第三話 水は流れ、人は動く
朝の空気は冷えていた。
ローデン村の管理館は、村の外れを少し登った場所に建っている。
元は辺境伯家の管理施設だったのだろう。石造りではあるが古く、壁には細かなひびが走っていた。夜の冷気が抜け切っておらず、廊下には薄い寒さが残っている。
窓枠も歪んでいた。風が吹くたび、どこかの板が小さく軋む。
長く放置されていた建物特有の湿った匂いが、まだ抜けていなかった。使われていない部屋には埃が積もり、倉庫には壊れた木箱や古い農具が雑に押し込まれている。
それでも、村人たちの家よりは遥かにマシだ。
最低限、雨風は防げる。
管理館の一室では、クロノが机に紙を広げていた。
村の簡単な地図。川までの距離。水桶の運搬経路。
昨日、自分の足で歩いて確認した内容を雑に書き込んだものだ。
だが途中から、字が少し乱れている。
クロノは目頭を軽く押さえた。
寝不足だけではない。昨日、川辺で遭遇した魔物の姿が、まだ頭に残っていた。
湿った牙。泥を踏み潰す重い音。血の臭い。骨が砕ける鈍い感触。
ルナがいなければ、自分は死んでいた。その事実だけが妙にはっきりしている。
クロノは小さく息を吐いた。
怖くない訳じゃない。だが、止まっても状況は変わらない。むしろ、止まればこの村はもっと苦しくなる。
「坊っちゃん。朝ですよ」
扉が開き、マルタが部屋へ入ってくる。
五十を越えた女性だ。辺境伯家に長く仕えており、クロノが産まれた時から知っている。
今回の辺境行きにも、自分から同行した。
盆の上には湯気の立つ薄いスープと、固い黒パンが乗っている。
「また机で寝たんですか」
「少し考え事をしててね」
「少しの考え事で机に突っ伏しますかねぇ」
呆れた声だった。だが手つきは慣れている。
散らかった紙を脇へ寄せ、空いた場所へ朝食を置いた。
クロノは苦笑する。
「ありがとう」
「感謝するなら、まず食べてください」
そこへ、廊下の向こうから賑やかな声が響いた。
「マルタさん! やっぱり塩足りませんってこれ!」
どたどたと足音が近づいてくる。
厨房から顔を出したのは、料理担当の使用人――グランだった。
三十前後。袖を捲ったまま干し肉を片手に持っている。
「昨日の魔物肉、少し試しましたけど臭み強いですねぇ。血抜きもっとちゃんとやれば変わりそうですが」
「朝からそんな話やめなさい」
「大事ですよ!? 食えるなら村の飯かなり変わりますって」
グランはそう言いながら、クロノの机に広がった紙を覗き込む。
「……今日は水路ですか」
「その予定だね」
「本当にやるんですねぇ」
驚き半分。だが、どこか楽しそうでもある。
面倒事を嫌がるより、まず試したがる性格だった。
「ただ、人手は足りない」
「そこはまあ、辺境ですし」
グランは肩を竦める。
「でも、水運び一回減るだけでも違うんじゃないですか? 昨日見てて思いましたけど、皆かなり限界ですよ」
クロノは静かに頷いた。
その時、窓の外で馬が鼻を鳴らした。
管理館の脇では、老人がしゃがみ込み、荷車の車輪を確認している。
オルドだ。御者兼馬番。
七十を越えているが、動きは妙に丁寧だった。
指先で車輪の軋みを確かめ、泥の付き方を見ている。馬の脚にも軽く触れ、蹄の状態を確認していた。
「今日は冷えますなぁ」
オルドが顔を上げずに言う。
「昼前には少し崩れるでしょうな。道、またぬかるみます」
「荷車、出せそう?」
クロノが窓越しに聞く。
オルドは車輪を軽く叩いた。
「近場なら問題ありません。石を積み過ぎなければ、ですが」
「分かった。量は調整するよ」
「坊っちゃんは荷物より、自分の方を気にした方がよろしい」
クロノは思わず苦笑した。
「そんな顔してる?」
「ええ。寝てない顔です」
オルドは穏やかに馬の首を撫でる。
「昔、似たようなのを何人も見ました。無茶する人間は、大体そんな顔をします」
「耳が痛いね」
クロノは苦笑したまま、少し冷めたスープを飲んだ。
外ではもう、村人たちが動き始めている。水桶の音。薪を割る音。咳。疲れ切った村の朝だ。
クロノは泥の付いた靴へ足を入れ、静かに立ち上がった。
管理館を出ると、朝の冷気がそのまま顔に当たった。
昨夜の湿気がまだ地面に残っている。踏み固められた土はところどころぬかるみ、水桶を運ぶ村人たちの足跡が深く沈んでいた。
村の中央には、既に何人か集まり始めている。
皆、仕事前だ。薪を抱えたまま足を止める者。空桶を持ったままこちらを見る女。眠そうな子どもを連れ、水汲みに向かう姿も見える。
長話をしている余裕はない。だからこそ、今しかなかった。
「坊っちゃん、本当にここで話すんですか?」
後ろからマルタが小声で聞く。
「管理館じゃ駄目で?」
「来ないと思う」
クロノは苦笑した。
「わざわざ足を運ぶ余裕が無いからね。仕事前なら、少しだけ止まれる」
マルタは呆れたように息を吐く。
「そういう所だけ妙に現場慣れしてますねぇ」
クロノは返事をしなかった。
村人たちの顔を見回す。
疲れている。それも、一日二日じゃない。肩を痛めたまま動いている男。指先が割れ、赤く腫れている女。睡眠不足なのか、目の焦点が鈍い者もいた。
それでも、止まれない。 止まれば今日の水が足りなくなる。
少し離れた場所では、ルナが丸太を運んでいた。
一人で抱えるには重すぎる太さだったが、彼女は何も言わず泥を踏みしめて歩いている。村人たちの視線が時折そちらへ向く。
恐れている。
昨日、魔物を素手で叩き潰した姿を見てしまったからだ。
だが、昨日より目を逸らす者は減っていた。
「……で、今日は何だ?」
カインが水桶を地面へ置きながら言う。
「また水の話か?」
「その続きだね」
クロノは頷いた。
「今日は、水路の話をしようと思う」
ざわり、と空気が揺れた。
「水路?」
「おいおい、そんな大層な話かよ」
「前にもやったぞ。崩れて終わった」
「つーか誰が掘るんだ」
「今だって手ぇ足りてねぇのに」
声が重なる。
反発というより、疲労だった。新しい事が嫌なんじゃない。増える作業が怖いのだ。
クロノは止めなかった。
全部聞く。
その間にも、水桶を抱えた女が脇を通り過ぎていく。桶の縁が腕に食い込み、擦れた皮膚が赤くなっていた。足取りも重い。
クロノはそれを見てから口を開く。
「大きなものは作らないよ。まずは仮の導水路だね。川から少しだけ水を引く」
「少しってどれくらいだ」
「村全部は無理」
クロノは即答した。
「まずは、水桶一往復分を減らしたい」
「……一往復ぅ?」
誰かが半信半疑で呟く。ぴんと来ていない顔も多い。
だからクロノは言い換えた。
「毎日、川まで何往復してる?」
「三回は行ってる」
「家によっちゃ四回だ」
女の一人が疲れた声で言った。
肩は固まり、指先は赤く荒れている。冬を越える前から、もう身体が擦り減っていた。
「一往復減ったら?」
沈黙が落ちる。
誰もすぐには答えない。その沈黙が、この村の余裕の無さだった。
「……少し休める」
ぽつりと漏れた声に、クロノは頷く。
「そうだね」
風が吹き、湿った土と薄い煙の匂いが流れていく。
「その“少し”を作りたい」
「無理だな」
低い声が割り込む。老人――ゲルドだった。
背は曲がっている。だが、その目だけは鋭かった。
「そんなもんは昔も試した。土掘って、水流して、雨で崩れて終わりだ」
「石は使った?」
クロノが聞く。
「運ぶ余裕なんぞ無かった」
「木は」
「少しだ」
「なるほど」
クロノは頷いた。
「じゃあ、同じやり方はしない」
ゲルドの眉がわずかに動く。
「……何が違う」
「流れを分ける。崩れやすい場所は木で押さえる。流れが強い場所だけ石を使う」
「簡単に言うな」
別の男が口を挟んだ。
「石運ぶだけで半日潰れるぞ」
「だから全部はやらない」
クロノは一歩前へ出る。
「一番効果が出る場所だけやる。短く作って、回るか見る」
「失敗したら?」
「別の方法を試す」
即答だった。
村人たちが顔を見合わせる。呆れ。不安。それでも、完全には否定しきれない空気が残る。
「……若造の机上の空論だ」
ゲルドが低く言う。
「そうかもしれないね」
クロノは否定しなかった。
「でも、今のまま続けても、皆きついままだと思う」
「……理屈自体は間違ってない」
小さな声が混ざった。
視線が集まる。
少し離れた場所に、若い女が立っていた。ミリアだ。
ハンスの孫で、村では珍しく帳簿や記録を読める女だった。
「川の水量は足りてる。問題は運ぶ人手」
ミリアは淡々と言う。
「一往復減るだけでも、空く時間は増える」
村人たちがざわつく。
「お前、分かるのか?」
「見れば分かる」
ミリアは肩を竦めた。
「毎日どれだけ時間使ってると思ってるの」
クロノはミリアを見る。
感情ではなく、数字で考える目だった。
「……君、記録とか付けてる?」
「少しだけ」
「後で見せてもらえるかな」
ミリアは少しだけ驚いた顔をした。
それから、小さく頷く。
「別にいいけど」
話し合いが終わると、村の空気は慌ただしく動き始めた。
とはいえ、劇的に何かが変わった訳じゃない。
水を運ぶ者は変わらず川へ向かい、薪割りも止まらない。畑仕事だってある。
その合間を縫って、人が少しずつ集められていく。
「こっち掘るぞ!」
「おい、そこ踏むな! 崩れる!」
朝の冷えた空気に怒鳴り声が混ざる。
クロノは川沿いの斜面にしゃがみ込み、土へ手を押し当てた。
湿っている。柔らか過ぎる。
「ここは駄目だね。流したら崩れる」
「じゃあどうすんだ」
カインが額の汗を拭う。
「少し上を通す。木も必要かな」
「木ぃ?」
「土だけじゃ保たないよ」
クロノは立ち上がり、周囲を見回した。
人手は少なく使える道具も限られている。鍬は足りないし、縄も古い。荷車だって一台しかまともに動かない。
だから、一気にはやれない。
「短く作る」
クロノは言った。
「今日は村の手前まで届けば十分」
「十分って……」
カインは呆れた顔をする。
「それだけで変わるのかよ」
「少しは変わる」
クロノは即答した。
「少し変われば、その分動ける人が増える」
その時、後ろから声が飛んだ。
「水の流れ、こっちの方が浅い」
振り返ると、ミリアが斜面を見下ろしていた。
手には細い木の枝を持っている。
「ここ、傾斜が急すぎる。昨日の雨で土も緩んでる」
そう言いながら枝先で地面を示す。
クロノはそこへしゃがみ込み、土を押した。
確かに柔らかい。
「……よく見てるね」
「崩れたら二度手間になる」
ミリアは淡々としていた。褒められても特に嬉しそうではない。ただ、必要だから見ているだけだ。
「なら、そっち側から回そう」
クロノは周囲へ声を飛ばした。
「溝を少しずらす!」
「はぁ!? また掘り直しかよ!」
「崩れるよりマシだよ!」
文句を言いながらも、村人たちは動き始める。
余裕は無いが完全に止まりもしない。
ルナが無言で丸太を運んでくる。昨日切り倒した木だ。
太い。
普通なら二人がかりで抱える重さだったが、ルナは肩へ担いだまま泥を踏み越えてくる。
どさり、と地面へ下ろされた瞬間、湿った土が揺れた。
村人たちが一瞬黙る。やはり怖いのだ。クロノには分かる。
だが、ルナは気にしていなかった。
「ここに置けばいいのか」
「うん、ありがとう」
ルナは小さく頷き、すぐ次の木を取りに向かう。
その背を見ながら、カインがぼそりと呟いた。
「……本当に人間かよ」
「龍人族だね」
「そういう話じゃねぇよ」
クロノは少しだけ笑った。
掘り進めた溝へ試しに水を流し込む。
最初は細く。だが途中から勢いが増し、濁った水が土を削り始めた。
「おい、崩れる!」
「止めろ!」
端の土が一気に崩れ落ちる。流れが広がり、せっかく掘った溝が半分埋まりかけていた。
「だから無理だって!」
誰かが叫ぶ。
クロノはすぐ斜面を下りた。泥に足を取られながら、水の流れを確認する。
速い。思ったより傾斜が強い。
「……駄目だね。このままだと削れる」
「分かってんならどうすんだよ!」
「流れを殺す」
クロノは泥だらけの手で石を掴んだ。
「板! あと石もっと!」
「お、おう!」
村人たちが慌てて動く。
クロノは崩れた場所へ膝をつき、水の流れを押さえ込んだ。冷たい。土も重い。
昨日の疲労がまだ身体に残っていた。腕も重い。それでも、止まる訳にはいかない。
「ルナ!」
呼ぶと、すぐ後ろへ気配が立つ。
「木をここへ。流れを分けたい」
ルナは何も聞き返さない。
丸太を抱えたまま川へ入り、水の中へ強引に押し込んだ。
水がぶつかり、流れが少し変わる。
「……おお」
誰かが声を漏らした。
「カイン、石もっと!」
「分かった!」
さっきまで文句を言っていた男たちも動き始める。泥に足を取られながら石を運び、崩れた場所を押さえていく。
ミリアもしゃがみ込み、水の流れを見ていた。
「そこ、まだ削れてる」
短く言う。
「石、もう一個いる」
クロノは頷き、泥だらけのまま石を押し込んだ。失敗しかけた。だが、その失敗で流れが見えた。
水はまだ濁っている。溝も歪んでいる。それでも、少しずつ形にはなり始めていた。
昼を過ぎた頃には、全員かなり疲れていた。掘った土で足は重くなり、濡れた服が身体へ張り付いている。
水路はまだ短い。村まで届いたとは到底言えなかった。それでも、川から引いた細い流れが途中まで残っている。
完全に無駄ではない。それだけで空気は少し違った。
「……休憩入れるよ」
クロノが言うと、何人かがその場へ座り込んだ。
息が白い。風も冷えてきている。
少し離れた場所から、鼻を突く臭いが流れてきた。
血と、内臓の臭いだ。
村の端では、昨日ルナが倒した魔物が横たえられていた。
既に血抜きは済ませてある。
首元から流れた黒ずんだ血が、土を暗く染めていた。
「……本当にやるのかよ」
カインが顔をしかめる。
「食うんだろ、それ」
「食えるなら、だけどね」
クロノは袖を捲りながら答えた。
臭いは強い。獣臭さの奥に、鉄みたいな血の匂いが混ざっている。正直、気分の良いものではなかった。
昨日の戦闘が頭をよぎる。
泥を踏み潰す音。牙。血。自分なら簡単に噛み砕かれていた現実。
胃の奥がまだ少し重かった。
クロノは小さく息を吐き、意識を切り替える。
「グラン、どう思う?」
呼ばれたグランは、しゃがみ込みながら魔物の肉を見ていた。もう何度か触っているせいか、嫌悪感は薄れている。指先で脂を押し、臭いを確認してから顔を上げた。
「血抜き自体は悪くないですね。ただ臭みは強いな」
「食べれそう?」
「工夫は必要ですけど、捨てるのは勿体ないです」
グランは肉を軽く押した。
「脂はあるし、干し肉か燻製ならいけるかもな……」
「お前、よくそんな平気な顔できるな」
カインが引いた声を出す。
グランは肩を竦めた。
「腹壊さず食えりゃ勝ちだろ。辺境なんてそんなもんだ」
その言葉に、何人かが黙る。
否定できない。
この村には、好き嫌いを言う余裕なんて無かった。
「……で、どうする」
ゲルドが低く言う。
「皮も剥ぐのか」
「全部使いたい」
クロノは頷いた。
「毛皮は防寒に回せる。骨も道具にできるかもしれない」
少し離れた場所で聞いていたミリアが口を開く。
「保存するなら量も分けた方がいい」
全員の視線が向く。ミリアは気にした様子も無い。
「全部一気に処理したら腐る。塩も足りない」
「……確かに」
グランが頷いた。
「干す分、燻す分、すぐ食う分で分けるか」
「なら記録もいるね」
クロノが言う。
「どれだけ取れて、どれだけ残るか見たい」
ミリアは少しだけ眉を寄せた。
「……面倒」
「お願いできる?」
ミリアは数秒黙る。それから、小さく息を吐いた。
「やるけど」
嫌そうな顔の割に、断らなかった。
クロノはルナの腰にある短刀を抜く。
刃には、拭き切れなかった黒ずんだ血がまだ残っている。
ルナが解体に使っていたものだ。
クロノは少しだけ躊躇した。
臭いもそうだが、生暖かい肉へ刃を入れる感触そのものに身体が慣れていない。
脂と血の臭いが鼻へ張り付き、胃が微かに軋む。だが、止まっても誰かが代わりにやってくれる訳じゃなかった。
「坊っちゃん、手ぇ切りますよ」
後ろからマルタが呆れた声を出す。
「分かってる」
「分かってる顔じゃありませんねぇ」
クロノは苦笑しながら皮へ刃を入れた。
硬い。
想像以上だった。脂と血で手が滑る。生臭い熱が鼻へ張り付き、思わず顔が歪む。
「……っ」
その横へ、ルナが静かにしゃがみ込んだ。
「貸せ」
「いや、これは覚えないと駄目だから」
ルナは少しだけクロノを見る。
それ以上は言わなかった。
代わりに無言で魔物の脚を押さえる。
細い腕なのに、岩みたいに動かなかった。
「そこ、繋がってる」
短く言う。
「関節から切れ」
「……なるほど」
クロノは刃の角度を変えた。
肉が裂ける。湿った音がした。
周囲で見ていた村人たちが顔をしかめる。だが、目を逸らさない者も増えていた。
「オルドさん、こういうの慣れてる?」
クロノが聞く。
少し離れた場所で縄を編んでいたオルドは、小さく笑った。
「昔は、食える物を選んでる余裕なんぞありませんでしたからなぁ」
穏やかな声だった。
「腹が減れば、大抵のもんは食います」
カインが嫌そうな顔をする。だが反論はしなかった。
クロノは血で滑る手を握り直し、もう一度刃を入れる。
臭いはきつい。手も汚れる。魔物の肉は重く、切るたび嫌な感触が腕へ残った。
それでも、捨てる訳にはいかなかった。
夕方になる頃には、空の色が鈍く沈み始めていた。
冷えた風が川沿いを抜け、水路の表面を細かく揺らしていく。
村人たちは泥だらけだった。
掘った土で靴は重くなり、濡れた裾が脚へ張り付いている。腕も痛い。腰も重い。
それでも、完全に手を止める者はいなかった。
「そっち押さえろ!」
「木ずれるぞ!」
「石、もう一個持ってこい!」
怒鳴り声と、水の流れる音が混ざる。
最初はぎこちなかった。掘っては崩れ、流しては溢れる。文句も多かったし、途中で投げ出しかけた者もいる。
だが、何度かやり直すうちに、少しずつ動きが噛み合い始めていた。
土運びが早い者。石組みが上手い者。逆に、すぐ息が上がる者。作業を続けるうちに、それぞれ見え始めている。
クロノは水路の脇へしゃがみ込み、水の流れを確認した。
まだ弱い。濁りもある。ところどころ削れている場所もあった。明日にはまた直しだろう。
完璧には程遠い。
だが、水は流れていた。川から引いた細い流れが、村の手前まで確かに伸びている。
「……本当に流れたな」
カインが呟く。その声には、朝ほどの棘が無かった。
クロノは泥で汚れた手を軽く払う。
「まだ仮だけどね。崩れる場所も多い」
「いや、それでもだ」
カインは水路を見る。
「川まで行く回数、少し減らせるかもしれねぇ」
近くにいた女たちが、小さく顔を見合わせる。
たった一往復。だが、この村ではその一回が重かった。
少し離れた場所では、ルナが丸太を固定していた。
打ち込んだ杭を片手で押し込み、ずれた石を無言で直していく。汗で濡れた黒髪が首へ張り付いていた。
そこへ、ゲルドがゆっくり歩いていく。
「おい、そっち傾いてる」
ルナがそちらを見る。
ゲルドは地面を杖で突いた。
「そこ削れるぞ。水が逃げる」
ルナは短く頷き、石の位置を直した。
昨日までなら無かった光景だった。
少し離れた場所では、ミリアが木板へ何かを書き込んでいる。
水路の長さ。使った木材。運んだ石の数。
泥で手を汚しながら、淡々と記録していた。
「そんなもん書いて意味あんのか?」
カインが覗き込む。
ミリアは顔を上げない。
「次に失敗しないため」
「うわ、真面目」
「うるさい」
短いやり取りだったが、朝より空気は少し柔らかい。
クロノはその様子を静かに見ていた。
少しずつ、本当に少しずつ。村が動き始めている。
「坊っちゃん」
後ろからマルタが声を掛ける。
「顔色悪いですよ」
「泥まみれだからじゃない?」
「誤魔化さない」
クロノは苦笑した。疲れているのは事実だった。身体も重い。昨日の疲労も抜け切っていない。腕には解体の感触まで残っている。
それでも、水の流れる音を聞いていると、不思議と足は止まらなかった。
水路の脇で、子どもが一人立ち止まっていた。
「水だ……」
小さな声だった。
泥で濁った細い流れを、ただじっと見ている。
「本当に来た」
その言葉に、周囲が少し静かになる。
クロノは水路を見る。濁っている。細い。崩れかけてもいる。だが、確かに流れていた。
冷え始めた風が吹き抜ける。
クロノは泥の付いた手を見下ろし、小さく息を吐いた。
「……いいスタートだね」




