圧すか、戻るか。
マキムクに戻るか、春日の社へ赴くか……―
(どうする?)
以前も、いまと同じように迷ったことがあった。
「マキムクに戻る」か、「父の待つという阿波の宮へ向かう」かという二つの道である。
あのとき「ともに阿波の宮へ赴き、サヒの父ツミハに無事であることを知らせよう」と提案したクマワニの意見を退け、サヒはマキムクへ戻ることを選んだ。
なぜクマワニのいうように阿波のの宮へ赴かなったかというと、母の消息をなにも掴まないまま、マキムクを去りたくはなかったからだ。
だがその選択は、どんな結果を招いたか……
クマワニの命を代償にすることになってしまった。
(あのときクマワニを伴い、すぐにでも阿波の宮に向かっていれば、ひょっとすればクマワニは殺されずにすんだかもしれない……)
その思いは、あれからのちもずっとサヒの心にわだかまっている。
再び、心が迷いはじめたその時であった。
ガサガサっと茂みが揺れた。
そこからいくらもしない内に、一尋もありそうな大きな白鳥が茂みを分けて翔びたったのだ。
白鳥はあっというまに中空に舞い上がり、大きな羽で空を叩き、長い首をもたげ遠くを見据えながら悠然と羽ばたいていった。
サヒはそれをまばたきもせず目で追った。
その方角は、マキムクがある方角であった。
「お、でけえ鳥!」
フツが、舌なめずりをするのがわかった。
(あ、だめよ!)
白鳥は神の御使であるからだ。
しかし、サヒが静止するまもなくフツは足下の石を拾い、手の中で軽くはねさせるや、目にも止まらぬ速さで中空に投げた。
握りこぶしほどの大きさもある石は、大きく弧を描き、飛んでいる鳥めがけて吸いよせられていく。
フツはよくこの方法で鳥を狩った。
フツは優れた猟人だ。狙った獲物は、仕留め損なうことなどめったにない。
サヒは思わず目をつむり……いや、目をつむりかけたが、やめた。サヒの目は中空の鳥を凝視した。
鳥は、フツの石礫を難なく躱し、そのまま何事もなかったように飛んでいったのだ。
「なんだ、風が吹いて命拾いしたか。……ちぇ、腹減ってるのによ」
フツは悪態をついた。
(……マキムクだ)
サヒの心は決まった。
そうと決まればぐずぐずしている余裕はなかった。
サヒは手頃な布に鈍玉をくるむと、それを背中にくくりつけた。
「なんだ、それは? 亀の子みたいに石なぞ背負って」
タケヒトは怪訝そうに顔をしかめた。
「手弱女が汗せずともよいではないか。石など奴に持たせれば……」
『奴』と称し、フツのことを顎でさした。
「いいの」
サヒは首を横に振り、やんわりと断った。
「大事なものだから自分で持っていきたいの」
タケヒトのいいざまは乱暴だが、サヒの身体を思いやっての言葉だったので、悪い気はしなかったのだ。
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「おい、寝穢い女め。少しは手助けせぬか」
苛立ったような、カギロイオキミの声が飛ぶ。カギロイオキミは、これから戦に向かうような物々しいいでたちに着替えようとしていた。
ミオツヒメは炉の火のちかくの暖かい鹿革の敷物の上にごろりと腹ばいになり、頬杖をついてやにやと笑ってばかりいる。
首にはまだウサギの毛皮を巻いたきり。剥きだしの腹のままだ。手伝おうとする素振りはない。
「ふん」
カギロイオキミは呆れたような息をついた。
「おい!」
その代わり、綾垣の外に控える兵士を呼び、
「いま臥所にいる兵士らを全員叩き起こし、いますぐここに集まるように言え! 将軍の命を伝えよ! これから敵を討ちにいくとな!」
……と、鋭くいいはなつ。
綾垣の外に控えていた兵士は慌てて飛んでいった。
綾垣のすきまからふと外を見ると、どんよりと雨を帯び始めた空に、何羽ものカラスがふわふわと舞っているのが見えた。
死体のにおいを嗅ぎつけたのかもしれないと、ミオツヒメは思った。
「それで……これからどうするつもりなの?」
ミオツヒメは、カギロイオキミの背中に尋ねた。
「どうするだと? お前が言ったんじゃないか、戦に勝てば左大臣の腹心になれると。いちかばちか、ここから打ってでるのだ」
ミオツヒメは内心驚いていた。こんな気概のある男だったとは思わなかったのだ。
「勝てると思うの?」
そう言いつつも、手甲の紐を結ぶのに苦心している男を、仕方なく手伝いはじめる。
「勝つよりほかあるまい」
「…………」
このままずっと日がな一日マキムクの宮の警護をしていて、道が拓けるとは到底思われなかった。それはわかりすぎるほどわかっている。
「ねえ、いっそのこと二人で逃げない?」
ミオツヒメは冗談めかしていった。
「誰も知らない海辺で、漁して暮らすなんて面白いじゃない。一緒に行きましょうよ……」
「いやだね」
カギロイオキミは吐き捨てるようにいった。
もう二度と、人の下でこき使われる身に落ちたくはなかった。幸運にも手にしたこの地位を手放すなど……ましてや、漁師に堕ちるなど絶対にいやだった。
「……そうよね」
ミオツヒメはどこか寂しそうに笑い、そこからは急にきびきびと支度を手伝いはじめた。
顔が映るほどに磨きあげられた鉄のよろいを胴と、肩と、首とにひとつひとつ着せかけ、丁寧に紐でゆわえつける。頭には羽飾りのついた『かぶと』をかぶせ、さいごに無数の魚の目玉を聯ねた頸玉を、手ずからカギロイオキミの首にさげた。
支度がおわっても、ミオツヒメはまだ下帯さえつけていなかった。カギロイオキミはそのふくよかな腰をひきよせ、首筋に唇をあてた。
ミオツヒメはのけぞるように天井を仰ぎ、にこりともしないでただ立ちすくんでいた。
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……マキムクに戻る、と、サヒはタケヒトに伝えた。
タケヒトには別段、異論というものはない。
「マキムクに戻って、トマノヒメを助けなきゃ」
トマノヒメを連れて南に下り、タケヒトの軍が待つ陣営まで戻らなければ、あそこまで弱りきってしまった彼女を養生させられない。
マキムクには、『巫女に無関心な王』や『麻を吸うことに昼夜を費やす大巫女』、『女を犯すことにばかり熱心な兵士』……そんな輩どもの巣食うマキムクでは、おちおち療養などできないし、病人に食べさせる滋養のある食べ物すら満足に手に入れられるはずもないからだ。
「馬に乗ってきてよかったよ。歩くよりいくらか早くつくだろう」
タケヒトが自慢げに胸をはった。というのも、サヒを追いかけるのに、機転を利かせて馬を駆ってきていたのだ。
タケヒトは、先に馬にまたがり、あとからサヒを馬上に引き上げようとした。
当然、サヒもその手につかまろうとした……―
……ところが。
伸ばしかけたサヒの腕を、フツが阻んだ。
「サヒはオレといく」
「え?」
一瞬、空気が凍りついた。タケヒトに向けられたフツの眼差しが、あまりに鋭かったからだ。
嫌とは言わせない剣幕に、タケヒトですら気圧された。
「フツ、あなたマキムクには入れないんじゃなかったの?」
フツは除け者にされるのが寂しいのだ、と察したサヒがやんわりとたしなめる。
サヒの指摘にハッと顔をこわばらせたが、とり繕うようにフツがいった。
「心配いらない、オレにだってサヒのことくらいは守れる。サヒは知らないかもしれないが、宮の内には入れなくとも、ずっとサヒを見守っていた。大きな松の木の上からずっと。その松の木の上からは、マキムクの中のことがなんでもよく見える。松の木の上からなら、石飛矢も使える。クロヒメもいる。なにも心配いらない」
……というようなことを、早口でまくしたてた。
確かに、サヒが兵士にかどわかされたとき、誰よりも早く駆けつけ、命を助けたのはフツであった。見守っていたことに嘘はなかった。
………それに、もうひとつ、と、フツはタケヒトに向かっていった。
「マキムクの兵士が、束になって、磐余邑の仮宿を襲撃すると聞いた。それが……今夜だ」
次は、タケヒトが顔色を変える番であった。
「オマエ、早く磐余邑の味方のところへ戻り、このことを知らせねば、身内に人死がでるぞ」
馬で、来ていてよかったな。
フツは、そのとき初めて笑った。無邪気な笑いだった。
固まってしまったタケヒトを尻目に、フツはサヒを軽々と背に負った。
そのままの勢いで獣のようにすばしこく、山道を下りはじめた。




