第二話 水路と爪痕
翌朝。
クロノは管理館の外へ出ると、まだ冷たさの残る朝の空気をゆっくり吸い込んだ。
昨夜の露で湿った土が、靴裏へわずかに張り付く。井戸の周囲では、もう水汲みが始まっていた。桶のぶつかる音。滑車の軋み。水を汲み上げる縄の擦れる音が、朝の静けさへ混じっている。
昨日より、人の動きが少し早い。怒鳴り声も減っていた。
補修した桶を叩いて確かめている老人。縄を抱えて走る子供。女たちは肩で息をする回数が減り、水を運び終えた男が壁へ寄りかかったまま動けなくなる姿も無い。
ほんの少し。だが、確かに楽になっている。
「いい傾向だね」
クロノは小さく呟いた。
「準備はできている」
背後から声がした。
振り向くと、ルナが立っていた。朝日を受けた白銀の髪が淡く光っている。表情はいつも通り薄い。だが、昨日より距離が近かった。
「早いね」
「待つ必要はない」
「助かるよ。今日は川を見に行こうか」
ルナは短く頷いた。
村を出ると、朝靄の残る林道へ冷たい風が流れていた。
昨日どけた岩の脇を通る。ぬかるみに敷いた砕石はまだ沈み切っていない。踏むたび、じゃり、と乾いた音が鳴る。
水桶を抱えて歩くなら、この差はかなり大きい。
クロノは歩きながら周囲へ視線を向けた。
崩れかけた斜面。露出した木の根。雨水が土を削った跡。踏み固められ過ぎて窪んだ道。
途中には、何度も水桶を落としたのか、黒く濡れた染みまで残っている。
見れば見るほど、人の疲労が分かる道だった。
(高低差は足りてる。流せるね。ただ、この辺りは崩れそうだ)
頭の中で、水路の線を引く。
必要な板材。支柱。掘る距離。補修頻度。運ぶ土の量。
考えることは多いが不可能ではない。
「……いけそうだね」
ルナが視線を向ける。
「分かるのか」
「ある程度はね。水は高い場所から低い場所へ流れるから、地形を見ると結構分かる」
「経験か」
「そんなところかな」
クロノは苦笑した。
前世でも、結局やっていたことは似ている。
人が止まる場所。物が滞る場所。無駄に往復している場所。
現場が疲弊する時は、大体どこかの流れが詰まっていた。
やがて、川の音が聞こえてきた。
木々の隙間から光が反射している。村より湿った空気が肌へまとわりつき、水の匂いも濃い。浅瀬を流れる水が朝日に揺れ、白く細かく光っていた。
水量は十分ある。
枯れてはいない。
岸辺の草も深く、土も柔らかい。村より、ずっと生きた土地だった。
「やっぱり、水そのものはあるね」
クロノがそう呟いた時だった。
ルナの足が止まる。
「……止まれ」
小さい声だった。
だが、空気が変わった。
クロノもすぐ足を止める。
「何かいる?」
ルナは川辺の土を指差した。
湿った地面へ、深く沈み込んだ跡が残っている。
「足跡?」
人間より明らかに大きい。
しかも、一つではない。いくつも重なっている。
クロノはしゃがみ込み、土へ触れた。
まだ崩れていない。新しい。
近くの草も押し倒され、獣臭が鼻につく。
「魔物かな」
ルナは静かに頷く。
「狼系だ。だが、普通より大きい」
クロノは立ち上がり、周囲を見回した。
川の流れる音は変わらない。だが、鳥の声が無かった。風に枝葉が揺れる音だけが、林の奥で擦れるように鳴っている。
生き物が気配を潜めている時の静けさだった。
「数は分かる?」
ルナは目を細め、林の奥へ視線を向けた。
「……断定はできない。だが、一体ではない」
「縄張りか、水を飲みに来ている可能性もあるね」
クロノは足跡を追った。
岸辺へ向かった跡。そこから林へ戻った跡。同じ場所を何度も通っている。湿った土は深く踏み固められ、草も倒れていた。
かなり頻繁に使っている。
岸辺には、人間の足跡も多かった。水桶を運んだ跡だろう。踏み固められた細い道が川まで続いている。
危険な場所ほど、人手を増やさなければ回らない。
(そりゃ疲弊するよね)
「村人は襲われてる?」
ルナは短く答えた。
「時々」
「……これ、よく死人出てないね」
クロノは川沿いへ視線を向けた。
浅瀬は広い。水は汲みやすい。だが同時に、魔物も近づきやすい地形だった。背の高い草。視界を遮る木々。隠れる場所が多過ぎる。
「水路を作るなら、ここを使うしかないね」
「危険だ」
「そうだね」
別の水源を探すには情報も無く、さらに時間がかかる。井戸だけでは限界がある。結局、この川を使うしかなかった。
問題は、どう安全を確保するか。
「ルナ」
「なんだ」
「戦えるかな」
ルナは一切迷わなかった。
「問題ない」
即答だった。
クロノは少しだけ苦笑する。
(頼もしいね。本当に)
「何体くらいなら大丈夫かな?」
「群れでも構わない」
虚勢は無い。ただ事実を口にしている声だった。
ルナは周囲を警戒したまま続ける。
「ただし、ここで長く戦えば血の匂いが残る。他の魔物も寄る可能性がある」
「なるほど」
クロノは川の上流へ目を向けた。風向きは村と逆だ。匂いも流れる。
「少し引っ張ろうか」
「誘導するのか」
「うん。できれば作業場所を死体だらけにはしたくない」
ルナは何も言わなかったが、反対もしなかった。
二人は川沿いを少し移動する。
湿った草が裾へ絡みつき、朝露が靴へ染みた。踏むたび柔らかい土が沈み、泥が跳ねる。川から離れるにつれ、水音は少し遠くなっていった。
代わりに、獣臭が濃くなる。
湿った毛皮の臭い。生臭さ。獣小屋に近い匂いが風へ混じっていた。
クロノはわずかに眉を寄せる。
「近いね」
ルナは答えない。
ただ、金色の瞳だけが林の奥を見ていた。
その時だった。
低い唸り声が響く。
草が揺れた。
黒い影が、ゆっくり姿を現す。
狼型の魔物。
人間より一回り大きい。濡れたような黒毛。口元から糸を引く唾液。黄色い牙が剥き出しになっている。
一体ではない。奥の林にも気配があった。
ルナが一歩前へ出る。
「来る」
クロノは静かに距離を取った。
「任せるね」
ルナは答えない。
ただ腰を落とし、静かに構える。
空気が張り詰める。
次の瞬間、魔物が地面を蹴った。
湿った土が弾け、黒い影が一直線にルナへ飛びかかった。
牙が迫る。
ルナはぎりぎりまで動かなかった。
届く寸前、半歩だけ身体をずらす。空振った牙が風を裂き、その横顔へルナの拳が叩き込まれた。
鈍い音。
巨体が横へ吹き飛び、木へ激突する。細い幹が大きく揺れ、枝葉がばらばらと落ちた。
間を置かず、二体目が飛び込んでくる。
泥を蹴り上げ、喉元へ噛みつこうとしていた。
ルナは前へ出る。
短く踏み込み、そのまま拳を振り抜いた。
骨が砕ける音が響く。魔物の身体は横転し、湿った地面を転がった。
クロノは少し距離を取りながら周囲を見る。
まだ残り三体いる。
草の揺れ。低い唸り声。林の奥を回る気配。
囲もうとしているのが分かった。
その時、一体が横の茂みから飛び出す。
ルナは振り向かない。
後ろへ半歩下がり、そのまま肘を打ち込んだ。
潰れるような音。
魔物の身体が泥を跳ね上げながら転がっていく。
ルナは追わなかった。
前へ出過ぎず、自然と囲まれない位置を取っている。
(戦い慣れてるね)
呼吸も乱れていない。
金色の瞳だけが静かに魔物を追っていた。
残った二体が距離を取る。
低く唸りながら、隙を窺っていた。
魔物の牙が空を噛むたび、湿った土が抉れる。あれを正面から受ければ、普通の村人では助からない。
ルナが一歩踏み込む。
それだけで、魔物が後ずさった。
力の差を理解している動きだった。
逃げる。
そう判断した瞬間、ルナが地面を蹴る。
一瞬で距離を詰め、拳を叩き込む。重い音と共に魔物の巨体が横倒しになった。
残った最後の一体は悲鳴のような声を上げ、そのまま林の奥へ逃げていく。
草を踏み潰す音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
川の流れる音が戻る。
血の臭いだけが、まだ残っていた。
ルナはゆっくり息を吐く。
白い腕へ血が飛んでいたが、気にした様子は無い。
「終わった」
クロノは周囲を確認した。
踏み荒らされた草。泥へ転がる死体。血で濡れた地面。戦闘の跡が、生々しく残っている。
「……想像以上だね」
正直な感想だった。
強いとは思っていた。だが、ここまでとは思わなかった。
「問題はない」
「怪我も無さそうだね」
ルナは短く頷く。
クロノは魔物の死体へ近づいた。
牙は長く、脚も太い。村人が遭遇すれば、逃げ切れない可能性も高い。
(こんなのが水場にいるなら、そりゃ川へ行きたがらないよね)
ルナは林の奥を見たまま口を開く。
「また来る」
「だろうね」
クロノは頷いた。
水路を作るなら、この問題は避けられない。
見張り。
警戒。
罠。
少なくとも、村人が無防備に水を運ぶ状況は変えなければならなかった。
クロノは魔物の死体を見下ろした。
「これ、放置すると血の臭いで別の魔物が来るね」
ルナは腰の短刀を抜いた。
刃には細かな傷が多い。戦闘用というより、解体や作業に使い込まれた道具だった。
「牙と魔石だけ抜く」
そう言って、ルナは慣れた手つきで魔物へ刃を入れる。
クロノは少し眉をひそめる。
(本当に慣れてるね……)
「残りは捨てるの?」
牙を短刀で取りながらルナは頷く。
「血の臭いが残る。別の魔物を呼ぶ」
「なるほど」
クロノはしゃがみ込み、黒い毛皮へ触れた。
硬い。だが、かなり厚い。
「……この毛皮使えるよね」
ルナが少し黙る。
「使う者はいる」
「肉は?」
「臭いが強い。だが、食べることはできる」
クロノは死体を見回した。
村は貧しく武器も足りない。
冬を越える備えも必要になる。
「持って帰ろうか」
ルナが初めて少しだけ目を見開く。
「……持ち帰るのか」
「捨てるには、ちょっともったいないね」
そのまま魔物の脚を掴み、川辺へ引きずっていく。
「血を抜く」
「運ぶ前に?」
「臭いが減る。肉も傷みにくい」
短い説明だった。
ルナは慣れた手つきで喉元へ刃を入れる。黒ずんだ血が土へ広がり、鉄臭さが一気に濃くなった。
クロノはわずかに眉を寄せる。思った以上に、生々しい。
だが、ルナは気にした様子も無い。
必要な部位を素早く切り分け、淡々と作業を続けていく。
(本当に生活の一部なんだね)
魔物を倒すことも。
解体することも。
たぶん、一人で処理することも。
ルナはずっと、こうしてきたのだろう。
血抜きを終えると、ルナは魔物の後ろ脚を掴んだ。
「運べる?」
「問題ない」
重い肉の塊が持ち上がるが筋肉の軋む音すら無い。
クロノは思わず苦笑した。
「やっぱり、その力おかしいね」
「そうか?」
「うん。すごいよ」
ルナは少し首を傾げたが、それ以上は気にしなかった。
クロノは川の方へ視線を向けた。
浅瀬では、何事も無かったように水が流れている。だが足元には血が広がり、踏み荒らされた草が泥へ倒れていた。
村人たちは、こんな場所まで毎日水を汲みに来ていたのだ。
(そりゃ人も減るよね)
水を運ぶだけで疲弊する。
その上、魔物に怯えながら往復しなければならない。
井戸だけの問題ではなかった。
「群れは減った」
ルナは静かに言う。
「だが、また来る」
「別の群れが入る?」
ルナは頷いた。
「減らしても、川へ来なくなるわけじゃない」
クロノは少し黙り込む。つまり今までも、こうして対処はしていたのだ。
だが、終わらない。
「ルナは今まで討伐してたんだね」
「していた」
「村人も知ってる?」
「血を見れば分かる」
ルナは自分の腕へ付いた血を見下ろした。
「……だが、見ている者は少ない」
クロノは少しだけ納得した。
強いのは知られている。魔物を追い払っているのも知られている。
だが、実際どれほど強いかを見た村人は少ない。
だから恐れられる。
龍人族というだけではない。
血を浴びて戻ってくる無口な女を、人は簡単に理解できない。
「武器は使わないの?」
ルナは少しだけ視線を落とした。
「昔は使っていた」
「今は?」
「壊れる」
短い返事だった。
クロノは思わずルナの拳を見る。
魔物の骨を砕いた腕。
普通の武器では耐えられないのかもしれない。
「なるほどね……」
ルナは林の奥を見たまま口を開く。
「村には、まともな武器も少ない」
「そうだろうね」
クロノは頷いた。
水だけではない。
人手も。武器も。見張りも。
全部足りていない。
だからルナ一人が、穴を埋め続けていた。
魔物。水運び。警戒。
だが、一人では限界がある。
(だから仕組みが必要なんだね)
「見張りは必要だね」
クロノは川辺を見回した。
背の高い草。視界を遮る岩。足を取られそうなぬかるみ。
襲われやすい場所が分かりやすく並んでいる。
「草も刈りたい。隠れ場所が多過ぎる」
「視界を作るのか」
「うん。村人が近づく場所だけでも変えたいね」
ルナは少し黙り込む。
「お前は、よく見ている」
「見ないと死ぬ場所だからね」
クロノは苦笑した。
前世でもそうだった。
疲労。手抜き。後回し。
小さい問題を放置すると、最後には誰かが潰れる。
(前と同じにはしたくないね)
ルナはそんなクロノを静かに見ていた。
「お前は、戦えない」
「そうだね」
「怖くないのか」
クロノは少しだけ考えた。
怖い。
魔物も怖い。失敗も怖い。
だが、それ以上に。
「何も変わらない方が嫌かな」
ルナが目を細める。
「変な奴だ」
「よく言われるよ」
クロノは軽く肩をすくめた。
「でも、君がいて助かった。僕一人なら、ここで詰んでたね」
ルナは少し黙る。
風が白銀の髪を揺らした。
「……力があるだけだ」
「その力が必要なんだよ」
クロノはそう言って、村への道へ視線を向けた。
やることは増えた。
水路。見張り。警戒。武器。人員配置。
問題だらけだ。だが、問題が見えているなら対処はできる。
「戻ろうか」
ルナは短く頷いた。
二人は川を後にする。
村へ戻る道は、来た時より少しだけ騒がしく感じた。風が草を揺らし、遠くで鳥の鳴き声も戻り始めている。
血の臭いはまだ残っていたが、さっきよりは薄くなっていた。




