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第二十一話 月龍の追憶

 星降りの谷は、夜になると星がよく見える。


 切り立った岩壁に囲まれた谷の上には、零れ落ちそうなほどの星々が広がり、崖沿いに灯された火が静かに揺れていた。岩を削って作られた家々の間を細い渡り通路が繋ぎ、一族の者達はそれぞれ火を囲みながら夜を過ごしている。


 谷は静かだった。

 風の音。

 火の爆ぜる音。

 時折聞こえる話し声。

 それだけで十分だった。


 少女は家の前の大きな岩へ腰掛け、膝を抱えながら空を見上げていた。銀色の髪が夜風に揺れ、頭の横から伸びた二本の角が星明かりを淡く反射する。


 後ろで扉が開く音がした。


「そんな所にいたか」

 低く落ち着いた声に振り返ると、大きな男が立っている。

 少女の父だった。


 谷の男達の中でも一際大きい。分厚い毛皮を肩へ掛けた体は岩のように分厚く、首筋から覗く黒灰色の鱗には無数の傷跡が走っていた。長い黒髪は後ろで無造作に束ねられ、額の横から伸びた二本の角には、古い斬傷が深く刻まれている。


 一見すると威圧感の塊みたいな姿だった。

 けれど少女は、その金色の瞳を怖いと思った事がない。


 父は少女の隣へ腰を下ろした。どしり、と岩が小さく鳴る。毛皮と火の匂いがふわりと流れ、少女は少しだけ肩の力を抜いた。


「母様が探してたぞ」

「もう戻る」

「なら、少しだけ付き合え」


 父はそう言って空を見上げる。

 少女もつられて夜空を見た。


 星降りの谷では、夜に空を見上げる事は特別ではない。流れ星は珍しくなく、谷の者達は昔から星を眺めながら火を囲んで生きてきた。


「父様は、谷の外へ行った事ある?」

「ああ。若い頃にな」

「どんなところだった?」

 父は少し考え込む。

「人が多かった。谷より狭い場所に、谷よりもっと多くの奴らが暮らしてる。昼でも夜でも誰かが喋ってて、静かな時間が少ない」

「そんなに違うんだ」

「違うな。火の音より、人の声や物音の方が大きい」


 少女はもう一度空を見上げた。


 谷では、火の爆ぜる音や風の流れる音の方が近い。だから父の言葉だけでは、外の景色はまだ上手く想像できなかった。


「外にも、こんな星はある?」

「あるさ。ただ、空を見る余裕が無い奴も多い」

「どうして?」

「生きるのに必死だからだ」

 少女にはまだ、その意味がよく分からない。


 谷では、皆が静かに火を囲み、星を見て眠る。それが当たり前だった。


 父はそんな少女を横目に見ながら、小さく笑う。

「お前は昔から、外を気にしてるな」

「……少しだけ」

「なら、いつか見に行けばいい。谷の外で生きてる者もいる。商隊の護衛をしてる奴もいれば、傭兵みたいに各地を渡り歩いてる奴もいるからな」

 少女は少し驚いた顔で父を見る。

「谷を出る人って、結構いるの?」

「多くはない。だが、お前が思ってるより外は広い」


 父はそう言って、大きな手を少女の頭へ乗せた。

「強い力は、谷の外じゃ役目になりやすい。人は怖がるが、それ以上に必要ともする」

「父様も外で戦ってたの?」

「若い頃にな。だが俺は、こうして火を見てる方が性に合ってた」

 少女は父を見上げる。

 確かに父は、人混みより焚き火の方が似合う気がした。


 ごつごつした大きな手が、銀色の髪をゆっくり撫でる。

「ただ、お前は強すぎる。谷の外では、その力に怯える者もいるだろう」

 父の声は静かだった。

 脅しているわけではない。

 心配しているのだと、少女にも分かった。



 少女が初めて父と谷の外へ出たのは、まだ角も小さく、小柄だった頃だ。


 谷を囲む岩壁を抜けると、空気の匂いが変わる。

 湿った土の匂い。青い草の香り。風に揺れる木々の音。

 深い森だった。


 少女は父の後ろを歩く。

 大きな背中だった。毛皮を掛けた広い肩は岩のように分厚く、首筋から覗く黒灰色の鱗には古い傷がいくつも残っている。背中へ担がれた長柄の狩猟槍は、大人の男でも扱うのが難しそうな大きさだった。


 けれど父は、それを当たり前みたいに持って歩く。

 しかも足音がほとんどしない。

 少女は昔から、その歩き方が好きだった。


「足元ばかり見ない」

 前を歩いたまま父が言う。

「森は下だけじゃない。風も動く。枝も揺れる。匂いも変わる」

 少女は顔を上げた。

 風が流れる。枝葉が揺れる。草が擦れる。

 今までただの森にしか見えなかった景色に、少しずつ違いが見え始める。


「……いた」

 少女が小さく呟く。

 二本の木の間。

 奥の茂みが少しだけ揺れた。

 父は振り返りもせず、小さく頷く。

「見えるようになってきたな」

 父は狩りの時、必要以上に喋らない。

 けれど時々ぽつりと零す言葉を、少女はよく覚えていた。

「強い獣ほど、自分の力を信じてる」

 父が静かに言う。

「だから気配を隠さなくなる。森じゃ、その油断が一番危ない」

 少女は黙って頷いた。


 しばらく進むと、父が片手を軽く上げる。

 止まれ、の合図だった。

 少女も足を止める。

 少し先の茂みで、小さな獣の鳴き声がした。

 鹿によく似た獣が、地面の草を食んでいる。

 少女は腰の短槍へ手を伸ばしかけた。

「まだ遠い」

 低い声が飛ぶ。

 少女は反射的に動きを止めた。

 父がそう言う時は、大抵正しい。

 焦って仕留め損ねれば、逃げた獲物より先に自分が怪我をする。少女はそれを、何度も教わっていた。


 そっと槍から手を離す。

 父は静かに獲物を見据えていた。

 風向きが変わる。

 獣の耳が動いた。

 その瞬間、父が地面を踏み込む。

 巨体が森を裂くように駆けた。

 速い。

 少女の目でも、一瞬見失うほど速かった。

 長柄の槍が獣の首元を正確に貫く。獣は短く鳴き、そのまま崩れ落ちた。


 父は倒れた獣へ近付き、静かに槍を引き抜く。

「長く苦しませるな」

 それだけ言って、血を払った。

 少女は黙って頷く。

 父はそのまま槍を少女へ差し出した。

「持ってみるか」

 少女は少し驚きながら槍を受け取る。


 本来なら少女の体には大きすぎる槍だった。けれど握ってみると、不思議と重さを感じない。

 軽く振る。

 ぶん、と風が鳴った。

 父の金色の瞳が、僅かに細くなる。

「……やはり、お前は強いな」

 嬉しそうでもなく、困っているわけでもない。

 ただ静かに確認するような声だった。

 少女は不思議そうに槍を見る。

 父はそんな少女の頭へ大きな手を置いた。

「力は、生きるために使え」

 ごつごつした手だった。

 狩りと岩仕事で硬くなった指先は少し痛い。それでも少女は、その手の重さが嫌いじゃなかった。



 少女が成長するにつれて、谷の者達は少しずつ視線を変え始めた。

 狩りへ出れば、大人達より先に獣を見つける。

 崖道を駆ける速さも、同世代とは比べものにならない。

 若者達が二人掛かりで運ぶ獲物を、一人で引きずって帰ってくる事もあった。

 それでも最初の頃は、皆笑っていた。

「父親そっくりだ」

「将来が怖いな」

 そんな声を、少女も聞いていた。

 父も母も何も言わなかった。

 ただ、以前より少し長く少女を見る事が増えた。


 変わり始めたのは、冬の終わりだった。

 谷へ、大型の魔物が降りてきた。

 黒灰色の長毛に覆われた巨大な獣だった。四足なのに岩壁ほど高く、前脚は木の幹みたいに太い。額から捻れた角が突き出し、口の端から覗く牙は岩みたいに鈍く光っていた。


 谷の者達が慌ただしく動き始める。

 父も長槍を手に外へ出た。

 少女も後を追おうとして、腕を掴まれる。

 母だった。

「駄目」

 静かな声だった。

 けれど指先には強く力が入っている。

「でも、父様が」

「今は待ちなさい」

 外では既に戦う音が響いていた。

 槍がぶつかる音。

 岩が砕ける音。

 怒号。

 谷の静けさが崩れていく。


 母は少女を庇うように立ちながら、周囲へ声を飛ばしていた。

「子供達を中へ!」

「火を消さないで!」

 普段の穏やかな姿とは違う。

 それでも少女の腕だけは、最後まで離さなかった。


 次の瞬間だった。

 魔物が大きく口を開く。低い唸り声が谷へ響き、直後、轟音と一緒に岩壁が爆ぜた。衝撃が地面を走り、槍を構えていた男達がまとめて吹き飛ばされる。火の粉が舞い、砕けた岩が雨みたいに降り注いだ。

 少女の瞳が大きく開く。


 谷の中央では、父達が魔物を押し留めていた。長槍が振るわれ、鋭い穂先が魔物の首元へ突き刺さる。だが分厚い毛皮と硬い筋肉が致命傷を許さない。魔物は咆哮と共に体を捻り、前脚を振るった。

 岩ごと地面が砕ける。

 吹き飛ばされた男が壁へ叩き付けられ、鈍い音が響いた。


「下がれ!」

 父の声が飛ぶ。再び長槍が突き出される。狙いは喉元。けれど魔物は槍ごと父を弾き飛ばし、その巨体を少女の方へ向けた。

 少女の呼吸が止まる。

 気付けば、母の手を振り払っていた。

「待ちなさい!」

 声が背中へ飛ぶ。

 けれど少女は止まれなかった。


 地面を蹴る。一歩で風景が流れ、次の瞬間にはもう魔物の懐へ飛び込んでいた。巨大な腕が振り下ろされる。空気が潰れるみたいな轟音だった。

 少女は咄嗟に横へ跳ぶ。

 直後、さっきまで立っていた場所へ前脚が叩き付けられ、岩が砕けて土煙が吹き上がった。

 速い。

 大きいのに、信じられないほど速い。


 少女は土を滑るように踏み込み、そのまま短槍を突き出す。狙ったのは前脚の付け根だった。分厚い毛皮を裂き、穂先が深く肉へ沈む。確かな手応えがあった。


 だが次の瞬間、嫌な音が響く。

 槍の柄が途中から砕けていた。

 衝撃に耐え切れなかった。


 それでも魔物の巨体は大きく浮き上がり、そのまま岩壁へ叩き付けられる。谷が揺れ、誰かが息を呑む音がした。

 少女自身も、一瞬何が起きたのか分からなかった。

 魔物はまだ生きている。

 咆哮を上げながら起き上がり、再び口を開いた。


 また来る。


 そう思った瞬間には、少女はもう踏み込んでいた。砕けた槍を投げ捨て、そのまま魔物の懐へ潜り込む。

 拳を握る。

 狙ったのは顎の下だった。

 拳が叩き込まれた瞬間、鈍い衝撃が腕を突き抜ける。骨の軋む音と一緒に、魔物の頭が大きく跳ね上がった。


 少女は止まらない。

 流れるように踏み込み直し、今度は側頭部へ拳を振り抜く。

 轟音。

 巨体が傾く。

 岩が砕ける音と一緒に、魔物の頭が地面へ沈んだ。


 静寂が落ちる。


 少女は息を切らしながら立ち尽くしていた。返り血が頬を濡らし、折れた槍の柄が足元へ転がっている。

 誰も喋らない。

 谷の者達は、ただ少女を見ていた。

 少女はそこで初めて気付く。

 皆の空気が、少し変わっている事に。


 ゆっくり振り返る。

 父がいた。

 長槍を握ったまま、静かにこちらを見ている。

 その隣を、母が真っ先に駆けてきた。

「怪我は!?」

 母は少女の肩を掴み、返り血を拭うように頬へ触れる。少女が小さく首を横に振ると、母は深く息を吐き、そのまま強く抱き締めた。

 父もゆっくり歩いてくる。

 大きな手が、血で濡れた銀髪へ静かに触れた。

「……無茶をしたな」

 低い声だった。

 怒ってはいない。

 少女はその声を聞いて、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。



 あの日を境に、谷の空気は少し変わった。

 誰も少女を避けたりはしない。

 狩りにも呼ばれる。

 食事にも誘われる。

 けれど以前より、皆が少し距離を測るようになっていた。

 崖道を歩けば、自然と前が空く。

 荷を運ぼうと手を伸ばせば、「それは自分達でやる」と笑われる。

 訓練でも、同世代の若者達は真正面から打ち込んでこなくなった。


 少女は、その変化に気付いていた。

 気付いていたけれど、どうすればいいのか分からなかった。


 父だけは変わらない。

 朝になれば森へ連れ出され、帰れば火の前へ座らされる。槍の持ち方を直され、呼吸を整えられ、何度も同じ事を言われた。

「力で獲物を潰すな」

 父は焚き火を見ながら静かに言う。

「肉も駄目になる。骨も割れる。余計な力は無駄だ」

 少女は黙って頷いた。

「お前はもう、大抵の獲物を力で殺せる」

 父の金色の瞳がゆっくり少女を見る。

「だからこそ、加減を覚えろ」


 その頃には、少女の武器は長く持たなくなっていた。

 最初は木槍だった。

 踏み込みに耐え切れず折れた。

 次は谷の鍛冶師が作った短槍だった。

 獣を仕留めた瞬間、柄が砕けた。

 少女には何が悪いのか分からない。

 父に教えられた通り動いているだけだった。


 ある日、若者達と崖沿いの狩りへ出た時だった。

 獣が逃げる。

 少女は反射的に槍を投げた。

 風を裂く音が響く。

 槍は正確に獲物の首を貫いた。

 そのまま勢いを殺し切れず、後ろの岩壁まで砕く。

 轟音が谷へ響いた。

 崩れた岩が地面へ散らばる。

 誰も喋らなかった。


 少女は少し困った顔で、自分の手を見る。

 また壊してしまった。

 それだけだった。

「……今の、見たか」

「岩まで……」

 小さな声だった。

 少女に聞こえないと思っているのかもしれない。

 けれど少女には聞こえていた。


 帰り道、隣を歩く者はいなかった。

 皆、少しだけ離れて歩いている。

 少女はそれを見ない振りした。


 その日から、一人で森へ入る事が増えた。

 一人で狩りをした方が気が楽だった。

 誰も緊張しない。

 誰も静かにならない。


 夜、火の前へ座っていると、後ろから母が銀色の髪を梳き始める。

 昔から変わらない時間だった。

「今日は随分遅かったのね」

「……森の奥まで行ってた」

「そう」

 母はそれ以上聞かない。

 櫛が髪を梳く音だけが静かに響く。

 少女は火を見つめながら、小さく口を開いた。

「皆、静かになる」

 母の手が少し止まる。

「私がいると、空気が変わる」

 火がぱちりと鳴った。

 しばらく沈黙が落ちる。

 やがて母は、少女の乱れた髪をゆっくり整えながら静かに言った。

「変わるわね」

 少女の肩が小さく揺れる。

 母はそのまま続けた。

「でも、それで一緒にご飯を食べなくなるわけじゃないでしょう」

 少女は黙って火を見る。

 母の手は暖かかった。

 それだけで、少しだけ息がしやすくなる気がした。



 谷を出ると決めた夜の事を、少女は今でも覚えている。

 空には、いつも通り星が広がっていた。

 崖沿いに灯る火。

 静かな家々。

 風の音。

 何も変わらない夜だった。


 少女は家の外へ座り込み、ぼんやり空を見上げていた。

 後ろで扉が開く。

「やっぱりここにいたか」

 父だった。

 毛皮を肩へ掛けたまま隣へ腰を下ろす。岩みたいに大きな体が座るだけで、岩場が小さく軋んだ。


 少女は何も言わない。

 父もすぐには喋らなかった。

 火の音だけが静かに響く。

 しばらくして、父がぽつりと口を開いた。

「最近、森へ行く回数が増えたな」

「……静かだから」

「谷も静かだろう」

 少女は少し黙る。

 それから、小さく首を横に振った。

「違う」

 上手く言葉に出来なかった。


 谷は好きだった。

 父も母も好きだった。

 火の匂いも、星も、風の音も嫌いじゃない。

 けれど最近は、皆が少し遠い。

 話しかけてはくれる。

 笑ってもくれる。

 でも、どこか気を遣われているのが分かる。

 少女が力を使うたび、空気が静かになる。

 その空気が苦しかった。


「……私がいると、皆が緊張する」

 父は何も言わない。

 少女は膝を抱えたまま続ける。

「怖がらせたいわけじゃない」

「ああ」

「でも、どうしたらいいか分からない」

 風が吹く。

 銀色の髪が静かに揺れた。


 父は空を見上げたまま、小さく息を吐く。

「お前は昔から、周りをよく見てた」

 少女は黙って聞く。

「見える奴ほど、抱え込む」

「……父様も?」

「俺はもっと不器用だった」

 少女は少しだけ父を見る。

 父は小さく笑った。

「若い頃、谷の外をふらふら歩いた事がある。護衛もやったし、傭兵みたいな真似もした」

「父様が?」

「似合わないって顔してるな」

 少女は少しだけ視線を逸らす。

 確かに父は、人混みより火の前の方が似合う。


 父はそんな少女を見ながら静かに続けた。

「外へ出たからって、全部が変わるわけじゃない」

「……うん」

「だが、知らない場所へ行かなきゃ見えない景色もある」

 少女は空を見上げる。

 星は変わらず綺麗だった。

 けれど谷の外にも、まだ知らない景色があるのかもしれないと思った。


「外に行くのか」

 父が静かに聞く。

 少女は少しだけ迷って、それから頷いた。

「……少しだけ」

「そうか」

 父は止めなかった。

 その代わり、大きな手が少女の頭へ乗る。

「疲れたら帰ってこい」

 低い声だった。

 少女の瞳が少しだけ熱くなる。

 

  その時、後ろで扉が開いた。

「二人とも、冷めるわよ」

 母だった。

 呆れたみたいに息を吐きながら、それでも少し笑っている。

「話は終わった?」

「今からだ」

 父が真顔で返す。

 母は小さく肩を落とした。

「明日旅立つ子を、外で何時間座らせる気なの」

 少女は思わず小さく笑った。

 母はそんな少女の顔を見ると、安心したみたいに目を細める。

「ほら、おいで。今日はちゃんと好きな物作ったから」

 少女は立ち上がる。

 家の中から暖かい匂いが流れてきた。

 火の匂い。

 スープの匂い。

 ずっと知っている、帰る場所の匂いだった。

 夜空には一際大きな流星が駆けていた。


 谷を出てから、少女は色々な場所を歩いた。

 湿った霧の森。岩山の麓に作られた小さな集落。湖沿いの街。谷の外には、知らない匂いが溢れていた。

 焼いた魚の匂い。

 雨に濡れた土の匂い。

 獣脂を使った灯りの匂い。

 最初の頃は、それだけで少し楽しかった。


 ある村では、子供達が後ろをついてきた。

「角、ほんものか?」

「すげぇ……」

 無邪気な声だった。


 少女は少し困りながらも、追い払わなかった。

 小さな手が外套を引っ張る。

「また魔物やっつけて!」

「……分かった」


 その時だけは、少しだけ居心地が良かった。

 だが、時間が経つと少しずつ空気が変わる。

 酒場へ入ると、一瞬だけ声が止まる。

 空いた席へ座ろうとすると、誰かが静かに立ち上がる。

 視線が増える。

「やっぱり怖ぇな……」

「目が人間じゃない」

「怒らせたら殺されそうだ」

 小さな声だった。

 少女へ聞こえないと思っているのかもしれない。

 けれど少女には聞こえていた。


 数日後。

 以前、外套を引っ張ってきた子供が泣いていた。

「でも……!」

「いいから!」

 母親が慌てたように子供の腕を引く。

 少女を見たからではない。

 少女へ近付こうとしたからだ。

 母親は少女へ頭を下げ、そのまま去っていく。

 少女は何も言わず、それを見送った。

 胸の奥が少しだけ冷える。

 それでも表情は変わらなかった。


 夜。

 宿の裏で、少女は一人で包帯を巻き直していた。

 昼間の魔物狩りで裂けた傷だった。

 布へ血が滲む。

 けれど少女は慣れた手付きで結び直し、そのまま立ち上がる。


 翌朝にはまた見張りへ出た。

 井戸修理を手伝い、崩れた柵を直し、頼まれれば魔物も狩る。

 断る理由が無かった。

 誰かの役に立っている間だけ、自分がそこへ居てもいい気がした。


 冬の近い村だった。

 少女は見張り台の下で、ぼんやり夜空を見上げている。

 空は綺麗だった。

 星降りの谷と少し似ている。

 けれど違う。

 遠くの家から笑い声が聞こえる。

 暖炉の灯りが窓から漏れている。

 少女はそれを静かに眺めていた。

 自分は、あの灯りの中には入れない。

 もう何となく分かっていた。


 翌朝、少女は誰にも告げず村を出た。

 荷物は少ない。

 外套と、少しの金だけだった。

 背後で村の気配が遠ざかっていく。

 少女は振り返らない。

 振り返れば、少しだけ足が止まりそうな気がしたからだ。



 旅の途中、同じ角を持つ者達と焚き火を囲んだ事もある。

 大斧を背負った護衛。

 古傷だらけの傭兵。

 槍を抱えたまま眠る見張り役。

 皆、谷の外で生きていた。


 夜、焚き火の向こうで肉が焼ける。

 酒瓶が回り、誰かが笑う。

「お前、どこの谷の出だ?」

 少女は少しだけ空を見上げた。

「星のよく見える場所」

 そう答えると、向かいの男は小さく笑い、そのまま酒を飲んだ。

 それ以上は聞いてこない。

 一族の者達は、必要以上に踏み込まない。

 その距離感だけは少し居心地が良かった。

 けれど皆、“役目”を持っていた。

 護衛として荷を守る者。

 傭兵として戦場を渡る者。

 力を使って、生きる場所を作っている。

 少女だけが違った。


 少女は火を見つめながら、自分の手を静かに握る。

 戦いたいわけじゃない。

 名を欲しいわけでもない。


 ただ、自分を知らない場所へ行きたかっただけだった。



 少女が谷から外へ出て、十五年以上経っていた。

 その辺境は荒れていた。

 街道脇には壊れた荷車が放置され、冬枯れの畑には人影も少ない。崩れた柵をそのままにしている村も珍しくなかった。

 魔物被害。水不足。人手不足。

 どこへ行っても、空気は重かった。

 少女が辿り着いた村も同じだった。


 ローデン村。

 辺境の外れにある、小さな村だった。

 泥道は荒れ、水路は半分崩れている。見張り台の木材も古く、柵の隙間からは冷たい風が吹き込んでいた。


 歩く村人達に余裕は無い。

 痩せた犬が泥混じりの地面を歩き、子供達ですら騒がなかった。


「また水路が崩れたらしい」

「見張りも足りねぇ」

「冬越せるのか……?」

 焚き火の近くで、疲れた声が聞こえる。


 少女は黙って村を見ていた。

 特別な感情は無い。

 こういう村は珍しくなかった。

 依頼を受けて魔物を狩る。

 崩れた荷を運ぶ。

 見張りに立つ。

 それだけだった。


 ある日、見張り帰りの少女へ、小さな子供が毛布を抱えたまま近付いてきた。

「ねーちゃん、つよいの?」

 眠そうな声だった。

 少女は少しだけ困った顔をする。

「……普通」

「うそだ」

 子供は笑った。

 その後ろで、母親らしき女が慌てたように頭を下げる。

「す、すみません」

 少女は小さく首を横に振った。


 けれど数日経てば、空気は少しずつ変わっていく。

 話し声が止まる。

 視線が増える。

 少女はもう慣れていた。

 だから深入りしない。

 期待もしない。

 そう決めていた。


 ある夜。

 焚き火の周りで、村人達が酒を飲んでいた。

「新しい領主様が来るらしい」

「三男坊だってよ」

「どうせすぐ逃げる」

「辺境なんか誰も来たがらねぇ」

 乾いた笑いが漏れる。


 期待は無かった。

 残っているのは、諦めだけだった。

 少女も興味は無い。


 貴族は皆同じだ。

 辺境を見捨てる。

 何度も見てきた。

 ここも長くは持たない。

 そう思っていた。


 翌日。

 空は曇っていた。


 少女が水汲みの手伝いをしていた時、村の入口へ荷馬車が止まる。

 疲れた馬が荒く息を吐き、荷台から泥まじりの砂が落ちた。

 御者達も疲れた顔をしている。

 長旅だったのだろう。

 その中心から、一人の青年が降りてきた。


 黒髪だった。

 まだ若い。

 服は泥で汚れ、手にも擦り傷が残っている。

 とても領主には見えなかった。

 けれど青年は、村へ入るなり周囲を見回した。


 崩れた柵。

 割れた水路。

 疲れ切った村人達。


 青年の目だけは、死んでいなかった。

 少女は僅かに視線を止める。

 普通なら、もっと嫌そうな顔をする。

 もっと早く目を逸らす。

 けれど青年は違った。


 まるで最初から、逃げるつもりが無いみたいだった。


 ――その少女は、まだ帰る場所を知らなかった。


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