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♂転性してもエアラインパイロット♀  作者: 月隠優
第一章 パイロット復帰

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閑話 少女の初出社

こうお半部分は閑話です。


主人公、有馬奏「  」

後輩 『   』

監査官“ “

無線【   】

となっております。


物語とは関係ありません。

次にお進みくださいφ(゜-゜=)


ユニ〇ロは偉大だった。

 朝一番で駆け込んだ奏は、三十分で最低限の装備を揃えた。

 無地のTシャツ。細身すぎない黒のパンツ。薄手のカーディガン。下着。靴下。ついでにヘアゴム。

 店員にサイズを聞かれた時だけは心が折れかけたが、もうそこは流れに身を任せた。


「こちら、試着室どうぞ」


「ありがとうございます……」


 なぜだ。

 昔なら何の感情もなくズボンを買えたのに、今は一本のパンツを持って試着室に入るだけで変な緊張をする。

 しかも鏡を見るたび、そこに映るのは知らない女の子だ。


「……これ、ほんとに俺か?」


 試着室の中でぼそっと呟いてみる。

 鏡の中の少女も、同じように気まずそうな顔をした。

 知ってる。お前が俺だってことくらい、嫌というほど知ってる。


 結局、無難の塊みたいな服装に落ち着いた。

 少なくとも、病院でもらった可愛い服の山よりは心理的負担が少ない。

 亜由美の服はありがたかったが、いきなりあれを着こなす精神力はまだない。

 フリルは無理だ。今のところは。


 自宅へ戻って着替え、長い髪をどうにか一つにまとめる。

 晴美にやってもらったポニーテールを思い出しながら結んでみたが、同じようにはいかない。

 ゆるい。高すぎる。左右がずれる。

 何度かやり直し、最終的には「まあ、ほどけなければいいか」という雑な結論に落ち着いた。


 そこでスマホが鳴った。

 春樹だ。


『おはようございます』


『おう』


『……その返事、やっぱ先輩ですね』


『何だよ、朝から確認か』


『いや、ちゃんと起きてるかなと思って。今日ほんとに来るんですよね?』


『行くよ』


『マジかあ……』


『何だ、その反応』


『いや、そりゃ来てほしいですよ? 来てほしいですけど、覚悟ってもんがあるじゃないですか』


『覚悟?』


『会社の人たちのです』


 それはそうかもしれない。

 電話口で春樹は、いかにも面倒ごとを前にした人間の声をしていた。


『一応、上には“有馬さん本人が来る”って伝えてあります』


『それで通ったのか』


『半分は通ってません』


『半分?』


『“本人を名乗る謎の女性が来る”くらいの認識の人もいます』


「だろうな……」


 思わず声に出た。


『だから一応言っときますけど、今日は本部長とか訓練課長とか、わりと上の人も来ると思います』


『俺、そんな大事になってるの?』


『なってますよ。なにせ先輩、一回死んだことになりかけたんですから』


 その一言で、胸の奥が少し冷えた。

 冗談っぽく言ってはいるが、事実だ。

 春樹は少し間を置いてから、声を落とした。


『……すみません』


『何が』


『いや』


 そこで春樹は言葉を濁した。

 たぶん、あの日のことだろう。

 自分だけ助かって、有馬があんなことになったこと。助けを呼んだのに間に合わなかったこと。

 いろいろ抱えているのはわかる。


『気にすんな』


 奏はあえて軽く言った。


『今日ちゃんと顔見せるから、それで終わりにしろ』


『終わるほど簡単じゃないんですけどね』


『知ってる』


『……会社の前で待ってます』


『分かった』


 通話を切り、奏はスマホを握ったまま少しだけ深呼吸した。

 会社に行く。

 それはつまり、自分がもう一度「有馬奏」として社会に出るということだ。

 見た目は何もかも違うのに、中身だけでそれを通す。

 無茶だ。かなり。

 だが、やるしかない。


 玄関の鏡に映る自分を見る。

 黒髪をまとめた、小柄な女。

 年齢で言えば高校生にも見えなくはない。せいぜい大学生くらいか。

 これで機長ですと言って誰が信じる。

 名札でもぶら下げておきたい気分だった。


「……行くか」


 自分に言い聞かせるように呟いて、家を出た。


 会社の前には、すでに春樹が立っていた。

 通用口の脇、腕を組んで、いかにも落ち着かない様子で何度もスマホを見ている。

 奏が近づくと、春樹は顔を上げ――そして露骨に固まった。


「……おはよう」


「……」


「おい」


「……おはようございます」


 返事は返ってきたが、視線が定まっていない。

 奏の顔を見て、髪を見て、服を見て、また顔を見る。忙しいやつだ。


「なんだよ」


「いや……その……」


「はっきり言え」


「改めて見ると、ほんとに誰なんすかって感じですね」


「喧嘩売ってる?」


「違います! 感想です!」


「最悪だな、その感想」


 春樹はあわあわと首を振った。


「いやだって、電話だとギリ先輩なんですけど、実物だと脳が処理できないんですよ。声も高いし、ちっちゃいし、髪長いし」


「知ってるよ」


「なのに目つきだけ先輩なんですよ。そこが一番怖いんです」


「お前、ほんとに失礼だな」


「すみません……」


 しおらしく頭を下げる。

 このへんの反応まで含めて、やっぱり春樹だなと思った。

 少しだけ緊張が緩む。


「で、どこ行けばいい」


「会議室です。上の人たち、もう集まってます」


「朝から重いな」


「重いです。俺も逃げたいです」


「副操縦士が逃げるな」


「今日の俺、副操縦士じゃなくて付き添いなんですけど」


「ならなおさら逃げるな」


「横暴だなあ……でも、ちょっと安心しました」


「何が」


「先輩が先輩っぽいままで」


 その一言に、奏は少しだけ足を止めそうになった。

 だがすぐに歩き出す。


「そういうの、もっと早く言え」


「照れてます?」


「黙れ」


 通用口を抜け、社内へ入る。

 見慣れたはずの空気が、今日は妙によそよそしい。

 受付の女性がこちらを二度見した。

 廊下ですれ違った整備士が、春樹と奏を交互に見た。

 当然だ。知らない女性が、社員証もつけずに春樹に連れられて歩いているのだから。


 しかもその女性は、やたら堂々と歩いている。

 余計に目立つ。


「やっぱり社員証ないと不便だな」


「先輩、今そこなんですか」


「そこだろ。俺が本人だって一番分かりやすいのに」


「見た目ごと本人確認が崩壊してるのに、社員証だけあっても面白いことになりますよ」


「面白くはない」


「いや、たぶん総務は泣きます」


 会議室前まで来ると、春樹が立ち止まった。


「ここです」


「入るか」


「……ほんとに入るんですね」


「今さらだろ」


「ですよね」


 春樹がノックする。


「失礼します。有馬さん、お連れしました」


 その言い方もどうなんだ。病院帰りの証人みたいじゃないか。

 中から「入って」と声がした。

 扉を開ける。


 会議室の中には五人いた。

 本部長。訓練課長。人事っぽい人。医務室担当らしい人。あとは見たことのあるベテラン機長。

 全員が一斉にこちらを見る。


 沈黙。


 たぶん、五秒くらい。

 でも体感では三十分だった。


 最初に口を開いたのは、本部長だった。

 六十手前くらいの、いつも無表情な男だ。


「……春樹君」


「はい」


「確認だが」


「はい」


「君が連れてきたのは、誰だ」


 春樹がちらっと奏を見る。

 困った時に振るな。


「有馬奏機長、です」


「そうか」


 本部長はそう言ったまま黙った。

 そうか、では済まない空気が会議室に満ちる。


 奏は軽く頭を下げた。


「おはようございます。有馬奏です」


 ベテラン機長が椅子から半分立ち上がった。


「いや待て待て待て」


「待ってます」


「待ってるんじゃない。説明してくれ」


「それは俺も聞きたいです」


 思わず本音が出る。

 会議室の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。

 訓練課長が眉間を押さえながら言う。


「……口調は確かに有馬だな」


「そこは保証します」と春樹が即答した。

 お前は何の立場なんだ。


 本部長が椅子を指した。


「座ってくれ。立ち話で済む内容ではない」


「失礼します」


 奏が座ると、改めて全員の視線が集まる。

 慣れない。

 フライトのブリーフィングで見られるのとは種類が違う。

 完全に未知の生物を見る目だ。


 医務室担当の女性が、慎重に口を開いた。


「病院からの報告は受けています。ただ、医学的に説明不能な変化が起きているとしか……」


「だろうな」


「有馬さん」


「すみません」


 つい普段通り返してしまった。

 医務室担当が少しだけ肩の力を抜く。笑うところではないのに、笑いそうになっている。


「一応確認です。記憶は事故前から連続していますか?」


「してます。羽田で折り返し前に外部点検に出て、ノーズギア付近で作業車に挟まれたところまでは鮮明です」


 ベテラン機長が顔をしかめた。

 訓練課長は腕を組む。


「その後は」


「病院で目が覚めました。二日経過してました」


「意識混濁やせん妄の類は?」


「少なくとも今はないと思ってます」


「見た目の変化については?」


「受け入れきれてません」


 即答だった。

 それに対しては、誰も何も言わなかった。


 本部長が低い声で言う。


「有馬機長であることを、こちらが確認できる材料はあるか」


「あります」


 奏は持ってきたフライトバッグから、財布と名刺入れを出した。

 社員証は古い顔写真付きだ。今の顔とは一致しない。

 だが名刺、免許証番号、会社貸与端末のパスコード、個人しか知らない情報はいくらでもある。


「社員証はこの通り役に立ちませんが、暗証番号、口頭確認、訓練記録、過去の便の細かい内容ならかなり答えられます」


「例えば」と本部長。


「去年の冬ダイヤで、伊丹便の復路を急遽俺が拾った日がありました。副操縦士は春樹。到着後、PAXひとりが荷物取り違えで降機遅れ。春樹が『先輩、今日ついてないですね』って言ったら、俺が『お前がいる日に運使ったことない』って返しました」


「言われました」と春樹が死んだ目で言う。

 ベテラン機長が吹き出した。


「それ有馬だわ」


「そこだけで認定しないでください」と人事っぽい男が止める。

 だが空気は少し和んだ。


 そこからしばらく、質疑応答のような時間が続いた。

 会社の内部情報。機材ごとの癖。過去の監査内容。特定便で起きた細かなトラブル。

 奏は答えた。全部ではないが、大半は問題なく出てくる。

 記憶は確かだ。

 中身が有馬奏であることは、たぶんもう疑われていない。


 問題は、その先だった。


「本人であることは、まあ……暫定的にはいいとしよう」


 本部長が言う。


「だが運航乗務員として復帰できるかは別問題だ」


「分かってます」


 奏もそこは即答した。


「身体が変わってる以上、適性検査も身体検査も、型式上の座席・ペダル・視点の確認も全部やり直しですよね」


 訓練課長が初めて少し前のめりになった。


「その認識はあるのか」


「あります。むしろそこを飛ばして戻る気はありません」


「……そうか」


 訓練課長の目つきが、ほんの少しだけ変わった。

 見極める側の目から、評価する側の目へ。


「正直に言う」


 本部長が言う。


「会社としても前例がない。法務も、医務も、運航も、全部確認が必要だ。今日この場で“明日から戻れ”とは言えない」


「はい」


「だが逆に、“もうお前は終わりだ”とも言わん」


 その言葉に、会議室の空気が少しだけ静まった。


「必要な検査、確認、訓練を経て、安全上問題なしと判断できれば、復帰の道は検討する」


 奏は拳を膝の上でそっと握った。

 思っていたより、ずっとまともな答えだった。


「ありがとうございます」


「礼は早い」


 訓練課長が割って入る。


「かなり厳しく見るぞ」


「そうしてください」


「容赦しないぞ」


「してください」


「……言うなあ」


「飛ばしたいので」


 訓練課長が、ほんの少しだけ笑った。

 ベテラン機長も口元を緩める。


「有馬、お前そういうとこだよな」


「どういうとこですか」


「変なとこで図太い」


「褒めてます?」


「半分な」


 人事の男が咳払いした。


「では、当面の実務だが……」


 そこから話は一気に現実的になった。

 戸籍や社内登録をどう扱うか。氏名表記はどうするか。健康管理はどうするか。通勤時や社内での説明はどうするか。

 奏の頭が少しだけ痛くなる。

 飛行機を飛ばすより前に、社会制度という名の乱気流が待っていた。


「とりあえず社内では、本人希望も踏まえて“有馬奏”で統一する」


 本部長がまとめに入る。


「読みは?」


「かなで、でお願いします」


 少し迷った末に、奏はそう言った。

 元の“そう”を完全に捨てる気にはなれなかったが、この身体で以前と同じ読みを貫くのも違う気がした。

 その結果として出てきた妥協案だ。


「分かった。有馬奏《ありまかなで》で処理を進める」


 春樹が、隣で小さく「ほんとにそうなるんだ」と呟いた。

 お前はまだ慣れてなかったのか。


 会議が終わったのは、昼前だった。

 会議室を出た瞬間、春樹が壁にもたれた。


「疲れた……」


「お前が?」


「俺がですよ。なんで先輩はそんな平気なんですか」


「平気じゃないよ」


「嘘だ」


「足が震えてる」


「見えないです」


「内側で震えてる」


「なんすかそれ」


 春樹が顔を上げる。


「でも、よかったですね」


「何が」


「会社、ちゃんと切らなかったじゃないですか」


 奏は少しだけ黙った。

 その通りだった。

 簡単ではない。むしろここから先が本番だ。

 でも、道が消えたわけではない。


「ああ」


 短く答える。


「よかった」


「先輩が素直だ……」


「殴るぞ」


「その脅し方も先輩です」


 そこへ、後ろから声が飛んだ。


「有馬!」


 振り返ると、整備の知り合いが立っていた。四十代くらいの、よく顔を合わせる男だ。

 こちらを見るなり二歩近づき、止まる。


「……有馬、だよな?」


「そうです」


「うわ、マジか……」


 遠慮のない反応だった。

 だが、その次に出た言葉は意外だった。


「生きててよかった」


 奏は一瞬、言葉を失った。


「事故の話、聞いた時、ほんとにもうダメかと思ったんだよ」


 整備士は頭をかきながら言う。


「見た目は……その、びっくりしたけど。まあ、生きてりゃ何とかなるだろ」


「雑ですね」


「整備は雑じゃ困るけど、人間関係は多少雑でいいんだよ」


 それはそうかもしれない。

 奏は少しだけ笑った。


「ありがとうございます」


「今度戻ってきたら、ちゃんと飛ばせよ」


「そのつもりです」


「ならいい」


 整備士はそれだけ言って去っていった。

 背中を見送りながら、春樹がぽつりと呟く。


「案外、みんなそんな感じかもしれないですね」


「かもな」


 その後、必要書類だの仮登録だの説明だのを受け、ようやく解放された頃には、奏の集中力はだいぶ削られていた。

 帰り道、会社の自販機前で二人並んで立つ。


「何飲みます?」


「コーヒー」


「ブラック?」


「うん」


 春樹がボタンを押しかけて、止まった。


「……あれ」


「何だよ」


「いや、今の先輩って、コーヒーそんな飲んで大丈夫なんですかね」


「知らないよ」


「そこは気にしましょうよ」


「気にしてる余裕がないんだよ」


「じゃあ紅茶にします?」


「なんでだよ」


「なんとなく似合うから」


「お前ほんとに一回痛い目見たほうがいいな」


 結局、奏はブラックコーヒーを買った。

 一口飲んで、顔をしかめる。


「苦っ」


「ほらぁ!」


「いや待て、これは病院食のせいで舌が薄味になってるだけだ」


「強がりが雑なんですよ」


 春樹が笑う。

 その笑い方が、事故の前より少しだけ自然に見えた。

 それが、なんだか嬉しかった。


 会社を出る頃には、空が少し赤くなっていた。

 帰り際、春樹が言う。


「送りますよ」


「いい、自分で帰れる」


「迷子になりますよ」


「ならない」


「女子トイレですら看護師さんに案内されてた人が?」


「お前、どこでその情報仕入れた」


「病院で会った時、なんとなく察しました」


「察するな」


「送ります」


 押し切られた。

 結局、春樹の車の助手席に乗る。


「で、これからどうするんですか」


「まず服だな」


「まだ足りないんですか」


「全然足りない。今日だってギリギリだった」


「確かに、その格好、だいぶ無難の極みですね」


「それが狙いだよ」


「でも似合ってますよ」


 奏は思わず春樹を見た。

 春樹は前を向いたまま言う。


「いや、変な意味じゃなくて。ほんとに」


「……そうか」


「はい。その“そうか”も先輩です」


「もうそれ飽きた」


「俺は飽きてません」


 車が信号で止まる。

 奏は窓の外を見た。

 見慣れた街。見慣れた夕方。

 それなのに、自分だけが別物になってしまったような感覚がまだある。


 でも、完全に切り離されたわけじゃない。

 会社は道を残した。春樹は隣にいる。晴美とは約束をした。

 なら、まだ飛べる。


 いや。

 飛ぶ。


 そのために、まずは――


「春樹」


「はい」


「明日、買い物付き合え」


「は?」


「服。あと靴。化粧品は……まだいい」


 春樹の顔が、運転中にもかかわらずすごい勢いで歪んだ。


「俺に何をさせる気ですか」


「後輩の仕事だろ」


「後輩の仕事の範囲を明らかに逸脱してるんですよ」


「制服の採寸に付き合うよりマシだ」


「比較対象がおかしい」


 奏は少しだけ笑った。


「じゃ、決まりな」


「拒否権は?」


「ない」


「横暴だ……」


 だが春樹は、最後にはため息混じりに言った。


「……昼からならいいですよ」


「助かる」


「その代わり昼飯おごってください」


「安いな」


「十分重い仕事ですからね?」


 車は家の前に止まる。

 降りる前に、奏はふと春樹を見た。


「ありがとな」


「……え?」


「今日」


 春樹が一瞬、目を丸くした。

 それから、少しだけ照れくさそうに視線を逸らす。


「ほんとに今日、先輩どうしたんですか」


「何が」


「素直すぎて怖いです」


「撤回するぞ」


「いや、それは困ります」


 奏は小さく笑って車を降りた。

 玄関の前で振り返ると、春樹が窓を開ける。


「先輩」


「ん?」


「絶対、戻ってきてくださいね」


 その言葉は、冗談じゃなかった。

 まっすぐで、重くて、でも押しつけがましくない願いだった。


 奏は一度だけ、深く頷く。


「ああ。戻るよ」


 春樹の車が走り去っていく。

 そのテールランプを見送りながら、奏はポケットの中のスマホに触れた。

 晴美との約束。

 会社で残された道。

 春樹の言葉。


 全部まとめて背負うには、まだ心も身体も追いついていない。

 でも、背負うと決めた以上は進むしかない。


「……まずは明日か」


 女の身体で初出社した次の日。

 元機長にして現・謎の少女、有馬奏の任務は――


「服を買う」


 あまりにも現実的で、あまりにも重要なミッションだった。


ーーーーーーーーー閑話ーーーーーーーーーーーーー



【Runway 34L cleared for takeoff】


「takeoff……N1」


『チェック、スタビライズ』


『TO/GA、HED SEL』


『パワーセット』


「了解」


 夜の羽田が正面いっぱいに広がっている。

 センターライン灯、エッジライト、遠くの市街地の明かり。シミュレーターの映像だと分かっていても、この光景は何度見ても神経が締まる。


 有馬奏は左手でスラストレバーの位置を確認し、右手を操縦桿に添えた。

 加速は素直だ。左右差も今のところない。計器も安定している。


『80』


「チェック」


『THR HLD』


 ゴツ、ゴツ、とランウェイの継ぎ目を拾う振動がシート越しに伝わってくる。

 目線は外、意識の半分は計器、残り半分は機体の感触。離陸滑走は何度やっても雑に扱えない。


『V1』


 その瞬間、マスター警報。

 左側エンジン異常表示。火災警報。


「コンテニュー」


『ローテート』


『……エンジンファイア、V2』


『……ポジティブ』


「ギアup」


『ギアアップ』


 奏は静かに機首を起こす。

 機体が浮く。片肺の推力差で左へ持っていかれそうになるのを、右足と右手で丁寧に押さえ込む。ここで焦って当てすぎると余計に揺れる。


「飛行経路保持。とりあえず七〇〇フィートまで」


『了解、スコーク7700セットします』


まず飛ばせ。問題の処理はその後だ。


『エンジンファイアチェックリスト、レディ』


「どうぞ」


『Engine fire checklist. Autothrottle……disengaged, left thrust lever idle, confirm?』


「コンファーム。left thrust lever idle」


『left fuel control switch cutoff, confirm?』


「コンファーム」


『cutoff』


 後輩の読み上げはやや速いが、崩れてはいない。

 奏は速度トレンドと姿勢を見ながら、項目ごとに確実に処理していく。


【NHA119 contact Tokyo Departure】


『【Contact Departure, NHA119】』


『left engine fire switch pull, confirm?』


「コンファーム。pull」


『engine fire switch pulled』


「フラップ5」


『スピードチェック、フラップ5』


【Tokyo Departure, NHA119, Mayday Mayday, engine failure, request return, now leaving 1000】


【NHA119, say again】


『【Mayday Mayday Mayday, NHA119, engine issue, request immediate return】』


【NHA119, turn left or right?】


 奏はNDを見て、現在位置と風向きを頭の中で組み直す。


「左で」


『【left turn】』


【NHA119 turn left heading 260, maintain 3000】


『【left heading 260, maintain 3000, NHA119】』


 左旋回へ入る。

 片肺での旋回は雑にやると滑る。姿勢、バンク、速度、全部が繋がっている。奏はほんの少しだけ操縦桿を戻し、ラダー入力を抑えた。


「ステータスは?」


『火災表示、まだ消えてません。継続します』


「続けて」


『left engine fire switch, rotate to stop and hold for one second, confirm?』


「コンファーム。rotate」


『実施』


【NHA119, would you like straight-in runway 05?】


 後輩がちらりとこちらを見る。

 最短で降ろす選択肢はある。だが今はチェックリストと単発進入の準備を優先したい。


「時間をもらいます。34Lリクエスト」


『【We need time for checklists, request runway 34L】』


【NHA119, roger. Turn left heading 190, climb and maintain 5000】


『【left heading 190, climb and maintain 5000, NHA119】』



 奏は上昇率と速度のバランスを見る。無駄に上げすぎない。失速余裕を常に残す。


「火災表示どうですか」


『……消えました。fire engine message, no』


「了解。APUスタート」


『APUスタート』


「電源系統確認。トランスポンダーTA only」


『TA onlyセット』


 ここでようやく呼吸が少し整う。

 だが、楽観する場面ではない。警報が消えても、一度火災系統が作動した事実は消えない。


「フラップ1」


『スピードチェック、フラップ1』


【NHA119, let me know if you need anything】


『【thank you, NHA119】』


「フラップup」


『スピードチェック、フラップup』


『燃料、このままでいけます』


「了解。オーバーウェイト着陸の範囲内」


『着陸はフラップ20?」


「そうします。GND PROX FLAP OVRD switch, OVRD」


『OVRDセット』


「客室にもその前提で連絡」


『了解』


 夜の羽田を大きく回り込みながら、奏は進入の組み立てを頭の中で整理していく。

 片肺。フラップ20。リバースなし。長めの接地距離を見込む。ブレーキで止める。

 やることは明確だ。


【NHA119, turn left heading 150, runway 34L approach】


『【left heading 150, NHA119】』


【NHA119, contact Tokyo Approach 119.1】


『【119.1, NHA119】』


『【Tokyo Approach, NHA119, maintain 5000】』


【NHA119, turn left heading 060, reduce speed 230 knots】


『【left heading 060, reduce speed 230, NHA119】』


【NHA119, contact Tokyo Tower 124.35】


『【124.35, NHA119】』


『【Tokyo Tower, NHA119, good evening, runway 34L approach】』


【NHA119, good evening. Runway 34L, wind 350 at 11, continue approach, traffic departure】


『【continue approach, NHA119】』


「フラップ5」


『スピードチェック、フラップ5』


「このあたりでオートパイロット外します」


『了解』


 警告音。

 操縦桿に、直接機体の重さが乗る。


「フラップ10」


『スピードチェック、フラップ10』


「ギアダウン」


『ギアダウン』


「グライドスロープキャプチャー」


『チェック』


「ローカライザーキャプチャー」


『ローカライザーキャプチャー』


「フラップ15」


『スピードチェック、フラップ15……スリーグリーン』


【NHA119, runway 34L cleared to land, wind 360 at 14】


『【cleared to land, NHA119】』


「フラップ20」


『スピードチェック、フラップ20』


「ランディングチェックリスト」


『ランディングチェックリスト、コンプリート』


「はい」


 奏は視線を奥に向ける。

 接地帯、センターライン、その先。単発の時ほど、細かいズレに引っ張られてはいけない。


 100。

 50。40。30。20。10。


 5。


 接地。


 やや硬い。だが暴れてはいない。


『スピードブレーキアップ』


「チェック」


「リバースなし。マニュアルブレーキ」


『チェック』


 奏はセンターライン維持を優先しつつ、減速を一定に保つ。

 片肺状態でここで慌てるのが一番まずい。止まるまでが飛行だ。


 機体が完全停止する。


「停止」


『停止確認』


 数秒後、監査官の声。


“終了。今のは初回としては悪くない。だが、無線の詰まりと離陸直後の余計な独語は減らせ。CRMは成立していた”


 奏は深く息を吐いた。


「了解です」


『了解です』


“それにしても、見た目と手際のギャップがありすぎるなぁ”


挿絵(By みてみん)


 その一言で、緊張しきっていたコックピットの空気が、ようやく少しだけ緩んだ。

要約すると

羽田空港を出発したが、離陸直後左エンジンが出火。

すぐに羽田に引き返すシミュレーション訓練をした。


です。


時々このテンションが続きます。ご了承くださいm(*_ _)m


今後とも宜しくお願いします。

次回はお仕事外です。


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