「しずの足音を、真一はまだ知らない」
「あのさ、お前さ、もういいんじゃないの。やめて。よくがんばったよ。うん」
賑やかな店の中、長澤勇はがぶっとビールをあおった。
「もう何年よ、来年で五十になるわけだから、約四十年、一人だとなんだ、もう二十三年近くも頑張ってきたわけでしょ。もしお前がこの先のことで心配してんなら、俺が力になるからさ。別になんていうか、俺はお前に結構世話になってきてるわけよ。まあ精神的にな、なんつうか、その、なんかやらかしたときにさ、そのあと笑い合える仲間がいるというか、だから俺も今の仕事続けてこれたってこともあるし、だから、生活面では心配すんなよ。少し休んでくれ。年収六百万ぐらいの生活ならさせてやれっからさ。それくらいありゃあいいだろ? 風俗だって充分行けるぜ、な、俺を脅迫して、金を毟り取ってるぐらいの気持ちでいてくれりゃあいいんだよ。俺はほんとにお前に感謝してんだから。だからもう、お前の苦しむ姿を見たくないわけよ。な、だから、俺に任せておいてくれ」
「……いやでも」
「いやいいからいいから任せとけって、な。いいとこ知ってるから」
黒電話が鳴ったので、人間界に来ていた細貝レイナは、目前にある受話器を取った。
「はい、こちら悩み事救急センター。自身の救急ですか? それとも他者への救急ですか?」
「……あの」と始まった声は、友達の親を殺して欲しいとのお願いだった。
悩み事救急センターは、殺しの依頼を受け付けていない。なぜなら、閻魔と亡者の間に生まれた子であるレイナは、人間を殺して裁きにかけることに、全く興味が湧かないから。
レイナは電話をしてきた長澤勇と名乗る男に対し、丁重にお断りして電話を切ると、すぐまた、電話がチリリンと鳴った。
「あのすいません」と始まった声は山野真一と名乗り、長澤勇という男が、山野真一の母の殺人を依頼しに来ませんでしたか。という内容の電話だった。
レイナは守秘義務の都合上ハイとは言わなかったけれど、どうしたんですかと山野の話を聞いていくうち、名前だけじゃなく、今し方あった、友達の親を殺して欲しいという内容の話と一致するものがあった。
山野は、僕がハッキリしなかったばかりにと後悔している。長澤に「やっぱやめて」と言っても、本音は殺して欲しいと勘違いしているのか、聞く耳を持ってくれないとのこと。
「もしもの時、殺し屋から母を守ってもらうことはできませんか」
もしもがあるかどうか、レイナは電話に出た責任の一環として地獄耳を使い、山野と電話をしながら、殺しの依頼をしてきた長澤の心臓音を突き止めた。
長澤は現在、別の法人に電話をかけている。ここに断られたとしても、行く行くは金で殺しを請け負う人間に行きついてしまう可能性は充分にある。
「そうですね、意味としてさほどの違いはないかもしれませんが、もしもの時、ではなく、 もしもがないよう、お母さまのお命を私どもが全力で保護する。という点でならお母さまのお命をお守りすることは可能ですが、どういたしますか」
「お願いします」即答だった。「僕はまだ、母が元気になると信じたいので」
迷いのない、スッキリとした言葉だった。
「承知しました。私どもにお任せください」
山野真一の母、山野しずを生かすと決めたレイナは、さっそく地獄谷の温泉に浸かっている、厳島甚平に連絡を取った。
数時間後、六畳間の床から、それなりに大きい門松の先端が浮き出るように現れた。
竹筒の中から出てきた華奢な手が、竹筒の縁にペタっ、ペタっと置かれ、鳥の巣のようなもこもこの髪がニョキッと出て、細い胴が出て、全体的にゴボウのような体型をしている厳島甚平が、竹筒の縁に座った。
カーテンの隙間からこぼれる光の中、窓際に置かれている電動ベッドの上で、山野しずは眠っている。
厳島は、ゆっくりと竹筒から出て、電動ベッドの傍らに立った。タイト目なスーツを身に纏っている。
しずは厳島に気づくことなく、眠ったまま。
厳島は、六畳間全体を見るように顔を向けた。
部屋の壁にはとてもきれいな海の写真や、三人で写る家族写真のようなもの、運動会で奮闘している姿で写っているのは、幼稚園児の真一と母しずらしき人物。他にも遊園地などで楽しそうにする家族の写真や、旅行に行った時のような写真も、しずの足元の上に貼られている。
建物の古さはあるが、しずの部屋はとてもきれいに片づけられていて、隣にあるテレビ台にも埃一つついていない。
六畳間の引き戸は開いていて、隣にあるダイニングキッチンもまた、フライパンやお皿などがきれいに整頓され並べられている。すべて、山野真一がやっているのだろう。
もう一つある部屋はしずの部屋から確認できないけれど、部屋を使っているだろう山野真一は今、短時間のパートに行っている時間。
築四十九年、2DKのアパートには、しず以外誰もいない。
またしずに顔を向けていた厳島が、細い右腕をピンと横に伸ばした。
すると、電動ベッドで眠っているしずの目が、パチっと開いた。
鳥の巣のような髪に隠れて、厳島の目は見えないけれど、目が合っているよう。「あ、どうもこんにちは」とペコっと頭を下げながら、ゴボウのような細い腕を下ろした。
「あのすいません。とても怪しいかと思いますが、僕は真一さんに依頼されて、しずさんを生かすためにやってきた、悩み事救急センター所属、厳島甚平というものです。山野しずさんですよね?」
仰向けで横になっているしずは瞬き一つせず、垂れた皺皺の目でじいーっと厳島を見ている。
見つめ合っている感じの二人……。
パッタンと、根負けしたのか信じたのか定かじゃないけれど、じぃーっと厳島を見ていたしずが瞬きすると、厳島を見ながらゆっくりうなずき、「……前にも、こんなようなことが」と口を開いた。
「前にも、ですか」
厳島は首を傾けた。
しずは、浅くうなずいた。
「以来私は、こんな状態に」
電動ベッドに横たわるしずの目から、涙がこぼれた。
厳島は床に膝をつき、ベッドに手をついた。
「しずさん、もしよかったらその話、詳しく聞かせてもらえませんか」
厳島の問いにおばあさんはうなずき、ゆっくり話し始めた。
山野しずが三十七歳くらいの時、度々ひどい眩暈に襲われるようになり、吐き気も襲ってきて会社に行くことができず、病院に行っても原因が判明せず、どうしたものかと困っていた時期があった。
そんな時、枕元に黒髪で白い着物を着た者が現れたのだという。
べッドに入っていたしずは白い着物を着た者に、よく自分の存在に気づいたと褒められ、 褒美として、趣味に付き合ってもらうことにはなるが、貴様の病を治してやると言われた。
趣味に付き合ってもらう意と、傲慢的な態度にやや引っかかりを持ったが、今は夢の中だと思い込んでいたしずは、お願いしますと頼み込んだ。
「その後、不思議と眩暈は無くなったのですが、体の調子というか、気力がなくなっていって、今はもう細くなってしまいましたが、当時は人並みに筋力がついた体ではあったのに、思うように体も動かなくなっていってしまって。誰にも信じてもらえなかったというか、もう……」
しずは、当時のことを思い出したのか、涙声になり、また、涙がこぼれた。
「でも、今では夢じゃなかったと断言できます」
涙ながらに、しずは強く訴えた。
膝をついて話を聞いていた厳島は、巫子の仕業だときっと思っている。
巫子はしずがまた眠りについたあと、しずのお腹に神代文字の羅列か、なにかの絵かわからないけれど、しずのお腹に落書きを施した。
巫子との接触を覚えている人間は稀。
「ちょっとすいません」
厳島は部屋の天井を見上げ、これでもかと開けた口の中から、スマホを出した。
涙目だったしずの目の涙が全部落ちるくらい、しずは目を大きく開けて驚いた。
厳島の口から出たスマホケースの頭には、立体的な骸骨の頭がついている。
「大変失礼な話なんですが、しずさんの話が嘘か本当か、これで確かめさせていただきたいんです。もう一度話を聞かせてください。しずさんが三十七歳くらいの時、黒髪で白い着物を着た者を見たんですよね?」
厳島はドクロの目をおばあさんに向けた。
表情が元に戻ったおばあさんは、厳島の目を見ながら、しっかりとうなずき、「はい、見ました」と答えた。
厳島のスマホの画面に、「真実」と出た。おばあさんは本当に巫子を見ている。
「どんな顔だったか、覚えていますか」
首を傾げたおばあさんは唇を噛み、「……顔ですか。顔は怖くて、始めはよく見られなかったのですけど、少しずつ見られるようになって……、でも、なんと言ったらいいか」と厳島を見た山野しずは現在七十六歳。巫子に会ったしずは三十七歳。今から三十九年ほど前になる。
同じ悩み事救急センターに所属する、神童りんから借りている、天上界の「『新宮照覧手帖−巫子の図」によると、三十九年前も今も、ピエスタという巫子がこの辺の界隈を縄張りとしている。
「白塗りで、短い髪がおでこに張り付いてて、鼻の筋がよく通っていて……。一瞬お化けかなんかと思ったのですが、姿から、巫女? と思ったことはよく覚えています」
「真実」とまた厳島のスマホに出ている。
厳島はスマホに入っている「新宮照覧手帳」を表示させ、ピエスタに行きついた。位は「十の集」。
「では、この人でしたか」
立体的な骸骨の頭が、亀の頭のようにスポっとケースに引っ込み、同じ箇所からポンっと肉付きある人間の顔が出てきた。
しずは紋所のように見せられた顔を見ると、また目を丸くしながらも、ケースから出てきた人間の顔を見て、ハッとした表情をした。
「そうです。この人です。この長い睫毛に口髭、そうですありました」
記憶が詳細に蘇ったのか、少し高揚したしずの言葉に、スマホの画面はまた「真実」と出た。確実に、ピエスタの仕業。
その時、膝をつく厳島の背後に人影が現れた。しずの視線が人影に移ると、 しずの顔が固まった。
厳島の背後に現れた者がサッと手を伸ばし、厳島が持っているスマホを取ろうとしたけど、掴む寸前で止まった。
「なんだこれは!?」
人影は厳島が振り向く間もなく両手を組んで振り被り、厳島の脳天を襲撃した。
──ゴンッという衝撃音と共に六畳間の床が割れ、築四十九年建ち続けたアパートの垢が埃となって舞い上がった。
……埃が晴れると、脳天を押さえ、激痛に耐えるように顔を歪めている厳島の姿が現れた。 厳島の腰から下が床に埋まり、スーツを着た厳島の上半身だけが床から出ている。
「ほう、意識があるか」
厳島を床に埋めた者は、白地に赤を纏った着物を羽織っている。白塗りの顔に筋の通った鼻 、おでこに張り付いた短い前髪、長い睫毛、口髭。厳島のスマホはどっかにいってしまったけれど、さっき示していた顔と瓜二つの顔。三十九年前、山野しずに落書きを施した巫子、ピエスタの登場だ。
「おもしろいもの持ってたな。だが不穏漂ってた。貴様、何者だ? 普通の人間じゃないな」
厳島はまだ痛みに耐えるように、手で脳天を押さえながら、顔を歪めている。
「答えろ」
ピエスタが、厳島の手から食み出ているもこもこの髪を、鷲掴みにして横に引っ張ると、イタアと厳島は顔をさらに歪めた。
「すいません、痛いです。答えますから」
ピエスタの手が、少し緩んだ。
「僕は、『閻魔の使い』兼『悩み事救急センター』に所属している、厳島甚平と申します」
「閻魔の、使い?」
「そうです。嘘じゃありません」
ピエスタの鼻が、やや膨らんだ。「まさか。本当か」と整っていた口髭が伸びるくらい、高揚した感じでニヤッと笑った。
「この時を、待ってたぞ」
厳島の髪から手を放したピエスタは、祈るように組んだ両手を、頭上に掲げた。
「ピエスタの雷」
ビチビチと音を立てたピエスタの両手が、厳島の脳天目がけ振り下ろされる。
ピエスタの位は「十の集」で最弱。けど、今の厳島も最弱。厳島が二度目の打撃に耐えきれず、意識を失ってしまえばまた落書きされてしまうかもしれない。
「──りんちゃーん!」
厳島もやばいと感じたのか、絶叫して助けを呼んだ。
「はーい!」
かわいらしい声と同時に、ドッゴーンッという衝撃波が六畳間を襲った。
築四十九年建ち続けたアパートの埃が、部屋中に舞う。
晴れると、テレビがある上の横壁に、ピエスタの頭が突っ込まれていた。
悩み事救急センター所属、神童りんの登場だ。
後ろで結った黒髪が竹ぼうきのようにとんがっていて、着物の上に黒の襠高袴を穿いている。全身真っ黒、先の別れた靴下は赤。いつもの黒光りブーツはちゃんと脱いでいる。
「リンリンルラランリンルララン、あなたの未来、私が照らしてあげる」
ガオーっとかわいらしい顔のりんが獅子のマネをした。地獄の鬼たちがいればここはきっと、熱狂の渦と化している。
「ありがとうりんちゃん」
厳島は斜め後ろに立つりんに対し、首を曲げながらお礼を言った。
「礼には及ばないよ」
獅子のマネから真顔になったりんが、床に嵌っている厳島を抜き出そうとすると、横壁に嵌っていたピエスタが、テレビ台を踏み台にしてバリッと頭を抜き、床に立って振り返った。
「来ると思ったぞ」
長髪が乱れ、白衣が埃で薄汚れたピエスタは、痛そうにしながらも、高揚感が入り混じっている。
「いい」
ピエスタは内心から込み上げてくるような肯定をした。
「貴様、神の子『子神』だろ」
厳島を取り出す手を止めていたりん。
「それが?」
「俺は憧れの歴史に名を遺すことになる」
ピエスタの笑いが噴き出た。
「は? なに言ってんの」
「また、神という存在に手を出すんだろ」
「は? ──あー。言っとくけど、うちはあの時の子神じゃないよ」とりんはめんどくさそうに言った。
「そんなことはわかってる」
「だったら、早く人間になりたいわけだ」
りんの手元が白く細長く閃光すると、一本の錫杖が現れた。
「いいよ、そのつもりだったから」
りんは現れた錫杖を両手でバットのように持ち、「つ」を描くように振り抜いた。錫杖の先端は厳島の鳥の巣をかすめ、テレビを巻き添えにしながらピエスタの脇腹にぶち当たる。 すると、ピエスタの脇腹から「天上の白炎」が燃え上がった。
神が生身の人間に手を出した。 その子が神童りん。
「ううおああああああ」
壁に打ち付けられて床に倒れ込んだピエスタの脇腹から、瞬く間に白い炎が全身に広がった。
「ちーがーう」
全身白炎で燃える中、ピエスタは叫んだ。
「……なに?」
めんどくさそうに錫杖を自分の肩に乗せたりんは、濃いめの眉を寄せた。
「俺は発端」ピエスタはとてもうれしそう。「また新たに刻まれる歴史として、一番初めに人間になる巫子として、ピエスタの名が刻まれる。俺の落書きがこうも発展するなんて、俺はついてる。ハハハハハ」
うれしさが有り余るようにバタバタし始めたピエスタは、白炎によって体が消失していっている。
「そっか。一番初めに? 歴史に? 刻まれたいんだ」
りんは肩に乗せていた錫杖をトンと肩に当て、頭についている鐶が合わさってシャリンと音が鳴ると、錫杖が消えた。
「一人浮かれてるとこ悪いけどさ、私たちは別に、神に盾突いてるわけじゃないんだよね。ま、結果そうなっていくのかもしれないけど、そんな目標もないから、どうかな」
「あ?」
……ピエスタのうれしさ有り余るバタバタが止まった。
「それに、おまえが初めてでもないんだよね」
「……あ?」
開いた口が塞がらないという感じ。
「嘘じゃないから」
りんは焚火にでも当たるようにピエスタに接近してしゃがむと、自分の着物の袖から、金色の渦巻き紋様が描かれた、白銀の巾着袋を出した。
「これが真実」
りんが巾着袋の結び目を持って上下に振ると、ゴツゴツと音が鳴った。
中に魂が入っていることに気づいたのか、ピエスタの表情が地獄にでも落ちたかのように暗く沈んだ。
「うーそだああああー」
ピエスタは頭を抱え絶叫した。
ピエスタは最弱。故に縄張りも狭くなる。情報が入ってこないのは当然か。
「熱い、熱い、痛い、助けてくれー」
突然苦しみだしたピエスタ。
「助けるわけないでしょ。うちが燃やしたんだから」
りんはしゃがんだまま、頬杖をついた。
「巫子がいいー。頼むー」
苦しむピエスタがバタバタと動くあまり、消失していた体が千切れ、バラバラになった。
「そうだね。みんなそう言う。でも無理。お前の未来は照らせない。けど、しばらくしたら、人間として生きていけるから」
りんは消失していくピエスタに向かって、バイバイと手を振った。軽く手を振っただけなのに、ここに地獄の鬼たちがいれば、りん様が手を振ってくれたと皆有頂天になって、地獄の祝い酒を浴びていることだろう。
「嫌だー」
頭だけが残ったピエスタは、最後まで喚きながら、白炎とともに消失した。
消えたあとの床に、真ん丸で、手のひらサイズほどの大きさの、ピエスタの魂だけが残った。ビー玉のように固く、無色透明な色をしている。
りんはピエスタの魂を拾い、「人間になったらまたがんばりな」と持っていた巾着袋に魂を入れると、厳島を見て、にこっと斜めのピースをした。ここに地獄の鬼たちがいれば、はもういいとして、りんは巾着袋を袖に戻しながら立ち上がると、厳島の髪についている埃や木くずなどを払ってから、床に嵌っている厳島の首を持って、やや粗く強引に、床から抜き出した。
痛そうに床から出された厳島は、首を押さえていながらもホッとした表情をしている。
「ありがとうりんちゃん。お疲れ様」
「甚平もね、よく堪えた」
りんは厳島が着ているタイト目なスーツをパッパと払う。
厳島は鳥の巣のような頭をポリポリと掻き、下を向いて照れているよう。
りんはしずに目を向け、「おばあさんごめんね。テレビに壁に」としずにかかっている木片や埃なども払いながら、「これからはテレビに頼らなくていい世界が待ってるから、許して」としずに向かってウインクした。
しずの顔が綻んで、気にしないでというように首を振った。
「また、行けるといいね」
りんは壁に貼ってある海の写真を見ている。
つられてしずも、厳島も、海の写真を見た。
家族で旅行に行った時、しずが撮ったのだろう。透き通る海、晴れ渡る青い空、小さな島がいくつも点在し、見ているだけで心が青く澄みきっていくような写真。ここだけじゃない。行こうと思えば、どこにだって行くことができる。
「じゃあうちは帰る」りんは隣に立つ厳島を見た。「殺し屋いつ来るかわからないし、来ても面倒なだけだし」
「僕もしずさんの落書きを消して、針を打ったらすぐ出るよ」
コクッとりんは頷いた。
「じゃああとよろしくー」
りんは立てた二本の指をおでこに跳ねさせてから、パッと消えた。
「……かわいい方ですね」
しずも、もうファンになったか。
「おいくつなんですか? りんちゃんは」
「僕も実際の年齢は知らないんですが、人間界では十七歳の容姿を纏ってるって言ってました」
「……そう、ですか」
しずは「人間界では〜」の言葉、いや、それ以前から引っかかりを持っているかもしれなかったけれど、深くは突っ込んで来なかった。
「えっと」厳島は自分の頭をもぞもぞと掻いて、「頭に衝撃があり過ぎて、どこまで話したか忘れてしまいましたが」と苦笑いを浮かべた。「改めて言わせていただくと、しずさんが寝たきりになってしまったのは、さっきいた巫子、ピエスタがしずさんに施した、落書きが原因だったんです。落書きは、ピエスタがいなくなっても消えることはありません。人間が残す遺品と同じようなものです。ですので、しずさんのお腹にある落書きを消す作業をさせてください。お願いします」
厳島の丁寧なお辞儀に、しずは戸惑う表情を見せながらも、うんとうなずいた。
「ありがとうございます。布団の上からでも大丈夫ではあるんですが、僕が元気いっぱいというわけでもないので、一応念のため、ちょっと失礼します」
厳島は腰を折って、しずのお腹が見えるよう、腰の位置まで上掛けをゆっくり剥いだ。
「お腹にちょっとどころじゃない衝撃と少しの痛みをともないますが、骨が折れたり体に損傷をおったりすることはありませんので、安心してください」
厳島は直立し、ピンと細い右腕を横に伸ばすと、肩から真っ黒な真が無数に生え、ぐるりと伸びて注連縄となり、厳島の細い手首までをぶっとく覆った。黒々としていて、霊感ある人間には見えてしまう。
山野しずには見えているからか、ブルっと大きく震えた。
「すいません。すぐ消しますので」
ギュッと注連縄が厳島の右腕をしめつけた。手首より先は閻魔の領域。厳島は大きく腕を振りかぶり、右の手の平をしずのお腹に振り下ろした。
ドンッとアパートが立て揺れするほどの衝撃が走り、寝ていたしずは一瞬「く」の字型になった。
「ハイ、消えました」
厳島の質も上がってきた。落書きが蒸発した煙がしずのお腹から出て、床に向かい、吸い込まれるように地獄へと落ちていくのがハッキリとわかる。閻魔の印がしずに入ったことで生まれる怖気や寒気も、それほど襲ってこないかもしれない。
厳島は、振り下ろした手をしずのお腹から離した。
「少し寒気みたいなものが襲ってくるかもしれませんが、気にしないでください。襲ってきても少しすれば消えてしまうので。あと、これからちゃんとリハビリをすれば、自分の力で歩けるようになります。ですが、ここに殺し屋がやってくる予定です。健康体の人間を相手にしてもあまり意味がないので、今すぐ別の安全な場所に移動してもらいます」
厳島が注連縄から一本だけ真菰を引っ張り出すと、一本の長い針に変化した。
厳島は、これは針山地獄の筋肉増強針ということと、しずの臍に刺すということを告げた。
「僕がしずさんをおんぶできたりすればいいのですが、恥ずかしながらちょっと非力なもので、すいません。針を刺すと注射のようなチクッとした痛みはありますが、痛みはすぐに消え、十秒ぐらいで針の糸と地獄とがつながり、動けるようになります」
そしたら、親子二人で住んでもらう新居へと厳島が案内する。新居といっても、新築ではない。ここより少しマシなアパート。
「ちょっと失礼します」厳島はしずが着ている上着の上から探って臍を見つけ、「ではちょっと、チクッとしますよう」と針山地獄の筋肉増強針をしずの臍に刺した。
「……どうですか? チクッとじゃなくて、継続して痛かったりしますか?」
厳島が看護師のような優しい口調で尋ねると、しずは大丈夫と言うように首を振った。
「そうですか、よかったです。ではもう少しお待ちください」
……十秒ぐらいすると、しずの臍に刺した針が赤く燃え、炭のように黒くなって消えた。
「針がちゃんと消えました」厳島は安堵さとうれしさが混じったような様子。「消えたのは、しずさんの筋肉と地獄が糸でつながった証です。もりもりっと筋肉が見た目に現れるわけではありませんが、立ち上がれるはずです。どうぞ立ってみてください」
厳島は、しずが立つスペースをあけた。
パジャマ姿のしずは、厳島の言葉に、やや半信半疑な表情。
しずは自分の右腕をゆっくりと動かし、自分の手の平を見た。
もう片方の腕も動かし、手の平を見た。筋肉も脂肪もないようなやせ細った皺皺の手を、 半信半疑な表情で、交互に見てから厳島を見て、厳島と目が合うような感じになると、うなずく厳島にしずも頷き、腕を使って自分でゆっくりと半身を起こし、上掛けの布団からゆっくり足を出して、ゆっくりと床に足をつけた。
自分の力で動き、ベッドに座ることができたしずの表情は、なんとも言えない驚きで溢れている。
ベッドに座るしずと、すぐ前に立つ厳島の目が、また合ったようだ。
うなずく厳島に、しずはまた頷き、両手をベッドにつき、前に屈んで、お尻を浮かして、 膝を伸ばし、ベッドからゆっくりと立ち上がった。
寝たきりになって数十年、しずは自分の力でなんなく立ち上がれたことに、真実味がないのか、自分の足を触った。
「六十七時間経つと地獄と繋がっている糸が切れ、筋力は無くなってしまいます。すみやかに移動してもらうための応急処置だと思ってください。着いたらちょっとした儀式はありますが、あ、儀式と言っても、しずさんや息子さんに悪影響なことがあるわけではありませんのでご心配なく。あと息子さんと一緒の時に、新生活についての注意点などをお話させていただくことになります。では、行きましょう」
手をとめ、しっかりと厳島の話に耳を傾けていたしずは、先に歩いて部屋を出ていった厳島の姿を、じっと見ていた。
しずの皺皺の喉が、ゴクリと鳴った。
しずは恐る恐る、歩いて部屋を出ていった厳島のマネをするように、左足を軸に、ゆっくりと右足を動かした。
ゆっくり前に出るしずの右足。
しっかりと床に着地したしずの右足。
踏み出せた。と言わんばかりの喜びと驚きが入り混じったようなしずは胸に手を当て、今度は右足を軸に左足を前に出す。
ゆっくりと前に出ていくしずの左足。
しっかりと床に着地したしずの左足。
しずの背筋がピンと伸び、両手でしっかりとバランスをとりながら、一歩、また一歩と前に足が出ていく。
一歩進む度に動作は速くなり、自分の足で歩けるという喜びのあまりか、しずの歩く姿が弾むようになった。
玄関で待つ厳島は、うれしそうに家中を歩き回るしずの姿を見て、とてもうれしそうに顔を横に伸ばしている。
自分の足で歩いていける未来が、山野しずを待っている。
よかったねえ。
しずを生かすと決めたレイナもまたうれしそうに、戻っていた冥府のリビングで、煎餅をパリッと齧ったのだった。




