第二十一話 月龍の追憶
星降りの谷は、夜になると星がよく見える。
切り立った岩壁に囲まれた谷の上には、零れ落ちそうなほどの星々が広がり、崖沿いに灯された火が静かに揺れていた。岩を削って作られた家々の間を細い渡り通路が繋ぎ、一族の者達はそれぞれ火を囲みながら夜を過ごしている。
谷は静かだった。
風の音。
火の爆ぜる音。
時折聞こえる話し声。
それだけで十分だった。
少女は家の前の大きな岩へ腰掛け、膝を抱えながら空を見上げていた。銀色の髪が夜風に揺れ、頭の横から伸びた二本の角が星明かりを淡く反射する。
後ろで扉が開く音がした。
「そんな所にいたか」
低く落ち着いた声に振り返ると、大きな男が立っている。
少女の父だった。
谷の男達の中でも一際大きい。分厚い毛皮を肩へ掛けた体は岩のように分厚く、首筋から覗く黒灰色の鱗には無数の傷跡が走っていた。長い黒髪は後ろで無造作に束ねられ、額の横から伸びた二本の角には、古い斬傷が深く刻まれている。
一見すると威圧感の塊みたいな姿だった。
けれど少女は、その金色の瞳を怖いと思った事がない。
父は少女の隣へ腰を下ろした。どしり、と岩が小さく鳴る。毛皮と火の匂いがふわりと流れ、少女は少しだけ肩の力を抜いた。
「母様が探してたぞ」
「もう戻る」
「なら、少しだけ付き合え」
父はそう言って空を見上げる。
少女もつられて夜空を見た。
星降りの谷では、夜に空を見上げる事は特別ではない。流れ星は珍しくなく、谷の者達は昔から星を眺めながら火を囲んで生きてきた。
「父様は、谷の外へ行った事ある?」
「ああ。若い頃にな」
「どんなところだった?」
父は少し考え込む。
「人が多かった。谷より狭い場所に、谷よりもっと多くの奴らが暮らしてる。昼でも夜でも誰かが喋ってて、静かな時間が少ない」
「そんなに違うんだ」
「違うな。火の音より、人の声や物音の方が大きい」
少女はもう一度空を見上げた。
谷では、火の爆ぜる音や風の流れる音の方が近い。だから父の言葉だけでは、外の景色はまだ上手く想像できなかった。
「外にも、こんな星はある?」
「あるさ。ただ、空を見る余裕が無い奴も多い」
「どうして?」
「生きるのに必死だからだ」
少女にはまだ、その意味がよく分からない。
谷では、皆が静かに火を囲み、星を見て眠る。それが当たり前だった。
父はそんな少女を横目に見ながら、小さく笑う。
「お前は昔から、外を気にしてるな」
「……少しだけ」
「なら、いつか見に行けばいい。谷の外で生きてる者もいる。商隊の護衛をしてる奴もいれば、傭兵みたいに各地を渡り歩いてる奴もいるからな」
少女は少し驚いた顔で父を見る。
「谷を出る人って、結構いるの?」
「多くはない。だが、お前が思ってるより外は広い」
父はそう言って、大きな手を少女の頭へ乗せた。
「強い力は、谷の外じゃ役目になりやすい。人は怖がるが、それ以上に必要ともする」
「父様も外で戦ってたの?」
「若い頃にな。だが俺は、こうして火を見てる方が性に合ってた」
少女は父を見上げる。
確かに父は、人混みより焚き火の方が似合う気がした。
ごつごつした大きな手が、銀色の髪をゆっくり撫でる。
「ただ、お前は強すぎる。谷の外では、その力に怯える者もいるだろう」
父の声は静かだった。
脅しているわけではない。
心配しているのだと、少女にも分かった。
少女が初めて父と谷の外へ出たのは、まだ角も小さく、小柄だった頃だ。
谷を囲む岩壁を抜けると、空気の匂いが変わる。
湿った土の匂い。青い草の香り。風に揺れる木々の音。
深い森だった。
少女は父の後ろを歩く。
大きな背中だった。毛皮を掛けた広い肩は岩のように分厚く、首筋から覗く黒灰色の鱗には古い傷がいくつも残っている。背中へ担がれた長柄の狩猟槍は、大人の男でも扱うのが難しそうな大きさだった。
けれど父は、それを当たり前みたいに持って歩く。
しかも足音がほとんどしない。
少女は昔から、その歩き方が好きだった。
「足元ばかり見ない」
前を歩いたまま父が言う。
「森は下だけじゃない。風も動く。枝も揺れる。匂いも変わる」
少女は顔を上げた。
風が流れる。枝葉が揺れる。草が擦れる。
今までただの森にしか見えなかった景色に、少しずつ違いが見え始める。
「……いた」
少女が小さく呟く。
二本の木の間。
奥の茂みが少しだけ揺れた。
父は振り返りもせず、小さく頷く。
「見えるようになってきたな」
父は狩りの時、必要以上に喋らない。
けれど時々ぽつりと零す言葉を、少女はよく覚えていた。
「強い獣ほど、自分の力を信じてる」
父が静かに言う。
「だから気配を隠さなくなる。森じゃ、その油断が一番危ない」
少女は黙って頷いた。
しばらく進むと、父が片手を軽く上げる。
止まれ、の合図だった。
少女も足を止める。
少し先の茂みで、小さな獣の鳴き声がした。
鹿によく似た獣が、地面の草を食んでいる。
少女は腰の短槍へ手を伸ばしかけた。
「まだ遠い」
低い声が飛ぶ。
少女は反射的に動きを止めた。
父がそう言う時は、大抵正しい。
焦って仕留め損ねれば、逃げた獲物より先に自分が怪我をする。少女はそれを、何度も教わっていた。
そっと槍から手を離す。
父は静かに獲物を見据えていた。
風向きが変わる。
獣の耳が動いた。
その瞬間、父が地面を踏み込む。
巨体が森を裂くように駆けた。
速い。
少女の目でも、一瞬見失うほど速かった。
長柄の槍が獣の首元を正確に貫く。獣は短く鳴き、そのまま崩れ落ちた。
父は倒れた獣へ近付き、静かに槍を引き抜く。
「長く苦しませるな」
それだけ言って、血を払った。
少女は黙って頷く。
父はそのまま槍を少女へ差し出した。
「持ってみるか」
少女は少し驚きながら槍を受け取る。
本来なら少女の体には大きすぎる槍だった。けれど握ってみると、不思議と重さを感じない。
軽く振る。
ぶん、と風が鳴った。
父の金色の瞳が、僅かに細くなる。
「……やはり、お前は強いな」
嬉しそうでもなく、困っているわけでもない。
ただ静かに確認するような声だった。
少女は不思議そうに槍を見る。
父はそんな少女の頭へ大きな手を置いた。
「力は、生きるために使え」
ごつごつした手だった。
狩りと岩仕事で硬くなった指先は少し痛い。それでも少女は、その手の重さが嫌いじゃなかった。
少女が成長するにつれて、谷の者達は少しずつ視線を変え始めた。
狩りへ出れば、大人達より先に獣を見つける。
崖道を駆ける速さも、同世代とは比べものにならない。
若者達が二人掛かりで運ぶ獲物を、一人で引きずって帰ってくる事もあった。
それでも最初の頃は、皆笑っていた。
「父親そっくりだ」
「将来が怖いな」
そんな声を、少女も聞いていた。
父も母も何も言わなかった。
ただ、以前より少し長く少女を見る事が増えた。
変わり始めたのは、冬の終わりだった。
谷へ、大型の魔物が降りてきた。
黒灰色の長毛に覆われた巨大な獣だった。四足なのに岩壁ほど高く、前脚は木の幹みたいに太い。額から捻れた角が突き出し、口の端から覗く牙は岩みたいに鈍く光っていた。
谷の者達が慌ただしく動き始める。
父も長槍を手に外へ出た。
少女も後を追おうとして、腕を掴まれる。
母だった。
「駄目」
静かな声だった。
けれど指先には強く力が入っている。
「でも、父様が」
「今は待ちなさい」
外では既に戦う音が響いていた。
槍がぶつかる音。
岩が砕ける音。
怒号。
谷の静けさが崩れていく。
母は少女を庇うように立ちながら、周囲へ声を飛ばしていた。
「子供達を中へ!」
「火を消さないで!」
普段の穏やかな姿とは違う。
それでも少女の腕だけは、最後まで離さなかった。
次の瞬間だった。
魔物が大きく口を開く。低い唸り声が谷へ響き、直後、轟音と一緒に岩壁が爆ぜた。衝撃が地面を走り、槍を構えていた男達がまとめて吹き飛ばされる。火の粉が舞い、砕けた岩が雨みたいに降り注いだ。
少女の瞳が大きく開く。
谷の中央では、父達が魔物を押し留めていた。長槍が振るわれ、鋭い穂先が魔物の首元へ突き刺さる。だが分厚い毛皮と硬い筋肉が致命傷を許さない。魔物は咆哮と共に体を捻り、前脚を振るった。
岩ごと地面が砕ける。
吹き飛ばされた男が壁へ叩き付けられ、鈍い音が響いた。
「下がれ!」
父の声が飛ぶ。再び長槍が突き出される。狙いは喉元。けれど魔物は槍ごと父を弾き飛ばし、その巨体を少女の方へ向けた。
少女の呼吸が止まる。
気付けば、母の手を振り払っていた。
「待ちなさい!」
声が背中へ飛ぶ。
けれど少女は止まれなかった。
地面を蹴る。一歩で風景が流れ、次の瞬間にはもう魔物の懐へ飛び込んでいた。巨大な腕が振り下ろされる。空気が潰れるみたいな轟音だった。
少女は咄嗟に横へ跳ぶ。
直後、さっきまで立っていた場所へ前脚が叩き付けられ、岩が砕けて土煙が吹き上がった。
速い。
大きいのに、信じられないほど速い。
少女は土を滑るように踏み込み、そのまま短槍を突き出す。狙ったのは前脚の付け根だった。分厚い毛皮を裂き、穂先が深く肉へ沈む。確かな手応えがあった。
だが次の瞬間、嫌な音が響く。
槍の柄が途中から砕けていた。
衝撃に耐え切れなかった。
それでも魔物の巨体は大きく浮き上がり、そのまま岩壁へ叩き付けられる。谷が揺れ、誰かが息を呑む音がした。
少女自身も、一瞬何が起きたのか分からなかった。
魔物はまだ生きている。
咆哮を上げながら起き上がり、再び口を開いた。
また来る。
そう思った瞬間には、少女はもう踏み込んでいた。砕けた槍を投げ捨て、そのまま魔物の懐へ潜り込む。
拳を握る。
狙ったのは顎の下だった。
拳が叩き込まれた瞬間、鈍い衝撃が腕を突き抜ける。骨の軋む音と一緒に、魔物の頭が大きく跳ね上がった。
少女は止まらない。
流れるように踏み込み直し、今度は側頭部へ拳を振り抜く。
轟音。
巨体が傾く。
岩が砕ける音と一緒に、魔物の頭が地面へ沈んだ。
静寂が落ちる。
少女は息を切らしながら立ち尽くしていた。返り血が頬を濡らし、折れた槍の柄が足元へ転がっている。
誰も喋らない。
谷の者達は、ただ少女を見ていた。
少女はそこで初めて気付く。
皆の空気が、少し変わっている事に。
ゆっくり振り返る。
父がいた。
長槍を握ったまま、静かにこちらを見ている。
その隣を、母が真っ先に駆けてきた。
「怪我は!?」
母は少女の肩を掴み、返り血を拭うように頬へ触れる。少女が小さく首を横に振ると、母は深く息を吐き、そのまま強く抱き締めた。
父もゆっくり歩いてくる。
大きな手が、血で濡れた銀髪へ静かに触れた。
「……無茶をしたな」
低い声だった。
怒ってはいない。
少女はその声を聞いて、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
あの日を境に、谷の空気は少し変わった。
誰も少女を避けたりはしない。
狩りにも呼ばれる。
食事にも誘われる。
けれど以前より、皆が少し距離を測るようになっていた。
崖道を歩けば、自然と前が空く。
荷を運ぼうと手を伸ばせば、「それは自分達でやる」と笑われる。
訓練でも、同世代の若者達は真正面から打ち込んでこなくなった。
少女は、その変化に気付いていた。
気付いていたけれど、どうすればいいのか分からなかった。
父だけは変わらない。
朝になれば森へ連れ出され、帰れば火の前へ座らされる。槍の持ち方を直され、呼吸を整えられ、何度も同じ事を言われた。
「力で獲物を潰すな」
父は焚き火を見ながら静かに言う。
「肉も駄目になる。骨も割れる。余計な力は無駄だ」
少女は黙って頷いた。
「お前はもう、大抵の獲物を力で殺せる」
父の金色の瞳がゆっくり少女を見る。
「だからこそ、加減を覚えろ」
その頃には、少女の武器は長く持たなくなっていた。
最初は木槍だった。
踏み込みに耐え切れず折れた。
次は谷の鍛冶師が作った短槍だった。
獣を仕留めた瞬間、柄が砕けた。
少女には何が悪いのか分からない。
父に教えられた通り動いているだけだった。
ある日、若者達と崖沿いの狩りへ出た時だった。
獣が逃げる。
少女は反射的に槍を投げた。
風を裂く音が響く。
槍は正確に獲物の首を貫いた。
そのまま勢いを殺し切れず、後ろの岩壁まで砕く。
轟音が谷へ響いた。
崩れた岩が地面へ散らばる。
誰も喋らなかった。
少女は少し困った顔で、自分の手を見る。
また壊してしまった。
それだけだった。
「……今の、見たか」
「岩まで……」
小さな声だった。
少女に聞こえないと思っているのかもしれない。
けれど少女には聞こえていた。
帰り道、隣を歩く者はいなかった。
皆、少しだけ離れて歩いている。
少女はそれを見ない振りした。
その日から、一人で森へ入る事が増えた。
一人で狩りをした方が気が楽だった。
誰も緊張しない。
誰も静かにならない。
夜、火の前へ座っていると、後ろから母が銀色の髪を梳き始める。
昔から変わらない時間だった。
「今日は随分遅かったのね」
「……森の奥まで行ってた」
「そう」
母はそれ以上聞かない。
櫛が髪を梳く音だけが静かに響く。
少女は火を見つめながら、小さく口を開いた。
「皆、静かになる」
母の手が少し止まる。
「私がいると、空気が変わる」
火がぱちりと鳴った。
しばらく沈黙が落ちる。
やがて母は、少女の乱れた髪をゆっくり整えながら静かに言った。
「変わるわね」
少女の肩が小さく揺れる。
母はそのまま続けた。
「でも、それで一緒にご飯を食べなくなるわけじゃないでしょう」
少女は黙って火を見る。
母の手は暖かかった。
それだけで、少しだけ息がしやすくなる気がした。
谷を出ると決めた夜の事を、少女は今でも覚えている。
空には、いつも通り星が広がっていた。
崖沿いに灯る火。
静かな家々。
風の音。
何も変わらない夜だった。
少女は家の外へ座り込み、ぼんやり空を見上げていた。
後ろで扉が開く。
「やっぱりここにいたか」
父だった。
毛皮を肩へ掛けたまま隣へ腰を下ろす。岩みたいに大きな体が座るだけで、岩場が小さく軋んだ。
少女は何も言わない。
父もすぐには喋らなかった。
火の音だけが静かに響く。
しばらくして、父がぽつりと口を開いた。
「最近、森へ行く回数が増えたな」
「……静かだから」
「谷も静かだろう」
少女は少し黙る。
それから、小さく首を横に振った。
「違う」
上手く言葉に出来なかった。
谷は好きだった。
父も母も好きだった。
火の匂いも、星も、風の音も嫌いじゃない。
けれど最近は、皆が少し遠い。
話しかけてはくれる。
笑ってもくれる。
でも、どこか気を遣われているのが分かる。
少女が力を使うたび、空気が静かになる。
その空気が苦しかった。
「……私がいると、皆が緊張する」
父は何も言わない。
少女は膝を抱えたまま続ける。
「怖がらせたいわけじゃない」
「ああ」
「でも、どうしたらいいか分からない」
風が吹く。
銀色の髪が静かに揺れた。
父は空を見上げたまま、小さく息を吐く。
「お前は昔から、周りをよく見てた」
少女は黙って聞く。
「見える奴ほど、抱え込む」
「……父様も?」
「俺はもっと不器用だった」
少女は少しだけ父を見る。
父は小さく笑った。
「若い頃、谷の外をふらふら歩いた事がある。護衛もやったし、傭兵みたいな真似もした」
「父様が?」
「似合わないって顔してるな」
少女は少しだけ視線を逸らす。
確かに父は、人混みより火の前の方が似合う。
父はそんな少女を見ながら静かに続けた。
「外へ出たからって、全部が変わるわけじゃない」
「……うん」
「だが、知らない場所へ行かなきゃ見えない景色もある」
少女は空を見上げる。
星は変わらず綺麗だった。
けれど谷の外にも、まだ知らない景色があるのかもしれないと思った。
「外に行くのか」
父が静かに聞く。
少女は少しだけ迷って、それから頷いた。
「……少しだけ」
「そうか」
父は止めなかった。
その代わり、大きな手が少女の頭へ乗る。
「疲れたら帰ってこい」
低い声だった。
少女の瞳が少しだけ熱くなる。
その時、後ろで扉が開いた。
「二人とも、冷めるわよ」
母だった。
呆れたみたいに息を吐きながら、それでも少し笑っている。
「話は終わった?」
「今からだ」
父が真顔で返す。
母は小さく肩を落とした。
「明日旅立つ子を、外で何時間座らせる気なの」
少女は思わず小さく笑った。
母はそんな少女の顔を見ると、安心したみたいに目を細める。
「ほら、おいで。今日はちゃんと好きな物作ったから」
少女は立ち上がる。
家の中から暖かい匂いが流れてきた。
火の匂い。
スープの匂い。
ずっと知っている、帰る場所の匂いだった。
夜空には一際大きな流星が駆けていた。
谷を出てから、少女は色々な場所を歩いた。
湿った霧の森。岩山の麓に作られた小さな集落。湖沿いの街。谷の外には、知らない匂いが溢れていた。
焼いた魚の匂い。
雨に濡れた土の匂い。
獣脂を使った灯りの匂い。
最初の頃は、それだけで少し楽しかった。
ある村では、子供達が後ろをついてきた。
「角、ほんものか?」
「すげぇ……」
無邪気な声だった。
少女は少し困りながらも、追い払わなかった。
小さな手が外套を引っ張る。
「また魔物やっつけて!」
「……分かった」
その時だけは、少しだけ居心地が良かった。
だが、時間が経つと少しずつ空気が変わる。
酒場へ入ると、一瞬だけ声が止まる。
空いた席へ座ろうとすると、誰かが静かに立ち上がる。
視線が増える。
「やっぱり怖ぇな……」
「目が人間じゃない」
「怒らせたら殺されそうだ」
小さな声だった。
少女へ聞こえないと思っているのかもしれない。
けれど少女には聞こえていた。
数日後。
以前、外套を引っ張ってきた子供が泣いていた。
「でも……!」
「いいから!」
母親が慌てたように子供の腕を引く。
少女を見たからではない。
少女へ近付こうとしたからだ。
母親は少女へ頭を下げ、そのまま去っていく。
少女は何も言わず、それを見送った。
胸の奥が少しだけ冷える。
それでも表情は変わらなかった。
夜。
宿の裏で、少女は一人で包帯を巻き直していた。
昼間の魔物狩りで裂けた傷だった。
布へ血が滲む。
けれど少女は慣れた手付きで結び直し、そのまま立ち上がる。
翌朝にはまた見張りへ出た。
井戸修理を手伝い、崩れた柵を直し、頼まれれば魔物も狩る。
断る理由が無かった。
誰かの役に立っている間だけ、自分がそこへ居てもいい気がした。
冬の近い村だった。
少女は見張り台の下で、ぼんやり夜空を見上げている。
空は綺麗だった。
星降りの谷と少し似ている。
けれど違う。
遠くの家から笑い声が聞こえる。
暖炉の灯りが窓から漏れている。
少女はそれを静かに眺めていた。
自分は、あの灯りの中には入れない。
もう何となく分かっていた。
翌朝、少女は誰にも告げず村を出た。
荷物は少ない。
外套と、少しの金だけだった。
背後で村の気配が遠ざかっていく。
少女は振り返らない。
振り返れば、少しだけ足が止まりそうな気がしたからだ。
旅の途中、同じ角を持つ者達と焚き火を囲んだ事もある。
大斧を背負った護衛。
古傷だらけの傭兵。
槍を抱えたまま眠る見張り役。
皆、谷の外で生きていた。
夜、焚き火の向こうで肉が焼ける。
酒瓶が回り、誰かが笑う。
「お前、どこの谷の出だ?」
少女は少しだけ空を見上げた。
「星のよく見える場所」
そう答えると、向かいの男は小さく笑い、そのまま酒を飲んだ。
それ以上は聞いてこない。
一族の者達は、必要以上に踏み込まない。
その距離感だけは少し居心地が良かった。
けれど皆、“役目”を持っていた。
護衛として荷を守る者。
傭兵として戦場を渡る者。
力を使って、生きる場所を作っている。
少女だけが違った。
少女は火を見つめながら、自分の手を静かに握る。
戦いたいわけじゃない。
名を欲しいわけでもない。
ただ、自分を知らない場所へ行きたかっただけだった。
少女が谷から外へ出て、十五年以上経っていた。
その辺境は荒れていた。
街道脇には壊れた荷車が放置され、冬枯れの畑には人影も少ない。崩れた柵をそのままにしている村も珍しくなかった。
魔物被害。水不足。人手不足。
どこへ行っても、空気は重かった。
少女が辿り着いた村も同じだった。
ローデン村。
辺境の外れにある、小さな村だった。
泥道は荒れ、水路は半分崩れている。見張り台の木材も古く、柵の隙間からは冷たい風が吹き込んでいた。
歩く村人達に余裕は無い。
痩せた犬が泥混じりの地面を歩き、子供達ですら騒がなかった。
「また水路が崩れたらしい」
「見張りも足りねぇ」
「冬越せるのか……?」
焚き火の近くで、疲れた声が聞こえる。
少女は黙って村を見ていた。
特別な感情は無い。
こういう村は珍しくなかった。
依頼を受けて魔物を狩る。
崩れた荷を運ぶ。
見張りに立つ。
それだけだった。
ある日、見張り帰りの少女へ、小さな子供が毛布を抱えたまま近付いてきた。
「ねーちゃん、つよいの?」
眠そうな声だった。
少女は少しだけ困った顔をする。
「……普通」
「うそだ」
子供は笑った。
その後ろで、母親らしき女が慌てたように頭を下げる。
「す、すみません」
少女は小さく首を横に振った。
けれど数日経てば、空気は少しずつ変わっていく。
話し声が止まる。
視線が増える。
少女はもう慣れていた。
だから深入りしない。
期待もしない。
そう決めていた。
ある夜。
焚き火の周りで、村人達が酒を飲んでいた。
「新しい領主様が来るらしい」
「三男坊だってよ」
「どうせすぐ逃げる」
「辺境なんか誰も来たがらねぇ」
乾いた笑いが漏れる。
期待は無かった。
残っているのは、諦めだけだった。
少女も興味は無い。
貴族は皆同じだ。
辺境を見捨てる。
何度も見てきた。
ここも長くは持たない。
そう思っていた。
翌日。
空は曇っていた。
少女が水汲みの手伝いをしていた時、村の入口へ荷馬車が止まる。
疲れた馬が荒く息を吐き、荷台から泥まじりの砂が落ちた。
御者達も疲れた顔をしている。
長旅だったのだろう。
その中心から、一人の青年が降りてきた。
黒髪だった。
まだ若い。
服は泥で汚れ、手にも擦り傷が残っている。
とても領主には見えなかった。
けれど青年は、村へ入るなり周囲を見回した。
崩れた柵。
割れた水路。
疲れ切った村人達。
青年の目だけは、死んでいなかった。
少女は僅かに視線を止める。
普通なら、もっと嫌そうな顔をする。
もっと早く目を逸らす。
けれど青年は違った。
まるで最初から、逃げるつもりが無いみたいだった。
――その少女は、まだ帰る場所を知らなかった。




