第十三話 経験を持ち帰る
翌朝のローデン村は、昨日より少しだけ静かだった。
北側見張り台の板には朝露が残り、踏むたび湿った音が鳴る。西の大森林は薄靄の向こうで揺れていたが、今日はそれを眺める若手達の空気が違っている。
「……腕いてぇ」
カインが顔をしかめながら槍を持ち上げると、隣の若手も嫌そうに肩を回した。
「俺は脚だな。階段降りる時がやべえ」
「腰も終わってる」
小さな笑いは起きたが、昨日までみたいな騒がしさは続かない。誰も自然に見張り位置から離れず、会話の途中でも視線だけは森へ向いていた。
カインは柵の外を見ながら、腰へ結んだ縄を無意識に触る。昨日、自分達で長さを調整して結び直したものだった。
「お前それ、寝る時も付けてたろ」
「ほどくの面倒でよ」
「慣れる方向おかしくねぇ?」
そう返しながらも、誰も縄を外そうとはしない。
昨日、森で散りかけた感覚がまだ身体へ残っていた。
その時、梯子が軋む音がした。
クロノが見張り台へ上がり、その後ろをルナが続く。若手達は反射的に姿勢を直した。
「おはよう」
「おはようございます」
返事が揃う。昨日より速かった。
クロノは少しだけ目を細め、西を見渡す。
「変わりない?」
「北も西も静かだな」
カインが答えると、後ろの若手が慌てて口を挟んだ。
「鳥は多いです、あと風が昨日より北側から来てます」
クロノが軽く瞬きをする。
「ちゃんと見てるね」
「昨日死にかけたからな……」
ぼそりと漏れた声へ、誰も軽口を返さなかった。
代わりに全員が少しだけ森を見る。
静かだった。
だからこそ怖い。
昨日まではただの木の音だったものが、今日は妙に耳へ残る。枝葉の擦れる音も、風で揺れる影も、全部が“何かいるかもしれない”側へ繋がって見えた。
ルナが見張り台の縁へ手を置き、耳を澄ませる。
「今日は風の音が多い」
若手達もつられて耳を澄ませた。確かに昨日より枝葉の鳴る音が広く流れている。
「……まだ、ちょっと分かんねぇな」
「慣れ」
「昨日も聞いたぞそれ」
カインが苦笑する。
だが昨日みたいな軽さは無かった。森を知らないまま笑っていた頃より、全員少しだけ慎重になっている。
見張り台の下では、朝から村人達が動いていた。水桶を運ぶ音。薪を割る音。縄を引きずる音。そして――。
「おい! そっち血ぃ垂れてるぞ!」
グランの怒鳴り声だった。
見張り台から下を覗くと、昨日持ち帰った牙猪と瘴牙熊が広場へ転がされている。周囲には水樽、桶、縄、解体用の刃物が並べられ、朝から村人達が半分嫌そうな顔で集まっていた。
グランは頭へ布を巻いたまま、巨大な瘴牙熊を見上げて顔を引き攣らせる。
「……改めて見ると意味分かんねぇ大きさだなこれ」
その横でゲルドが鼻を鳴らした。
「持って帰って来たお前らが言うか」
「俺は何も出来てねーよ」
即座に返したグランへ、下からルナの声が飛ぶ。
「ちゃんとクロノの前に出てた」
「やめろ思い出させんな!」
広場へ下りると、瘴牙熊の周囲だけ空気が重かった。
朝の冷えた風に混じっても、血の臭いが消えない。近付くだけで鉄臭さが鼻へ残り、水桶を運んでいた若手の一人が早々に顔をしかめた。
「うわ……昨日より臭くねぇか?」
「昨日は必死だったからだろ」
カインも眉を寄せながら熊を見上げる。
改めて近くで見ると、やはり大きい。肩の高さだけで大人の胸辺りまである。灰色の毛皮は泥と乾いた血で固まり、前脚の爪は短剣みたいに太かった。
グランは包丁を持ったまま熊の周囲を回り、どこから刃を入れるか悩んでいる。
「皮硬ぇなこれ……」
試しに刃先を押し込むと、嫌な感触と一緒に脂が滲んだ。包丁を引くだけで腕へ重さが返って来る。
「普通の獣じゃねぇな」
「これが普通だったら困るよ」
クロノが苦笑する。
熊の頭部はルナの一撃で半ば潰れていたが、それ以外は思ったより傷んでいない。槍傷が無いせいで、肉も皮も妙に綺麗なままだった。
「……いや、それも怖ぇんだよ」
グランが顔をしかめる。
その横で、ルナが前脚を持ち上げた。
「爪は残す」
「武器にするのか?」
「薪割れそう」
数秒遅れて、グランが吹き出した。
「お前ほんと薪好きだな……」
「火は大事」
真顔だった。
ゲルドはそんなやり取りを眺めながら、熊の牙へ視線を向ける。割れた口の奥から覗く黒ずんだ牙は、短剣みたいな長さがあった。
「これも硬そうだな」
指先で軽く叩くと、乾いた音が返る。
「斧に出来ねぇかな」
「熊一匹で仕事道具増やそうとすんなよ……」
カインが呆れる。
だがゲルドは真面目だった。
「硬ぇ道具は使いやすくて長持ちするぞ」
その横で、グランが再び顔をしかめる。
解体した瘴牙熊の脂が、包丁へべったり絡み付いていた。桶の水で洗ってもなかなか落ちず、毛皮を剥ぐだけで若手達の腕が目に見えて鈍くなっていく。
「おい、そっち引っ張れ!」
「重っ……!」
吊るした肉が縄ごと軋み、若手達が顔を歪める。誰かが血で滑り、別の誰かが慌てて支えた。
戦っていた時より、よほど疲れて見えた。
グランは包丁を握ったまま空を睨む。
「……倒す方が楽だったんじゃねぇかこれ」
クロノは少し笑った。
「ルナが頑張ってくれたからね。俺達は見てるだけだったし」
カイン達は何とも言えない顔で熊を見る。
昨日までは、倒せるかどうかしか考えていなかった。だが実際に持ち帰ってみると、血は臭いし、肉は重いし、水もいくらあっても足りない。
広場の端では、昨日洗った布がまだ乾き切っていなかった。積まれた薪も、下の方からじわじわ湿気を吸い始めている。
朝の風は、思ったより冷たい。
クロノはその空気を眺めながら、小さく息を吐いた。
「……足りないな」
何が、とはまだ言わなかった。
昼を過ぎる頃には、広場の空気は血と湯気と疲労でぐちゃぐちゃになっていた。
若手達は解体を手伝いながら、広場の隅で槍や縄を弄っている。乾かすために広げた靴は泥だらけで、誰の物か分からないくらい色が似ていた。
カインは槍の柄へ小刀を当てながら、嫌そうに顔をしかめる。
「長ぇよな、これ……村だと気にならなかったのに、森入った瞬間ずっと枝に引っ掛かってたからな」
「お前それ二回どころじゃなかったぞ。途中で槍ごと持ってかれそうになってただろ」
「三回だ三回。しかも最後の方、後ろの木にまで当たってたからな」
後ろから笑われ、カインが渋い顔のまま槍を睨む。
「でも短くし過ぎても嫌なんだよな。牙猪押し返す時、長さが無いと普通に怖ぇ」
その横では、別の若手が縄を結び直していた。昨日慌てて縛ったせいで、途中がぐちゃぐちゃになっている。
「これもっと短い方がよくねぇか? 昨日足に絡みそうになったぞ俺」
「短いと今度離れた時困るだろ。森に入ると見えなくなるの一瞬だし」
「じゃあ長過ぎるんだよ!」
言い合いながらも、全員ちゃんと手は動いていた。
クロノは干し台へ肉を並べるグランを手伝いながら、そのやり取りへ視線を向ける。
「昨日困った事、他にもある?」
聞き方は軽かった。
だが若手達はちゃんと考える。
「後ろ見えねぇのが一番嫌だったな。ちょっと離れたら誰がいるか分かんなくなる」
「あと音。自分で歩いてる音なのか、別の何かなのか途中から分かんなくなった」
「枝踏むだけで心臓止まりそうになってたしな……」
そこでルナが縄を引きながら口を開く。
「走り過ぎ」
カイン達が揃って顔をしかめた。
「いや怖ぇだろあれ。あんなの目の前来たら走るって普通」
「怖い時ほど走るな。転ぶし、散るし、もっと見えなくなる」
短い言葉だったが、昨日の森を思い出すには十分だった。
カインは少し黙り込み、それから小さく息を吐く。
「……昨日、マジで誰がどこにいるか分かんなくなったんだよな。横にいたはずの奴が急に消えたみたいになって」
「俺もだ。しかも槍持ったまま木にぶつかった」
「それお前かよ。後ろですげぇ音してたぞ」
若手達の間で乾いた笑いが漏れる。
クロノは肉を吊るす縄を結び直しながら頷いた。
「じゃあ次から二人組は固定しようか。森に入る時、誰と動くか先に決めておこう」
「固定?」
「慌てると人って知ってる場所に戻ろうとするからね。相手が決まってた方が探しやすい」
カインは少し考え、それから小さく頷いた。
「……あー、確かに昨日毎回バラけてたな」
その時、広場の端で若手の一人が靴を振った。泥が飛び散る。
「あとこれ! 滑る! 昨日根っこ踏んで普通に転びかけた!」
「お前二回転んでたじゃねぇか」
「見えねぇんだよ! 森の地面!」
グランが干し肉を並べながら鼻を鳴らす。
「森を舐め過ぎなんだよ、お前ら」
「グランは転んでねぇのかよ」
「籠が引っ掛かって葉っぱまみれになったくらいだな」
即答だった。
カイン達が吹き出す。
笑いながらも、誰かが縄を巻き直し、誰かが槍の長さを測り始めている。昨日の失敗を、そのままにしていなかった。
クロノはその空気を見回し、小さく目を細める。
少しずつだった。
だが確かに、見張り班の意識が“守る側”の動きへ変わり始めていた。
夕方が近付く頃には、広場へ吊るされた肉から少しずつ血の臭いが抜け始めていた。
それでも完全には消えない。風向きが変わるたび、瘴牙熊の脂っぽい臭いが村の中へ流れていき、井戸へ水を汲みに来た村人達が顔をしかめながら通り過ぎていく。
「しばらくこの臭いは取れねぇな……」
グランが疲れ切った顔で肩を回した。
その横では、ミリアが板へ何かを書き続けている。朝からずっと動き回っていたはずなのに、まだ手を止めていなかった。
クロノは干し台の縄を結び直しながら声を掛ける。
「ミリア、まだやってたの?」
「今まとめとかないと忘れる」
ミリアは板を押さえたまま答える。
「縄、思ったより減った。あと水も。熊を洗うだけでかなり使ってる」
「……そんなに?」
「大き過ぎるのよ」
言いながら、ミリアは広場の端を見る。
洗った布はまだ半分ほど湿っていた。解体で飛び散った泥も乾き切っておらず、水桶の周囲だけ地面の色が濃く沈んでいる。
クロノは空を見上げた。西はまだ赤い。だが風だけが少し冷たい。
積まれた薪へ触れると、下の方がじっとり湿気を吸い始めていた。
「今年、冷え込み早ぇかもな」
木材を運んでいたゲルドが鼻を鳴らす。
カインが嫌そうに肩をすくめた。
「昨日森入ったせいで余計寒く感じるんだよな……」
「森、夜もっと冷える」
ルナが吊るした肉を見ながら言う。
「乾かないと腐る」
グランが腕を組んだ。
「肉もだが薪もなぁ。湿った木が混ざると煙ばっか増えるんだよ」
その時、ミリアが板から顔を上げる。
「水路側の木材置き場、屋根付けた方がいいかも」
「今のままだと下から湿気を吸うね」
「道側も泥増えてるし、冬前に固めたい」
気付けば会話が、自然と“冬までにどうするか”へ変わっていた。
クロノは広場を見回す。
吊るされた肉はまだ赤黒く、布は乾き切らず、泥の残る道では若手達が靴底を叩いていた。
まだ足りない。
回り始めてはいる。
だが、冬を越えるには全然足りていなかった。
「……やる事多いな」
小さく漏らすと、ゲルドが笑う。
「今さら気付いたのか?」
クロノも少しだけ笑い返した。
日が沈み始める頃には、村の空気も少し落ち着き始めていた。
広場ではまだグラン達が肉を吊るしているが、朝から続いていた怒鳴り声は減っている。代わりに聞こえるのは、縄を引く音や、木を削る乾いた音だった。
北側見張り台では、カイン達が夕方の交代準備をしている。
「お前、縄ちゃんと巻いとけよ。また枝に引っ掛かって暴れるぞ」
「昨日一番暴れてたのお前だろ」
「俺は転んでねぇ」
「木に突っ込んでたじゃねぇか」
笑いながらも、手は止まらない。
槍を壁へ立て掛ける位置が昨日より揃っている。水筒も、以前みたいに適当に転がされていなかった。
カインは縄の結び目を引きながら、西を眺める。
森は夕焼けの奥で静かに揺れていた。
昨日と同じ景色のはずなのに、前よりずっと近く感じる。
「……静かだな」
「何も来ねぇ方がいいんだろ?」
後ろの若手が言う。
カインは少し黙ってから、小さく鼻を鳴らした。
「昨日までは分かってるつもりだったけどな」
その時、梯子が軋む。
クロノが見張り台へ上がって来た。
「交代前?」
「もうちょいしたらな」
クロノは見張り台の柵へ手を置き、西を見る。
夕方の風は冷たかった。
森は静かだ。
だが昨日の事を思い出すと、その静けさ自体が少し怖い。
カインは槍の柄を軽く叩く。
「森に入る前さ、俺ら普通に“何とかなる”って思ってたんだよ」
「うん」
「でも実際入ったら、どこ見りゃいいかも分かんなかった」
少し笑う。
自嘲みたいな笑いだった。
「ルナが居なかったら、多分もっと酷かったな」
見張り台の端では、ルナがいつも通り森を眺めている。
本人は特に変わっていない。だが若手達の方は違った。
以前より少し距離を取るようになり、同時に、以前よりちゃんとルナの言葉を聞いている。
クロノはそんな空気を眺め、小さく目を細めた。
「慣れ過ぎないでね」
「分かってる」
カインは西を見たまま答える。
「でも昨日よりは、多分死ななそうだ」
その言葉に、後ろの若手達が小さく笑った。
大丈夫だとは、まだ誰も言わない。
それでも昨日よりは少しだけ、“守る側”へ近付いていた。
空が完全に暗くなる前だった。
北側見張り台で風を見ていた若手の一人が、ふと眉を寄せる。
「……音が聞こえねぇか?」
カインが顔を上げた。
耳を澄ます。
風とは違う。木が軋むような、重たい音が遠くで揺れていた。
「西じゃないな」
「北側か?」
全員の空気が少し変わる。
昨日までなら慌てていただろう。だが今は違った。まず音を聞き、次に方向を見る。その間に、もう一人が下へ声を飛ばしている。
「北側! なんか来る!」
見張り台の下で縄を片付けていたクロノが顔を上げる。
「数は?」
「……多くはない!」
やがて、北側の暗がりから荷車が見え始めた。
馬は一頭。泥を踏むたび、車輪が重そうに軋む。積まれた木箱や樽は泥まみれで、布を掛けられた長物も端の方が煤で黒く汚れていた。
その横を歩く影が三つ。
近付くにつれ、姿が見えてくる。
先頭の男は背こそ低いが、肩幅が妙に広かった。歩くたび腰の工具がぶつかり、鈍い音を鳴らしている。後ろの男は無言のまま荷車を押し続け、女の方は村の干し台や積まれた薪へ静かに視線を走らせていた。
長旅の疲れが、そのまま身体へ張り付いているみたいだった。
先頭の男が、ローデン村の柵を見上げる。
「……村か」
低い声だった。
クロノは柵の前まで歩きながら頷く。
「そうだけど。何か用?」
男はすぐには答えなかった。
一度だけ後ろの荷車を見る。それから、少し掠れた声で口を開く。
「北から流れて来た」
短い言葉だったが、それだけで空気が少し止まる。
男の後ろでは、荷車を押していた無口な男が肩の煤を払っている。女の方は広場の方を見たまま、小さく息を吐いた。
「帝国に街が潰されたッス。逃げながら南下してたんスけど、流石にそろそろ限界ッスね」
カイン達が顔を見合わせる。
クロノは三人を見た。
腰には工具。荷車には鉄材。服へ染み付いた煤は、焚き火の煙じゃない。
その時、後ろでゲルドが小さく鼻を鳴らした。
「……鍛冶師か?」
荷車を押していた男が、短く頷く。
「そうだ」
すると先頭の男が肩を回しながら続けた。
「俺はドグ。木と炭焼きだ」
「ガルム」
無口な男が短く続ける。
最後に女が軽く手を上げた。
「リッカッス。加工とか見るッス」
「俺はクロノ。ここの村で領主をやってる」
クロノの思考が止まる。
鍛冶。
炭焼き。
加工。
いや待て。今ローデン村に一番欲しい所全部来たぞ?
薪問題。炉問題。乾燥。冬準備。頭の中で、足りない物が勝手に繋がっていく。
しかもドワーフ。
実在したんだ……。いや知ってるけど。
クロノは必死に真顔を保った。
落ち着け。まだ何も決まってない。だが内心は大騒ぎだった。
絶対定住してほしい。
リッカの視線が、不意にクロノの後ろで止まる。
「……は?」
空気が変わる。
カイン達もつられて振り返った。
そこには、いつの間にかルナが立っていた。
夕闇の中でも分かる灰銀の髪。頭から後ろへ流れる二本の角。首筋から薄っすら見える龍燐。金色の瞳が静かに三人を見ている。
ドグの肩が僅かに強張った。
ガルムも無意識に荷車の柄を握り直している。
リッカが乾いた声を漏らした。
「龍人族……?」
ルナは小さく首を傾げる。
「そう」
短い返事。
だが、それだけで十分だった。
北側でも珍しい。
“安心する相手”でもない。
クロノは三人の反応を見ながら、小さく息を吐いた。
「ルナは村の仲間だよ。見張りと森側を任せてる」
ドグがまだ少し警戒したままルナを見る。
「……随分と物騒な仲間だな」
その横でカインが苦笑した。
「昨日、瘴牙熊をぶっ飛ばしたのルナだからな」
一瞬、空気が止まる。
リッカがゆっくり広場の奥を見る。
吊るされた瘴牙熊。
潰れた頭部。
ほとんど傷の無い胴。
それから、もう一度ルナを見る。
「……いや、ちょっと待つッス」
声色が変わる。
「あれ、ルナさんがやったんスか?」
広場の空気が少し止まった。
カイン達がつられるように後ろを見る。夕闇の中、解体途中の瘴牙熊が干し台の横へ吊るされていた。風で毛皮が揺れるたび、黒ずんだ牙がちらりと覗く。
リッカはそのまま数歩近付き、目を細めた。
「昨日倒したんだよ」
クロノが答える。
リッカの動きが止まった。
「倒したって……どうやって……」
周囲の視線が揃ってルナへ向く。
ルナは桶を洗っていた手を止め、小さく首を傾げた。
「拳?」
「疑問形なんスかそれ……」
リッカは引き攣った顔のまま瘴牙熊へ近付く。潰れた頭部を見て、それから胴へ視線を落とした。
そこで眉が動いた。
「……他、ほとんど傷入ってないッスね」
「槍を入れる余裕が無かったからな」
カインが苦笑する。
「というか、気付いたら吹っ飛んでた」
「お前ら本当に何して来たんスか……」
グランが包丁を洗いながら鼻を鳴らす。
「俺もそう思う」
ガルムは広場の端をじっと見ていた。
視線の先では、水路の水面が夕闇を細く反射している。まだ仮設なのだろう。板は歪み、泥避けも途中までしか出来ていない。それでも、水だけはちゃんと流れていた。
「……水、引いてるのか」
「最近ね。まだ途中だけど」
クロノが答えると、ドグが水路脇へしゃがみ込む。
泥を指で触り、木材の継ぎ目を眺め、それから流れる水へ小石を落とした。
「貧村の割に、妙な所触ってんな」
「妙?」
「普通は井戸増やして終わりだ。水路まで手ぇ回さん」
言いながら、ドグは周囲を見回す。
広場には干し台。縄を干している若手。見張り台では交代準備の声が飛び、少し離れた場所では泥だらけの靴が並べられていた。
綺麗ではない。むしろ雑だ。
だが、人が動いた跡だけは妙に多かった。
「……死にかけの村って感じじゃねぇな」
ドグがぼそりと呟く。
クロノは少しだけ考えてから笑った。
「最近ようやく、前向きに忙しくなってきた所かな」
夕方の冷たい風が、水路の上を静かに抜けていく
ローデン村はまだ冬の準備も出来ていない
それでも、村には今、新しい火が灯ろうとしていた。




