アルセリオ王国
「凄い……! お爺様も、ひいお爺様も、若い頃にこのような政策を……!」
私は、アルセリオ王国の王族として生まれたことを、誇りに思って育った。
アルセリオは、とても平和な国だった。
歴代の王たちは優れた手腕で国を発展させ、民の安寧を守ってきた。
穏やかな気候に恵まれた土地は豊かに実り、地下には多くの資源が眠っている。
しかし、歴代の王たちは、その富を独占しようとはしなかった。
国の恵みを民と分かち合い、他国から逃れてきた難民も積極的に受け入れてきたのだ。
その積み重ねによって、アルセリオ王国は10を超える種族が手を取り合い、共に暮らす国となった。
世界中を見渡しても、これほど多くの種族が共存する国は、ほかに類を見ない。
もちろん、異なる文化を持つ人々が共に暮らせば、さまざまな問題が生じる。
価値観の違いから争いが起きることもあれば、互いを理解できず、溝が深まることもある。
それでも、歴代の王たちは長い年月をかけて種族間の問題を少しずつ解消し、誰もが平穏に暮らせる国を築き上げてきた。
「アリナ様も、その気高き王族の血を受け継いでおられるのです」
長年、王族に仕えてきた執事のセバスは、そう言って私に微笑みかけた。
そして、今のアルセリオ王国もまた、父であるウルムンド王が王位を継いで以来、素晴らしい統治によって民の暮らしを守っているのだと教えてくれた。
……お父様とは、正直なところ、あまり話したことがない。
母は私を産んですぐに亡くなり、肉親と呼べる存在は父だけだった。
幼い頃の私は、父が私に構ってくれないことを寂しく感じていた。
けれど、それは王としての仕事が忙しいからなのだと、子どもながらに理解していた。
実際に、父が政務を行う姿をこの目で見たことはない。
それでも、父が王位に就いている限り、国民は平穏な日々を送れる。
私は、そう信じていた。
そして、そのことが何よりも嬉しかった。
──私も第一王女として、この国を、国民を、守ってみせる。
幼い頃、私はそう胸に誓った。
歴代の王たちに恥じない王女になるために、私はあらゆる知識を身につけた。
経済学、社会学、帝王学。
国を治めるために必要な知識を、ひとつでも多く学ぼうとした。
すべては、アルセリオ王国のため。
私の愛する国民のため。
けれど、当時の私には、何も見えていなかった。
アルセリオ王国の本当の姿も。
そして、父の本当の姿さえも。
***
「ねえ、セバス。私、平民街を見てみたいのだけれど……」
私が10歳の頃だった。
より良い統治者になるためには、実際に民の暮らしを見て、その声に耳を傾けることが大切だと考えるようになった。
「……残念ながら、それはなりません、王女様。貴族街の外へ出ることは、陛下から固く禁じられております」
「……そう」
私は、自分の国の様子をほとんど知らなかった。
この目で見たことがあるのは、城を取り囲む貴族街の街並みだけ。
遠く離れた街や平民街の様子は、教師やセバスから聞かされる話でしか知らなかった。
それで、本当にいいのだろうか。
実際に民と触れ合ったこともなく、この目で何ひとつ確かめていない私が、いつか国の頂点に立ったとき、果たして良き王女になれるのだろうか。
そんな疑問が、日に日に大きくなっていった。
そして、ある日。
私は一度だけ、セバスの目を盗んで城を抜け出した。
向かったのは、城から最も近い平民街。
王女だと気づかれないよう、念入りに変装もした。
お忍びで城の外へ出る。
その事実に、胸を躍らせていたことを覚えている。
けれど、今思えば、あの日こそが、すべての始まりだったのかもしれない。
「……なに、これ……」
平民街で私が目にした光景は、想像していたものとはあまりにもかけ離れていた。
街に活気はなかった。
行き交う人々は、誰もが痩せ細り、足取りも重い。
路地裏には、飢えに耐えかねて倒れた子どもや老人の姿があった。
店の多くは閉ざされ、看板は朽ちかけている。
耳に届くのは、子どもたちの呻き声や泣き声、そして大人たちの怒号ばかりだった。
道路や水路の整備は放置され、川には汚水が流れ込んでいる。
街の至るところにゴミが散乱し、鼻をつく悪臭が漂っていた。
「……どうして?」
理解できなかった。
お父様が統治しているのに。
なぜ、国民はこんなにも痩せ細っているのだろう。
なぜ、街はここまで荒れ果てているのだろう。
城から最も近い平民街ですら、この有様なのだ。
それなら、もっと遠くの街は……?
考えたくなかった。
けれど、一度浮かんでしまった疑問は、頭から離れてくれなかった。
「おい、ガキ! それを寄越せよ!」
呆然と立ち尽くしていた私の耳に、路地裏から怒声が飛び込んできた。
「いい加減に離せや! これはオレのもんだ!!」
「や、やめてください……! そ、それは、妹の……!」
見ると、大人の男が幼い子どもの食料を奪おうとしていた。
子どもは地面に倒れ伏しながら、必死に男の足へしがみついている。
けれど、男はその手を容赦なく蹴りつけた。
「やめなさい!!」
その光景を目にした瞬間、私は考えるより先に駆け出していた。
子どもをかばうように、2人の間へ割って入る。
「なんだ、テメェ……? このガキの仲間か?」
男が、ぎろりと私を睨みつけた。
私はすぐさま、背後にいる子どもの様子を確かめた。
私よりも幼い男の子だった。
もともと栄養が足りていなかったのだろう。頬はこけ、手足も細い。
その子は、すでに気を失っていた。
「大の大人が……! こんな幼い子どもから食料を奪い、気絶するまで暴力を振るうなんて……! 恥を知りなさい!」
怒りで声が震えた。
こんなことが許されていいはずがない。
幼い子どもが、食べ物を奪われ、抵抗することすらできずに倒れている。
それなのに、目の前の男は何の罪悪感も抱いていないようだった。
「うるせぇ! こうしなきゃ、俺が死ぬんだよ!!」
男は叫び、私の身体を突き飛ばした。
「うっ……!」
尻餅をつき、私は顔をしかめた。
けれど、突き飛ばした男自身も、よろめいていた。
よく見ると、男の頬も痩せこけている。
頬だけではない。衣服の隙間から見える腕も、骨ばかりが目立っていた。
この男もまた、飢えているのだ。
「おい、ガキ! 恨むんなら国王を恨め!」
男は、私を見下ろして吐き捨てた。
「全部、王族のせいさ! あのウルムンド王が即位した日から、何もかも狂っちまったんだ!」
「……っ!」
お父様が……?
「そうだ! あいつが馬鹿みたいに税を吊り上げなきゃ、俺たちは平和に暮らせてたんだ!!」
男の声は、怒りと憎しみに震えていた。
「俺だって……仕事を失って……女房も娘も……みんな、死んじまったんだ!!」
「うそ……」
否定しようとした。
そんなはずはないと、叫びたかった。
けれど、声が出なかった。
目の前に広がる光景が、その言葉を押しとどめていた。
飢えた農民や失業者が、食料を奪わなければ生きていけない。
人々は生き延びるために他人から何かを奪い、街には荒んだ空気が漂っている。
私が信じていた、平和で豊かなアルセリオ王国。
その姿は、どこにもなかった。
「おい、貴様ら! そこで何をしている!」
騒ぎを聞きつけた街の警備兵が、駆け寄ってきた。
男は取り押さえられ、奪おうとしていた食料も回収された。
「クソッ! 王族の犬どもが!」
男は兵士たちに押さえつけられながらも、なお叫び続けた。
「俺を取り押さえるくらいなら、王族を取り押さえやがれ!! あいつらこそ、俺たちがこんな目に遭っている元凶なんだからな!!」
その声が、いつまでも頭の中にこだましていた。
やがて、兵士の1人が私のそばへ歩み寄ってきた。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
「わ、私は……大丈夫です……。怪我も、ありません……」
「そうか? だが、顔色が悪いぞ。あの男に何かされたのか?」
兵士は心配そうに私を見つめた。
そして、不意に首を傾げる。
「……ん? 君、どこかで……」
「……っ!」
私は逃げ出した。
正体が露見しそうになったからではない。
これ以上、見ていられなかったのだ。
私が守らなければならないはずの民が、こんなにも疲弊している。
飢えに苦しみ、家族を失い、国を憎んでいる。
そんな現実を、これ以上受け止めることができなかった。
10歳の私にとって、それはあまりにも残酷な光景だった。
走りながら、私は唇を噛みしめた。
私の心の奥底で、何かが音を立てて崩れ始めていた。
そして、その崩れた場所から、抑えようのない怒りが、静かに湧き上がっていた。




