理解できない男
「……」
執務室の床には、赤い絨毯が敷かれていた。
壁際には立派な本棚が並び、大きな机が部屋の奥に据えられている。
一見すれば、財を成した者にふさわしい、落ち着いた執務室だった。
……ただし、床に散乱した新聞紙と、その上に突っ伏している男の姿さえなければ。
「どうしたの? 何か用……」
床に寝そべっていたアイが、気だるげに顔を上げた。
そして、私の姿を認めた瞬間。
その顔から、見る見るうちに血の気が引いていった。
「あ、アリナ王女!?」
アイは慌てて飛び起きると、散乱した新聞紙の上に正座した。
「ご、ごめんね! メイドさんかと思って……!」
「…………」
……何をしているのだ、この男は。
なぜ新聞紙の上に寝転がっていたのだろう。
それに、どうして奴隷である私に対して正座をしているのだろうか。
理解できない。
あまりにも理解できない行動の数々に、私は一瞬、言葉を失った。
それでも、どうにか冷静さを取り戻し、口を開く。
「……何を、なさっていたのですか?」
「い、いやぁ……それがさ」
アイは困ったように頬を掻いた。
「ちょっとお金を増やしたいんだけど、どこの会社に投資すればいいのか分からなくて……」
「お金を、増やす?」
私は思わず首を傾げた。
金貨40万枚。
私たちを買うために支払ったその金額は、彼にとっても決して小さなものではなかったはずだ。
もしかすると、あれほどの大金を使ったことで、資産を増やす必要に迫られているのだろうか。
しかし、どうして投資なのだろう。
資産を増やしたいのであれば、自分が手がけている事業に力を入れればよいのではないか。
「そ、それで、どうしたの? 何か用事かな?」
「あ、いえ……」
そこで、私は思い直した。
これは、好機かもしれない。
彼が投資先を探しているのなら、私が有益な情報を提供することで、恩を売ることができる。
その恩を利用すれば、いずれあの子たちを守るための交渉材料になるかもしれない。
私は執務室へ足を踏み入れ、床に散らばった新聞紙へと視線を落とした。
「……少々、新聞を拝見してもよろしいでしょうか?」
「し、新聞? う、うん。いいよ」
「ありがとうございます」
許可を得た私は、新聞を一部手に取り、紙面に目を通した。
経済欄には企業の業績や市場の動向が記され、紙面の片隅には出資を募る企業の広告が掲載されていた。
私はいくつもの企業に目を通し、やがて、そのうちの1つを指差した。
「こちらの会社に投資することをお勧めいたします」
「……薬品会社?」
「はい。可能であれば、なるべく早く出資を決めた方がよいかと」
私が選んだのは、誰もが知る大企業ではなかった。
地方都市を拠点とする、中規模の薬品会社だ。
「ど、どうして薬品会社なの?」
「戦争が終わった後には、疫病が流行する可能性が高いからです」
「……!」
アイが息を呑んだ。
我がアルセリオ王国では、セシュリア軍によって多くの国民が虐殺された。
あれほどの犠牲者が出たのだ。死体の処理が、すべて滞りなく進んでいるとは考えにくい。
放置された死体や汚染された水、劣悪な衛生環境。
そうしたものが原因となり、感染症が広がる危険性は十分にある。
生き延びた人々が、その被害に遭う可能性もあるだろう。
「それって……」
私の言葉の意味を理解したのか、アイはそれ以上、何も言わなかった。
……私だって、こんなことを勧めたいわけではない。
自分の故郷で起きた惨劇を、投資の好機として語るなど。
けれど、これがあの子たちを守るために必要なことなら、私は利用できるものを利用する。
私は、そうするしかないのだ。
「でも、どうしてこの会社なの? もっと規模の大きい会社もあるけど……」
「こちらの薬品会社の社長とは、何度か顔を合わせたことがあります。温和な人柄で、人々を救うために尽力されている方です。信用に値する人物だと、私は考えています」
「な、なるほど……社長の人柄か……」
「はい。投資先を選ぶ際には、実績だけでなく、相手が信用に値する人物かどうかを見極めることも大切ですから」
アイは、私の言葉を真剣に聞いていた。
一つひとつの助言に感心したように頷き、何度も「なるほど」と呟いている。
……どうやら、話自体は理解しているようだ。
「分かった。アドバイスありがとうね。すっごく助かったよ!」
「いえ、お役に立てたのであれば何よりです」
よし。
これで、少しは彼に恩を売ることができただろう。
そう考えていると、アイが何かを思い出したように顔を上げた。
「ついでに、もう1つ聞きたいんだけど……」
「はい。何でしょうか?」
いい調子だ。
このまま私の有用性を示すことができれば、彼との交渉を有利に進められるかもしれない。
私は期待と緊張を胸に、彼の言葉を待った。
「投資って、どうやってすればいいのかな? 会社に直接行けばいいとか……?」
「…………はい?」
思わず、聞き返してしまった。
「ご、ごめんね。僕、投資について全然知識がなくてさ……」
「…………」
……何なのだ、この男は。
投資について、まったく知識がないというのか。
それなのに、なぜ投資をしようなどと考えたのだろう。
私は思わず額に手を当てたくなった。
「……会社へ直接出向いたところで、社長は多忙でしょうから、すぐに会えるとは限りません。受付で取り次ぎを断られる可能性もあります」
「そ、そうなんだ……」
「それよりも、パーティーなどを企画して招待し、そこで話をつける方がよろしいかと存じます」
「ぱ、パーティー?」
「はい。社長と直接お話しする機会を設けるのです。会食のような和やかな場であれば、相手も多少は警戒を解き、こちらの話に耳を傾けてくれるでしょう。社交の場では、よく用いられる手法です」
そう説明すると、アイは少し目を泳がせた。
どこか、困っているようにも見える。
「ぱ、パーティーって、企画するとお金がかかるよね? もちろん、ほかの人も呼ばなきゃいけないし……」
「……? はい。ですが、あなたほどの資産をお持ちであれば、問題はないのではありませんか?」
「……え? あ……」
アイは何かに気づいたように口元を手で覆った。
「え、えーっと……」
そのまま、言葉を濁してしまう。
……何だ?
この反応は。
金貨40万枚を使ったとはいえ、パーティーを開く余裕までなくなったとは思えない。
それとも、そもそもパーティーを企画すること自体が嫌なのだろうか。
ますます、彼の考えが分からなくなってきた。
「……ご自身で会食を企画することが難しいのであれば、ほかの方が主催するパーティーに参加するという手もございます。社長が近々出席するものがあれば、そこで接触することも可能でしょう」
「え、でも、ほかの人のパーティーになんて、どうやって参加すれば……」
「……コネクションはお持ちではないのですか? 貴方ほどの財を成した方であれば、貴族との繋がりくらいあるでしょう」
「そ、それは……あ、なるほど!」
アイは、何かを思いついたように手を打った。
……まさか、今までその方法すら考えていなかったのだろうか。
私は、目の前の男をまじまじと見つめた。
資産を持ち、奴隷を10人も買い取った人物。
それだけのことができる人間なら、相応の知識や人脈を持っていると思っていた。
けれど、目の前の男はどうにも頼りない。
一体、何を考えているのだろう。
「……もしよろしければ、私がお手伝いいたしましょうか?」
「え?」
アイは、予想もしていなかった提案を受けたかのように目を丸くした。
「私は隣国の元王女です。貴族との交渉や仲介には、多少なりとも心得がございます。それに、社長とも面識があります。私を社長が出席するパーティーへお連れいただければ、あなたとの橋渡しをすることも可能です」
私にとっても、悪い話ではない。
彼の役に立つことで、自分たちの立場を少しでも良くできるのなら、それに越したことはないのだから。
「本当!? それは嬉し……」
そこまで言いかけたところで、アイはハッとしたように口をつぐんだ。
「…………?」
どうしたのだろう。
今の話に、何か問題でもあったのだろうか。
「いや、ごめん。いいよ」
「……え?」
私は、思わず口を開けた。
断られるとは思っていなかった。
私は今、自分にできることを示したはずだ。
しかも、元王女という肩書きに加え、投資先の社長とも面識がある。
利用しない理由がない。
……それなのに、なぜ?
目の前に利益があると分かっていながら、それを手にしようとしない。
それなら、どうして私は買われたのだろう。
「ここからは僕の力で何とかするよ。でも、ここまで教えてくれてありがとう! すっごく助かったよ!」
「……いえ。この程度のことは……」
私は、曖昧な返事をすることしかできなかった。
頭の中では、いくつもの疑問が渦巻いている。
けれど、どれだけ考えても答えは出なかった。
「さて……それで、どうしたの?」
「……はい?」
「え? 僕に何か用事があって来たんじゃないの?」
「あ……」
そうだった。
私は彼のことを探るために、ここへ来たのだ。
それなのに、いつの間にか投資の相談に乗り、気づけばこちらが振り回されている。
「……いいえ。もう、大丈夫です。私はこれで失礼いたします」
「そ、そう?」
私は立ち上がり、アイに一礼した。
「…………」
釈然としない。
あまりにも理解できないことが多すぎて、考えがまとまらなかった。
とにかく、今はこの場を離れたかった。
私は踵を返し、扉の取っ手に手をかけた。
「ま、待って!」
背後から、アイの声が飛んできた。
振り返ると、彼は少し心配そうな表情で私を見つめていた。
「えっと……あのさ。ここに来て、もう2週間くらい経つけど……何か困ったこととかないかな?」
「ありません」
私は即座に答えた。
「……ほんとに?」
「はい。何も」
「…………」
アイは、私の瞳をじっと見つめていた。
まるで、私の言葉の裏に何か隠されていないか、確かめようとしているかのようだった。
……今度は、彼が私を探っているのか。
私は心の内を悟られないよう、彼の瞳を見つめ返した。
ブラウンの瞳に、私の姿が映り込んでいる。
けれど、その奥にあるものまでは、読み取れなかった。
「……そっか。何か困ったことがあったら、いつでも言ってね」
「お気にかけていただき、ありがとうございます。それでは、失礼いたします」
私はもう一度頭を下げ、執務室を後にした。
扉が閉まる。
廊下に出た私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
……本当に、何なのだろう。
あの男は。




