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第五話 選ぶということ

 朝の空気はまだ冷えていた。


 ローデン村では、夜明け前から人が動いている。

 水桶を置く音。薪を割る音。湿った土を踏む足音。


 仮設水路のそばでは、昨日のうちに積まれた石材が朝露で白く濡れていた。

 ほんの数日前まで、村の朝はもっと重かった。

 水を運ぶだけで体力を削られ、一日の始まりから顔が死んでいた。

 だが今は違う。

 水は流れている。桶の往復は減った。肩で息をする回数も、少し減った。

 ほんの小さな変化。それでも、人はそれだけで少し前を向ける。


「……だから俺はやらねえって言ってるだろ」

 苛立った声が、水路の近くで響いた。

 若い男たちが集まり、作業用の縄や木材を前に足を止めている。


「昨日もやったんだぞ」

「腕パンパンなんだよ」

「寝返り打ったら脚攣ったわ」

 笑い混じりの愚痴。だが、本気で疲れているのも分かる。


「どうせまた崩れるんだろ」

「直して、崩れて、また直して……終わり見えねえしな」

 反対ではない。水路が必要なのは、全員分かっている。

 だが、協力し続ける余裕がない。それが今のローデン村だった。


 少し離れた場所で、クロノはその様子を見ていた。隣では、ミリアが板を抱えながら小さく息を吐く。

「止まり始めてる」

「そうだね」

 クロノは頷いた。


 予想していた。改善が始まると、人はいくつかに分かれる。

 前に進もうとする者。様子を見る者。そして、疲れて立ち止まる者。

 どれも間違いではない。人は急には変われない。

 クロノは視線を動かした。

 水路の補強。見張り。運搬。素材処理。


 今のローデン村は、とにかく人手が足りない。少人数で全部を回している。

(分散しすぎだね)

 誰もが全部をやっている。だから全員が疲弊する。

 クロノはゆっくり歩み寄った。


「状況を確認するね」

 いつもの言葉だった。

 怒鳴るでもなく、命令するでもない。

 それだけで、若者たちの空気が少し変わる。


 カインが頭を掻きながら顔を向けた。

「クロノ様よ、やることは分かるんだよ」

「うん」

「でも毎日これ続けてたら身体が持たねえ」

 周囲も無言で頷く。


 水が流れ始めて楽にはなった。だが、“楽になったから余裕がある”わけではない。


「続けられないなら、やり方を変える必要があるね」

「変えるって、どうやってだよ」

 クロノは少しだけ視線を巡らせた。

 土で汚れた道。積まれた木材。遠くで水を汲む村人。見張り台では、朝番の男が眠そうに辺りを見ている。

 村は動いているが、まだ噛み合っていない。


「人の配置を変える」

 クロノは言った。

「固定の役割を作る」

 若者たちが顔を見合わせる。

「固定?」

「毎日全員が全部やる必要はない」

 

クロノは地面に簡単な線を書いた。

「水路担当、見張り担当、素材処理、農作業。それぞれ役割を分ける」


 ざわめきが起きる。

 今までの村には無かった考え方だった。


「偏るだろ」

 カインが眉をひそめる。

「偏らせる」

 クロノは即答した。

「向いてる人間に任せた方が効率がいい」

 少し間を置く。


「その代わり、成果は全体に還元する」

 完全には伝わっていない。それでも、“今より少し楽になるかもしれない”という空気は広がっていた。


 しばらくの沈黙のあとだった。

「……なら俺は見張りやる」

 カインがぼそりと言った。

 周囲の若者が顔を上げる。

「水路はもう勘弁だ」

「お前さっきまで文句言ってただろ」

「言ってたよ。だから変えるんだろ」


 ぶっきらぼうに返しながら、カインは首を回した。

 昨日から石運びばかりだったせいで、肩が悲鳴を上げている。

「正直、水路より走り回ってる方が楽だ」

「それはお前だけだろ」

 小さな笑いが起きる。


 張っていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。

 クロノはその様子を見ながら頷く。

「いい判断だね」

「そうか?」

「動きが軽いし、周囲を見る癖がある。見張りに向いてると思う」

 カインが目を瞬かせた。

 予想していなかった顔だった。

「……見てたのかよ」

「結構見てるよ」

 クロノは普通に答える。

「昨日も、先に魔物の気配に気づいてたよね」

「あー……まあ」

 カインは視線を逸らした。褒められ慣れていない。そんな反応だった。


 今までのローデン村では、誰が何に向いているかなんて考える余裕はなかった。動ける人間が全部やる。足りないなら耐える。それだけだった。


 だから、自分の動きを見られていたこと自体が少し不思議だった。

「見張りなら、鐘も扱うことになる」

 クロノは見張り台の方を見る。

 村外れに組まれた簡素な櫓。


 まだ仮設だ。木材も足りず、雨風にどこまで耐えられるか分からない。それでも、何も無かった頃よりは遥かに良い。


「異変を見つけたら、すぐ鳴らして、位置も伝える。できる?」

「やるしかねえだろ」

「頼もしいね」


 カインは頭を掻いた。

「なんか調子狂うな……」

「何が?」

「いや、クロノ様って怒鳴らねえじゃん」

 周囲が少し吹き出す。


「ゲルド爺なら『黙って働け』って言うぞ」

「言うね」

「絶対言う」

 周囲から苦笑が漏れる。


「でもクロノ様、怒鳴らねえじゃん」

「怒鳴って解決するなら楽なんだけどね」

「それ言う奴、大体怒鳴れない奴なんだよな」

「否定はしないかな」

 小さな笑いが広がった。


 朝の空気が、少しだけ軽くなっていた。

 クロノはその変化を感じながら、ゆっくり周囲を見る。

 まだ疲れは残っている。不安もある。全員が納得しているわけでもないが、自分から役割を選んだ。

 それは大きかった。誰かに押し付けられた仕事ではなく、“自分で決めた役目”になる。


 それだけで、人は少し動きやすくなる。


「他にも希望があれば聞くよ」

 クロノが言うと、今度は別の男が口を開いた。

「俺、素材処理の方行きたい」

「また急だな」

「解体の方が向いてる気がする。水路ずっとやってると腰死ぬ」

「それは分かる」

 また笑いが起きる。


 少しずつだった。

 だが確かに、“自分で選ぶ空気”が生まれ始めていた。



「そんな勝手な分け方、認めん」

 低い声が割って入った。

 ざわついていた若者たちが振り返る。

 歩いてきたのは、ゲルドだった。

 白髪混じりの髪。深く刻まれた皺。長年、ローデン村で生きてきた老人だ。

 若い頃は狩りにも出ていたらしいが、今は畑仕事と軽い雑務が中心になっている。


 村人達は、自然と道を空けた。

 長くこの村を見てきた人間の重みがあった。


「皆でやるから村なんだ」

 ゲルドは水路を見る。

「一部に任せるなど、歪む」

 若者たちが黙る。

 反発というより、“聞かなければならない”空気だった。

 ゲルドは続ける。

「昔も似たようなことはあった」

 杖の先で地面を叩く。

「仕事を分けようとしてな。できる奴ばかりに負担が偏った」

 声に僅かな苦みが混じる。

「結局、動ける者だけが潰れる」

 クロノは黙って聞いていた。

 否定から入らない。それだけで、周囲の空気も少し落ち着く。

「その考えも分かる」

 クロノは静かに言った。

「ならやめろ」

「やめない」

 はっきり返した。

 一瞬、空気が止まる。


 だがクロノは視線を逸らさない。

「今のローデン村には余裕がない」

 水路。見張り台。積まれた素材。痩せた畑。

 全部が“足りていない”。


「全員が全部をやっていたら、全部中途半端になる」

「だから切り捨てるのか」

「違う」

 クロノは首を横に振った。

「続けるために分ける」

 その言葉に、ゲルドが眉を動かす。

「今のやり方だと、疲れた人から止まる。実際、今日もそうなりかけてた」


 若者たちが気まずそうに視線を逸らした。

 責めているわけではない。事実だった。


「誰か一人が無理して回す形は、長く続かない」

 クロノはゆっくり言葉を選ぶ。

「だから、“向いてること”を増やしたい」


 ゲルドはすぐには返さない。

 風が吹き、水路の水面が小さく揺れた。

 遠くで、桶を置く音が響く。

「……口では何とでも言える」

 低い声だった。

 長く失敗を見てきた人間の声。

 クロノは頷いた。


「だから結果で判断してほしい」

 そして、水路を指差す。

「水は流れてる」

 誰も否定できなかった。

 昨日までより、水運びは確実に減っている。疲労も違う。

まだ貧しい。まだ不便だ。

 だが、“昨日と同じ”ではなくなっている。


「さらに楽になるなら、試す価値はあると思う」

 ゲルドは黙ったまま、水路を見る。

 流れる水を見つめる横顔は険しい。


 完全には納得していない。だが、完全に否定もできない。

 やがて、小さく息を吐いた。


「……三日だ」

 周囲が静まる。

「三日で結果が出なければ、元に戻す」

 クロノは少しだけ笑った。

「いいね。それでいこう」

 即答だった。


 その迷いの無さに、逆にゲルドの方が僅かに目を細める。

 若いくせに、妙な男だ。

 そんな視線だった。


 役割分担は、その日のうちに少しずつ形になり始めた。

 水路補強班。

 見張り班。

 素材処理班。

 農作業班。

 完璧ではない。人数も足りない。それでも、“今日は何をするか”が最初から決まっているだけで、人の動きは昨日より迷わなかった。


 水路側では、朝から石を運ぶ音が続いている。

 削った木杭を打ち込む乾いた音。湿った土を踏み固める足音。流れる水の音も、前より安定して聞こえていた。


「そこ、石もう一つ欲しい!」

「こっち持ってく!」

「土流れてるぞ、踏み直せ!」

 声が飛び交う。


 昨日までの、“何となく全員でやる”空気とは違った。

 クロノは少し離れた場所で、その様子を見ていた。

(動きやすくはなってるね)

 まだ粗い。だが、確実に変わっている。


 ミリアは管理館の前に板を並べていた。

 水量。作業時間。使用した木材。簡単な記録だが、少しずつ項目が増えている。


「ミリア、休憩挟んでる?」

「一応」

「一応って顔じゃないかな」

「クロノ様ほどじゃない」

 即答だった。

 クロノは少し苦笑する。

 ミリアは羽根ペンを動かしながら続けた。

「水運び、昨日よりかなり減ってる」

「どれくらい?」

「朝だけなら半分近い」

「早いね」

「その分、水路側に人回せてる」


 数字で見ると変化が分かりやすい。感覚だけだと、“何となく楽になった気がする”で終わる。

 だが記録は残る。積み重なる。それがミリアの役割だった。


「素材処理も後で確認する」

「助かるよ」


 クロノが言うと、ミリアは少しだけ肩を竦めた。

「回り始めたなら、止めない方がいい」

 その言い方が、少しだけクロノに似てきていた。


 水路側では、ルナが黙々と作業していた。

 大きな石を運び、崩れかけた場所を踏み固める。力仕事は、やはり目立つほど早い。だが今日は、それだけではなかった。


「ルナ、そっち押さえてくれ!」

 作業していた村人が声を張る。

 ルナは一瞬だけ目を向けた。以前なら、呼ばれても距離を取っていたかもしれない。


 だが今は違う。


「……こうか」

「そう、それでいい!」

 男はそのまま杭を打ち込む。ルナも黙って支える。短いやり取り。

 それだけだった。だが、昨日までのローデン村には無かったものだ。


 龍人族。

 強すぎる存在。怖がられ、避けられていた女。

 そのルナに、自然に声が飛んでいる。

 ルナは何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ返事が早かった。


 クロノはそれを見て、小さく目を細める。

 村はまだ貧しい。相変わらず泥だらけだ。水路も仮設。人手も足りない。

 それでも少しずつ、“誰がどこにいるか”が形になり始めていた。

 

 昼を少し回った頃だった。

 見張り台の上から、金属を叩く音が響く。


 ガン、ガン、ガン――。


 吊るされた鉄鍋を棒で打つ、荒っぽい警戒音。

 まだ鐘なんて立派な物はない。それでも、村中に響くには十分だった。

 水路側で作業していた村人たちが一斉に顔を上げる。クロノもすぐに見張り台を見た。

 上にはカインの姿がある。

「右側の林だ! 二体!」

 声が飛ぶ。

「小型! 走ってる!」

 以前なら、ここで混乱していた。

 どこから来るのか。

 誰が動くのか。叫び声ばかりが増え、人がぶつかり合っていた。


 だが今は違う。

「農具置け!」

「子供は管理館側行け!」

「水路側、道空けろ!」

 村人たちがすぐに動き始める。

 避難誘導。道の確保。以前より明らかに速い。


 クロノは小さく息を吐いた。

(ちゃんと回ってるね)

 まだ粗い。それでも、昨日とは違う。


 ルナは既に前へ出ていた。

 無駄な返事もない。地面を蹴り、一気に林側へ走る。

「左から回る!」

 見張り台からカインが叫ぶ。


「一体、そっち抜けるぞ!」

 位置共有。

 それだけで動きやすさが変わる。

 灰色の毛並みをした小型の魔物が、林の奥から飛び出してきた。

 犬に似ているが、牙が異様に長い。

 一体がルナへ飛びかかる。

 瞬間、ルナの身体が沈んだ。

 低い。

 そして速い。

 踏み込みと同時に、拳が魔物の顎を下から打ち抜く。


 鈍い音。


 身体が浮く。


 そこへ追撃の蹴りが叩き込まれた。

 魔物が地面へ叩きつけられる。もう一体が反転した。


 逃げる。


「そっち行った!」

 カインの声が飛ぶ。

 ルナは迷わず、地面を強く蹴り、逃げ道へ回り込む。

 魔物が方向を変えた瞬間、横から体当たりのように踏み込んだ。

 肘打ち。

 体勢が崩れる。そこへ膝蹴りが入り、魔物が地面に崩れ落ちた。

 短い。本当に数十秒だった。

 

 ルナは腰の短刀を抜き、倒れた魔物の喉へ刃を入れ、血を落とし始める。

 持ち帰るなら、その方がいい。

 周囲の村人達も、以前ほど怯えた顔をしていなかった。

「……終わったか?」

「怪我人は!?」

「いねえ!」


 避難していた子供達が、管理館の陰から顔を出す。

 クロノはその光景を見ながら、小さく頷いた。


 ルナが強いのは間違いない。でも、それだけじゃない。

 見張り。伝達。避難。位置共有。村人達の動き。

 全部が少しずつ噛み合い始めている。


「……早えな」

 誰かが呟く。それはルナ一人への言葉ではなかった。

 “村”全体への声だった。


 クロノは少し笑う。

「連携だね」

 その時、見張り台の上からカインが顔を出した。

「おいクロノ様!」

「ん?」

「鍋叩くの、思ったより気持ちいいなこれ!」


 一瞬静まり――。

 次の瞬間、周囲から笑いが起きた。

「遊んでんじゃねえ!」

「ちゃんと見張れ!」

「調子乗るな!」

 怒鳴られながらも、カインは笑っていた。


 少し前まで、疲労と不満ばかりだった空気。

 だが今は違う。

 まだ貧しい。まだ危険だ。

 それでも、“前より動けている”実感が、少しずつ村に生まれ始めていた。

 

 

 夜の管理館には、ランタンの火が揺れていた。


 古い木机の上には板が並び、そこへクロノが新しい記録を書き足していく。

 水量。担当人数。補強箇所。作業時間。

 まだ雑な管理表だ。字も揃っていないし、抜けも多い。それでも、昨日までは存在すらしていなかった。

 

 外からは村人達の声が聞こえてくる。

 鍋を囲む声。疲れた笑い声。

 見張り交代の呼びかけ。少し離れた場所では、まだ木材を運ぶ音も続いていた。


 ローデン村は貧しい。

 日が落ちても、作業を止められるほど余裕はない。だが、不思議と空気は重くなかった。

 クロノはペンを止め、窓の外へ目を向ける。

 見張り台の近くにはルナが立っていた。夜風の中で静かに周囲を見ている。

 その下では、カインが何か言い返していた。

「だから一回しか叩いてねえって!」

「さっき三回鳴ってたぞ!」

「気のせいだろ!」

「鍋で遊ぶな!」

 誰かに怒鳴られ、周囲から笑いが起きる。


 ほんの少し前まで、疲労と苛立ちばかりだった村だ。

 だが今は、ちゃんと人の声が混ざっている。

 クロノは小さく息を吐いた。

 まだ何も解決していない。水路は仮設。防衛も不十分。食料だって余裕はない。魔物も出る。少し判断を間違えれば、すぐ崩れる。

 それでも、水は流れていた。人も動いている。


 ミリアは管理表をまとめ続けている。

 カインは見張りを続けている。

 村人達も、自分の役割を少しずつ覚え始めていた。

 クロノ一人が走り回らなくても、動く瞬間が増えている。

 それが何より大きかった。


「悪くないね」


 小さく呟き、そして静かに、ペンを置いた。


「前と同じには、しない」



 

 管理館の奥から、煮込みの匂いが漂ってくる。

「おーい、飯できたぞ」

 鍋を抱えながら、グランが顔を出した。

 今日はいつもの干し肉の煮込みだ。

 ただ、匂いが少し違った。


「……前よりマシ」

 ルナが鍋を覗き込みながら言う。


「だろ?」

 グランが得意げに笑う。

「森で見つけた香草入れてみたんだ。臭み消しになりそうでな」

「前のは苦かった」

「今回は成功だ!」


 胸を張るグランに、周りからから小さく笑いが漏れる。そしてグランは、ふと思い出したようにルナを見る。


「そうだ、ルナ」

「?」

「また森行くことあったら、変わった草とか見つけてきてくれねえか?」

「食える草か?」

「食えるかもしれねえ草だ!」

「怖い」

「ちゃんと俺が試す!」

 グランは真面目な顔で続けた。

「礼はするからよ。飯がちょっと良くなるかもしれねえんだ」


 ルナは少し考え――。

「……分かった」

 短く頷いた。

 そのやり取りを見ながら、クロノは小さく目を細める。


 ほんの少しずつだ。


 それでも、ローデン村にはちゃんと“暮らし”が増え始めていた。


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