第二十二話 温かい村
朝の空気は刺すように冷たかった。管理館の扉を開けた瞬間、白い息がふわりと広がる。踏み固められた雪が靴の下で硬く鳴った。
「……寒いな」
クロノは肩を竦めながら空を見上げる。まだ薄暗い。夜明け前の村は静かで、遠くの見張り台に灯る火だけが揺れていた。
その時、不意に腹を刺激する匂いが流れてきた。肉とも違う。焼いた匂いでもない。温かい何かを煮込んだ香り。
クロノは匂いに引かれるまま管理館裏へ回った。
「お、起きたかクロノ様」
炉の前で、大鍋を覗き込んでいたグランが振り返る。赤々と燃える火。鍋の隙間から白い湯気が絶えず漏れていた。
「何してるの?」
「氷魔兎の骨を煮てるんだ」
「骨?」
クロノが鍋を覗き込む。白く濁った湯の中で、細かく砕かれた骨がぐつぐつと煮えていた。刻まれた根菜。干しキノコ。細く裂かれた氷魔兎の肉。香草の匂いが湯気に混ざって広がっている。
「一週間前から干してた肉があったろ。あれ削いだ時に骨が残ってたからな。オルド爺に聞いたんだよ。寒い土地じゃ骨も煮るってな。捨てるにゃ惜しいだろ」
「あぁ……なるほど」
グランは木杓子で鍋をゆっくり混ぜる。
「肉だけじゃ腹持ち悪ぃからな。根菜と麦も入れてる。朝飯には丁度いい」
鍋の中で柔らかく煮えた具材が揺れる。白く濁ったスープは見るだけで身体が温まりそうだった。
(完全に出汁だよな……)
香草の奥からじわりと旨味の匂いが来る。思わず腹が鳴りそうになる。
「飲んでみるか?」
差し出された木椀を受け取り、クロノは慎重に口をつけた。熱い。だが次の瞬間、思わず目を細める。
「……うまいね、これ」
骨の旨味がじわっと広がる。塩気は強くない。それでも味が深い。柔らかく煮えた根菜の甘みと、氷魔兎の肉の旨味がよく合っていた。
「だろ?」
グランが満足そうに笑った。
雪を踏む音が近付いてくる。
振り返ると、ルナがこちらを見ていた。灰白色のマフラーに顔を少し埋め、揃いの手袋をしたまま鍋へ視線を向けている。
「おはよう、ルナ」
「……おはよう」
「新しい家はよく眠れた?」
ルナは少しだけ間を空けてから頷いた。
「……あったかかった」
その返事に、クロノは少しだけ安心する。
「……いい匂い」
「お前鼻いいなぁ」
グランが椀を差し出す。ルナは少しだけ迷ってから受け取り、静かに口をつけた。
数秒、無言。
それから、もう一口飲む。
「……うまい」
「分かりやすいなぁ」
クロノが笑うと、グランも吹き出した。
すると今度は、匂いにつられた村人達がぽつぽつ集まり始める。
「なんだこの匂い……」
「朝から鍋か?」
水桶を抱えた村人がクロノへ気付き、軽く頭を下げた。
「クロノ様、おはようございます」
「おはよう。早いね」
「雪が降る前に水汲み終わらせたくて」
別の村人も鍋を覗き込みながら笑う。
「うわ、肉入ってる」
「グラン! 俺にもくれ!」
「並べ! 勝手に取るな!」
火が鳴り、湯気が立ち、管理館裏が少しずつ賑やかになっていく。
クロノは木椀を持ちながら、鍋を囲み始めた村人達を眺めた。
管理館裏はすっかり朝飯の空気になっていた。
鍋を囲む村人はどんどん増え、グランは「並べ並べ!」と木椀を配り続けている。
「うわ、肉入ってんじゃねぇか」
「根菜めちゃくちゃ染みてる……」
「朝からこれはずるいだろ」
湯気の向こうで、村人達の顔が少しずつ緩んでいく。
ルナも火の近くへ座り、静かに椀を空にしていた。
クロノはその様子を見て苦笑する。
「……それ、もう二杯目じゃない?」
ルナは椀を抱えたまま少し視線を逸らした。
「……なくなる前に食べる」
「取られないよ」
するとグランが豪快に笑う。
「冬は食える時に食っとけ。遠慮して腹減らす方が損だ」
そんなやり取りをしていた、その時だった。
――ガンッ!!
乾いた金属音が村に響いた。
管理館裏の空気が止まる。
もう一度。
――ガンッ!! ガンッ!!
見張り台の鐘。
鉄鍋を叩く音だった。
「北か?」
「この時間に……?」
村人達の表情が変わる。
クロノは木椀を置き、立ち上がった。
少し遅れて、雪を蹴る音が近付いてくる。
「クロノ様ー!」
見張り班のカイン達が駆け込んできた。肩には雪が積もっている。
「どうしたの?」
「北側に人がいた。雪ん中で座り込んでる」
「何人くらいいるの?」
「十五くらい。ガキ連れてる奴もいたけど、荷物はほとんど持ってねえみたいだ」
「武器は持ってる感じじゃない?」
「槍一本見えたくらいだな。あれじゃ戦うってより杖代わりだ」
クロノは眉を寄せた。
北側。
帝国との緩衝地帯。
この時期にそこから来る理由なんて、一つしか思い浮かばない。
「……おそらく流民だね」
「たぶんな。このままだと保たねぇと思う」
クロノは数秒考える。
鍋はまだ残っている。火もある。管理館を空ければ人は入れられる。
問題は寝床だ。
「グラン」
グランは木杓子を持ったままクロノを見る。
「……受け入れるんですよね?」
「そうだね」
「あいよ。鍋追加だな」
返事と同時に、グランはもう別の鍋を引き寄せていた。
「火鉢も増やしたいんだけど、薪は足りる?」
「ドグ達起こしゃ何とかなる」
「助かるよ」
そのやり取りを聞いていた村人達も自然と動き始める。
「毛布出してくる!」
「管理館片付けろ!」
「子供優先だな!」
クロノは外套を羽織りながら、カインへ視線を向けた。
「案内してくれるかな」
「おう」
北の柵の向こうでは、雪が降り始めていた。
雪はまだ強くない。
だが空は重く、白く濁っている。
「こっちだ」
先を歩くカインが振り返りながら手を上げる。見張り班の足跡が薄く雪に残っていた。
クロノは外套を押さえながら前を見る。
遠く。
白い景色の中に、人影が見えた。
雪原へ座り込むように集まっている。
近付くにつれ、空気が重くなる。
誰も喋らない。
痩せた男。
子供を抱えたまま座る大人達。
荷物も少ない。
まともな防寒具すら足りていなかった。
その中で、一人の男がゆっくり立ち上がる。
「……突然すまない」
まだ若い。
三十を少し過ぎたくらいだった。
疲労は濃いが、目だけはまだ死んでいない。
「俺はエドワン。北の集落から逃げてきた」
クロノは小さく頷く。
「ローデン村で領主をしているクロノです」
「……領主様がわざわざ」
「そんな立派なものじゃないよ」
エドワンは一瞬だけ周囲を見る。
警戒しているというより、覚悟を決めている顔だった。
「お願いします。子供達だけでも助けてください」
後ろの方で、小さな咳が聞こえた。
クロノは流民達を見回す。
顔色が悪い。唇も青い。
この寒さの中、もう長くは動けないのが分かった。
「北で何があったの?」
「徴収です」
エドワンが短く答える。
「食料も、人も持っていかれて。残った村も荒れて、冬前には住める場所では無くなったんです」
淡々とした声だった。
もう何度も説明してきたのかもしれない。
クロノが視線を動かした、その時だった。
「あれ……?」
小さな声。
毛布代わりの布を抱えた少女が、クロノの後ろをじっと見ていた。
振り返ると、ルナが立っている。
灰白色のマフラーに顔を少し埋め、静かに流民達を見ていた。
少女は目を丸くする。
「……おねえちゃん?」
その声に、ルナの動きが止まった。
少女は数秒きょとんとしたあと、ぱっと顔を明るくする。
「やっぱりおねえちゃんだ!」
周囲の流民達が一瞬だけ固まる。
だが少女は気にした様子もなく、雪を踏みながらルナへ近付いた。
「むかし会ったよね!」
「……」
ルナは少しだけ目を見開いていた。
クロノが首を傾げる。
「知り合い?」
少女――ユノは嬉しそうに頷く。
「うん!わたしの名前はユノだよ!」
だがルナは少し間を空けてから、小さく答える。
「……少しだけ」
ユノはそんな事お構いなしに、ルナのマフラーを見上げた。
「それ、かわいい」
ルナは少しだけマフラーへ触れる。
「……もらった」
クロノはそのやり取りを見ながら、静かに流民達へ視線を戻した。
もう迷っている時間は無い。
「カイン」
「おう」
「動けない人から運ぶ。子供優先で」
「了解」
クロノはエドワンへ向き直る。
「とりあえず、村の中へ。ここじゃ凍えるからね」
その言葉を聞いた瞬間、流民達の空気がわずかに緩んだ。
村へ近付くにつれ、流民達の足取りが少しずつ重くなっていった。
痩せた子供を抱えたまま歩く者もいる。
もう限界が近いのだろう。
だが、柵を越えた瞬間。
「……あったかい」
誰かが小さく呟いた。
かがり火が燃えている。雪掻きされた道がある。
管理館裏からは白い湯気が立ち上り、骨出汁の香りが風に乗って流れていた。
「毛布こっちな!」
「火鉢空けろ!」
「鍋まだあるぞ!」
管理館裏では、村人達が慌ただしく動いている。
怒鳴るような声ばかりなのに、不思議と空気は荒れていない。
流民達は呆然としたまま周囲を見回していた。
「……辺境村、だよなここ」
若い男がぽつりと呟く。
クロノは思わず管理館裏へ視線を向けた。
火鉢。鍋。かがり火。
毎日見ていた光景だったが、外から来た人間には違って見えるらしい。
その横で、栗色の髪の流民の女性が子供達を火鉢の近くへ座らせていた。
「ほら、こっちおいで。転ばないでね」
子供達は火へ手を伸ばしながら、じっと鍋を見ている。
グランが鍋をかき混ぜながら大声を上げた。
「取りに来ないと冷めるぞ! 食う奴から来い!」
その瞬間、流民達の視線が一斉に鍋へ向いた。
白い湯気の向こうで、肉と野菜がぐつぐつ揺れている。香草と骨出汁の匂いが流れるたび、視線が鍋へ吸い寄せられていた。
クロノは鍋の前へ立つと、木椀を一つ手に取る。
「……まず食べてください。話はそのあとで」
最初に動いたのはユノだった。
「わ……」
差し出された木椀を両手で抱え、湯気へ顔を近付ける。
「すご……」
後ろでは、他の流民達も鍋から目を離せなくなっていた。
クロノはその様子を見て、ようやく気付く。
ここへ来るまで、まともに食べられていなかったのかもしれない。
その後ろで、エドワンが深く頭を下げた。
「……恩に着る」
クロノは小さく首を振る。
「冷める前にどうぞ」
流民達はまだ半信半疑の顔をしていた。
だが一人、また一人と鍋へ近付いていく。
その様子を見ながら、ルナは静かに火鉢へ薪を足していた。
鍋を受け取った流民達は、最初こそ遠慮がちだった。
だが、一口食べた途端、空気が変わる。
喋る余裕すら無かったのだろう。
木椀を抱えたまま、黙々と食べ始める。
熱い湯気が白く立ち上り、凍えていた頬へ少しずつ色が戻っていった。
ユノも火鉢の前へ座り込み、夢中でスープを飲んでいる。
「あつっ……でもおいしい」
「慌てなくていいからね」
クロノが苦笑すると、ユノは木椀を抱えたまま何度も頷いた。
「こんなの久しぶり……」
その言葉に、クロノは少しだけ視線を落とす。
エドワン達も同じだった。
食べる手が止まらない。
おかわりを勧める前に、鍋の方を見てしまっている。
グランはそんな様子を見ながら鼻を鳴らした。
「まだある。なくなる前提で食うな」
流民達の空気が、ほんの少しだけ緩む。
その横で、先ほどの流民の女性は老人へ木椀を渡していた。
「熱いからゆっくりね」
「……すまん」
「ちゃんと食べてくれた方が助かるよ」
穏やかな声だった。
クロノは管理館裏を見回す。
火鉢の周りには子供達。毛布を運ぶ村人。鍋をかき混ぜ続けるグラン。
ルナは静かに薪を足しながら、空いた木椀を回収していた。
「クロノ様」
ミリアが小声で近付いてくる。
「寝床どうする?」
「管理館は使う。あと空いてる家も」
「……管理館、もう限界です」
ミリアが小さく視線を動かす。
火鉢の周りでは、流民達が毛布へ包まったまま眠り始めていた。
空いている場所もほとんど無い。
「空き家、もう無い?」
「……昨日、ルナさんが入ったので最後でした」
「あぁ……そっか」
クロノは頭を掻く。
今日だけなら何とかなる。
でも次に誰か来たら、もう入れない。
「……長屋かな」
「長屋?」
「一軒ずつ建てるより早いと思う。暖炉もまとめられるし」
雪の中で何軒も建てるよりずっといい。
暖炉も共有出来る。木材も減る。
雪の中で何軒も建てるより、ずっと楽だ。
クロノは頭の中でざっくり形を組み始める。
「ドグさん達にも無理させ過ぎなくて済むし」
「……なるほど」
ミリアが小さく頷く。
「南側なら作れます」
「うん。道もそのまま繋げたい」
クロノは頭の中で南側の空き地を思い浮かべた。
「ちゃんと休める場所は作りたいんだよね」
ミリアは少しだけ目を細める。
「……クロノ様らしい」
クロノは火鉢の向こうを見る。
鍋を抱えたユノが、ルナへ何か話しかけていた。
ルナは少し困った顔をしながらも、ちゃんと返事をしている。
その光景を見ていたエドワンが、小さく呟いた。
「……あの龍人族の嬢ちゃん、優しいんだな」
辺境では珍しい言葉だった。
「怖くないの?」
思わずそう聞くと、エドワンは火鉢へ手をかざしながら苦く笑う。
「怖がってる余裕なんて、もう無かったよ」
その言葉に、クロノは返事をしなかった。
代わりに、湯気の向こうを見る。
ユノが笑っている。
ルナは少しだけ困った顔のまま、また薪を火鉢へ入れていた。
流民達を管理館へ移し終える頃には、空はすっかり暗くなっていた。
外は冷え込んでいるが、管理館の中は火鉢と人の熱で思ったより暖かい。
子供達は毛布へ包まったまま眠り始め、大人達もようやく肩の力を抜いている。
クロノは入口近くで人数を確認していたミリアへ声を掛けた。
「どう?」
「今日だけなら何とか収まります」
「やっぱり厳しいよね」
クロノは管理館の中を見回す。
壁際まで人が座り、火鉢の周りにも毛布が並べられていた。
「……家、増やさないとだね」
自然と口から漏れる。
ミリアが小さく頷いた。
「クロノ様ー」
管理館の奥から、グランが顔を出す。
「鍋空いたぞ。明日の分どうする?」
「……まだ作るの?」
「当たり前だろ。あいつら明日も腹減るぞ」
クロノは少しだけ笑った。
「じゃあお願い。無理しない程度で」
「そりゃこっちの台詞だ」
グランはそう言い残し、また奥へ戻っていく。
火鉢の前では、ユノがいつの間にかルナへ寄り掛かったまま眠っていた。
ルナは困った顔のまま動かない。
流民の女性もその様子を見て、小さく笑っている。
クロノはその光景を眺めながら、静かに管理館の壁へ背を預けた。




