悪夢
彼と初めてまともに会話をした日の夜。
私は自室のベッドに腰掛け、昨日のやり取りについて延々と考えていた。
『い、いやぁ……ちょっとお金を増やしたいんだけど……どこの会社に投資すればいいか分からなくて……』
『ご、ごめんね。僕、投資について全然知識がなくてさ……』
「……わけが分かりません」
思わず、ため息が漏れた。
金儲けがしたいのなら、なぜ何も分からない投資の世界に手を伸ばそうとするのだろう。
知識もないまま大金を投じるなど、最も避けるべき行為のはずだ。
そもそも、資産を増やしたいのであれば、自分が手がけている事業に力を入れればいいのではないか。
パーティーへの出席や、貴族とのコネクションを利用することすら思いつかない。あの振る舞いからは、とても貴族とは思えなかった。
……いや。
そもそも、彼は本当に貴族なのだろうか。
彼の階級は?
どのような事業を営んでいる?
普段は執務室にこもって、一体何をしているのだろう。
「……あの人は、いったい何なのでしょう?」
考えれば考えるほど、彼の正体は霧の中へと消えていくようだった。
『もしよろしければ、私がお手伝いいたしましょうか?』
あのとき、私は彼に探りを入れようとしていた。
薬品会社の社長と面識があることをほのめかせば、彼は私を利用しようとするかもしれない。
そうなれば、彼が何を考えているのか、少しは分かると思ったのだ。
アイという人間を見極めるために。
けれど――。
『ここからは僕の力で何とかするよ。でも、ここまで教えてくれてありがとう!』
「…………」
どうして?
なぜ、私を利用しようとしないのだろう。
コネクションを手に入れる絶好の機会だったはずなのに。
理解できなかった。
私たちを利用するつもりがないのなら、なぜ大金を払ってまで買ったのだろう。
彼は、私たちに何をさせたいのだろう。
そもそも――。
私たちは、あなたにとって、何なのだ。
「…………」
いくら考えても、答えは出なかった。
同じ疑問ばかりが頭の中を巡り、私は深いため息をついた。
探りを入れたはずなのに、かえって彼という人間が分からなくなってしまった。
「……っ!」
その瞬間、頭の奥を激しい痛みが駆け抜けた。
「っ、あ……!」
こめかみを押さえ、私は顔をしかめた。
痛い。
先ほどまでとは比べものにならないほど、激しい痛みだった。
「…………」
──もう、疲れました。
何もかもが分からない。
考えても、考えても、何一つ答えが出ない。
私は力なくベッドに倒れ込んだ。
もう、何も考えたくない。
何もかも忘れて、眠ってしまいたかった。
私は目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整える。
このまま、何も考えずに眠れたら。
そんなことを願いながら、意識が沈んでいくのを待った。
***
『貴様のせいだ』
──ごめんなさい。
『我々は滅ぼされた』
『私の息子は、燃え盛る業火に焼かれた』
『俺の妻と娘は、敵兵に蹂躙された』
『パパもママも、誰もいなくなった』
──ごめんなさい。
『誰のせいだ』
『誰のせいだ』
『誰のせいだ』
──ごめんなさい。
『貴様のせいだ』
『死ね』
『死ね』
『死ね』
──ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。
『貴様も死ね』
***
「う……っ、はぁっ……! はぁっ……!」
目を覚ました瞬間、私は激しく息を吸い込んだ。
心臓が、壊れそうなほど速く脈打っている。
胃の奥から吐き気が込み上げ、頭には鈍く重い痛みが残っていた。
……まただ。
いつもと同じ、最悪の目覚めだった。
全身に、びっしょりと汗をかいていた。
寝間着が肌に張りつき、不快な感触がまとわりつく。
「……はぁっ、はぁっ……」
呼吸を整えようとしても、うまくいかない。
喉が渇いていた。
水が欲しい。
私は震える手で時計を確かめた。
午前2時。
つい先ほど、ようやく眠りについたばかりだったはずだ。
あれから、まだ1時間も経っていない。
『あの日』から、まともに眠れた日は一度もなかった。
目を閉じれば、あの光景が蘇る。
耳を塞いでも、あの声が聞こえてくる。
眠ることさえ、私にとっては苦痛だった。
「……みず……」
掠れた声を漏らし、私はベッドから起き上がった。
身体が重い。
手足に力が入らず、立ち上がるだけでも一苦労だった。
壁に手をつきながら、どうにか鏡台の前まで歩く。
鏡に映った自分の顔を見て、私は息を呑んだ。
汗で化粧が崩れ、頬には黒ずんだ筋がいくつも流れている。
目の下には濃い隈が浮かび、顔色もひどく悪かった。
……酷い顔。
けれど、化粧を直す気力など残っていなかった。
今は、それどころではない。
水を飲まなければ。
私はふらつく足取りで部屋を出た。
誰にも見つかりませんように。
誰にも、この姿を見られませんように。
そんなことを願いながら、薄暗い廊下を進んでいく。
幸い、周囲に人影はなかった。
私は壁に手をつき、何度も足を止めながら、ようやく洗面所へとたどり着いた。
蛇口をひねり、流れ出した水を手ですくう。
そして、そのまま口に含んだ。
「……っ! うぇ……」
吐き気が込み上げ、私は慌てて口元を押さえた。
ただの水のはずなのに。
まるで、腐った泥水でも飲んだかのような味がした。
「……はぁ……はぁ……」
それでも、喉の渇きは少しだけ和らいだ。
私は口元を拭い、洗面所を後にした。
部屋へ戻らなければ。
誰かに見つかる前に。
そう思って歩き始めたものの、数歩進んだところで、また、『あの声』が聞こえてきた。
目を覚ました後も、あの声が耳から離れなかった。
『貴様のせいだ』
『死ね』
何度も、何度も、頭の中で繰り返される。
耳を塞いでも、目を閉じても、消えてくれない。
「……違う……私は……」
声に出して否定しようとした。
けれど、その先が続かなかった。
何を否定したいのか、自分でも分からなかったからだ。
胸が苦しい。
息を吸っているはずなのに、十分に空気を取り込めていないような気がする。心臓は激しく脈打ち、身体中から汗が噴き出していた。
もう、嫌だ。
眠りたくない。
けれど、目を覚ましていることさえ苦しかった。
「……もう、やめて……」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
私は壁に手をつき、どうにか身体を支えた。
早く部屋に戻らなければ。
誰にも見られないうちに。
そう思って歩き始めたものの、数歩進んだところで、急に足元が揺らいだ。
「……あれ……?」
力が入らない。
身体がひどく重く、立っていることさえ難しかった。
私は壁にすがりついた。
けれど、指先に力が入らず、身体を支えきれない。
──まずい。
このままでは、誰かに見つかってしまう。
せめて、化粧だけでも。
そう思ったところで、視界が暗くなった。
意識が遠ざかっていく。
私は何とか立ち上がろうとした。
けれど、もう身体は動かなかった。
そのまま、私の意識は深い闇へと沈んでいった。




