26話 福岡ステイ?
B787のロールスロイス製エンジンが発する低いうなりが、コックピットに柔らかく響いていた。
機体は南から北へ、福岡市街地の上空を目指してゆっくり降下していく。
窓の外には、太陽に照らされた山並みが横たわり、その向こうでは街の灯が少しずつ瞬き始めていた。
「福岡タワー、フィールドインサイト」
副操縦士の声に、奏は小さく頷く。
眼下には博多の街並み。那珂川の流れ。
その先に、滑走路34の白い帯がかすかに見えてくる。
【NHA 569, cleared visual approach Runway 34】
その瞬間、計器中心だった意識が少しだけ外へ切り替わった。
ILSの情報はまだ使う。だが操縦桿から伝わる感触は、もう“外を見て降ろす”感覚へ移っている。
市街地の真上を越える。
マンションの屋上、道路の流れ、ドームの丸い屋根まで見える高さだ。
だが近いからこそ、気は抜けない。
高度を下げすぎれば街の灯火に飲まれ、旋回が遅れれば山側へ寄る。
福岡のこの進入は、景色が綺麗なぶんだけ、変な安心が入りやすい。
「滑走路インサイト」
奏と副操縦士の声が、ほとんど同時に重なった。
奏はわずかにノーズを下げ、降下率を整える。
正面には、まっすぐ伸びるRunway 34。
HUDのパスマーカーが、綺麗にその上へ重なっていく。
副操縦士がチェックリストを淡々と進める。
ギアダウン。
フラップ30。
速度は安定。降下角もいい。
奏はほんの少しだけ口元を緩めた。
「まあ、こんなもんか」
副操縦士はその横顔を見て、思わず息を飲んだ。
別に派手な操縦ではない。
ものすごく劇的に“魅せる”飛ばし方でもない。
ただ、上手いベテランの操縦というのは、それだけで妙な感動がある。
大げさな動きがない。
でも、全部がちょうどいい。
やがてタイヤがアスファルトを噛む音とともに、機体は一気に減速していった。
このあと再び新千歳まで戻り、その後羽田へ帰る――。
元々はそういう予定だった。
しかし、その予定は変更になった。
奏たちの機材は、翌朝に羽田へ引き返すことになったのである。
急遽、福岡ステイ確定。
「は?」
と口に出したのは奏ではなく、副操縦士だった。
だが気持ちはよく分かる。
まだ宿泊先も決まっていない。
当然、すぐホテルへ向かえるわけでもない。
奏は荷物を持ったまま、空港の中をとぼとぼ歩いていた。
「最近、福岡来てもラーメンあんまり食べてなかったし……ラーメン……ラーメン……」
完全に腹がラーメンになっている。
だが、こういう時ほど店がすぐ決まらなかったりする。
そんなふうに空港内を歩いていると、またもや見覚えのある姿があった。
乗客が降りてから、もう一時間半以上は経っている。
なのに、まだいた。
「……何してんだろ」
呆れ半分、面白さ半分で近くの自販機へ寄り、アクエリアスを一本買う。
そして二人へ近づいた。
「こんなところで行き倒れないでくださいよ、幸助さん……」
「あれ、嬢ちゃん、まだいたのか?」
「はい。元々このまま千歳にトンボ帰りの予定でしたが、明日東京に帰ることになって彷徨ってます」
大将は奏からアクエリアスを受け取り、礼を言ってから蓋を開け、そのまま幸助さんへ差し出した。
幸助さんは軽く手を挙げて受け取ると、半分ほど一気に飲み干す。
「にしても、こんなちんちくりんが、あんなデッケェもん動かして働いてるなんて驚きだなぁ」
「ちんちくりんは余計です」
「いや、でも本当にびっくりしたんだよ。昨日までは“愛想のいい観光客の嬢ちゃん”だったのに、次見たら制服着て『間もなく離陸いたします』だろ? そりゃ脳が追いつかん」
「私もたまに追いついてないので、おあいこです」
奏がそう言うと、大将が少しだけ吹き出した。
「それにしても、ほんとにパイロットさんだったんですね」
「一応」
「一応じゃないだろ。肩に金ピカ四本ついてたぞ」
「まあ、あれは本物です」
「じゃあ昨日の“飛行機乗れなくなりますよ”って脅しも、やっぱりその筋の人間の発言だったのか」
「脅しじゃなくて忠告です」
「おかげで助かったけどなぁ……」
幸助さんが、空になったアクエリアスのボトルを見ながらぼやく。
「娘の結婚式、ちゃんと行けそうだったのか?」
奏が聞くと、幸助さんは「行けそうだったのか、じゃねえよ」と言いたげな顔で鼻を鳴らした。
「行けるよ。兄貴に朝から叩き起こされて、空港まで引きずられて、酒抜けてるか三回くらい確認された」
「そりゃされますよ」
「でも飛行機遅れてて結果オーライだったな」
「結果オーライで済ませちゃダメなやつですよ」
大将が横からぴしゃりと入れる。
兄弟らしい息の合い方だった。
「で、嬢ちゃんは結局どうなったんだ。ホテル決まったのか?」
「まだです。会社から連絡待ちです」
「それで彷徨ってたのか」
「はい。あとラーメン欲がすごいです」
「お、いいね。福岡来たなら食っとけ食っとけ」
「でも荷物あるし、ホテル決まるまで動きづらくて……」
奏がそう言うと、大将が少し考える顔になった。
「空港で食うのも悪くないけどな」
「まあ、ハズレ少ないですしね」
「でも、せっかくなら外の店行きたい顔してるぞ、この嬢ちゃん」
「顔に出てました?」
「だいぶ出てる」
幸助さんが、さっきまで半分死んでいた人とは思えない口調で言う。
アクエリアスで少し復活したらしい。
「嬢ちゃん、昨日の海鮮丼食ってる時も顔わかりやすかったしな。うまい時の顔がすげえ素直なんだよ」
「やめてください。恥ずかしい」
「なんだよ、いいことじゃん」
その時、奏のスマホが震えた。
会社からの連絡だ。
「……あ、来た」
二人の前で画面を確認する。
宿泊先決定。
空港からそこまで遠くない、クルー定宿のホテル名が表示されている。
「決まりました?」
「はい。なんとかなりました」
「よかったじゃねえか」
「これでようやくラーメンに集中できます」
「そこなんだな」
「そこです」
大将が「若いねえ」とでも言いたげな顔をする。
幸助さんは「若いのか?」という顔をしている。
それはまあ、見た目だけならそうか。
「そういや嬢ちゃん、名前なんだっけ」
「奏です」
「かなで?」
「はい」
「へえ。いい名前だな」
少しだけ真面目な調子で言われて、奏は一瞬返事に詰まった。
「……ありがとうございます」
大将がその空気を見て、軽く話を戻す。
「今度また北海道来る時は、ちゃんと店寄れよ」
「行きたいですけど、そんな簡単に千歳泊まりにならないですよ」
「じゃあまた天気荒れた日にでも来な」
「それは嫌です」
三人で少し笑った。
空港というのは不思議だ。
昨日まで赤の他人だった人間が、翌日には変な顔なじみみたいになることがある。
それがたまたま自分の飛行機に乗っていて、しかも昨日は海鮮丼を奢られているとなると、もうだいぶおかしい。
「じゃあ、私はそろそろ行きます」
「おう。今度は機長席から手振ってくれよ」
「そんな余裕ないですって」
「昨日も今日も、結局ちゃんと仕事してたじゃねえか」
幸助さんが何気なくそう言う。
奏は少しだけ目を細めた。
「……してますよ、一応」
「一応ばっかだな、お前」
「便利なんです、その言い方」
「逃げ道だろ」
「そうとも言います」、
「いい結婚式にしてくださいね!」
大将と幸助さんに軽く頭を下げ、奏は再び荷物を持った。
ラーメン欲は消えていない。
むしろアクエリアスを買ったせいで、余計に腹が減った気もする。
それにしても。
福岡でも、北海道でも。
なんでこう、妙な縁ばかり転がってるんだろう。
こんなにいろいろな人と会話を使用だなんて、今までの私は考えもしなかった。
「……さて」
スマホでホテルまでのルートを見ながら、奏は歩き出す。
「今度こそ、ラーメン食べて風呂入って寝る」
その決意だけは、今のところかなり固かった。




