血の川
凄まじい速さで駈け下るフツの背にしがみつき、舌を噛まないように必死で歯を食いしばりつつ、サヒは内心とまどっていた。
フツの身のこなしは相変わらず俊敏で、鹿のごとくしなやかに断崖を駈けくだり、木霊のごとくひそやかに、葉も揺らさず木の間を縫って行く。
………だが。
(まるで、フツであって、フツでないような?)
サヒとしばらく離れている間に、目をみはるほど背丈が伸び、筋骨がたくましくなった。
何度もおぶわれたから知っているが、サヒが必死でしがみついているこの背中も、前よりずっと広やかになった。
しかしそれだけではない。
時折見せるあの異様に燿る……蝮かなにかのように凶暴な眼差しが、サヒの心を不安にさせる。
『サヒがいうなら、もう食わない』……と、そう呟いてヒトの屍肉を喰らうことを中断したフツ。まるでサヒと離れている間は、当然食っていたというような口ぶりであった。
サヒという「軛」が解かれている間、彼の中に眠る『なにか得体のしれないもの』が、血潮の中を泳ぎまわり、フツを身体の内側から変化させてしまったような……。
そんな恐ろしい考えがよぎり、「考えたくない」というようにサヒは頭を振った。
一方、フツは駈けながらただ得意げだ。
「サヒ、オレはヤツの乗っている馬なんかよりも、ずっと早く走れるんだぜ」
フツは息も切らせない。
「馬が、石塊だらけの土や、とがった切株を踏んで走れるか? 木と木の間をイナズマのように向きを変えながら、駆けることができるか?」
いつになく饒舌に語る。
「……走れやしない。馬などすぐにへたばって水ばかり欲しがる、図体ばかりがデカい役立たずだ」
無邪気に、己が誇示して喜んだ。
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マキムクの宮にたどり着いたとき、サヒは言葉にできない異様な気配に立ちすくんだ。
「なにか、おかしいわ」
そこはかとなく漂う異変。
マキムクを離れたのは、まだほんの半日ほど前のことだ。
にもかかわらず……その景色は様変わりしていた。
門扉は無造作に開け放たれ、門を守っているはずの兵士は、姿も形も見えない。
それどころか、宮内にはヒトの気配がまったくない。
もともと破れ放題だった塀ではあったが、それすらなかば打ち壊されたように崩れ、雨除けに葺いてあったカヤは束になって下に落ちていた。
昼も夜もなく焚かれていた篝火は白く燃えつき、厨房のかまどからは煙の一筋すら上がらず、まるで宮中の火の気がすっかり失せているようだった。
言いようのない不穏な気配に、サヒはすぐさま宮の内に入ろうとした。
しかしフツが、サヒの肩をグッと掴んでひきもどした。そうだった、フツはマキムクに入れないのだ……。
「なぜフツだけ、マキムクに入れないのかしら?」
ケモノだからじゃないか、とタケヒトは冗談めかしていったが、マキムクの宮には贄に上げる鹿を狩るための猟犬もいて、ヒトとともに普通に過ごしている。
それに、邪悪なことを引き合いにすれば、カギロイオキミやその他の兵士たちのほうがよっぽど邪悪ではないか。
純真無垢な、幼子のようなフツが、マキムクに入れないはずはないのだ。
「畏れないで、フツ。心を強くして」
サヒはフツの手をとった。
その手をつないだまま、フツを宮の中へいざなった。
「ほら、なんでもないでしょ」
サヒは笑った。
フツはサヒに誘われ、門扉の閾を、信じられないほど簡単に越えたのだ。
フツは目をしばたたいている。
「………………」
これまで、どんなに必死に門をくぐろうとしても、塀をよじ登ろうとしても身体が撥ねつけられ、なぜか中に入ることができなかったマキムクの宮だったのに……
垣根の隙間に身体をねじこみ、木の間からやっと顔をだすと、宮の『内』に入ったつもりがそこはなぜか宮の『外』になっていたし、松の木の上から宮の屋根に飛び移ろうとしても、屋根のへりに手が届くまえに、見えないなにかに阻まれ、滑り落とされてしまったのに……
(オレの身体にに染みついた長年の穢れは、マキムクの宮に張られた結界を欺けぬらしい……)
自覚しているからこそ、フツにはほぞを噛むことくらいしかできなかった。
だが。
全力をもってしても突破できなかった閾が、こんなにもたやすく踏み越えられてしまう。
そう。
『サヒの霊力をもってすれば』だ。
サヒには、その指先に触れる汚濁すべて、ただちに祓い清めてしまう霊力があるのだ。
そうにちがいない、とフツは思った。
そして無言の内に、いま己の目の前でほほえむ少女を、女神を見る目で心から尊崇した。
しかし和やかな空気は、いくらも続かなかった。
ヒメの宮の惨状を目の当たりにし、二人は凍りついた。
血が。
血が滴っている。
血が、何匹もの黒い川のように曲がりくねりながら、宮の外まで流れ出ていた。
血しぶきに染まった帳が無惨に裂け、それが静かに風にゆらいでいた。
むせ返るような生臭い血の匂いがただよってくる。
サヒは思わず、袖口で口元を覆った。
「どういうこと?」
ごうごうと風の音だけが響いていた。
一歩が、踏みだせない。
足がすくんでしまったサヒを置いて、フツが先に宮内に入っていく。
フツの裸足の足裏が、小さな川のように流れてくる血をためらいなく踏んでいく。
「待って………」
サヒもフツについて中へ入っていった。
広間には血の匂いに混じって、焚いた麻の香りがまだうっすらと漂っていた。
脇几にもたれかかったまま首を飛ばされているのが、装束からみてタノウエヒメに違いなかった。
しかし、飛ばされた頭はどこにあるのか……わからなかった。
なぜなら広間には、ヒメの宮の女たちの死骸で足の踏み場もないほどだったからだ。
うつ伏せになっている者、仰向けに息絶える者、折り重なったり、抱き合って斃れている者。
みな、目を見開いたり、大きく口を開けたまま身失せており、驚き慌てたまま死んだことがわかる。
「誰が、こんな………」
言葉を失い、立ち尽くすサヒ。
「………生きてる」
ひとりひとりを検分していたフツが、息がある者を見つけた。
サヒも見たことがある。名までは知らないが、ヒメの宮に出入りしていた従婢のひとりだった。
抱き起こすと、その従婢は口から血の泡を吹いた。
喉を斬られ、すでに虫の息だった。
「だれが、こんなことをやったの?」
「————————」
女は必死に口を動かそうとしているのだが、喉からひゅうひゅうと風の音が漏れるばかりで、声にならなかった。
その代わり震えながら腕をのばし、血に染まった指で兵舎の方角を指さした。
「まさか、そんな……。マキムクの兵士?」
味方の兵士がそんなマネをするはずがない……そう思いたかったが、これまでの兵士の振る舞いをみれば、絶対にないとはいいきれなかった。
「カギロイオキミ……将軍の命なの?」
サヒの問いに答える代わりに、女は喉に詰まった血を大量に吐きだすと、そのまま力尽きた。
「しっかりして! 死なないで!」
だらりと力なく落ちる赤く染まった腕。もう二度と、動くことはなかった。
肉体から魂が抜け、ただ静寂が訪れた。
ここにはもう、誰も生きている者はいなかった。
サヒたちは耐えられず外へでた。
ヒメの宮の巫女と女たちを皆殺しにしたのは、本当にカギロイオキミと兵士だったのか。
だとしたら、兵士たちはどこへ行ったのか。
「そうだわ。カギロイオキミは、磐余邑の仮宿を襲うって……フツ、そういったわね」
だとすると、カギロイオキミは磐余邑に向かったということか。
しかし、ヒメの宮の女たちをこんなふうに皆殺しにする意味がわからない。
「クロヒメだ」
空を見上げていたフツがいった。
そして「ぴいいいい————」と、つんざくような指笛をならす。
クロヒメは大きく旋回しながら、物見櫓の周りを飛んだ。
サヒはその光景を見、そして絶望に打ちひしがれた。
悲鳴にも似たかすれ声が、喉の奥からもれでた。
(私は、この光景を目の当たりにするために、マキムクに戻ってきたというのか?)
物見櫓の庇の下に、みのむしのような一体の死骸が吊るされていた。
ひとめみてわかった。
………それが、トマノヒメの亡骸であると。




