28話 パリ旅行に行こう
九月中旬の朝は、夏の名残をまだ手放しきれていなかった。
窓の外では、少しだけ低くなった太陽が、マンションの向かいの建物の壁を白く照らしている。空気は涼しい、とはまだ言い切れない。けれど、八月のように息をするだけで身体の奥まで熱が入り込んでくる感じはなくなっていた。
有馬奏は、ダイニングテーブルに置いたマグカップを片手で引き寄せた。
中身はコーヒー。
以前なら、何も考えずに濃いめに淹れていた。苦くて、熱くて、目が覚めるやつ。
けれど今の身体になってから、あまり濃くしすぎると胃が変な反応をする。だから最近は、少しだけ薄めにしている。
それが悔しい。
別に、誰に負けたわけでもないのに、何かに負けた気がする。
「……まあ、いいけど」
ひとり言を落として、奏はノートパソコンを開いた。
今日はスタンバイでもなければ、乗務でもない。完全な休日というには会社のメールも確認しなければならないが、少なくとも制服を着て空港へ向かう必要はなかった。
画面に社内システムを開く。
月間予定表。
来月分のシフトが、ようやく確定していた。
奏はマグカップを口元に運びかけたまま、何気なくスクロールした。
国内線。
羽田―福岡。
羽田―那覇。
羽田―新千歳。
シミュレーター訓練。
休み。
スタンバイ。
見慣れた文字が、カレンダーの枠の中に並んでいる。
指先でトラックパッドをなぞる。
その先に、少しだけ見慣れない文字が出てきた。
羽田―パリ。
奏の指が止まった。
「……パリ?」
声に出してから、奏は画面を少し近づけた。
見間違いではない。
来月の中旬、羽田発、パリ行き。往路と復路の間に現地ステイが入る。
もちろん、国際線が珍しいわけではない。フランクフルトも、ロンドンも、アメリカも飛んだ。身体が変わってからも、少しずつ復帰してきた。乗務そのものは仕事だ。目的地がどこであれ、やることは変わらない。
飛ばす。
着ける。
安全に帰ってくる。
それだけだ。
それだけ、のはずだった。
なのに、画面の中の「パリ」という二文字を見た瞬間、奏の頭には仕事とは別の顔が浮かんだ。
晴美さん。
病院のベッドの横で、いつも少し楽しそうに笑っていた人。
奏がまだ、自分の身体が変わったことを受け入れきれず、何をどう考えればいいのかもわからなかったころ、妙に自然に隣にいてくれた人。
髪を整えてくれた。
服を選んでくれた。
しょうもないことを言って笑わせてくれた。
たまに、核心を突くことも言った。
そして、いつだったか。
旅行の話になった。
若いころに行ってみたかった場所。
けれど、なんだかんだで行けなかった場所。
パリ。
奏はマグカップをテーブルに置いた。
カップの底が、こつん、と小さく鳴る。
「……いや」
違う。
これは仕事だ。
来月の乗務予定にパリが入っている。だからといって、誰かを連れていく話にはならない。自分は乗務員で、晴美さんは乗客だ。そこには線引きがある。
しかも、海外だ。
チケット代も安くない。
体力の問題もある。
パスポートの有無も確認しなければならない。
時差もある。
現地で無理をさせるわけにはいかない。
考えることはいくらでもある。
奏は腕を組んだ。
組んだ腕が、以前よりずっと細い。
そのことには、もういちいち驚かない。驚かないが、たまに視界に入ると、まだ少しだけ腹が立つ。
「……打診するだけなら、いいか」
言ってから、奏は自分で自分に眉をひそめた。
打診。
ずいぶん会社っぽい言い方だ。
もっと普通に言えばいい。
行きませんか。
パリ、行きませんか。
そう言えばいいだけだ。
ただ、それが難しい。
奏は操縦桿を握ることには慣れていた。
悪天候の進入も、乗客を乗せた大型機の着陸も、急な予定変更も、冷静に処理してきた。
けれど、人に何かを差し出すのは、どうにも下手だった。
感謝している。
助けられたと思っている。
晴美さんに、少しでも楽しいことがあればいいと思っている。
そういうことを、そのまま言葉にするのが苦手だった。
奏はスマホを手に取った。
連絡先を開く。
晴美さんの名前を探す。
指が、画面の上で止まる。
電話をかけるか。
メッセージにするか。
電話のほうが早い。けれど、いきなり「パリ行きませんか」は重い気もする。
メッセージなら軽く送れる。けれど、文字にすると妙に事務的になる気がした。
奏はしばらく画面を見つめたあと、結局、通話ボタンを押した。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
『はいはい、奏ちゃん?』
いつもの声がした。
それだけで、部屋の空気が少し柔らかくなる。
「おはようございます。今、大丈夫ですか」
『大丈夫よ。どうしたの? こんな時間に。何かあった?』
「いえ。何かあったというか……いや、何も問題はないです」
『あら、問題はないのに声が硬いわね』
電話口で、晴美が小さく笑った。
奏は無意識に背筋を伸ばした。
「硬いですか」
『硬いわよ。病院で先生に呼ばれたときみたい』
「そんなにですか」
『そんなに』
奏は軽く息を吐いた。
まったく、この人にはかなわない。
操縦席なら、自分の声のトーンひとつで相手に安心感を与えられる。
乗員に対しても、管制に対しても、必要なことを必要な強さで言える。
なのに、晴美さん相手だと、どうしてこうなるのか。
「来月のシフトが出まして」
『うん』
「パリ便が入っていました」
『……パリ?』
晴美の声が、一瞬だけ変わった。
それは、驚きだった。
けれど、ただの驚きではない。もっと奥に、昔しまっておいた箱を急に開けられたような響きがあった。
奏はその小さな変化を聞き逃さなかった。
コックピットで計器の針を見るのと同じくらい、自然に拾ってしまった。
「はい。羽田からパリです。来月中旬に往復で」
『へえ……そう。奏ちゃん、今度はパリまで飛ぶの』
「仕事ですけどね」
『それでもすごいわよ。空を越えて、海を越えて、パリまで行くんでしょう?』
「まあ……飛行機なので」
『もう、そういうところよ』
「何がですか」
『すごいことを、すごいって言わないところ』
奏は黙った。
画面の中の予定表には、まだパリ便の文字が表示されている。
数字で見れば、ただの便名。
運航計画で見れば、出発地と目的地。
仕事として見れば、長距離国際線のひとつ。
けれど、晴美の声を聞いた瞬間、それは少し違うものになった。
「それで」
『うん』
「晴美さん、パリに行きたいって、前に言ってましたよね」
電話の向こうが、少し静かになった。
奏は、続けるべきか一瞬迷った。
けれど、ここで黙ると、たぶん自分は逃げる。
変な冗談にして、話を終わらせる。
それは嫌だった。
「よければ、チケットを取ります」
『え?』
「もちろん、無理にとは言いません。体調もありますし、日程もありますし、パスポートとか、準備も必要です。現地でも、あまり無理な予定は組めません。観光も、全部詰め込むようなことはしないほうがいいと思います」
『奏ちゃん、ちょっと待って』
「あ、はい」
『今、なんて言ったの?』
「ですから、よければチケットを」
『そこ』
「チケットを取ります」
『誰の?』
「晴美さんのです」
『誰が?』
「私が」
『どうして?』
奏はそこで、完全に詰まった。
どうして。
その質問に、仕事のような答えは通用しない。
航空券の手配理由。
搭乗者情報。
旅程。
支払い。
そういう話ならいくらでもできる。
けれど、どうして、と聞かれると困る。
奏は視線をテーブルの木目に落とした。
「……前に、行きたかったと聞いたので」
『うん』
「それで、今回、ちょうど私の乗務が入って」
『うん』
「なら、行けるタイミングかもしれないと」
『うん』
「……思いました」
最後の言葉は、少し小さくなった。
晴美はすぐには答えなかった。
電話口の向こうから、わずかな生活音が聞こえる。
カップを置く音。
布が擦れる音。
それから、息を吸う音。
『奏ちゃん』
「はい」
『それは、仕事のついで?』
奏は即答しようとして、やめた。
仕事のついで。
たしかに、きっかけはそうだ。
パリ便がなければ、こんな話はしなかった。
自分がパリに行く予定があるから、晴美にも声をかけようと思った。
けれど、それだけではない。
病院の白い天井。
細くなった腕。
自分の顔ではない顔。
それを見て、もう何もかも終わったと思った朝。
あのとき、晴美さんは自分を珍しいものみたいに扱わなかった。
かわいそうな人にも、気味の悪い人にも、奇跡の人にも、しなかった。
ただ、奏ちゃん、と呼んだ。
それがどれだけ大きかったのか、今ならわかる。
「ついででは、ないです」
奏はゆっくり言った。
「きっかけは、仕事です。でも、ついでではありません」
『……そう』
「晴美さんが行きたいなら、行ってほしいと思いました。私が飛ぶ便なら、少なくとも行き帰りの機体には私がいます。客室に顔を出せるわけではないですけど、同じ飛行機にはいます。何かあっても、という言い方は変ですけど……少しは、安心してもらえるかなと」
『奏ちゃんが操縦する飛行機に、私が乗るの?』
「予定上は、そうなります」
『それは……すごいわね』
晴美の声が、少し震えた。
奏は目を伏せた。
そこに茶化しが入らないことが、逆に胸にくる。
『でも、悪いわよ。そんな、海外のチケットなんて』
「そこは気にしないでください」
『気にするわよ』
「私が誘っているので」
『でもねえ』
「晴美さん」
奏は、少しだけ声を強くした。
コックピットで、副操縦士に確認を求めるときの声に近かった。
「これは、私がしたいことです」
言ってから、自分でも少し驚いた。
思ったより、まっすぐ出た。
電話の向こうで、晴美が黙る。
「病院で、たくさん世話になりました。今さらそんなことを言われても困るかもしれませんが、私は、かなり助けられました」
『……』
「だから、その礼です、という言い方をすると、たぶん晴美さんは嫌がると思います」
『そうね。嫌がるわね』
「なので、礼ではありません」
『じゃあ、何?』
奏は少し考えた。
そして、正直に言った。
「一緒に、行ってほしいんです」
言った瞬間、顔が熱くなった。
この身体は、本当に余計な反応がわかりやすい。
昔なら、もう少し涼しい顔で言えた気がする。いや、そもそも昔なら、こんなことは言わなかったかもしれない。
晴美が、電話の向こうで小さく息を呑んだ。
『奏ちゃん』
「はい」
『それ、ずるいわ』
「ずるいですか」
『そんな言い方されたら、断りにくいじゃない』
「断っても大丈夫です」
『そういうところも、ずるいの』
「すみません」
『謝るところじゃないわよ』
晴美は、そこでようやく笑った。
少しだけ涙が混じっているような笑い方だった。
『パリねえ』
「はい」
『私、パスポート持ってないわ』
「取りましょうしましょう。今なら申請すれば間に合います。来月末なので、急いだほうがいいですが」
『足腰も、昔より弱くなったわよ』
「観光はかなり絞ります。無理に歩かなくていい予定にします。空港からホテルまでは車を使えばいいですし、現地もタクシー中心で組めます」
『時差で眠れなくなるかも』
「現地到着日は休むだけにしましょう」
『フランス語なんて話せないわ』
「私も大して話せません」
『そこは胸を張らないの』
「英語と翻訳アプリでなんとかします。ホテルと移動は事前に固めます」
『頼もしいんだか、心配なんだか』
「運航計画よりは簡単です」
『またそういうこと言う』
晴美の声が、少しずつ明るくなっていく。
その変化を聞きながら、奏は自分の胸の中にあった緊張が、少しずつほどけていくのを感じた。
誘ってよかった。
まだ行くと決まったわけではない。
準備も必要だし、体調も確認しなければならない。会社側の規定もある。自分が乗務する便に知人が搭乗すること自体は問題ないとしても、特別扱いはできない。そこはきちんと線を引く必要がある。
それでも、声をかけてよかった。
『奏ちゃん』
「はい」
『私、本当に行ってもいいの?』
「はい」
『迷惑じゃない?』
「迷惑なら誘いません」
『お金は、本当に』
「今回は私が出します」
『でも』
「嫌なら、現地でコーヒーを一杯おごってください」
『パリまで行って、コーヒー一杯?』
「はい」
『安すぎるわよ』
「じゃあ、クロワッサンも」
晴美が吹き出した。
その笑い声を聞いて、奏も少し笑った。
窓の外で、風がカーテンを小さく揺らす。
九月の光は、真夏よりも少しだけ柔らかい。
テーブルの上のコーヒーは、もう少し冷めていた。
『……行きたい』
晴美が、小さく言った。
奏は、スマホを握る手に少し力を入れた。
『行ってみたいわ。パリ』
「では、準備しましょう」
『本当に?』
「本当に」
『私、浮かれて変な服を買っちゃうかもしれないわよ』
「それは止めません」
『奏ちゃんにも買うわよ』
「私はいりません」
『だめ。パリに行くんだから、少しくらいおしゃれしなさい』
「私は乗務です」
『帰りはともかく、向こうで少しは時間あるんでしょう?』
「ありますけど」
『じゃあ必要ね』
「必要ですか」
『必要です』
きっぱり言われて、奏は黙った。
この人は、たまに管制官より強い。
『ああ、でもどうしましょう。パスポート、写真も撮らなきゃいけないかもしれないし。スーツケースも古いのしかないわ。海外旅行なんて、何十年ぶりかしら』
「あと、体調面は主治医に相談しましょう。長時間のフライトになるので」
『はいはい、機長さん』
「そこは真面目に聞いてください」
『聞いてるわよ。ふふ、機長さんに連れていってもらうんだものね』
「連れていくというより、私は飛ばす側です」
『同じことよ』
「違います」
『いいの。私にとっては同じ』
奏は反論しかけて、やめた。
晴美にとっては、きっとそうなのだろう。
飛行機を予約すること。
空港へ向かうこと。
搭乗口を抜けること。
座席に座ること。
窓の外で翼を見ること。
そして、どこかで奏がその飛行機を飛ばしていること。
それらは、ただの移動ではない。
行けなかった場所に、ようやく行くことなのだ。
「晴美さん」
『なあに?』
「無理はしないでください」
『わかってるわ』
「本当に」
『わかってる。でもね、奏ちゃん』
「はい」
『無理しないようにって言って、ずっと何もしないまま年を取るのも、あんまり体によくないのよ』
奏は言葉を失った。
晴美の声は穏やかだった。
『行けるかどうかは、ちゃんと確認する。体調も、先生に聞く。準備もする。でも、行けるなら、行きたいわ』
「……はい」
『若いころね、いつかパリに行こうって思ってたの。美術館に行って、街を歩いて、カフェでお茶して。別に、何か特別なことをしたかったわけじゃないの。ただ、そこに自分が立ってみたかった』
「はい」
『でも、いつかって、案外来ないのよね』
奏は、画面の中の予定表を見つめた。
来月末。
羽田―パリ。
会社のシステムに表示された、ただの勤務予定。
けれど、その枠の中に、誰かの「いつか」が入ろうとしている。
『だから、ありがとう』
「まだ何もしてません」
『誘ってくれたじゃない』
「それだけです」
『それが嬉しいの』
奏は、少しだけ喉の奥が詰まるのを感じた。
こういうとき、何と言えばいいのかわからない。
「どういたしまして」は軽すぎる。
「当然です」は違う。
「よかったです」も、どこか足りない。
だから結局、いつものように事務的な言い方になる。
「では、今日中に必要事項を整理して送ります」
『ふふ、急に仕事になった』
「パスポートの期限、氏名表記、生年月日、希望座席、体調面の確認、海外旅行保険、ホテル、移動手段。確認することが多いので」
『はいはい』
「あと、現地で行きたい場所があれば、いくつか候補を出してください。ただし、詰め込みすぎないでください」
『奏ちゃんは?』
「私は、現地ステイ中の休息が最優先です」
『一緒にカフェくらい行ける?』
奏は予定表を見た。
正確な乗務後の休息時間、ホテル到着時刻、翌日の集合時刻。まだ細かい運航スケジュールは確定していない。現地でどの程度自由時間が取れるかは、もう少し確認が必要だ。
けれど。
「短時間なら、たぶん」
『じゃあ、それで十分』
「美術館は?」
『無理しない範囲でね』
「ルーヴルは広すぎます」
『じゃあ、外から見るだけでもいいわ』
「エッフェル塔は?」
『見たいわねえ』
「車で近くまで行って、あまり歩かない形なら」
『奏ちゃん、もう添乗員さんみたい』
「安全管理です」
『はいはい、安全管理ね』
晴美の声が弾んでいた。
それを聞いていると、奏のほうまで少し浮かれてしまいそうになる。
だから奏は、わざと表情を引き締めた。
ここで浮かれてはいけない。
国際線。
長時間フライト。
高齢者の海外渡航。
自分は乗務員。
楽しい話であるほど、準備は慎重にしなければならない。
「晴美さん」
『なあに?』
「これは旅行ですが、体調が最優先です。少しでも不安があれば、今回はやめましょう」
『わかってる』
「パリは逃げません」
『そうね』
「私も、また飛ぶ機会はあります」
『……奏ちゃん』
「はい」
『そう言えるようになったのね』
奏は一瞬、意味がわからなかった。
けれどすぐに、晴美が何を言っているのか理解した。
また飛ぶ機会はある。
その言葉を、今の自分は自然に言った。
病院で目覚めたころの自分なら、そんなことは言えなかった。
もう飛べないかもしれない。
戻れないかもしれない。
今まで積み上げてきたものが全部消えたかもしれない。
そんなことばかり考えていた。
でも今は違う。
来月のシフトにパリが入っている。
それを見て、誰かを誘おうと思える。
また飛ぶことを、前提にしている。
「……そうですね」
奏は小さく言った。
「言えるようになりました」
『よかった』
晴美のその一言は、短かった。
けれど、胸に残った。
奏は窓の外を見た。
青い空に、白い雲がひとつ浮かんでいる。
高度一万メートルの雲海とは違う、地上から見上げる雲。
昔は、空は職場だった。
今もそうだ。
けれど今は、少しだけ違う。
誰かを連れていきたい場所にもなった。
『奏ちゃん』
「はい」
『本当に、ありがとう』
奏は目を伏せた。
今度は、逃げずに答えた。
「こちらこそ」
『え?』
「晴美さんが行きたいと言ってくれて、よかったです」
電話の向こうで、晴美が静かに笑った。
『じゃあ、楽しみにしてるわね。パリ』
「はい」
『機長さん』
「……はい」
『安全運航でお願いします』
その言い方が妙に改まっていて、奏は少しだけ笑ってしまった。
「承知しました」
電話を切ったあと、部屋は静かになった。
奏はスマホをテーブルに置き、もう一度パソコンの画面を見た。
羽田―パリ。
そこに表示されている文字は、さっきと同じだ。
便名も、日付も、機材も変わらない。
けれど、もう同じには見えなかった。
奏は冷めたコーヒーを一口飲んだ。
少し苦い。
少し薄い。
でも、悪くなかった。
「……さて」
奏はカレンダーアプリを開き、メモを作った。
晴美さんパリ準備。
その下に、項目を並べていく。
パスポート確認。
航空券。
ホテル。
空港送迎。
海外旅行保険。
主治医確認。
歩行距離少なめの観光。
カフェ。
エッフェル塔。
最後に、少し迷ってから、もう一行追加した。
無理をさせない。
でも、ちゃんと楽しんでもらう。
それを書いた瞬間、奏は自分の字面に少し照れた。
「……何やってんだか」
そう言いながらも、消さなかった。
来月、自分はパリまで飛ぶ。
いつも通り、チェックリストを読み、計器を確認し、天候を見て、燃料を確認し、乗員とブリーフィングをして、管制の指示に従い、機体を安全に目的地まで運ぶ。
その客室のどこかに、晴美さんが座っている。
窓の外を見ているかもしれない。
少し緊張しているかもしれない。
機内食に文句を言っているかもしれない。
それとも、子どものように楽しみにしているかもしれない。
奏は、少しだけ口元を緩めた。
悪くない。
仕事の予定表に入った一便が、誰かの夢になる。
それを飛ばすのは、たぶん悪くない。
奏はマグカップを持って立ち上がり、キッチンへ向かった。
洗い物をしながら、ふと、電話の向こうの晴美の声を思い出す。
――行きたい。
その一言が、耳に残っている。
奏は水を止めた。
そして、小さくつぶやいた。
「連れていきますよ、パリ」
誰に聞かせるでもない声だった。
けれどその声は、九月の朝の静かな部屋に、思ったよりまっすぐ響いた。




