4話 相棒
「はい! おつかれ様でしたー」
監査官が、奏の身支度が整うのを待ってから、いつもの軽い調子で声をかけた。
あまりにも普段どおりの挨拶で、さっきまで片肺火災だの緊急帰投だのをシミュレーターでやっていたことが、少しだけ嘘みたいに思える。
「ありがとうございます。今日はこれだけですか?」
奏がそう返しながら視線を横へやると、隣のフルフライトシミュレーターの箱体が大きく揺れていた。
あそこまで振られるのは大抵ろくでもない事態だ。ウインドシアか、着陸やり直しか、それとももっと単純に操縦が追いついていないのか。
おそらく中の人は半泣きである。
「ええ。特に他に用がなければ、今日はもう帰ってもらって大丈夫です。操作に危ういところもなかったですし……。監査が通るかは身体検査次第でしょう。何か気になることでも?」
「いえ、大丈夫です」
奏は深々と頭を下げて、監査官を見送った。
向こうは向こうで忙しいのだろう、振り返りもせず次の業務へ向かっていく。
静かになった廊下のガラスに、自分の姿がぼんやり映った。
縮んでしまった体。
前よりずっと細い肩。
綺麗で、華奢で、まだ完全には見慣れない手。
奏はその手をぐっと握りしめる。
これはガッツポーズなのか、それとも不安を押し込めるための動作なのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、少なくとも今のシミュレーターの中で、自分はまだ飛行機を飛ばせた。
その事実だけが、じんわり胸の奥に残っていた。
ロッカーにしまってあったフライトバッグを片づけていると、隣にさっき一緒に監査を受けた後輩がやってきた。
「先輩、お疲れ様です」
「うん、おつかれ。やっぱ場数って大事だね。あんなにもたもたしてた訓練生が、緊急時の対応もこんなに立派になっちゃって」
「いえいえ、先輩がしっかりしてたからこそできることです。やっぱり……“本当に”先輩なんですね?」
その“本当に”のところだけ、後輩は妙に慎重に発音した。
気を遣っているのか、まだ半信半疑なのか、その両方なのか。
「そうだよ。まだ信じられない?」
「信じる信じないっていうより、あまりに現実的じゃないというか……」
後輩がそろそろと奏の顔を覗き込もうとする。
奏は口角を上げて、自分の頭をトントンと指差した。
「私のここにはちゃんと、君と初めての福岡便の記憶がバッチリ残ってるよー」
「あゎぁゎぁー! その話はオフレコです!」
後輩は急に姿勢を正した。
ここまで綺麗に反応してくれると、からかい甲斐がある。
「あははは、忘れないよー」
「お願いですから忘れてください。先輩、仕事いつからなんですか?」
「まだわからない。身体検査通ってるかもわからないし、そっちは?」
「明日は午後スタンバイで、明後日はロスです。先輩、この後一杯どうっすか?」
「シミュが夜だったからか、昨日パリだったからかは知らないけど、今まだ真昼間だよ」
「あれぇ?」
「ごめんね。今日は先約があるの。しばらくこっちフライトないから、そっちの都合がいい時に連絡してよ」
「わかりました。じゃあ四日後まで我慢します」
「奢ってね。私、今無職だから」
「貯金は俺の数倍ありそうですけどね」
「「ははは」」
笑いながら別れる。
こういう、どうでもいいようでどうでもよくない会話が、少しだけありがたかった。
特別扱いしすぎず、でもちゃんと気にかけてくれている。その距離感がちょうどいい。
荷物をまとめて訓練施設を後にする。
更衣室で制服から私服に着替え、ロビーへ戻ると、知人がスマホ片手に柱にもたれていた。
スケジュールの確認でもしているのだろうか。
奏はわざと声をかけずに近づき、そっとスマホを覗き込む。
画面は真っ暗で、反射した知人の顔だけが映っていた。
「おお、遅かったな。その、なんだ……一か月ぶり? だよな?」
気まずそうに振り返る。
一か月ぶりに見る相棒の変わった姿に、やはりまだ目の焦点が少し合っていない。
遊馬拓也。
訓練生の頃からの同期だ。
同い年ではあるが、見た目はとても若く、四十六歳には見えない。
髭もちゃんと剃られていて、髪型もきっちり整っている。
第一印象は“中学の理科の先生かな?”であり、二十五年近く経った今もその面影は残っていた。
長い時間一緒に過ごしてきただけあって、私の姿を目の前にしても、完全には割り切れない様子だ。
それは分かる。
実際、怪我をしてから会うのは三週間ぶりで、連絡はしていたが文字だけだった。
実物を見ると、それなりにショッキングなのだろう。
スケジュールが上手い具合に合わなくて、会うのが今日になってしまった。
「この姿で会うのは初めてなのに、なんで俺だってわかったの? 」
「めっちゃうわさになってるしな。しかもやることと目がまんまお前」
「目? てか拓也、普通もっとがっつくよな。覇気がないというか……まさかもう既にやらかした?」
「……」
その沈黙で察した。
赤の他人にでも「久しぶり!」と声をかけたのだろう。
やっちまったな。
気まずそうなのはそれが原因らしい。
拓也は音を立てて手帳型ケースを閉じ、スマホをポケットに流し込んだ。
「そういえば今日、なんでわざわざここに? 家集合でよかったじゃん」
「あー、一昨日傘忘れて。結構いいやつだから」
キャリーケースの上に無造作に置かれた、丈夫そうな折り畳み傘を指差す。
どうやったら折り畳み傘を忘れるのだろうか。しかも訓練施設に。
「奏こそなんだよ、その格好。もうちょっとマシな服選べなかったのかよ」
「あー、ユニ〇ロで適当に選んだから。時間なかったし。あと一応、知り合い以外には奏かなでで通してるから」
「ふーん。なら、奏の家行く前に時間あるなら服選びに行こ」
「えー、いいよ。めんどくさいし金かかるし」
「はいはい、元気になった祝いで数着なら奢ってやるから、さっさと来い。車の鍵ここかなー」
拓也は奏のリュックのチャック付きポケットに手を伸ばす。
さすが腐れ縁。鍵の位置は御明答である。
「拓也、今日何で来たの? バス?」
「いやー、十一時から訓練入ってた知り合いと一緒にタクシー」
「ほんと要領いいな。で? その鍵どうするの?」
「車借りるぜ。どうせ免許の写真も変わってないだろうし、何より俺が運転してた方が外見普通だろ」
「そんな室内ジロジロ見るかなー? まあいいや。めんどくさい事なっても嫌だし」
「どうせ店寄らずに家直行するだろうし。そういえば免許の写真とかどうするんだ?」
「多分、整形した時と同じ手順でなんとかなるんじゃないかな? 多分……」
「多分? まあいいや。とにかくさっさと行くぞ。俺、今日夕方からスタンバイだし」
拓也は普通に駐車場へ向かって歩いていく。
こっちは早足じゃないと追いつけない。
少し前までは俺の方が身長が高かったのに、今では概算二十五センチ差。
もはや親子である。
「ちょっと待てって。お前いつもそんな歩くの速かったっけ?」
「いや、前からこれくらいだろ」
「絶対違う。今の私の足が短くなっただけだ」
「自分で言うなよ」
「事実だろ」
「事実でも言っていいことと悪いことがある」
「じゃあ親子とか言うなよ」
「見た目だけな」
「余計ひどいわ」
奏は半分文句を言いながらも、その背中を追いかけた。
拓也の歩幅に合わせるのは少し腹立たしい。
でも、その腹立たしさが妙に懐かしくて、少しだけ安心もした。
次回は拓也と買い物です。




