タギシミミとウズヒコ
すっかり騙されたタケヒトが、いる。
『マキムクの兵士が、束になって、磐余邑の仮宿を襲撃すると聞いた。それが……今夜だ』
どこで訊いた話しか知らぬが、フツは嘘などつきそうもない、まっすぐな眸で磐余邑に駐屯する皇軍の危機を知らせた。
タケヒトは、これを信じた。疑う余地など、なかった。
そのため戻ってすぐに、久米臣を呼び、経緯を話し、敵方をいつでも迎え撃つことができるよう早々と陣立てさせた。
敵を迎え撃つ用意は、軍を平素より鍛錬させた甲斐あって、一人ひとりが素晴らしい動作であった。
(いよいよ戦か! 待っていたぞ!)
長らく待機が続いていたこともあり、すぐにでも飛び出したいほど逸る気持ちが、兵士らの顔を生き生きとさせていた。
……しかし今か今かと待てども、一向に敵方は現れない。
あまりにも静かであるため、日臣は、
「まだ始まらぬなら、いったん一眠りなどして、時を過ごすのはいかが……」
………などと、兵糧をたらふく食っていっぱいに膨らんだ腹を撫でながらうそぶく始末である。
「だれか、物見をやれ」
タケヒトが命ずると、久米臣はこのあたりの地形に詳しいクロハヤを指名した。
クロハヤは、先だてタケヒトら皇軍に攻め滅ぼされた磯城の王、シキヒコの腹違いの弟である。
弟ではあるが、兄シキヒコには人に悖らぬひどい扱いを受けていたため、タケヒト率いる皇軍に助けられ、ようやく息をつないだ者だ。
タケヒトにとってみれば、別段助けたという覚えもないのだが、クロハヤにしてみればここはひとつ、タケヒトの恩義に報いたいという心持ちであった。
偵察から戻ったクロハヤは、
「マキムクの兵士など、どこまでいってもいなかった」
と、奏上した。
事実であった。
「…………………」
久米臣は白い目になり黙りこみ、日臣は大きな腹をゆすって笑った。
「山怪にでも化かされたのでは?」
「皇軍の将軍たるものが、女にうつつをぬかすから……」
久米臣は、ずばりと痛いところをついてくる。
「うるせえ!」
タケヒトには返す言葉がない。
まて、まってくれ。タケヒトは頭のなかが混乱した。
山怪に化かされた?
……そんなはずは、ない。
なにやら嫌な予感がする。
「たしかにマキムクの者などどこにもいなかったが……」
クロハヤは言葉を繋いだ。
「途中、磯城邑のクニビトに行きあったのですが……これから『戦場狩り』にいくと言っておりました」
戦火に焼き滅ぼされた集落に、めぼしいものを盗みにいくのだという。
「戦場狩り? どこへ?」
「マキムクの、宮殿だそうでございます」
タケヒトの顔色が変わった。
(どういうことだ? 磐余邑の仮宿を……この邑を襲うのではなかったのか?)
それがなぜ、マキムクの宮殿に?
マキムクの宮殿とは、ウマシマジが住むあの屋敷のことに違いない……違いない、が。
……なぜ、マキムクに駐屯していた兵士らがウマシマジを襲うのか?
「おい、それはどういうことだ。マキムクの宮殿……ウマシマジが戦でやられたってことなのか?」
クロハヤはタケヒトの剣幕に圧され、たじたじとなった。
「……いや、それは『まだ』で……これから戦になるから、それに遅れを取らぬように先回りするといっておりました。マキムクの宮のほうはもうヤられて、そこはだいぶ略奪され、もう何もめぼしいものが残っていないそうですので……」
「なんだと!」
血が逆流するのではないかという感覚に陥り、眼の前が真っ暗になる。
あれから別れてのち、サヒたちはマキムクの宮へ向かったはずだった。
(万が一、戦に巻き込まれでもしたら……いや、そんなはずはない。フツが首尾よくやっているはずだ。戦に巻き込まれたなど、あるはずがない!)
そこからタケヒトは、己がどういう行動をとったのか、正直、記憶がない。
「あっ! スメラギさま!」
異変を感じとった久米臣が、静止しようととしたが、遅かった。
すでに、タケヒトは馬宿に駈けていったあとだった。馬を曳きだし、すぐさま飛びのった。鞍も置かない肌背馬だ。
「どこへ行くのですか!」
「この馬は、ウマシマジ王からの借り物だ、返さねばならん!」
「馬などっ!」
どうでもいいではないですか! 久米臣の叫び声は風に千切れてかき消えた。
馬の口輪の飾りヒモだけでも掴もうとしたが、その手は無念にも空を切った。
砂煙をあげ、もはや駆けだしたあとであった。
「何をしているか、ぼやぼやするな! すぐにスメラギさまに続くのだ!」
久米臣は極力、動揺を表にださぬように平静を装いつつ、ただちに下知をくだした。
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木陰に倚り、ひとり佇む者がいる。
所在なげに、犬の仔草をぶらぶらと振り回し、ときどき苛立ったように木肌に叩きつけたりしている。
タケヒトの実子、タギシミミである。タギシミミは父タケヒトとともにツクシの国を出て、ここまで従軍していた。
「そう、憤むなや。親父さんかってまだまだ男なんや」
その肩を軽く叩き、なだめるように声をかけたのは、サオネツヒコだった。
「おもんないのはわかるで。わしかて海から陸にあげられてしもて、すっかり甲羅が干上がった亀の気分や」
そういって両手で髭面の頬を下に引きさげ、げんなりとした顔つきを作ってみせる。
「……………」
タギシミミは返事をしなかったが、口元にわずかに笑みを浮かべた。
タギシミミは幼い頃より『行く末は日嗣の御子』として育てられたゆえに喜怒哀楽を面に出すことがあまりなかったのだが……この剽軽で、どこか憎めないサオネツヒコという男が嫌いではなかった。
サオネツヒコに出会ったのは、皇軍の船団が艫舳をつないで内海をいく途中、速吸之戸(※いまの明石海峡)にさしかかろうとしたときであった。
速吸之戸は、その名のとおり、潮の流れがことに速く、船旅には危険な難所だ。
潮の満干で流れが入れ替わり、季節によって、はたまた天候によって、潮流は複雑にいりくみ、船はうまく海路の流れをつかむことができない。
だが、なんとしてもここを通らねばならん。
この先にはチヌの海が広がり、そのむこうに波速の戸があり、そこから陸道を経て、山を越えた先にあるというニギハヤヒ王の住まうシラニワの宮へ到達せねばらなぬからだ。
船は波に揺られるごと、大きく傾きはじめた。舟人らはみな船酔いにやられ、臓腑のものを吐き散らし、ただ振り落とされぬように舳先につかまるので精一杯である。
(もうだめだ……!)
めまいと吐き気で手足に力がはいらなくなってきたそのとき、天から降ってきた声があった。
「あーあ、何ちゅうこっちゃ。こないな時に船出すやなんて。命はもうちぃっと大事にするもんやで」
———いや、天から降ってきたというのは錯覚で、実際は、波の間から聞こえてきたのだが。
「しゃあないな、見てみぬふりもでけへんし」
そうしてぐうっと大波が盛り上がったとおもったら、その波を割るようにして、ウミガメの背に乗った奇怪な男が現れたのだ。
まさに、奇にして怪。
ウミガメの甲羅の上に裸足でたち、そびえ立つ波濤の上から見下ろす姿は、奇怪よりほかに言いようがなかった。
髪もヒゲも、長年、潮風になぶられたせいでごわごわのボサボサ。しかしもろ肌脱いだ赤銅色の胸板はたくましく、つややかに照り輝いていた。
「わが名はウズヒコ。生まれも育ちもこの海中の渦潮や。悪いことは言わんよって、いったん船を岸につけ、ほんのひととき後にくる潮止まりのときまで待つのがええよ」
男は手に持った長い竹竿を器用にあやつり、あっという間に舷をひきよせるなり、激しい揺れをものともせずに船に乗り込んできた。
あれほど揺れに揺れて、行くにも戻るにもどうしようもなかった船だったのにもかかわらず、ウズヒコが乗ったとたん、急に船が安定した。
ウズヒコは長い竹竿をざぶざぶと動かして、船を岸まで連れていき、ほかの船も同じように岸へと導いた。
そしてあれほど荒れ狂っていた波が、ほんの数刻後にはピタリと凪ぎ、ウズヒコの指揮のもと、やすやすと海峡を渡り終えたのだ。
船団の長であるタケヒトは勇猛果敢な波さばきに非常に感心し、ここで別れるのが惜しくなり、「我が友となり、皇軍に加わってはくれまいか」と懇請した。
「……うまい酒にありつけるなら、いってもええけど。ただ、海から離れても良い働きができるかどうかは、しらんで?」
そういうわけでウヅヒコはタケヒトの仲間となり、「サオネツヒコ」という名を賜った。
このやりとりを間近で見ていたタギシミミは、この不思議なウヅヒコという男の堂々とした益荒男ぶりに、憧憬にも似た思いを感じていたのだ。




