だから、信じていたい
1週間後。
私は廊下を歩き、彼の執務室の前で足を止めた。
以前、ここを訪れたときとは、心持ちがまるで違う。
不安も、焦燥も、胸の奥をかき乱す疑念もない。
私は扉の前で立ち止まり、軽く身だしなみを整えた。
コン、コン、コン。
いつもより少し控えめに、扉をノックする。
「どうぞー」
返ってきたのは、いつもどおり、どこか力の抜けた声だった。
「失礼いたします」
扉を開けると、彼は椅子に座り、新聞を読んでいた。こちらに気づくと、意外そうに目を丸くする。
「アリナ王女……」
「おはようございます」
私が一礼すると、アイはすぐに笑顔を浮かべた。
「おはよう。もう、歩き回っても大丈夫なの?」
「はい。この1週間、貴方が甲斐甲斐しくお世話してくださったおかげで、すっかり回復しました」
「そ、そんなに甲斐甲斐しかったかなぁ?」
「いくらほかにやることがないからといって、5分に1回も私の様子を見に来るのは、どうかと思います」
「いや、それは……ただ、アリナ王女が心配で……」
この1週間、彼は本当に、何度も私の様子を見に来た。
おかげで熱はすっかり下がり、顔色も以前に比べてずいぶん良くなった。顔色の悪さを隠すために欠かせなかった化粧も、今では必要ない。
「それに、毎晩毎晩、私が眠るまでそばにいようとするのも、いかがなものかと。淑女の寝顔をいつまでも眺めるのは、不躾ではありませんか?」
「ち、違う! 寝顔を見ようとしてるんじゃなくて、アリナ王女がまた悪夢を見たら、安心して眠れないだろう? それに、アリナ王女だって、僕の話を聞くのを楽しんでたじゃん!」
「……そう、でしたか?」
思わず、口元が緩みそうになった。
この1週間、夜になると、彼は決まって私の部屋を訪れてくれた。
ひとりで眠ろうとすると、また悪夢を見るのではないかという恐怖が蘇り、どうしても目を閉じることができなかったからだ。
そんな私のために、アイは私が眠くなるまで、さまざまな話を聞かせてくれた。
私の知らない、彼の世界の話。
見たこともない乗り物や、想像もつかない道具の話。ときには、彼自身の暮らしについても話してくれた。
まるで、幼い子どもが眠りにつくまで、母親がそばで語り聞かせてくれるように。
彼の声を聞いていると、いつしか恐怖が薄れ、私はゆっくりと眠りに落ちていった。
そのおかげか、私は次第に悪夢を見なくなっていた。
アルセリオ王国が滅ぼされてからというもの、毎晩のようにうなされていたというのに。
「少しは役に立てたみたいで、良かったよ」
アイは、少し満足げに頷いた。
本当に、少しどころではない。
彼のおかげだ。
私が、再びこうして立ち上がれるようになったのは。
「ありがとうございました」
私は、彼に深く頭を下げた。
「ずっと、ずっと、悪夢を見ていました」
罪と後悔と懺悔に押し潰され、逃げ場もなく苦しみ続ける夢を。
目を覚ましても、苦しみは消えなかった。自分を責める声が、いつまでも頭の中で響いていた。
けれど、彼の優しさに触れるうちに、私は少しずつ、安心して眠れるようになった。
「貴方がいなければ、きっと、私の心は壊れていました」
「アリナ王女……」
「もちろん、私の罪が消えたわけではありません。民を守れなかったことも、生き残った民が絶望の中にいることも……何ひとつ、変わっていないのですから」
私は顔を上げ、彼の目を見つめた。
「それでも、少しだけ、自分の罪と向き合っていけそうです。貴方が、私のそばにいてくださったおかげです。本当に、感謝しています」
私の言葉を、アイは真剣な表情で受け止めていた。
やがて、彼は少しだけ笑った。
「感謝なんて、しなくていいよ」
そう言って席を立つと、机を回り込み、私の前まで歩いてきた。
「前にも言ったけれど、僕はみんなの親代わりみたいなものだから。親が子どもの支えになるのは、当たり前だよ」
アイは私の前で片膝をついた。
きっと、私と目線を合わせるためだろう。
けれど、私の背は彼よりも高い。結果として、彼は私を見上げる形になっていた。
これでは、親子というよりも、王女と騎士のようだ。
……でも、それでいい。
この人は、私を守ってくれたのだから。
「もし辛くなったら……ううん、そうじゃなくても、僕を頼って。いつだって、君を支えるから」
その言葉に、瞳の奥がじんわりと熱くなった。
――やはり、この人の優しさは劇薬だ。
裏切られ、傷つき、固く閉ざしてしまった私の心に、容赦なく染み込んでくる。
もう二度と、誰かを信じることなどできないと思っていた。
それなのに、この人の言葉を聞くたび、少しずつ、その考えが揺らいでいく。
「本当に、貴方はずるい人ですね……」
溢れそうになる涙を拭い、私は精一杯、表情を崩さないように努めた。
「そんなこと言ったら、本気にしますよ? 父には甘えられなかったので、すごく甘えてしまうかもしれません」
「ドンとこいだね。なんなら、今だって泣きついてくれても……」
「……」
私は無言で彼を睨みつけた。
軽口には、睨みで返す。
けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
むしろ、こんなやり取りができることを、心地よく感じていた。
出会って1か月。
まともに言葉を交わすようになって、まだ1週間。
それなのに、彼との間には、少しずつ、確かな絆が生まれ始めていた。
もちろん、彼のすべてを知っているわけではない。
それでも、私が苦しんでいたとき、彼はそばにいてくれた。
何も求めず、見返りも期待せず、ただ私が立ち直れるようにと支えてくれた。
その事実だけは、疑いようがなかった。
――この人なら、きっと。
今はまだ、心のすべてを預けることはできない。
それでも、いつか。
どんなことがあっても、この人だけは信じていたい。
私は、そう思い始めていた。




