第二章 第二十三話 管理館が狭い
目を開けた瞬間、クロノは後悔した。
首が痛い。
背中も痛い。
椅子で寝たのだから当然だった。
「坊っちゃん」
聞き慣れた声に顔を上げる。
マルタが呆れた顔で立っていた。
「だから部屋で寝てくださいと」
「寝ようとはしたんだよ」
「言い訳ですね」
「反論出来ないな……」
肩を回しながら立ち上がる。
その瞬間、足元の毛布が動いた。
「うおっ」
「す、すみません!」
慌てて起き上がった若い男へ、クロノは苦笑する。
「こっちこそごめん」
昨日受け入れた流民の一人だった。
管理館の床には毛布が並び、人と人の隙間を縫うように通路が出来ている。
立ち上がるだけで一苦労だ。
「だから言ったでしょう」
「予想以上だったんだよ」
十五人。
頭では分かっていた。
だが実際に同じ屋根の下で寝ると圧が違う。
管理館が狭い。
とにかく狭い。
その時、暖炉の向こうから声が聞こえた。
「ルナ姉」
「……なに」
「おなかすいた」
「……グラン」
「俺は鍋か」
即座に返ってきた声に、管理館のあちこちから笑いが漏れた。
ユノはきょとんとしている。
ルナは分かっていない。
グランだけが納得していなかった。
「朝から騒がしいね」
「坊っちゃんも原因の一人ですよ」
「なんで?」
「椅子で寝てたからです」
理不尽だった。
いや、たぶん理不尽ではない。
そんな事を考えていると、入口の扉が開いた。
冷たい風と一緒にカインが入ってくる。
「クロノ様、起きてる奴が増えてきたぞ」
「そっか」
クロノは管理館を見回した。
昨日は死人みたいな顔をしていた連中が、暖炉の周りで話をしている。
子供も起きている。
少なくとも凍えている人間はいない。
それだけで十分だった。
「じゃあ朝飯の後に話そうか」
「長屋の話か?」
「それもあるし、これからの事もね」
言いながらクロノは天井を見上げた。
狭い。
本当に狭い。
早めに何とかしないと、自分がまた椅子で寝る事になる。
それだけは避けたかった。
朝食が終わる頃には、管理館の中も少し落ち着いていた。
いや、落ち着いたというより、全員が座る場所を見付けただけかもしれない。
暖炉を囲むように人が集まり、中央には木箱が並べられていた。
簡易会議場である。
クロノはその光景を見て肩を竦めた。
「なんか偉そうだな」
「領主なんですから偉いんですよ」
マルタが即答する。
「そこは否定してほしかった」
流民側から小さく笑いが漏れた。
少し空気が柔らかくなる。
クロノはそれを確認してから口を開いた。
「とりあえず、今後の話をしようか」
自然と視線が集まる。
「まず怪我人とか体調悪い人。無理してる人も含めて後で教えて」
その言葉にサラが手を挙げた。
「あの、熱がある子が二人います」
「昨日の子達?」
「はい。少し落ち着きましたけど、もう少し様子見たいです」
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「もちろんです」
思ったより返事が早かった。
クロノは少し安心する。
医者ではなくても、診てくれる人がいるだけで全然違う。
「あと」
エドワンが静かに口を開いた。
「先に確認したい事があります」
「うん」
「我々は、いつまでここに居て良いのでしょうか」
管理館が静かになった。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが聞こえる。
クロノは少し考えた後、首を傾げる。
「帰る場所あるの?」
エドワンが黙る。
答えは分かっていた。
「なら住めばいいんじゃないかな」
今度は流民側が黙った。
あまりにあっさり言われたからだろう。
クロノは続ける。
「もちろん家はまだ無いけど」
「無いんですか」
エドワンが思わず突っ込んだ。
「今から作るからね」
「今からですか」
「今から」
少し笑いが起きる。
クロノもつられて笑った。
「ただ、人手は欲しいんだよね」
南側を指差す。
「長屋も作りたいし、水路も延ばしたいし、道もまだ途中なんだ」
「つまり」
エドワンが言う。
「働け、と」
「いや、一緒にやってほしい」
クロノは即座に首を振った。
「正直、人が足りなくて困ってるんだよ」
ドグが鼻を鳴らす。
「その通りだ」
「昨日も柱を運ぶ人間が足りなくて困ったからね」
「それもその通りだ」
「だから助かる」
クロノはエドワンを見る。
「住む場所は作る。一緒に冬を越そう」
エドワンはしばらく黙っていた。
やがて小さく頭を下げる。
「……よろしくお願いします」
その声を聞いて、管理館の空気が少し変わった気がした。
避難するためではなく。
ここで暮らすための話が始まったからだ。
昼を過ぎて管理館を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
雪は止んでいるが、空は重い。また降り出してもおかしくなさそうだった。
クロノは手袋の中で指を擦りながら南側へ向かう。
長屋予定地には既に人が集まっていた。
「そっちじゃねぇ!」
「いや真っ直ぐだろ!」
「真っ直ぐじゃねぇ!」
朝からドグの声が響いている。
その周囲では村人達に混じって流民の男達も動いていた。丸太を運ぶ者、雪を踏み固める者、縄を引く者。それぞれやる事は違うが、誰も立ち止まってはいない。
昨日来たばかりとは思えないな。
そんな事を考えながら近付くと、エドワンがこちらへ気付いた。
「クロノ様」
「どんな感じかな?」
「想像以上に忙しいです」
苦笑混じりの返事に、クロノも少し笑う。
「それは否定出来ないね」
「ですが、やる事があるのはありがたいです」
エドワンはそう言って再び丸太へ肩を入れた。
その言葉に嘘は無かった。
流民達の顔色は昨日よりずっと良い。疲れてはいるが、ただ座り込んでいた時とは違う。
そこでドグが近付いてきた。
「坊主」
「何?」
「柱が足りねぇ、人も足りねぇ」
「もう少し人を回すようにミリアに伝えとくよ」
「おう、頼むぞ」
ドグは真顔だった。
クロノは周囲を見回す。
管理館はもう限界だ。昨日は自分まで椅子で寝る羽目になった。
流民達だけじゃない。
村人達も分かっているから、朝から誰も文句を言わずに動いている。
「エドワン」
「はい」
「午後から何人か伐採手伝える?」
「大丈夫です」
返事が早い。
「助かる。俺もまた椅子で寝るのは嫌だからね」
一瞬だけ静かになり、それから周囲から笑いが漏れた。
ドグまで鼻で笑っている。
「理由が小せぇ」
「でも本音だよ」
長屋は村のためでもある。
けれど、管理館の床で人を避けながら歩く生活はもう十分だった。
その時だった。
「クロノ様ー!」
遠くからカインが走ってくる。
見張りの交代帰りらしく、肩に軽く雪が積もっていた。
「どうしたの?」
「森の方がまた獲物が少ねぇんだよ」
クロノは少しだけ眉をひそめる。
最近ずっと続いている話だ。
「ルナは?」
「さっきまで森を見てた」
「それもいつも通りだね」
「まぁそうなんだけどよ」
カインは西の大森林へ視線を向ける。
「なんか嫌な感じがするんだよな」
クロノもつられて森を見る。
雪を被った木々は静かなままだ。
正直、自分には分からない。
だがルナもカインも同じ事を言う。
なら気に留めておくべきなんだろう。
「んー、今は長屋優先だけど……」
クロノはそう言って手を叩いた。
「雪降る前に少しでも進めよう」
「もう降ってるぞ」
ドグが即座に突っ込む。
確かにその通りだった。
クロノは空を見上げ、それ以上反論するのをやめた。
南側を一通り見て回ったクロノは、ようやく一息つこうと管理館へ戻っていた。
本当に一息だけのつもりだった。
「クロノ様」
後ろから声が飛んでくる。
振り返ると栗色の髪の流民の女性がいた。
両腕いっぱいに薬草を抱えている。
しかも笑顔だった。
経験上、こういう笑顔は逃げられない。
「そういえば、ちゃんと挨拶してませんでした」
サラが軽く頭を下げる。
「サラです。薬師見習いをしてました」
「クロノです」
「それは知ってます」
即答だった。
クロノは少し笑う。
「まぁそうだよね」
「村に入る前から何度も聞きましたから」
「薬師って事は薬を作れるの?」
「少しなら」
「助かるよ」
「その代わり薬草は酷かったです」
「今それ聞きたくないな」
「薬草置き場、見てもらえます?」
「見ても分からないんだけど」
「大丈夫です。私もびっくりしましたから」
全然大丈夫な気がしない。
だがそのまま管理館裏まで連れて行かれた。
吊るされた薬草を見上げながら、サラは大きくため息を吐く。
「思ったより酷かったです」
「そんなに?」
「そんなにです」
クロノも一緒に見上げてみる。
正直よく分からない。
緑色の葉っぱが大量に吊るされているだけに見える。
「ちなみに何が駄目なの?」
「全部です」
サラは一本摘まみ上げる。
「これは湿気を吸ってます。こっちは乾燥し過ぎです。こっちは……」
そこで言葉を切った。
「どうしたの?」
「カビかけてます」
クロノは思わず顔をしかめる。
「それは聞きたくなかったな」
「私も見たくありませんでした」
サラは真顔だった。
どうやら笑い事ではないらしい。
「今までよく誰も倒れなかったね」
「本当にそう思います」
そこで後ろから足音が近付いてきた。
鍋を抱えたグランだった。
「こんなとこで何やってんだ?」
「怒られてる」
「怒ってません」
サラが即座に否定する。
「まだ」
「まだ?」
嫌な予感しかしない。
サラは別の束を持ち上げた。
「火葉草ですけど」
「ああ」
「半分くらい香り飛んでます」
一瞬沈黙が落ちる。
「……マジで?」
今度はグランが固まった。
「マジです」
「俺の火葉草が……」
「村のですよね」
サラが冷静に訂正する。
グランは膝をついた。
クロノは吹き出しそうになるが、たぶん笑う場面じゃない。
いや少し面白い。
「置き方変えるだけで良くなるの?」
「かなり変わります」
「じゃあ頼もうかな」
「最初からそのつもりです」
返事が早い。
薬草の良し悪しなんて自分には分からない。
だが分かる人間がいるなら任せればいい。
それに村へ来てからのサラは、怪我人を見たり熱を測ったりで休む暇も無かった。
「無理してない?」
何となく聞くと、サラは少し目を丸くした。
「急ですね」
「いや、ずっと働いてるから」
「大丈夫ですよ。皆さんの方が働いてます」
「それは比較対象がおかしいなぁ」
思わず苦笑する。
ドグもゲルドもカインも、基準にしてはいけない人種だった。
その時、遠くから木を倒す音が響いた。
長屋建築はまだ始まったばかりだ。
やる事は相変わらず山ほどある。
それでも、薬草を見られる人がいて、怪我人を診られる人がいる。
それだけで少し気が楽になるのだから不思議だった。
薬草置き場から逃げるように離れたクロノは、そのまま村の外れまで歩いていた。
薬草は難しい。
というか、今まで何となく吊るしていただけだった事実が恐ろしい。
そんな事を考えているうちに、西の大森林が見える場所まで来ていた。
切り株へ腰掛けていたルナがこちらへ視線を向ける。
「サラに怒られた?」
「怒られてはない……たぶん」
少し自信が無かった。
ルナの口元が僅かに緩む。
本当に少しだけだったが、クロノはちゃんと気付いた。
「面白そうだね」
「少し」
認めた。
珍しい。
クロノは隣の切り株へ腰を下ろした。冷たいが、管理館の騒がしさから離れるには丁度良かった。
「森見てたの?」
「見てた」
「まだ変?」
ルナはすぐには答えず、雪を被った森へ視線を向けた。
「前より変」
「前より?」
「鳥が少ない」
クロノも同じ方向を見る。
だが、自分には分からない。
静かな森にしか見えなかった。
「そんなに違う?」
「違う。前はもっと音があった」
そこで終わらず、ルナは続ける。
「鳥もいたし、小さい獣もいた。今は静か過ぎる」
珍しく説明している。
クロノは少し驚きながら話を聞いた。
「冬だからじゃなくて?」
「冬でもいる」
少し強い口調だった。
それだけ気になっているのだろう。
「正直、俺には分からないんだよね」
「知ってる」
「ひどくない?」
「クロノは森育ちじゃない」
妙に納得してしまう。
ルナは森から目を離さないまま、小さく息を吐いた。
「気付かないのは普通。でも、何かいる気がする」
「魔物?」
「それも分からない」
「分からないのに気になる?」
「だから気持ち悪い」
その言葉は妙に納得出来た。
理由は説明出来ないのに引っ掛かる。そういう感覚は誰にでもある。
しばらく二人で森を眺めていると、風に揺れた枝から雪がさらりと落ちた。
「無理はしないでね」
クロノがそう言うと、ルナがようやく視線を向ける。
「私が?」
「ルナが」
「大丈夫」
「大丈夫って言う人ほど大丈夫じゃないんだけど」
「クロノも言う」
「……言うね」
否定出来なかった。
ルナは少し満足そうだった。
「でも本当に気を付けて。最近ずっと森見てるし」
「心配?」
「いつもしてるよ」
何を今さらと言いたげに返すと、ルナは一瞬だけ目を瞬かせ、それから視線を逸らした。
「……そう」
短い返事だったが、どこか柔らかい。
その時だった。
「ルナ姉ー!」
遠くからユノの声が飛んでくる。
雪を蹴りながら一直線だ。
ルナは小さくため息を吐いた。
「来た」
「来たね」
「いつも探されてる」
「懐かれてるんだよ」
「知ってる」
困ったような顔をしているくせに、追い返す気は無いらしい。
クロノは思わず笑いながら立ち上がった。
「戻ろうか」
「長屋?」
「長屋」
ルナも立ち上がる。
休憩は終わりだ。
南側からは、もうドグの怒鳴り声――いや、作業を急がせる声が聞こえてきていた。
長屋予定地の片付けが終わる頃には、空は赤く染まり始めていた。
村人達も流民達も道具を抱え、それぞれ管理館へ戻り始めている。
クロノもルナと並んで歩いていた。
「今日はだいぶ進んだね」
「進んだ」
「明日には柱も立ちそうかな」
そんな話をしていた時だった。
⸻
ズズン――――
⸻
遠く、西の大森林の奥。
地面が震える。
枝に積もった雪が一斉に落ちた。
誰も動かない。
クロノも反射的に西の大森林を見た。
音は一度だけ。
隣を見る。
ルナは森を見ていた。
金色の瞳が細くなる。
その表情を見た瞬間、クロノの背筋を冷たいものが走った。
「ルナ?」
しばらく返事は無かった。
やがてルナは小さく口を開く。
「……あれは良くない」




