25話 本州縦断2
無視するのもよくない。
そう思いつつ、ちょうど翼上のマーキングが見える位置に座っているのだから都合はいい、とも思う。
奏は恐る恐る近づいた。
「昨日の嬢ちゃんだよな?」
「はい。昨晩はごちそうさまでした」
通路側の席に座っていた店主が、少し目を丸くしながら声をかけてくる。
窓側にいる幸助さんは――。
「寝てますね」
「ああ。案の定遅刻だったが、飛行機が遅れたのもあって助かった」
「それはよかったです……。少し、翼見せてもらってもいいですか?」
「ああ、別に構わないよ。嬢ちゃん、見かけによらず窓際の席がよかったのか。取れなかったのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
昨日の店主が立ち上がってくれたので、奏はそのまま奥へ進む。
「あ、機体が動くかもしれないので、座ってください」
「あ、ああ」
疑問符を浮かべながらも、店主は通路側の席へ座り直した。
奏は窓の明るさ調整ボタンを何度か押し、暗めに設定されていた窓を少し見やすくする。
そこから翼上のマーキングを覗き込んだ。
「うん。問題なし」
「キャプテン、いかがですか……」
後ろから確認に来たチーフパーサーの声に、奏は慌てて振り返り、人差し指を口元へ立てた。
「キャプテン?」
店主がじっと奏を見る。
「……」
「あれ、もう着いた? あっという間だったな〜。あれ? 昨日の嬢ちゃんじゃん。元気してるか〜?」
幸助さんが目を覚まし、何もわかっていないまま奏の頭をわしゃわしゃ撫でる。
そこから一拍置いて、ようやく状況を飲み込んだらしい。顔が止まった。
奏は、修羅場を見たみたいな顔になった幸助さんはいったん無視して、店主へ自分の襟元を見せた。
四本線の金色の肩章が、そこにある。
ちょうどその時、機体がゆっくり前へ動き始める。
エンジンが少し唸り、押されるような感覚が足元から伝わってきた。
「お邪魔しました。間もなく離陸いたしますので、シートベルトをしてお待ちください」
奏は通路へ戻り、店主と幸助さんへ軽く頭を下げる。
そのままチーフへ声をかけた。
「花澤チーフ、戻ってアナウンスします。準備進めてください」
「承知しました」
奏は店主に小さく手を振ってから、足早にコックピットへ向かった。
コックピットへ戻ると、パーカーを脱いで放り投げる。
席へ滑り込み、シートベルトを締め、マイクを取る。
「コックピットより、ご搭乗のお客様にお願い申し上げます。この便の担当をいたしますキャプテンの有馬です。ただ今、視界不良のため機材の到着が遅れた影響により、二時間ほど遅れて運航しております。ご迷惑をおかけしますこと、心よりお詫び申し上げます……」
【NHA 569, hold short of runway】
『hold short of runway, NHA 569』
アナウンス中でも、管制の指示は聞き逃せない。
「大変長らくお待たせいたしました。まもなく離陸いたします。今一度、シートベルトをご確認いただけますようお願い申し上げます。また、上昇中は大きく揺れることが予想されるため、ベルトサインが消灯するまでお席をお立ちにならないようお願いいたします」
息継ぎを一つ入れて、そのまま英語へ切り替える。
「Ladies and gentlemen, this is Captain Arima speaking. On behalf of the entire crew, I would like to extend my sincere apologies for the inconvenience caused. Due to poor visibility, the arrival of our aircraft was delayed, resulting in a delay of approximately two hours for this flight. We deeply regret the inconvenience and appreciate your understanding.
Thank you for your patience. We will be taking off shortly. Please make sure your seat belts are securely fastened. As we anticipate significant turbulence during the climb, we kindly ask you to remain seated until the seat belt sign is turned off. Thank you.」
アナウンスを終え、すぐに離陸準備へ戻る。
フライトコントロールチェックも、ここでようやく実施する。
その時、奏たちの目の前を、着陸してきたボーイング737が横切っていった。
【NHA 569, line up and wait】
『line up and wait, NHA 569』
「I have control」
「You have」
滑走路内待機の指示が出たので、操縦は奏が引き継いだ。
副操縦士は必要な灯火の点灯、離陸フラップのセット、その他スイッチ類の最終確認へ回る。
「Before takeoff checklist」
「Checklist complete」
副機長はシートベルトサインの点灯・消灯スイッチを数回確認し、椅子へ深く座り直した。
奏はブレーキをしっかり踏んだまま、エンジン推力を上げていく。
エンジン回転。
オイル温度。
各数値が正常であることを確認しながら、先行機が滑走路を空けるのを待つ。
着陸機の滑走距離が伸びたおかげで、結果的にエンジンランアップの時間は十分に取れた。
管制から離陸許可が出る。
奏はブレーキペダルへかけていた力を少しずつ緩める。
機体がゆっくり前へ出る。
エンジンの推力はすでに高い。
完全にブレーキを離した瞬間、機体は一気に加速し始めた。
さらにTO/GAスイッチを押すと、推力がもう一段上がり、背中が座席へ強く押し付けられる。
雪の日の離陸は、やはり緊張する。
視界は悪い。
滑走路の反対端は見えない。
少しの風で機体は横へ滑る。
しかもエンジンに異常があった場合、滑走路内で止まれる保証のある速度も低い。
つまり、許容が狭い。
「ローテート」
副機長のコールに合わせて、奏は操縦桿を引く。
だが、離陸フラップの設定が通常時とは違うので、いつもと少し感覚が違う。
雪の日特有の、あの“あれ?”という一瞬の違和感がある。
それでも機体は浮いた。
浮き上がった瞬間、前方にはもう何も見えなくなる。
頼れるのは計器だけだ。
姿勢が安定したところでオートパイロットへ任せる。
右旋回して日本海側へ進路を取る。
奏はサングラスを手元へ寄せておく。
冬のこの時期は、揺れる高度がだいたい決まっている。
雲を抜け、太陽と“こんにちは”したあと、その揺れる高度さえ突破してしまえば、あとは静かな空が待っていることが多い。
福岡の天気は晴れ。
およそ二千キロ離れた場所では、まったく違う景色の世界が広がっている
雪雲の上には明るい空が待っています。
急に明るくなると本当に目が開けられなくなるのでサングラスをかけます。
有名な話なので皆さんどこかで聞いたことがある話かもしれませんが、偏光グラスは計器が見えにくくなくなるのでパイロットは使いません。
奏もその話は知識として知っていたので、普通のサングラスを使っています。わざわざ偏光グラスを機内で使ったことがないので計器がどんな見え方になるのか奏は知りません。




