2話 奏とおばあちゃん
診察が終わると、医師は何かを考え込むような顔のまま、足早に病室を出ていった。
「一時間後に食事ですので、それまでゆっくりしていてくださいね」
看護師はそう言いながら、奏の右腕につながっていた点滴を外す。固定テープを丁寧に剥がされる感覚が妙にくすぐったい。
「何かあったら呼んでください」
「……はい」
看護師が部屋を出ていくと、病室には再び奏とおばあちゃん――いや、晴美の二人だけが残された。
気まずい。
妙な沈黙に耐えきれず、奏は看護師から渡された水に口をつけた。
ごくり、と喉を通る感覚がいつもと違う。
食道が細い。
そんな感想が真っ先に浮かぶ時点で、もうだいぶおかしい。
とりあえず、部屋の外へ出よう。
鏡を探したい。今の自分の姿を、この目でちゃんと確認したい。
そう思ってベッドの縁に腰掛け、足を床へ下ろす。ひやりとした床の感触が足裏に伝わった。
その瞬間、ふと疑問が湧いた。
――俺、立てるのか?
右足は吹き飛んだはずだった。いや、今は生えている。だが、生えているからといって普通に立てるとは限らない。
奏は恐る恐る足に力を込めた。
膝が伸びる。腰が持ち上がる。
そのまま、すっと立ててしまった。
「あれ?」
拍子抜けするほど、普通に立てた。
身体の重心は明らかに前と違う。胸の重みもあるし、骨格の感覚も違う。それなのに、倒れる気配はない。
まるで最初からこの身体で生きてきたみたいに、自然に立ててしまう。
――なんなんだ、これ。
だが立てるなら好都合だ。とにかく鏡だ。
奏がそのまま病室の出口へ向かおうとすると、背後から声が飛んだ。
「ちょっと待ちな」
振り返ると、晴美がにこにこしながら手招きしていた。
「あんた、そんな格好で出ていくつもりかい。直してあげるから、こっちおいで」
晴美は自分のベッドの空いたところを、ぽんぽんと手で叩く。そこに座れ、ということらしい。
奏は一瞬ためらったが、今の自分の格好がどの程度ひどいのかも分からない。おとなしく従うことにした。
晴美の隣に腰を下ろすと、彼女は慣れた手つきで奏の患者服の解けかけた紐を結び直し、襟元を整えた。
それから、ベッド脇に置いてあった櫛を手に取り、奏の髪を梳かし始める。
さらさらと櫛が通る。
その感覚がくすぐったくて、妙に落ち着かなかった。
「斎藤さんは――」
「晴美」
「え?」
「晴美でいいよ。斎藤さんなんて堅苦しい」
「……じゃあ、晴美さん」
言い直すと、晴美は満足そうに頷いた。
奏はそこで、さっきから気になっていたことを思い出す。
晴美が読んでいた雑誌の表紙には、大きく「パリ特集」と書かれていた。
「晴美さん、パリに行きたいんですか?」
晴美の手が一瞬だけ止まった。
それからまた、ゆっくりと髪を梳かしながら答える。
「そうねぇ。もう少し若い頃は、行こうと思ってたんだけどね。体のほうが先に悪くなっちゃって」
「病気、なんですか?」
「医者には、手術したらたぶん行けるよって言われてる。でも、どうにも気が進まなくてねぇ」
その言い方に、奏は首を傾げた。
「行けばいいじゃないですか。どうしてパリなんです?」
晴美は少しだけ笑った。
懐かしいものを見るような、遠くを見るような笑い方だった。
「私のお母さんの故郷なの。だから、一度は行ってみたいとは思ってるんだよ」
「じゃあ、なおさら」
「……行きたいには行きたいんだけどね。怖いのよ」
「パリが、ですか?」
「ううん。パリに行くことが怖いわけじゃないの」
そこで晴美は言葉を切り、そっと奏の髪を撫でた。
その手つきがひどく優しかったせいで、逆に胸がざわつく。
「莉愛が、生きてたらねぇ。今頃きっと、あんたくらいになってたのかもしれないね」
「……莉愛ちゃん?」
「私の娘よ」
晴美の声は穏やかだった。
だが、その穏やかさが逆に重かった。
「飛行機の事故でね、亡くなったの」
「……っ」
奏の身体が強張る。
飛行機事故。
その言葉は、今の奏にはあまりにも鋭かった。
「いつ……ですか?」
「九年前よ。家族で旅行に行ってたの。娘も、その旦那さんも一緒にね。たしか……なんとかスロープが壊れてたからって」
「多分、グライドスロープです」
反射的に口から出た。
9年前のあの悲惨な事故。忘れられるわけがない。
晴美が少し驚いたように目を見開く。
「それが正常じゃなかったなら、進入が不安定になることはあります。でも……パイロットが完全に把握して、他の情報と照らして判断できていれば、防げた可能性も……」
そこまで言って、奏は口をつぐんだ。
何を言っているんだ、自分は。
事故で家族を亡くした人間に対して、そんな分析みたいなことを。
「その、すみません。俺……」
「あなた、本当に詳しいのね」
晴美は不思議そうに、でも責めることなく言った。
「いいのよ、私のことは気にしなくて。ほら、できた」
晴美は最後にポニーテールを軽く整えると、満足そうに頷いた。
「行きたい場所があるんでしょ。行っておいで」
「……はい」
自分から話題を振っておいて、最後は何も言えなかった。
情けないと思いながら、奏は病室を出る。
その背中に、晴美が声をかけた。
「病院の外には出ちゃだめよ」
振り返ると、晴美はどこか寂しそうな笑顔をしていた。
廊下を歩きながら、奏は自分の顔が熱くなっていることに気づいた。
いや、熱いというより、濡れている。
頬に手を当てると、指先が涙で湿った。
――あれ?
俺って、こんなに涙もろかったか?
トボトボと病院の廊下を歩く。
別に泣く理由なんてない。
晴美は笑っていた。穏やかだった。無理に明るく振る舞っているようにも見えなかった。
なのに、涙が止まらない。
胸の奥がやけに苦しい。
自分でも意味がわからなかった。
「どうしたの、大丈夫?」
通りかかった看護師が声をかけてくる。
「大丈夫です」
奏は俯いたまま答え、そのまま歩こうとした。
だが、肩を掴まれる。
「ちょっと、あなた」
「だから大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょ」
「本当に大丈夫です」
「……って、そっち男子トイレよ」
「…………」
「女の子はこっち。もう間違えちゃだめよ」
返す言葉がなかった。
看護師に半ば連行されるようにして、女子トイレの前まで連れていかれる。
白い壁。白い洗面台。
そして、鏡。
奏は吸い寄せられるように鏡の前へ立った。
そこに映っていたのは、知らない少女だった。
潤んだ大きな目。
長いまつ毛。
角張りのない華奢な輪郭。
少し赤みの差した柔らかそうな頬。
晴美が結ってくれたポニーテールは、ほどけば胸のあたりまで届きそうなくらい長い。
奏が目を見開くと、鏡の中の少女も同じように目を見開いた。
口元を引き結ぶと、向こうも同じ顔をする。
当たり前だ。
当たり前なのに、どうしても他人にしか見えない。
奏は濡れた頬を手の甲で拭った。
それから、逃げるように個室へ入る。
鍵を閉める。
便座に座る。
そして、覚悟を決めた。
……少し落ち着いた。
というより、萎えた。
確認すればするほど、現実が明確になるだけだった。
ないものは、ない。
あるものは、ある。
シンプルなくせに、受け入れがたい。
夕食は、お粥とスープだった。
胃に優しいのはわかるが、味が薄い。
薄すぎる。
固形物が恋しい。だが今無理に食べれば、たぶん胃のほうがびっくりする。
仕方なく、奏はスプーンでお粥をすくった。
「んー……微妙」
「お母さん、元気してる?」
突然、明るい声が病室に入ってきた。
顔を上げると、二十代後半から三十代前半くらいに見える女性が立っていた。精神年齢だけで言えば、奏とそう変わらない。
「あ、この子が写真の子?」
「写真?」
お粥を乗せたスプーンを持ったまま、奏は首を傾げる。
え。何。写真なんて撮られてたのか?
「なんだ。写真より全然可愛い子じゃん」
「持ってきてくれた?」
「うん。たくさんあったからね」
晴美と女性が、何やら楽しそうに話している。
嫌な予感しかしない。
「えーっと……もう一人の娘さん、ですか?」
「え、何お母さん。この子に話しちゃったの?」
「つい、乗りでね」
「ごめんねぇ。えっと、奏ちゃん、かな? 怖かったでしょ」
「えーっと……その、大丈夫です」
大丈夫ではない。
が、そうとしか言えなかった。
ん?かなでちゃん? ん?
晴美の娘――亜由美は、大きめの袋をテーブルの上に置くと、その中身を次々取り出し始めた。
かわいい服。
かわいい服。
かわいい服。
かわいい服。
かわいい服。
視界がひたすらファンシーで埋まる。
「はい、これ。サイズ合うかな?」
一枚取り出した服を、亜由美が奏の身体に軽く当ててみる。
「え、おr、私のですか!?」
「そうよ。他に誰が着るのよ」
亜由美はけろっとした顔で言った。
「お母さんが、あなたそれらしい服ぜんぜん持ってないって言うからさ。写真見て、サイズ合いそうなのを適当に持ってきたの。よかったら使って」
「いやいや、悪いですよ。こんなにたくさん」
「いいのいいの。在庫処分みたいなものだから。もうすぐ捨てるやつも混ざってるし」
「それじゃあ……ありがとうございます」
正直、助かる。
自分で服を買いに行くのは、今の状態ではかなりハードルが高い。
ありがたくもらっておくことにした。
「亜由美、今日はいつまでいられる?」
「明日仕事あるから、そろそろかな。ごめんね、一瞬しかいられなくて。明後日は一日中いられるから安心して」
「そう。ありがとう」
亜由美は鞄を肩にかけ、椅子から立ち上がった。
「それじゃあね、お母さん。あと、奏ちゃんも」
「ありがと。明後日よろしくね」
「ありがとうございました」
コツコツと足音を立てて、亜由美は病室を出ていく。
窓の外を見ると、もうだいぶ暗くなってきていた。
病室の中だけ、時間がゆっくり流れているように思える。
残りのお粥を食べきって、今日はもう寝よう。
そう思っていた時だった。
「奏ちゃん?」
「はい」
奏がお粥を食べ終わるのを確認すると、晴美がタオルを取り出しながら言った。
「お風呂、どう?」
「マジすか」
病院の一階には浴場があった。入院患者のうち、一人でも問題なく入浴できる人だけが利用を許されるらしい。男女で日替わりになっていて、今日は女性の日だという。
女性の日。
その言葉が、今の奏にはひどく重い。
赤い暖簾の前で、奏は本能的に立ち止まった。
「……マジすか」
「奏ちゃん、何してるの?」
後ろから晴美に不思議そうに声をかけられる。
奏は心の中で何度も唱えた。
失礼します、失礼します、失礼します。
誰に対してなのか自分でもわからないまま、暖簾をくぐる。
脱衣所の鏡に映ったのは、やはり女の子だった。
口角を上げれば、鏡の中の少女も同じように口角を上げる。
もう見慣れたくないのに、目が離せない。
浴場はまだ空いていて、数人が静かに湯船に浸かっているだけだった。
それでも落ち着かない。
股間が落ち着かない、と言いかけて、そもそもその表現自体が不適切なことに気づく。
無いのだから。
奏はできるだけ意識を飛ばすようにして、全身を洗った。
髪が長い。
洗うのが面倒だ。
乾かすのも絶対面倒だ。
そんな現実的な感想ばかりが浮かんでくる。
ふと見ると、晴美がまだ椅子に座って身体を洗っていた。
「背中、流しましょうか?」
「いいの? ありがとう」
奏はタオルにボディソープをつけ、晴美の背中をそっと撫でるように洗う。
年齢を重ねた背中は薄くて、小さかった。
「あなたの目ね」
晴美がぽつりと言った。
「孫の莉愛にそっくりなのよ」
「……そうなんですか?」
「純粋で、素直でね。きれいな目をしてた」
「はぁ……」
どう返していいかわからない。
奏は黙々と背中を流し続ける。
「奏ちゃんが運転する飛行機なら、乗ってみたいって思えるねぇ」
「……」
返事ができなかった。
胸の奥がまた痛くなる。
そんなことを言われる資格が、自分にあるのか分からないからだ。
背中を洗い終えると、二人で並んで湯船に浸かった。
温かかった。
身体の芯まで、じわじわと熱が染みていく。
けれど、それでもまだ、自分が誰なのかだけはうまくわからなかった。




