7話 フランクフルト1
「はい。えーっと、こちらが有馬さんの新しい身体検査証明書になりますね」
「ありがとうございます」
数週間後。
無事に実機訓練の許可が下りた。
乗務員が集まる食事スペースで、奏は拓也を待ちながらコーヒーを啜る。
一口飲んで、顔をしかめた。
苦い。
病院食と薄味生活を経てきた舌には、まだちょっと刺激が強い。
「で、これからどうするんだ?」
奏からの連絡を見て、拓也が家から空港までやってきた。
今日はどのみちスタンバイで自宅待機だったらしく、荷物を持って空港に来る分には何の問題もないらしい。
「セントレアでタッチアンドゴー訓練かな。でもその前に実機慣れ。気圧で耳痛くなるかどうかもまだわからんし。拓也の明日のフランクフルト、ついて行こうかな」
「パスポートは?」
「とっくにできてるよ」
「手際いいな」
「そりゃ仕事戻るためなら嫌でも良くなる」
「じゃあ明日のNOTAMまとめといて」
「それお前の仕事」
総務の人の話では、制服が来るのはまだ少し先らしい。
さっさと訓練を終えて、パリ便にシフトを入れられたら晴美さんに連絡しなくては。
考えるだけで少し胃が落ち着かない。だが、悪い緊張ではない。
翌朝、九時。
「で、どうしてこうなった?」
拓也の車には、なぜか咲と、拓也の妻の楓佳さん、そして千尋が乗っていた。
「千尋もフランクフルト行きたいって言うから。奏ちゃんにお願いしたらチケット取ってくれた」
「おいお前」
「ごめん、負けた」
「しかもビジネスなんて、奏ちゃんのお父さんもなかなか太っ腹で」
「あ、それはエコノミーが満席だったから……って言ってた」
「私、旅行なんて三年前に家族でシンガポール行ったきりだなー」
なんやかんや、実は千尋が一番楽しみにしているような気がする。
テンションが一人だけ微妙に高い。
「楓佳まで……何日いるつもりだよ」
「四日」
「おい、俺明日帰るんだぞ。ご飯は?」
「自分で何とかして」
「まじかよ」
いつもの夫婦のやりとりである。
楓佳さんは一切悪びれない。強い。
空港に着き、荷物を下ろし、流れでラウンジの話になったところで、咲が当然のように聞いてきた。
「じゃあラウンジで待ってるから。奏ちゃんは?」
「私ですか? そもそもチケット取ってないので入れませんよ」
「え?」
「え?」
どうやら、皆そろって“奏も当然一緒にフランクフルトまで行く”と思っていたらしい。
思われていてもおかしくない流れではある。
だが、まあとりあえずフランクフルトまでは行くので許してほしい。
「では、私あっちなので、失礼します」
フライトバッグを引きながら、奏は足早に事務所へ向かう。
後ろでは咲たちが勝手なことを言っていた。
「あんなに荷物持ってきてたから、てっきり張り切ってるんだと思ってた」
「だよね。普通そう思うよね」
「やっぱり奏ちゃんって不思議ちゃん?」
「咲のお父さんと馴れ馴れしく話してる時点でおかしいことだらけだよ」
「そう? ……たしかにそうだね……」
いや、おかしいのはそこだけじゃないんだけどな。
心の中でだけ突っ込んでおく。
事務所の前まで来たところで、奏は何の迷いもなく男子更衣室へ入ろうとした。
「で、お前はぼさっと男子更衣室入ってくんな」
後ろから拓也が頭を掴んだ。
「ごめんって。くせで」
「くせで済むか」
拓也は呆れたように言いながらも、それ以上は何も言わなかった。
更衣を済ませると、事務所でパソコンに向かう。
機体の状態、空港情報、最新の気象、NOTAM、ルート。
制服を着た瞬間、拓也の目つきが完全に仕事のそれになる。
奏も隣のパソコンで概要を確認した。
フランクフルトは少し天気が悪そうだ。
「昨日の予報より風強いな」
「どの辺?」
拓也が奏の画面を覗き込む。
「全体的に。偏西風が……ちょっと速度上げないと予定時間、間に合わないかも」
「燃料増やそうかな」
「そのほうがいいと思う」
「遊馬さんですか?」
「はい」
若い男二人が拓也に声をかける。
「本日ご一緒させていただきます佐内です。よろしくお願いします」
「田村です。フランクフルトは今回が初めてです。よろしくお願いします」
「遊馬です。それじゃあ到着は俺と佐内でやるか。帰りはまた考えよ。あと、あいつだが――」
拓也はパソコンに集中している奏の肩を引っ張った。
「俺の助手だ。丁重に扱え」
「助手、ですか?」
一番扱いが雑なのはお前だけどな。
「有馬です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
はじめに全員で7枚のライセンスをちゃんと持っているかを確認する。
「燃料800追加で、パリに対してどのくらいMDFあるのか確認してもらうか」
拓哉が中心となり四人で打ち合わせをして、そのまま機体へ向かう。
機体につくと整備士さんと搭載燃料や機体状況の打ち合わせを行う。
拓也と佐内は外へ出て外部点検。
田村と奏の二人はコックピットに残り、田村はCDUにデータを入力する。
外部点検が終わると、キャビンアテンダントとのブリーフィングが始まる。
「本日PFの遊馬拓也です」
「FOの田村です」
「佐内です」
「有馬です」
「……」
「えーっと、出発時は特に問題ありません。巡航中も基本は大丈夫です。ゆれが起こりそうなときは前もって伝えます。到着時はおそらく揺れます。何か質問は?」
雑。
みんなそう思った。
CAの顔には出ていなかったが、空気が微妙にそれを物語っていた。
「キャプテン」
「どうした田村?」
「この方誰ですか?」
田村はいつ聞こうか迷ってそうだったが、ここで聞くことにした。
「助手だ。一応、期免許は持ってるけど、諸事情あってしばらく俺の助手になってもらってる」
「誰がお前の助手だって?」
「とにかく心配するな。わからないことあったら俺じゃなくてこいつに聞け。とりあえず田村と佐内は準備進めておけ」
「はい」
準備は進む。
だが思っていた以上に田村の動きが遅い。
「準備は?」
「すみません、まだできてません」
「ちょっと遅いよ。急ぎ目で」
「はい……。すみません、トイレ行ってもいいですか」
「ああ」
田村はヘッドセットを外して急いでトイレへ向かう。
拓也はヘッドセットをつけ、シートベルトを締める。
後ろでは佐内が作業を続けている。
「奏、手伝え。遅れそう」
「わかった」
「CDU入力の続きお願いします」
「おっけー、わかった」
奏が慣れた手つきでどんどん入力していくと、佐内は驚いた顔をした。
「驚いた。助手ってのは本当なんだ」
まあ、当然の反応だろう。
しかしこの人たちとは初対面だ。面識があれば体のことも説明しようがあるかもしれないが、初対面に何を言っても冗談にしか聞こえない。
そのうち噂にでもなってくれた方が、いっそ話が早い気もする。
「有馬さん? でいいですか」
「どうしたんですか、佐内さん?」
「いや、大したことじゃないんですけど、ベテランっていうのも納得できます。その……どのくらいなんですか?」
「入社25年目です」
「25!!??」
「どうした佐内?」
拓也が振り返る。
「なんでもないっす」
顔に全部書いてある。
“ただの高校生かと思ってた”という顔だ。
出発準備は大方整った。
「有馬さん、春樹ってやつ知りませんか?」
「知ってるよ。あ、あいつにご飯誘われてるの忘れてた」
「俺、そいつと同期です」
「あ、そうなんだ。ていうか、いつ約束してたっけ……」
「別に無視でもいいんじゃないすか」
「いや、そうしたいところだけど、色々お世話になったから」
「あいつが先輩の? らしくないな」
拓也は何のことだかわからないまま、客が乗り終わる報告を待っていた。
田村も戻ってくると、最終確認を始める。
客が乗り終わるとプッシュバックを開始。
滑走路までは田村が操縦し、離陸からは拓也が担当する。
今日は天気もよく、ルート変更がほとんど必要ないので、上昇もすべてオートパイロット頼りだ。
しばらく上昇して、加速の体勢に入ったところでシートベルトサインが消える。
ここからのキャビンは忙しい。
飲み物、前菜のサービス、夕食の準備。
一方パイロット側は出発後の確認を済ませ、混雑する空域を抜けたら順番に休憩へ入る。
奏と佐内はコックピットを出て、クルーバンクへ向かった。
B787のクルーバンクは前後客室の上にある。
狭い階段を上ると、三部屋のカプセルホテルみたいな空間と、小さな座席がひとつ用意されている。
大人には狭いその階段も、奏にはちょうどいい大きさだった。
そこだけは、今の体の方が都合がいい。
クルーバンクに入るとご飯を食べ、少しだけ眠る。
五時間後、アラームが鳴った。
佐内が先に起きる。
奏もつられて目を覚まし、一緒にコックピットへ向かった。
前方では田村と拓也が、待ってましたと言わんばかりの顔で待っていた。
「お待たせ」
「お待たせしました」
「おお、お疲れ様です」
状況確認を終えると、田村が席を立つ。
「じゃあ佐内、よろしくな」
佐内が席に座ったのを確認すると、拓也も座席を動かし始めた。
「キャプテン?」
田村が少し不審そうに拓也を見る。
拓也は肩を回しながら、軽くあくびを噛み殺した。
「じゃあ、あと頼んだ」
「いいの?」
「いいも何も、ブリーフィングは済んでる。ライセンスも身体検査も問題なし。上にも確認取ってる。手順上も問題ない」
「それはそうですけど……」
田村は言葉を選ぶように、一度だけ佐内を見た。
「見た目で判断するなって言いたいのは分かってます。でも、乗員交代の場面で、乗客から見たら子供に見える人間を座らせるのは、正直ちょっと不安です」
責めるような口調ではなかった。
むしろ田村の声には、職務上の慎重さが滲んでいた。
「おれ、まだ眠くないので、キャプテン寝てきてください」
「お前が眠くないのは知ってる。でも、俺は眠い」
「そこは堂々と言うんですね」
「眠いものは眠い」
拓也は悪びれもせず言ってから、佐内の方を顎で示した。
「別に心配しなくていい。こいつは今日の運航、最初から全部追ってる。燃料、風、到着時刻、代替空港、全部頭に入ってる」
「それは分かってます。ただ……」
「大丈夫、田村さん。私に任せて」
佐内は落ち着いた声で言った。
その声に焦りはない。背伸びした強がりでもない。
ただ、いつも通り計器を見て、いつも通り必要なことを確認しているだけだった。
「佐内さんも何とか言ってくださいよ」
「え、俺は別にいいですけど」
佐内は計器に目を通しながら、さらっと答えた。
「さっきの引き継ぎも問題ありませんでしたし、到着前の調整も彼女が一番早く気づいてましたから」
田村は少しだけ眉を動かした。
「到着前の調整?」
拓也が口元だけで笑う。
「お前も確認してただろ。偏西風が予報より強い。対地速度が計画より少し落ちてる」
「それは把握してます。燃料を追加した理由も、それを見込んでの余裕ですよね」
「そう。そこまでは全員共有済みだ」
拓也はそこで、ちらりと佐内を見る。
「ただ、予定より遅れが膨らむ前に、どのタイミングで巡航速度を調整するか。そこまで先に言ってきたのはこいつだ」
佐内はタブレットと計器を交互に見ながら言った。
「今のところ、到着遅れはまだ許容範囲内です。ただ、この先も向かい風成分が残るなら、もう少し早めに速度を上げてもいいと思います。フランクフルト側は混んでるので、早着しすぎても待たされるだけですけど」
「その判断でいい」
拓也は短く頷いた。
「速度上げるタイミングは佐内に任せる。管制との流れも見ながら、早着しすぎない範囲で調整しろ」
「了解です」
田村はしばらく佐内を見ていた。
それから、小さく息を吐く。
「……分かりました。失礼しました」
「謝るな。疑うのも仕事だ」
拓也はそう言って、田村の肩を軽く叩いた。
「ただ、確認したなら休め。疲れたまま座ってる方がよっぽど危ない」
「はい。休憩入ります」
「おう。ちゃんと寝ろよ」
「キャプテンもですよ」
「俺は今から本気で寝る」
そう言って拓也は、何の迷いもなくコックピットを出ていった。
ドイツのフランクフルト。
めっちゃ広いハブ空港です。




