「すがりついてもいいのよ。待ってる」
生徒
「死ね」と先生に言われた。お前が死ね。とさすがに言い返す力がなかったから、「死ね」という言葉が丸ごと僕に突き刺さった。
家に帰って、部屋に一人でいると、お母さんから電話がかかってきた……。
ずっと鳴り続ける電話に出ると、「今日は帰らないから」という、いつもの連絡だった。電話の向こうで、男の声がした。
僕は、引き出しにあったナイフで自殺を図った──。
うーうん、図れなかった。図ろうとしたのに図れなかった。
突然部屋に現れた、髪がもさもさの人にナイフを奪われたのだった。
その人は、着ていた白シャツの袖をまくって、細い腕を僕に見せて、なんのためらいもなく僕から奪ったナイフでスパッと自分の手首を切った──。
真っ赤な血が、部屋中に飛び散った。血は僕にもついて、あたたかくて、なぜかほっとして、力が抜けていく気がして、僕は意識を失うってことがなんとなくわかった。
目が覚めた時、手首を切った人はいなくて、部屋は噴き出た血に染まっていて、僕の下半身は、おしっこで濡れていた。
意識としてなかったけど、きっと怖かったのかなと思う。無表情で、なんのためらいもなく、自分の手首を切ったその人から、あたたかい血が噴き出たことが……。
今僕は生きている。自分の体温を感じている。生きていてよかったとまでは言えないけど、自分の手首を切っていなくてよかったとは思っている。
そのお礼を言いたいけど、その人はいない。あの時本当にいたのか、もしかして幻だったんじゃないかと思う時もあるけど、噴き出た鮮血の跡が部屋に残っているから、きっといたんだよね。
ありがとう。細長い、もさもさの人。
先生
「死ね」と生徒に言ってしまった。本当に死んで欲しいわけじゃなかった。歯向かってくるものに対して、最上級の言葉を突きつけたかっただけだった。
本当に死んでいなければいいが。ただでさえ、情緒不安定な年頃。
なにをやっているんだ、俺は……。
家に電話してみようか。
父親は蒸発、母親は滅多に家に帰ってこない。母親に電話しても出た試しがない。
直接行くか。直接言って、本心じゃなかったと、売り言葉に買い言葉みたいなものだったと。そう伝えた所で、信じてもらえる保証はない。
それでも伝えなきゃ。いけないよな。
悪いことをしたら謝る。悪いと思った気持ちをちゃんと伝える。それが今俺に出来ることだ。
──謝って、図に乗ってきたらどうする?
先生も大したことないね。
先生から一つも教わることないんだけど。
やめてくれる先生を。
やめて死ねよ。早く早く早く。
なんて言われたら、今度は手が出てしまうかもしれない。
直接家に向かおうと、靴を履いてドアノブを下げた手が、止まってしまった。
「アアー」と頭を掻き毟って天を仰ぐ。
ドンッと壁を叩くような振動音と一緒に、「うるせえよ!」という怒声が響いた。隣人の仕業だ。
ウルサイのはお前だ! と脇にあった傘で下駄箱の上をぶっ叩こうとした時、下駄箱の上にある一枚のパンフレットが目に入って、手が止まった。
学校の保健室にあった、子供だけじゃなく、誰でも困った時は、いつでも連絡してくださいという、「悩み事救急センター」のパンフレットだった。
甚平とレイナ
「痛いです」
学校の保健室で、座っている厳島の手首から、ドボドボと血が出ている。
「そりゃ皮膚が傷つけば痛いわよ。自分で自分を傷つけるからこうなるの」
保健医でもないのにレイナは白衣を着て、厳島と向かい合うように座っている。
「痛くないものかと思ってました」
「そこは一般的な人間と同じだから」
「教えといてくれると、ありがたかったです」
「まさか自分で自分の手首を切るとは思わないでしょ」
「いや、人がやってるのを見たら、引くかなと思って。あんなに血が出るとは思わなかったんですけど」
「んまあ結果、気絶して思い通りになったけどね。とはいえ、もうあんな止め方はしないこと。私、自分傷つける人、大嫌いだからね」
「すいません。以後違うやり方にします」
「わかったらほら、早く清水出して。さすがに死ぬよ」
「死ぬんですか? 閻魔に命を預けているから、死なないものかと」
「死ぬわよ。肉体は。ということは、人間界では死でしょ」
「そう、ですね。それ知って良かったです」
大きくあけた厳島の口から、水色の水筒が出てきた。
厳島はパカっと水筒の口を開けただけで、中身の清水を傷口にかけようとしない。
「なに? どうしたの?」
「え? あいや、閻魔のことは嫌いじゃないんですが、これ、閻魔の唾液だよなと思ったら、その……」
「はあ」レイナは溜め息をついた。「それ、閻魔が聞いたらショック受けるよ」
「受けるんですか? 閻魔でも?」
「閻魔をなんだと思ってるの」
「なにって、よくは知りませんが」
「けっこういいお父さんなんだから」
「そうなんですか?」
「そうよ。大好物の梅干しと人間の舌、一日三つまでにしてる」
「……なんですかそれ、全然わかりません」
「わからない? ま一人間にはわからないか」
座っている厳島が突然、フラっと倒れそうになった。
あ、と間一髪、厳島も水筒も、レイナがキャッチした。
「すいません」
厳島は頭を押さえながら、自分でちゃんと座り直した。
「もう限界ね」
レイナは厳島の腕を持って、手首に清水をかけた。
厳島の傷はみるみるうちに治っていく。
厳島は、「あー」でも「うー」でも文句を垂れることなく、黙ってそれを見ていた。
「はい、助かって良かったね」
「……そうですね」
厳島はまずいものを口にしたけど、表に出さないような表情をしている。
「あーもう。もっと喜ばないと。甚平の過去を見た時、お父さんショック受けて、梅干と舌、やけ食いしちゃうかもよ」
「わーい。わーい」
厳島は、セリフを棒読みするかのように喜んだ。
静かに、教室のドアが開いた。
一人教室にいた先生は席を立ち、入ってきた厳島と生徒に向け、軽くお辞儀をした。
「じゃあ僕は、外にいるから」
厳島の言葉に、生徒はうなずいた。
厳島は同じことを言うように、先生に向かって軽く会釈をすると、静かに出ていった。
「……ごめんね、鈴木さんと話がしたくて、ちょっと回りくどいことしちゃって」
先生の言動はやや、そわそわしている。
うーうん、と首を横に振った鈴木も、ちょっと動きが硬い。
「ここで座って話がしたいんだけど、いいかな」
鈴木はうなずくと、机が向かい合うように並べられている、教室の真ん中に歩いていった。
「いいわ、この感じ。ゾクゾクする。ちゃんと言いたいことが言い合えたら、二人のほっぺにでもキスしてあげようかしら」と心臓音を聞いていたレイナは、真っ赤な口紅を塗ったのだった。




