1話 女の子になる
死んだ。
絶対に死んだと思っていた。
あんな潰され方をして、生きているはずがない。
痛みも、熱も、流れ出していく感覚も、あまりにもはっきりしていた。あれを夢だったと言われても困る。むしろ夢であってほしかったくらいだ。
――なのに。
徐々に意識が浮かび上がってきて、奏はゆっくりと瞼を開けた。
最初に見えたのは、白い天井だった。
ひどく白い。
ひどく無機質だ。
一度、瞬きをする。視界がぼやけている。もう一度、焦点を合わせる。
換気扇の低い音と、規則的な電子音だけが耳に入ってくる。静かすぎる病室だった。自分の呼吸音までやけに大きく聞こえる。
――病院、か。
そう思って左に首を傾けると、点滴スタンドが見えた。
透明な液体の入った袋から管が伸びている。目で追っていくと、その先はどうやら自分の腕に繋がっていた。
奏はぼんやりした頭のまま、針の刺さっている位置を確かめようと腕を持ち上げる。
そして、止まった。
「……は?」
声にならない息が漏れた。
腕が、白い。
細い。
いや、細いなんてもんじゃない。明らかに華奢だった。
骨ばった中年男の腕ではない。皮膚はやけにきめ細かく、血管も筋もほとんど目立たない。病人特有のやつれにしては、妙に整いすぎている。
それに、短い。
視界に入る腕そのものが、なんだか小さい。
奏は反射的に手のひらを開いた。
指が細い。爪の形が妙に綺麗だ。少し伸びているが、不潔さはない。柔らかそうで、まるで自分の手とは思えなかった。
「……なんだ、これ」
そこでようやく、全身に意識が回り始める。
布団の重み。背中の感触。喉の渇き。頭の鈍さ。身体のあちこちに残る違和感。
そして次の瞬間、股間に決定的な違和感があることに気づいた。
違和感、というより――ない。
あって当然のものが、ない。
奏の意識は一気に覚醒した。
左手をそのまま布団の上から股間へ下ろす。だが、掛け布団が邪魔で直接は触れない。
それでも、男ならわかる。布団越しでも多少押し込めば、そこにあるはずの感触くらいわかるはずだ。
奏は左手にじわじわと力を込めた。
押す。
さらに押す。
……ない。
何もない。
「……は?」
思考が止まった。
三秒ほど、本当に何も考えられなかった。
それから急に息が浅くなる。
いやいやいや、待て。そんなわけがない。事故で頭を打ったせいで感覚がおかしいだけだ。麻酔か何かの影響かもしれない。きっとそうだ。そうでないと説明がつかない。
奏はベッドから起き上がろうとした。
左手をついて身体を起こそうとする。だが力がうまく入らず、上半身が途中で崩れた。
「っ……」
身体が軽いくせに、思うように動かない。
ならばと身体を左にひねり、今度は両手をついて起き上がろうとする。すると次の瞬間、頭皮に鋭い痛みが走った。
「いっ……!?」
髪を引っ張られた時の、あの独特の痛みだった。
右手の下に、何かが挟まっている。
奏は顔をしかめながらそちらを見る。
黒い髪があった。
長い髪だった。
細くて、やけに艶のある、黒に少し茶色が混じった綺麗な髪だ。病室の白さの中で、その髪だけが妙に生々しく見えた。
奏は数秒、無言でそれを見つめた。
そして、嫌な予感が背筋を這い上がる。
まさか。
いや、そんなわけがない。
だが、もう否定しきれなかった。
視界の端、首を動かすたびに揺れるその髪は、どう見ても自分の頭から生えている位置にあった。
奏は一度顔を枕へ押しつけ、右手で髪が挟まっていない場所を探る。シーツの感触だけがある位置を見つけると、両腕に力を込めて、なんとか四つん這いの姿勢まで身体を起こした。
さらり、と髪が肩から前へ流れ落ちる。
長い。
どう考えても長すぎる。
そのまま息を整えながら左を見ると、黄色いカーテンが目に入った。
病室だ。
間違いなく病室。
現実感があるぶん、余計に悪い冗談に思えた。
奏は震える右手を、もう一度股間へやった。
やはり、ない。
そこで初めて、目で確認しようと視線を落とす。
だが股間より先に、別のものが視界に飛び込んできた。
胸の谷間だった。
「…………は?」
固唾を呑む。
理解が追いつかない。
奏はおそるおそる右手を胸へ伸ばした。
触れる。
柔らかい。
押せば形が変わる。
熱がある。
間違いなく、自分の身体にくっついている。
「ああ、初めて触っ……いや、違うだろ!」
思わず心の中でセルフツッコミを入れる。
そんなことに感動している場合じゃない。
周囲を見渡す。
ベッド。点滴。棚。カーテン。白い壁。
何もかも普通の病室なのに、自分だけが普通じゃない。
再び視線を下に落とす。
胸の奥には、あるはずのないものがあり、ないはずのものが戻っていた。
吹き飛んだはずの右足がある。
膝も、脛も、足先も、ちゃんとある。
試しに動かすと、シーツの下でわずかに持ち上がった。
感触も返ってくる。
義足じゃない。
見た目だけでもない。
正真正銘、自分の足だった。
「なんなんだよ、これ……」
次の瞬間。
ぴらっ、と紙のページをめくる音がした。
カーテンの向こう側からだ。
奏の身体がびくりと跳ねる。
誰かいる。
勢いのまま上体を乗り出し、黄色いカーテンを開けた。
そこには、見た目六十代後半くらいの、おばあちゃんがいた。
老眼鏡をかけ、雑誌を読んでいたらしい。
こちらを見たまま、彼女は驚くでもなく、むしろ少し面白そうに目を細めた。
「あれま、起きてるじゃない」
そう言って、ためらいなくナースコールのボタンを押した。
しばらくして、看護師が足早に部屋へ入ってくる。足取りは早いが、声音は穏やかだった。
「斎藤さん、どうされました?」
「わたしゃ大丈夫。その子が起きたで、驚いて押してもうて」
「その子?」
看護師の視線が奏に向く。
一瞬だけ、目が丸くなった。
だがすぐに表情を整え、踵を返す。
「すぐに先生呼んできます」
それだけ言って、看護師は部屋を出ていった。
おばあちゃん――斎藤は老眼鏡を外し、まじまじと奏を見つめた。
青い瞳だった。
日本人離れした色合いの、その目は、穏やかな口調とは裏腹にどこか冷たく澄んで見えた。
「あの……」
そこで奏は、自分の声にまた凍りついた。
高い。
軽い。
胸に響かない。
中年男の低い声ではなく、若い女の声だった。
反射的に喉へ手を当てる。
喉仏の感触が、ない。
ぞわりと鳥肌が立った。
「今日って……いつですか?」
斎藤は少しだけ首を傾げたあと、素直に答えた。
「二十六日だよ。お主が来てから二日経ったかのう」
二日。
たった二日。
五年も十年も眠っていたわけじゃない。
なら、この身体は何だ。
この声は何だ。
この腕は。胸は。髪は。
頭の中がぐちゃぐちゃになる。
斎藤はそう言うと、手元の雑誌をそっと閉じた。
「お主、名前は?」
奏は一拍遅れて答える。
「……有馬です」
それを聞いた斎藤は、少しだけ目を細めた。
「そうか」
短く、それだけ言ってから、やわらかい声を落とす。
「……そんなに心配せんでも大丈夫よ。落ち着いて休んでおれ」
その言葉は優しいはずなのに、なぜか妙に引っかかった。
まるで、こちらの事情を何か知っているような口ぶりに聞こえたからだ。
やがて看護師と医師が部屋へ入ってきて、軽い診察が始まった。
瞳孔の確認。脈拍。呼びかけへの反応。簡単な質問。
斎藤はその間、何事もなかったかのように再び雑誌を開いている。
「体のどこか、おかしいところはありますか?」
「ここがどこだかわかりますか?」
「今日の日付はわかりますか?」
矢継ぎ早の問いかけ。
奏は答えようとして、言葉に詰まった。
おかしいところだらけだ。
ここが病院だということくらいはわかる。
日付も、さっき聞いた。二十六日。
だが、その先がまるで繋がらない。
どうして自分は生きているのか。
どうして女になっているのか。
どうして右足があるのか。
どうして、自分の声がこんな声なのか。
医師がカルテに視線を落とす。
看護師も手元の記録と、ベッドの上の奏の顔とを何度も見比べていた。
その違和感に、奏も気づく。
――なんだ?
看護師の顔色が、明らかに変わった。
さっきまでの落ち着いた表情が消えている。
目の前の患者を見ているというより、信じられないものを見ている顔だった。
看護師は一歩、ベッドへ近づいた。
そして、戸惑いを隠しきれないまま口を開く。
「あなたは……誰ですか?」
その場の空気が、一瞬で凍った。
奏の思考が止まる。
医師が勢いよく顔を上げた。
斎藤の、雑誌のページをめくる手も止まる。
「え……?」
かろうじて漏れたのは、それだけだった。
看護師は自分が何を言ったのか気づいたように、はっと息を呑む。
だが、もう遅い。
その目ははっきりと動揺していた。
目の前にいる奏を見ている。
いや、“見ていたはずの患者ではない何か”を見るように。
医師が低い声で看護師の名を呼ぶ。
「……どういうことだ」
看護師は手元の記録を握りしめたまま、震える声で言った。
「搬送記録では……有馬奏さん、四十六歳、男性のはずです」
奏の背筋を、冷たいものが一気に走った。
誰かの冗談ではない。
見間違いでもない。
自分の混乱だけでもなかった。
――病院側も、おかしいとわかっている。
ベッドの上にいるのが、自分のはずなのに。
自分ではない誰かを見ているような目が、そこにあった。
次回は奏とおばあちゃんです。




