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♂転性してもエアラインパイロット♀  作者: 月隠優
第一章 パイロット復帰

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27話 羽田帰りと洗車

福岡で一泊した翌朝。


 奏と小出は、乗務員ではなく、ただの乗客として朝一番の羽田行きに乗っていた。


 機内へ入る時、いつもなら当たり前のように前方のドアから入り、左へ曲がってコックピットへ向かう。

 だが今日は違う。

 そのまま通路を進み、客席に座る。


 それだけの違いなのに、妙に落ち着かない。


「なんか変な感じですね」


 小出が荷物を上へ押し込みながら言った。


「何が?」


「自分たちが客席にいるの」


「わかる」


 奏は窓側へ座り、シートベルトを引き出した。

 機内は朝らしい、少し控えめなざわつきに満ちている。

 出張らしいスーツ姿。

 眠そうな顔の若い会社員。

 旅行帰りなのか、まだ少し浮ついた雰囲気の親子連れ。


 昨日まで何便も飛んでいた身としては、こういう人たちを見ると「今日はこの人たちを運ぶ側じゃないんだな」と、改めて思う。


「昨日の千歳が嘘みたいですね」


 小出が窓の外を見ながらぼそっと言った。


「おとといね」


「あ、そうでした」


「昨日は福岡でラーメン食べるかどうか悩んでた日」


「食べたんですか?」


「結局空港で変なおじさんたちと喋って終わった」


「情報量が多い」


 小出が少し笑う。


 福岡の朝は穏やかだった。

 滑走路の先には淡い色の空が見えていて、冬らしい冷たさはあるのに、千歳のような圧はない。

 九州の空は、やっぱりどこか柔らかい。


 扉が閉まり、機体がプッシュバックを始める。

 奏は何となく腕を組み、耳だけは勝手に外の音を拾っていた。

 どのタイミングでスタートか。

 どこでブレーキを外すか。

 誰が何をしているか。


 客として座っていても、そういうところだけは自然と気になってしまう。


「有馬さん、今コックピットの動き想像してました?」


「してた」


「やっぱり」


「職業病だよ」


「ですよね」


 離陸後、ベルトサインが消える前から、奏のまぶたは少しずつ重くなっていった。

 別に寝不足ではない。

 だが、この数日の疲れが、ようやく“客席でいい”となった途端に表へ出てきたのだろう。


「寝るなら起こしますよ」


「着陸だけ見たいから、その前に起こして」


「わかりました」


「……いや、やっぱ無理かも」


「もう寝る気満々じゃないですか」


「うん」


 奏は窓の外を一度だけ見た。

 福岡の街が少しずつ遠ざかっていく。

 その向こうに海。

 その先に、またいつもの本州の空。


 視界が白く明るくなり、雲の上へ出たところで、もう限界だった。


 次に目を開けた時には、小出が少し身を乗り出してこちらを見ていた。


「有馬さん、そろそろです」


「……ん」


 寝起きの声が自分でも情けない。

 窓の外には、関東の街並みが広がっていた。


 細かく区切られた土地。

 川。

 道路。

 遠くに見える海。

 そして曇りがちな冬の空。


「羽田?」


「羽田です」


「よし」


 何が“よし”なのか自分でも分からなかったが、とりあえず頷いておく。

 奏は背もたれを少し起こし、シートベルトを締め直した。


 着陸は滑らかだった。

 客席で感じる接地は、コックピットで感じるのと少し違う。

 前からではなく、座席の背中全体で減速を受ける感じがある。


「やっぱり、客として乗ると楽ですね」


 小出が心底そう言った。


「それはそう」


「でもなんか、少し変な感じします」


「それもそう」


 機外へ出ると、羽田の空気はやっぱり羽田の匂いがした。

 少し湿っていて、空港特有の匂いが混ざっていて、でも東京の冬の朝そのものでもある。


 到着ロビーへ向かう途中で、小出が軽く頭を下げる。


「じゃあ、自分こっちなので」


「お疲れさま。今日くらいゆっくり休みなよ」


「有馬さんもですよ」


「うん。私はたぶん家帰ってから変なこと始める」


「自覚あるんですね」


「ある」


「じゃあ止めません」


「止めてよ」


 小出は笑いながら行ってしまった。

 若い。

 まあ、自分も昔はあんな感じで、先輩と別れてまたすぐ別件へ突っ込んでいったのかもしれない。


 奏は電車で家へ向かった。


 空港のモノレールから見える景色をぼんやり眺める。

 倉庫。

 運河。

 道路。

 都市の外れのようでいて、でもちゃんと都市の一部でもある、あの独特な風景。


 途中で乗り換え、さらに電車を乗り継いでいく。

 ラッシュが本格化する直前の時間帯で、座れはしたが、気を抜いたらそのまま寝そうだった。


「……帰ってるなあ」


 小さく呟く。


 昨日まで福岡にいて、おとといは千歳で神経を削っていた。

 それなのに、もうこうして関東のいつもの路線に乗っている。

 パイロットの生活は、改めて考えると時間の感覚がちょっとおかしい。


 最寄り駅へ着き、改札を出る。

 空気が冷たい。

 奏はコートの前を寄せ、荷物を持ち直して歩き出した。


 一人暮らしのマンションへ着く。

 階段を上がる前に、何となく駐車場へ目を向けた。


「……うわ」


 思わず止まる。


 車が、汚い。


 いや、正確には、かなり“働いた車”の汚れ方をしていた。

 うっすら積もった埃。

 雨の筋。

 タイヤの周りには泥の跳ね。

 フロントガラスにも細かな汚れが残っている。


 最近ずっとバタバタしていて、まったく洗えていなかった。

 前に拓也が運転した時にも、「これ、いつか洗えよ」と言っていた気がする。

 その時は「あーはいはい」と流したが、こうして改めて見ると、なかなかひどい。


「……洗うか」


 家に入ってから考えてもいい。

 だが、こういうのは後回しにすると絶対やらない。

 それに今日は、今のところ何も予定がない。

 こういう日にやってしまった方がいい。


 そう決めた瞬間、次の問題が頭をもたげた。


「運転……するのか」


 今の身体で、自分一人でちゃんと車を出す。

 知識も技術もある。

 免許もある。

 でも、身体が違う。


 脚の長さ。

 腕の位置。

 座った時の目線。

 ペダルの距離。

 全部が少しずつ違う。


 その“少しずつ”が、一番厄介だった。


 奏は一度部屋へ荷物を置きに上がった。

 フライトバッグをソファ脇へ置き、コートを脱ぎ、少しだけ深呼吸する。

 静かな一人暮らしの部屋だ。

 誰もいない。

 だからこそ、こういう時に「やるか、やらないか」は全部自分で決めるしかない。


「……よし」


 財布と鍵を持ち、再び下りる。


 車のドアを開ける。

 座る。

 そこでまず思った。


「低い」


 車高の話ではない。

 自分の目線だ。


 シートを前へ。

 少し上へ。

 背もたれも調整。

 ミラーも直す。

 サイドミラーの角度も変える。


 ハンドルへ手を置く。

 近いようで遠い。

 ペダルに足を置く。

 これも微妙だ。


「……普通に緊張するな」


 エンジンをかける。

 いつもの音。

 だが、自分と車の距離感はいつもと少し違う。


 ブレーキ。

 シフト。

 ゆっくり発進。


 最初の数メートルは、笑ってしまうほど慎重だった。

 駐車場の通路を、這うような速度で進む。


 だが、その慎重さは悪くない。

 角を一つ曲がったところで、少しだけ落ち着いた。


「……いける」


 前とまったく同じではない。

 でも、無理でもない。

 一個ずつ合わせていけばいいだけだ。


 近くの手洗い洗車場へ向かう。

 信号待ちのたびに、奏はハンドルを握ったまま前を向いていた。

 運転席から見る景色は少し違っていたが、十分“いつもの世界”でもあった。


「なんか、変な達成感あるな」


 洗車場へ着くと、同じように車を洗っている人が何人かいた。

 仕事帰りっぽい男。

 若いカップル。

 黙々と高圧洗浄機を使う年配の人。

 みんな、自分の車しか見ていない。

 それが妙に気楽だった。


 空いているブースへ車を入れ、エンジンを切る。

 冷たい空気が一気に入ってきた。


 奏は髪を後ろで一つにまとめ、腕まくりをした。

 まず高圧洗浄のガンを持つ。


 最初の噴射で少しびびる。


「うわっ」


 前輪へ当てる。

 泥が落ちる。

 側面を流す。

 雨筋が消える。

 フロントガラスが少しずつ元の透明さを取り戻していく。


「おお……」


 ちょっと楽しい。


 屋根、ボンネット、後ろ、側面。

 順番に水を当てていくたび、くすんでいたボディが元の色を思い出していく。


 次に泡。

 スポンジ。

 ここで奏は、今の体の地味な不便さをまた知る。


「ルーフ高っ……」


 前ならもう少し楽だった気がする。

 今はつま先立ちしないと真ん中に届きづらい。

 車が大きく感じる。


 それでも伸びて、拭いて、流していく。

 気づけばかなり夢中になっていた。


 最後の拭き上げまで終えた時、車は見違えるようにきれいになっていた。


「よし。えらい」


 誰も褒めてくれないので、自分で言っておく。


 そのままスーパーへ向かった。

 さっきより運転はずっと自然になっていた。

 駐車も、最初ほど緊張しない。

 人間、やれば慣れる。


 スーパーへ入ると、昼前らしい明るさがあった。

 買い物かごを持ち、ゆっくり店内を回る。


「何買うかな……」


 卵。

 納豆。

 豆腐。

 ヨーグルト。

 鶏肉。

 葉物。

 冷蔵庫に何が残っていたかを思い出しながら、少しずつカゴへ入れていく。


 途中でプリンが目に入る。

 少し迷って、一個だけ入れた。


「今日くらいはいいだろ」


 会計を済ませ、袋を持って車へ戻る。

 洗車したばかりの車は、さっきより少しだけ胸を張って見えた。


 家へ戻る。

 エンジンを切る。

 静かになる。


 食材の袋と鍵を持って、部屋へ上がる。

 玄関を開けた瞬間、暗くて静かな一人暮らしの空気が迎えてくれた。


 電気をつける。

 キッチンへ食材を置く。

 洗った車のことを思い出す。

 ちゃんと運転できたことも思い出す。

 スーパーでプリンを買ったことも思い出す。


「……悪くない日だったな」


 奏は小さくそう言って、冷蔵庫へ食材を一つずつしまい始めた。


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