてきたカインが言う。

「うるせぇ。食えるだけと、ちゃんと食えるは違うんだよ」

 グランは木杓子で鍋を混ぜる。

 中に入っているのは、細かく裂いた干し肉と芋、それに森で摘んだ香草だった。

 豪華とは程遠いが、少し前までの、“腹に入れるだけの飯”よりはマシになっている。


 最近、グランは香草を試すようになっていた。

「その草、本当に食えんのか?」

「昨日も食っただろ」

「草の味がした」

「香草だからな」

 グランが呆れたように返すと、近くで水桶を運んでいた女たちから小さな笑いが漏れた。


 以前のローデン村では、朝からこんな声はあまり聞こえなかった。

 皆、水を確保するだけで精一杯だったのだ。

 村の中央では、何人かが桶を並べている。仮設水路から引いた水を樽へ移し替えていた。以前のように、井戸の前で怒鳴り合うことは減った。

 減っただけで、無くなったわけではない。

「おい、それうちの桶だぞ!」

「昨日お前んとこ二回運んだろうが!」

「知らねぇよ!」

 結局揉めている。

 だがその横で、年配の女が呆れたように言った。

「騒ぐ前に運ぶ。水が逃げるよ」

 男たちは顔を見合わせ、ぶつぶつ言いながら桶を持っていく。


 クロノはその様子を管理館前から見ていた。

「……前よりマシ、かな」

 隣で板を持っていたミリアが頷く。

「かなり」

 板には、水運びの時間や見張り交代の記録が書かれていた。

 この村に、字を書ける者は少ない。だから今は、ミリアがまとめている。

「朝の水運び、昨日より短い」

「どのくらい?」

「三割くらい」

「すごいな」

「その代わり、水路側の泥処理が増えた」

「そっちは改善が必要だね」

 ミリアは頷き、板へ何かを書き足した。


 管理館の壁には、作業分担、見張り順、水路補修の記録が並んでいる。粗い。抜けも多い。

 それでも、“昨日の失敗を残せる”だけで違った。


 管理館横の倉庫では、ゲルドが麦袋を確認していた。

 袋は少ない。とても冬を越えられる量ではない。

「去年よりマシだがな」

 ゲルドが袋を軽く叩く。

「去年は干ばつ、その前は魔物だ。畑も随分死んだ」

「税はどうしてたの?」

 クロノが聞く。

「払える分だけ払ったさ」

 ゲルドは鼻を鳴らした。

「辺境伯家も、死人からは取れんだろ」

 それが辺境だった。金貨など、村人の多くは滅多に見ない。


 普段の生活は、自分たちで育てた物と、たまに来る行商人との物々交換で回っている。だから針一本、縄一本でも価値が違った。


 その時だった。


 村外れの見張りをしていた男が、鉄鍋を木槌で叩く。

 ガン、と乾いた音が朝の空気へ響いた。


 以前なら、魔物が出てから慌てていた。今は違う。

 鍋の音が鳴ると、近くの男たちが自然に顔を上げる。

 確認の合図だ。

 まだ不完全。それでも、“備える”形が少しずつでき始めていた。


 ルナは黙って薪を運んでいた。

 大人一人では持てない量を軽々と抱えている。子供たちが少し離れて後ろをついていく。

「ルナ姉ちゃん、それ重くないの?」

「軽い」

「うっそだー」

「本当」

 短いやり取りだった。

 だが、もう子供たちはルナを見て泣かなかった。

 カインがその様子を見て笑う。

「完全に村の力持ちだな」

「違う」

「否定早ぇな」

 小さな笑いが起きる。


 


 見張り台代わりの高台にいた男が、目を細めた。


「……おい」


 村の外道を見る。

 朝靄の向こう。何かが揺れながら近づいてきていた。

 やがて、古い車輪の軋む音が聞こえる。

 ぎぃ、ぎぃ、と。

 カインが目を細めた。

「荷車か?」

 軋んだ音は、少しずつ近づいてきた。


 ぎぃ、ぎぃ、と古い車輪が悲鳴を上げている。


 村人たちも自然と作業の手を止め、村の入口へ視線を向けていた。

「行商か?」

「この時期に?」

「道、まだぬかるんでるぞ」

 ざわつきが広がる。

 

 ローデン村に外から人が来ること自体、珍しかった。

 最近は水不足と魔物騒ぎで、寄る商人も減っていたのだ。

 やがて、荷車が朝靄を抜けて姿を見せる。

 馬は痩せていた。毛並みも悪く、泥道を踏むたび疲れたように鼻を鳴らしている。

 幌は継ぎ接ぎだらけで、布の色も揃っていない。車輪には泥がこびりつき、片側は少し歪んでいた。


「よく来たな、あれで……」

 カインが呟く。

「途中で折れてもおかしくねぇぞ」

「この辺の道、長く放置されてたからね」

 クロノも荷車を見る。だが、荷の積み方だけは妙に丁寧だった。縄の結び方に無駄がない。重さも偏らないよう積まれている。雑に扱っていないのが分かった。


 荷車が村の入口で止まる。馬が荒く息を吐いた。

 荷車が止まると、御者が降りてきた。

 無口そうな男だった。腰に短剣を提げ、まず馬の口元を確認する。

 それから荷台へ手を掛け、緩みかけていた縄を締め直した。村人たちへ視線は向けるが、余計な言葉はない。


「この御者は護衛も兼ねておりまして、辺境の道は、あまり穏やかではございませんので」

 荷台から、ゆっくり降りてきた中年の男が村人達に伝える。

 日に焼けた顔。擦り切れた外套。だが、荷紐へ向ける手つきは慎重だった。


 中年の男はまず、村を見回した。

 仮設水路。桶を運ぶ村人。管理館前の板。鍋の湯気。 見張り台代わりの高台。

 視線が、細かく動く。


「……これは驚きましたな」

 男がぽつりと言った。

「ローデン村に、まだこれだけ人が残っておりましたか」

「失礼だな」

 カインが顔をしかめる。

 だが男は困ったように笑った。

「いえ、申し訳ない。本音でございました」

 その目はまだ村を見ていた。

 水路の流れ。泥の量。村人の動き。

 まるで値踏みするように。


「前に来た時より、水の流れがございますな」

 クロノは少しだけ目を細めた。

「前にも来たことが?」

「ええ。かなり前ですが」

 男は頷く。


「その頃は、水桶を持って怒鳴り合っておりました」

「……否定できねぇな」

 カインが頭を掻く。

 周囲から苦笑が漏れた。

 

 男はそこでようやくクロノへ視線を向けた。

「失礼。私は行商人のトマスと申します」

 丁寧に頭を下げる。

「辺境伯領南側を回っております」

 クロノも軽く頷いた。

「クロノ・ヴァルディオスだ。この村を預かってる」


 その瞬間、トマスの目がわずかに動いた。

 ほんの一瞬だけだ。

 だが、“ヴァルディオス”の名に反応したのは分かった。

「これはこれは……」


 トマスはすぐ柔らかく笑う。


「若い領主様とは聞いておりましたが、ここまでとは」

「領主ってほど立派じゃないよ」

「村を回しておられるなら、十分立派でございます」

 その言葉も柔らかい。

 だがトマスの目は、管理館の板へ向いていた。

 書かれた見張り順。水路補修。運搬記録。

 読んでいる。


 クロノはそれに気づいたが、特に何も言わなかった。

「今日は何を?」

「塩、針、油、布、簡単な薬。それと少しばかり鉄具を」

 “塩”という言葉に、空気が少し変わる。

 グランが鍋の前から顔を上げた。

「塩あんのか」

「ええ。ただ、辺境まで運んでおりますので、お安くはありません」

「だろうな」


 グランは腕を組んだ。塩は味だけではない。保存に使える。つまり冬へ繋がる。

 トマスは今度は村人たちを見る。

「買い取りもしております。毛皮、薬草、干し肉、魔石……売れる物があればですが」

 その言葉に、村人たちは顔を見合わせた。

 今までなら、“売る物”などほとんど無かった。食うだけで精一杯だったからだ。だが今は違う。小屋には、まだ処理しきれていない魔物素材が残っている。


 クロノは小さく頷いた。

「なら、見てもらいたい物があるんだ」

 トマスは柔らかく笑った。

「ぜひ、拝見させていただければ」

 

 魔物素材を置いている小屋は、村の端に急ごしらえで建てられていた。古い板材を打ち付けただけの簡素な造りで、隙間風も入る。それでも、以前のように魔物の死体を外へ転がしていた頃よりは遥かにマシだった。

 扉を開けた瞬間、獣臭さが流れ出る。乾き切っていない血の匂い。脂の重い臭気。湿った毛皮の匂い。

 トマスがわずかに眉を動かした。

「……これはまた、辺境らしい空気でございますな」

「まだ試行錯誤中だね」

 クロノが苦笑する。

 

 小屋の中には、狼系魔物の毛皮、牙、骨が並べられていた。

 ただ積み上げるだけではなく、一応部位ごとには分けられている。以前ならそこまで手が回っていなかっただろう。

 トマスはしゃがみ込み、毛皮を持ち上げた。

 指先で裏側を触る。毛並みを見る。血の残り方を確認する。その動きは慣れていた。

「数は多くありませんが、毛皮自体は悪くございません」

「売れるのか?」

 カインが身を乗り出す。

「ええ。ただ、この脂と血はもう少し落とした方がよろしいですな」

 トマスは毛皮を裏返して見せた。

「このままですと臭いが残ります。腐りも早い」

「面倒くせぇな……」

「手間が掛かるから値が付くのでございます」

 トマスは穏やかに返した。

 カインが顔をしかめる。その横で、ミリアは板を持ったまま口を開いた。


「どのくらい変わる?」

「状態次第ですが、倍近く変わることもございます」

 村人たちがざわつく。

「倍ぃ?」

「そんな違うのかよ」

 トマスは頷いた。

「加工屋も、余計な仕事は減らしたいので」


 ミリアはすぐ板へ書き込んでいく。

 血抜き。脂落とし。乾燥。


 クロノはその様子を見て、小さく笑った。

(完全に実務役だね)

 トマスは次に牙を持ち上げる。

「こちらは悪くございません。まとめれば細工屋へ流せます」

「骨は?」

「正直、お安いですな。ただ、煮て油を抜けば多少は」

 その言葉に、グランが反応した。

「油抜くのか」

「臭い消しでございます。虫も寄りにくくなります」

「……なるほどな」

 グランは腕を組み、骨を睨み始める。料理人というより、保存係の顔だった。

 

 トマスはそんなグランをちらりと見た。

「食料担当で?」

「まあそんなとこだ」

「塩が入れば、多少変わりそうですな」

「多少な」

 グランは鼻を鳴らす。

「大した量は無ぇよ。けど腐る前に残せりゃ違う」

 トマスは小さく頷いた。その視線が、一瞬だけ小屋全体を見回す。

 素材の置き方。分け方。管理の仕方。

 確認しているようだった。

「以前より、随分整理されておりますな」

「前はもっと酷かったよ」

 クロノが言う。

「倒して終わりだった」

「でしょうな」

 トマスは苦笑した。

「辺境では珍しくありません」


 ルナは少し離れた場所で、その会話を聞いていた。

 自分が倒した魔物。今までは、食うか捨てるかだった。

 余れば干す。それだけ。

 ルナは毛皮を見る。


「……変な感じだな」

 小さく呟く。

 クロノが隣へ来た。

「何が?」

「魔物が、塩とか縄になる」

 クロノは少し考える。

「村の外へ出て、別の物になって戻ってくるんだろうね」

 ルナは黙る。

 まだ実感しきれていない顔だった。

 

 その時、小屋の入口から子供が顔を出した。

「ルナ姉ちゃん」

 ルナが振り向く。

 子供は床へ落ちていた牙を拾い、恐る恐る差し出した。

「これ、落ちた」

 ルナは少し目を丸くしたあと、静かに受け取る。

「……ありがとう」

 子供は照れたように笑い、すぐ母親の後ろへ逃げていった。

 

 その様子を見ていたカインがにやりと笑う。

「完全に村の姉ちゃんだな」

「違う」

「否定早ぇよ」

 小さな笑いが起きる。

 

 龍人族は辺境でも珍しい。普通なら、もっと空気が荒れる。だが、この村では違う。

 その光景を見ていたトマスは何も言わなかったが、少しだけ目を細めた。


 交渉は、管理館の前で始まった。

 古い机を外へ運び、その上へ板を並べる。

 ミリアが記録板を置き、トマスが荷車から品を下ろしていった。

 粗塩の袋。小瓶に分けられた油。布に包まれた針。縄。古い鉄具。

 町なら珍しくもない品だ。

 だがローデン村では、どれも不足していた。


「……塩だ」

 誰かがぽつりと呟く。

 村人たちの視線が自然と袋へ集まっていた。

 綺麗な白ではない。茶色が混じった粗塩だ。


 それでも、空気が変わる。

 グランが袋の前へしゃがみ込む。指先で少し摘まみ、舌へ乗せる。それから小さく息を吐いた。

「ちゃんと塩だな……」

「偽物を売っていては、次がございませんので」

 トマスが柔らかく笑う。

「辺境では特に」

 グランは袋を軽く叩いた。

「これで少しは保つか」

「干し肉か?」

 カインが聞く。

「他に何がある」

「いや、なんか急に職人みてぇな顔してんなと思って」

「うるせぇわ」

 グランは睨む。だがその視線は、また塩袋へ戻っていた。


 今までは、肉は腐る前に食うしかなかった。

 干しても臭くなる。虫も湧く。だから保存できる量は少なかった。

 クロノはその様子を見ながら思う。

 “残せる”というだけで、冬の景色は変わる。

 ミリアはその横で、淡々と品を書き込んでいた。

「塩が予定より少し多い」

「少し色を付けさせていただきました」

 トマスが言う。

「毛皮の状態が、思ったより悪くありませんでしたので」

 ミリアは顔を上げる。

「もっと上がる?」

「血と脂を落とし、乾燥を安定させれば」


「やることが増えたな……」

 カインが顔をしかめた。

「面倒なら捨てればよろしいかと」

 トマスが穏やかに返す。

「うっ」

「ただ、その場合は塩も縄も減りますな」

「……やる」

 周囲から笑いが漏れた。

 トマスも小さく笑う。

 だがその目は、村人たちの反応を静かに見ていた。


 前に来た時のローデン村なら、もっと空気が荒れていた。

 誰かが怒鳴り、揉め、行商人の値段を疑う。そんな村だった。

 だが今は違う。貧しい。余裕もない。それでも、“話が通る”。

 管理館前の板へ、トマスの視線が向く。

 水路補修。見張り順。運搬記録。

 粗いが、回そうとしている形がある。


「針……まだあったんだねぇ」

 年配の女が、恐る恐る包みを覗く。

 細い鉄針。それだけだ。

 それだけなのに、まるで壊れ物みたいに扱っている。

「折れた針、削って使ってたからなぁ」

「指ばっか刺すんだよねぇ」

 女たちが苦笑する。


 トマスは静かに言った。

「辺境へ針を持ってくる商人は減っております。鉄が高くなっておりますので」


「それでも持ってきてくれたんだ」

 クロノが言う。

 トマスは少しだけ目を細めた。

「商売でございますから」

 柔らかい返事だった。

 だが、その視線は一瞬だけクロノを見ていた。

 値踏みするような。確認するような。そんな目だった。


 その時だった。

 縄を触っていた男が急に顔をしかめる。

「おい、これ丈夫すぎねぇか?」

「今までの縄が酷すぎたんだろ」

「井戸で二回切れたぞお前んとこ」

「うるせぇ!」

 また笑いが起きる。


 以前なら、そんな余裕もなかった。

 トマスはその空気を静かに眺めていた。

 終わりかけた村の空気ではない。

 まだ弱い。だが、人が前を見始めている村の空気だった。


 

 日が沈む頃には、村の空気も少し落ち着いていた。

 荷車には、魔物の毛皮、牙、骨が積み直されている。代わりに村へ残ったのは、塩、縄、針、油、それに古い鉄具だった。決して多くはない。だがローデン村にとっては、“無かった物”だ。

 

 御者が荷紐を最後に引き直し、馬の首を軽く撫でた。

 トマスが言った。

「次に来られるのは、早くても半月ほど先になりますな」

「道次第?」

 クロノが聞く。

「ええ。この辺りは雨で簡単に崩れますので」

 トマスは村の外道を見る。

 轍だらけの泥道。水溜まり。崩れた端。

 荷車には厳しい道だった。


「ただ――」

 トマスは一度言葉を切る。

「売れる物が増えるのであれば、寄る理由はできます」

 クロノは小さく頷いた。

 感情ではなく利益。交易とはそういうものだ。


「次までに、毛皮の処理は改善してみるよ」

「十分、見込みはあるかと」

 トマスは柔らかく笑った。

 その視線が、管理館の板へ向く。

 見張り順。補修記録。水運び。粗いが“残そうとしている”形だった。


「……良い村になりそうですな」

 ぽつりと、トマスが言った。

 カインが苦笑する。

「まだボロ村だぞ」

「ええ。まだ、ですが止まってはおりません」

 トマスはそれ以上言わなかった。


 だがクロノは、その言葉が少しだけ気になった。

 ただの行商人にしては、村を見過ぎている。そんな感覚があった。

 もっとも、今はそれを考える余裕もない。


「気をつけて」

「ありがとうございます」

 トマスは頭を下げ、荷車へ乗る。

 やがて、ぎぃ、ぎぃ、と車輪の軋む音が遠ざかっていった。

 村人たちはその背をしばらく見送る。

 村の外と、まともに物が行き来したのは久しぶりだった。

 

 管理館の裏では、グランが早速塩を使っていた。

「だから擦り込むんだよ。雑に振るな」

「こんな感じか?」

「多い。塩が消えるだろうが」

 干し始めた肉を前に、男たちが頭を悩ませている。

 肉の匂い。焚き火の煙。湿った夜風。

 辺境の夜は冷えるのが早かった。


 クロノはその様子を少し見てから、管理館へ戻る。


 中では、ミリアが板を整理していた。

 今日増えた記録。交易した物。残量。不足品。

 机の上は、以前より少しだけ賑やかだった。


「……増えたね」

 クロノが苦笑する。

「仕事?」

「記録」

 ミリアは淡々と答えた。

「前より、書くことが増えた」

「いいことだよ」

「増えすぎ」

 それも事実だった。

 クロノは椅子へ腰を下ろす。

 古い椅子がぎしりと鳴った。壁には、水路図、見張り順、補修予定が並んでいる。紙は少ない。板も足りない。だから書いては消し、また書いていた。


「道も必要」

 ミリアが言う。

「今日の荷車、かなり危なかった」

「見てたよ。車輪、片方歪んでたね」

「道が悪いと来なくなる」

「そうだね」

 クロノは頷く。

 

 交易は繋がった。

 だが、細い。細すぎる。道が崩れれば終わる。魔物が増えれば止まる。村に出せる物が無ければ、二度と来ないかもしれない。外との繋がりとは、本来そういうものだ。


「水路、防衛、保存、道……」

 クロノが指を折る。

「やること多いね」

「増えてる」

「減らないなぁ……」

「最初から減ってない」

 ミリアは真顔だった。

 クロノは思わず笑う。

「前と同じじゃねーか……」

「またそれ」

「たまに出るんだよ」

「変な喋り方」

「自覚はあるよ」

 

 部屋の隅で壁にもたれていたルナが口を開く。

「疲れてる顔してる」

 クロノは少し瞬きをした。

「そう見える?」

「見える」

 短い返事だった。


 ルナは少し考えるように黙ってから続ける。

「今日は、人も多かった。声も。皆ずっと動いてた」

「ああ……たしかに」

 交易が来てから、村は朝からざわついていた。

 普段より人が喋り、動き、考えていた。良い変化だ。

 だが疲れる。

 特にクロノは、人の流れを見る側だった。


「少し休め」

 ルナが言う。

「命令かな」

「……お願いだ」

 クロノは少し笑った。

「それなら聞かないわけにはいかないね」


 ミリアも板から顔を上げる。

「倒れられると困る」

「厳しいなぁ」

「事実」

 クロノは背もたれへ体を預けた。


 窓の外から、水の流れる音が聞こえる。


 仮設水路。まだ細い。泥も溜まる。崩れる場所もある。


 それでも、水は流れていた。

 少し前まで止まりかけていた村で、人が動いている。

 鍋の煙が上がる。笑い声もある。


 クロノは静かに息を吐いた。


「……悪くないね」


 窓の外では、焚き火の火がぽつぽつと揺れていた。

 まだ弱い火だ。


 けれど、消えてはいなかった。

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