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第一章2 「死者の残響、あるいは最初の足跡」

 生きるということは、これほどまでに生臭く、そして惨めなものだったか。


「おい、新入り! 手が止まってるぞ! さっさとその臓物を運べッ!」

「は、はいっ……!」


 解体場を仕切る職人の怒声が、湿った空気の満ちる部屋に響き渡る。その声に背中を蹴られるような衝撃を覚えながら、俺――伊藤アノルは、錆び付いた鉄製の手桶を両手で必死に持ち上げた。

 ずしりとした重みが、引きこもり生活で細りきった腕の筋肉に食い込む。手桶の中に入っているのは、つい数分前まで生きていたという魔獣の腸や、どす黒い血にまみれたレバーの切れ端、そして未消化の排泄物が混ざり合った、どろどろとした肉塊の山だった。


 強烈な悪臭が鼻腔を突き刺し、脳を直接揺さぶる。

 乾燥して皮膚にこびりついた獣の血、内臓の粘液、そしてスラムの劣悪な衛生環境そのものが混ざり合ったその臭いは、もはや俺の身体の一部と化していた。仕事終わりにどれだけスラムの冷たい共同水場(とは名ばかりの、ドブ川に近い濁った水道)で身体を擦ろうとも、皮膚の皺や爪の隙間に染み込んだ死の臭いは、決して落ちることはなかった。


 街を歩けば、物乞いですら露骨に鼻を覆って俺を避ける。すれ違う人々は「歩く腐肉」を見るかのような嫌悪の眼差しを向け、俺という存在を視界から排除しようとした。

 これが、日本のぬるま湯からこの剥き出しの地獄へと突き落とされた俺の、偽らざる日常だった。


 そんな、誰からも見向きもされず、ただ世界から忌避されるだけの俺の視界に、それは不意に紛れ込んできた。


「……ん?」


 裏庭の廃棄穴へと続く、陽の当たらない薄暗い通路の途中。

 俺の目の前を、小さな、本当に小さな光の粒子がふわふわと漂っていた。

 大きさはせいぜいピンポン玉ほど。蛍の光をもう少し白く、そして内側から強く発光させたような、不思議な輝きを放つ球体だった。それは物質的な質量を持っていないかのように、空気の揺らぎに乗って不規則な軌道を描いている。


 それはまるで俺を観察し、からかうように、鼻先をかすめ、耳元を通り過ぎ、手桶の周りを円を描くようにして付いて回った。


「なんだ、これ……? 虫、なのか?」


 俺は片手を桶から離し、その光の玉を捕まえようと空を切った。しかし、俺の手のひらは何の手応えもなく冷たい空気を掴むだけで、光の玉はひらりと身をかわすようにして、俺の肩のあたりへと逃げてしまった。熱さも冷たさもない。ただ、そこにあるという視覚的な事実だけが、俺の網膜に焼き付いている。


「おい、アノル。何一人で踊ってやがる。気味が悪いガキだな」


 すぐ後ろから、同じように廃棄物を運んでいた同僚の男が通り過ぎた。男は俺の奇妙な動きを見て、侮蔑の混ざった不審げな目を向けている。


「あ、いや……そこに、変な光る虫がいませんか?」

「はあ? 光る虫だと? どこにそんなもんがいるんだよ。お前、いよいよ屠殺場の臭いで頭がイカれたか」


 男は忌々しげに鼻を鳴らし、俺を追い抜いていった。

 男の視線は、俺のすぐ目の前で浮遊している光の玉を完全に素通りしていた。かすりもしなかった。

――見えていない。

 俺のすぐ側で、こんなにもはっきりと自己主張をしている光の玉が、他の奴らには一切見えていないのだ。


「俺にしか……見えないのか?」


 異世界に来て、初めて訪れた「超常的な現象」だった。

 ステータス画面も、魔法の才能も、チート武器も与えられなかった俺に、ようやく何か特別な力が目覚めたのだろうか。しかし、その光の玉は、俺に何かを語りかけるわけでも、攻撃の魔法を放つわけでもなかった。ただ、俺が臓物を運ぶときも、泥水に這いつくばるときも、影のようにぴったりと寄り添い、付いて回るだけだった。


 一体、これが何なのか、その時の俺には全く分からなかった。ただ不気味で、けれどどこか、この孤独な地獄において唯一、自分だけを見つめてくれている存在のようにも思えた。





 しかし、そんな不可解な怪異について深く考察する余裕すら、この世界の現実は俺に与えてくれなかった。

 「鉄の胃袋」で働き始めて、ちょうど三日が過ぎた朝のことだった。


「う……あ……」


 荷馬車の下の暗闇で目を覚ました瞬間、俺は自分の身体が自分のものではないような、凄まじい重圧に襲われた。

 頭が割れるように痛い。視界がぐにゃぐにゃと熱で歪み、呼吸をするたびに、喉の奥から火を噴くような熱さが突き上げてくる。皮膚の表面は異常なほどに冷え切っているのに、身体の内側ではマグマが煮えたぎっているかのような、激烈な悪寒と高熱の矛盾が俺の小さな肉体を苛んでいた。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!」


 指先一つ動かすのにも、神経を直接針で刺されるような激痛が走った。

 病気だ。それも、ただの風邪じゃない。

 毎日、まともな衛生概念のない屠殺場で、免疫力の落ちきった肉体で血と臓物にまみれ続けていたのだ。この世界の病原菌がどれほど強力か、日本のぬるま湯で育った俺の身体が耐えられるはずもなかった。


 カレンダーも時計もないが、感覚的にはまだ朝の五時過ぎだろう。あと一時間で、屠殺場へ行かなければならない。


「行かなきゃ……行かないと……別の奴が、雇われて……」


 足がもつれ、荷台の下から這い出そうとした瞬間に、俺は地面の泥の中に顔から突っ込んだ。

 立ち上がれない。膝が笑い、力が入らない。地面を押し返そうとする腕が、まるで濡れた縄のようにぐにゃりと折れてしまう。口の中からは、胃液と混ざり合った酸っぱい血の味が広がっていく。


 現代日本なら、スマホを取り出して「体調が悪いので休みます」と一行送れば済む話だった。病院へ行き、保険証を提示すれば、適切な解熱剤と抗生物質を処方してもらい、温かいベッドで寝ているだけで治っただろう。

 だが、ここはスラムだ。

 休むということは、すなわちその日の日給である銅貨を失うということであり、それは「餓死」に直結する。そして、この動けない俺を助けてくれる救急車も、看病してくれる家族も、ここには誰一人として存在しない。


「ああ……ここで、終わりか……」


 冷たい泥の感触が、異常に熱い頬に妙に心地よく感じられた。

 この世界に来てからずっと、張り詰めていた糸がプツリと切れる音がした。この高熱を乗り切る体力なんて、今の俺には残っていなかった。このまま意識を失い、夜になれば体温を奪われ、裏路地でネズミの餌になる。これ以上ないほどに静かで、ありふれた、スラムの日常的な「死」が、すぐ目の前まで迫っていた。


 都合のいい奇跡はこの世界にはない。ここで死ねば、俺の人生は本当に終わりだ。


 意識が急速に遠のいていく。視界が真っ暗に染まろうとした、その時だった。


──フワリ。


 俺の、泥にまみれた頬のすぐ近くに、あの光の玉が降りてきた。

 いつもは一定の距離を保って浮遊していたはずのそれが、この時ばかりは俺の身体に触れるほどの距離まで接近していた。


「……お前……何、して……」


 声にならない吐息を漏らす。

 すると、光の玉は、その中心から爆発的な、しかし決して眩しくはない、不思議な「光」を放ち始めた。


 それは、緑色を帯びた、まるで春の新緑や母の大地を思わせるような、温かく澄んだ光だった。

 光が俺の全身を包み込んだ瞬間、脳を支配していた激しい痛みが、波が引くように和らいでいく。皮膚の表面を焼いていた高熱が、心地よい温もりへと変わり、細胞の一つ一つが、乾いた砂に水が染み込むようにして潤いを取り戻していくのが分かった。


「あ……あ、あ……」


 その光は、あまりにも優しかった。

 理不尽にこの世界に放り出され、泥水を飲まされ、血生臭い臓物の海で這いつくばり、誰からも人間として扱われなかったこの数日間。そのすべての苦痛と、孤独と、絶望を、丸ごと包み込んで肯定してくれるかのような、信じられないほどの「慈愛」に満ちた光だった。


 日本で引きこもっていた頃の、あの暗い部屋。

「アノル、ご飯置いとくからね」と、ドアの向こうから声をかけてくれた母親の、あの小さな、けれど確かだった優しさ。

 この世界に来てから完全に凍りついていた俺の心が、その光の温もりによって、一気に溶かされていく。


「う、あ……あぁぁぁ……っ!」


 目から、堰を切ったように涙が溢れ出た。

 俺は泥の中に顔を埋めたまま、子供のように声を上げて泣きじゃくった。

 嗚咽が止まらない。しゃくり上げるたびに胸が苦しかったが、それは病の苦痛ではなく、感情の決壊だった。


「ごめんなさい……ごめんなさい……!」


 何に対して謝っているのかも分からなかった。日本に遺してきた親に対してか、自分を裏切った世界に対してか、あるいは、こんな底辺で無様に足掻いている自分自身に対してか。


 俺はただ、光の玉がもたらす優しい温もりに抱かれながら、意識を失うまで、ひたすらに泣き続けた。







 次に目を覚ましたとき、視界に飛び込んできたのは、荷台の隙間から差し込む強い太陽の光だった。


「……あれ?」


 身体を起こす。

 さっきまでの、あの割れるような頭痛も、関節をきしませていた激痛も、嘘のように消え去っていた。それどころか、引きこもり生活でずっと慢性的に重かった肩や腰の軽さすら、完璧に調えられている。身体が、まるで人生の中で最も健康だった頃のように軽い。


「直った……のか? あの光が、俺を……」


 周囲を見回したが、あの光の玉の姿はどこにもなかった。

 しかし、俺の胸の奥には、確かにあの温かい感覚が残っていた。あれは夢なんかじゃない。あの奇妙な物体が、死にかけていた俺の命を繋ぎ止めてくれたのだ。


 時計はないが、影の長さからして、まだ時間にはなっていない。


「行かなきゃ」


 俺は立ち上がり、泥を払って「鉄の胃袋」へと走り出した。

 昨日とは違う。足がしっかりと地面を捉え、風を切って走ることができる。生きている。俺はまだ、この世界で呼吸をしている。


 屠殺場に着くと、周囲の職人たちは俺の元気な姿を見て怪訝な顔をしたが、特に何も言わなかった。このスラムでは、他人が病気になろうが奇跡的に治ろうが、興味の対象にはならないのだ。

 俺はいつも以上に元気よく返事をして、重い手桶を掴んだ。

 相変わらず仕事はきつく、血と臓物の臭いは最悪だったが、一度死にかけた俺にとって、その「労働」すらも、自分が生きている証拠のように思えて、どこか愛おしいものに感じられた。


 それから、さらに二週間が過ぎた。

 俺は毎日、朝から日没まで、黙々と屠殺場で働き続けた。文句も言わず、サボりもせず、ただひたすらに臓物を運び、床に石灰を撒く。そんな俺の姿を見て、周囲の職人たちの態度も、徐々にではあるが軟化していった。少なくとも、理由もなく足蹴にされるような理不尽な暴力は減っていった。


 そして、この屠殺場の親方であり、二メートル近い巨体を誇る荒くれ者たちの頭領――バドという男との関係も、この頃から少しずつ変わり始めていた。






「おい、アノル」


 ある日の夕暮れ時。すべての作業が終わり、俺がクズ肉の包みと銅貨を受け取ろうとした時のことだった。バドがその低い声を響かせた。


「はい、何ですか? 親方」

「お前……相変わらず、ドブネズミみたいな臭いがするな」


 バドは鼻を押し付け、露骨に顔をしかめた。その顔は威圧的で、スラムの悪党そのものの凄みがあった。


「すみません。スラムの水場じゃ、なかなか臭いが落ちなくて……」

「だろうな。スラムの泥水なんて、ありゃ水じゃねえ、ただの薄まった尿だ。……おい、ちょっと付いてきな」

「え?」


 バドは巨大な肩をすくめると、屠殺場の裏手にある、小さな石造りの平屋へと歩き出した。そこはバドの私宅だった。

 バドは裏庭にある、大きな木製のタライを指差した。その横には、井戸から汲み上げられたばかりの、透き通った水がたっぷりと入ったバケツがいくつも並んでいる。


「ここで水を浴びていけ。お前があまりにも臭いと、解体場の肉に臭いが移りかねんからな」

「え……いいんですか!?」


 俺は目を見開いた。

 この世界に来てから、誰も俺にそんな「親切」をしてくれた奴はいなかった。水は貴重品だ。井戸から水を汲み上げるだけでも重労働であり、それを他人にタダで使わせるなんて、このスラムの常識ではあり得ないことだった。


「ぐずぐずするな。気が変わらんうちにな」

「あ、ありがとうございます……!」


 俺は慌てて、血と泥でカチカチになった衣服を脱ぎ捨て、木製のタライの中へと飛び込んだ。

 バケツの水を頭から被る。


「──ひゃあっ! 冷てぇ!」


 冷たい。しかし、信じられないほどに清らかな水だった。バドが放り投げてくれた、粗末な布切れと灰を混ぜた簡易的な石鹸を使い、俺は必死に全身の汚れを擦り落とした。皮膚が赤くなるまで、二週間分の血の跡と、内臓の脂を洗い流していく。水が、あっという間に茶黒く濁っていった。


 バドは家の入り口に腰掛け、パイプにくわえ煙草をしながら、その様子を退屈そうに眺めていた。


「親方……本当に、ありがとうございます」


 水を浴び終え、少しだけ綺麗になった身体で、俺は心からの感謝を述べた。

 この劣悪な環境、剥き出しの悪意が支配する世界において、この水を浴びさせてくれるバドの姿が、俺には本物の「神様」のように見えた。この男の元でなら、俺は人間として、もう一度やり直せるかもしれない。そんな、ささやかな希望が胸の中に宿っていた。


 バドは紫煙を吐き出し、ふんと鼻で笑った。


「勘違いするなよ、ガキ。お前のための水じゃねえ。俺の、肉のためだ」


 それが、バドの照れ隠しであることくらい、凡人の俺にだって分かった。

 この世界にも、優しい人はいる。やり直せない世界だけど、絶望だけじゃない。

 そう信じていた。


──数日後、その「神様」が、冷たい死体になるまでは。






 それは、水を浴びさせてもらった日から、わずか数日後の朝のことだった。


 いつものように出勤前、「鉄の胃袋」の門を潜った俺は、解体場の中から漂ってくる、いつもとは「違う」臭いに足を止めた。

 いつもの、生臭い獣の血の臭いじゃない。

 もっと、こう……鉄分の強い、人間の、術のない、新鮮な血の臭い。


「親方? 入ります……」


 おそるおそる、解体場のドアを開ける。

 薄暗い室内に、朝日が窓から一筋の光を投げかけていた。その光の先に、それはあった。


「あ……」


 言葉が、喉の奥で氷ついた。

 いつもバドが座って包丁を研いでいた、あの木製の椅子の横。そこに、巨大な肉の塊が転がっていた。


 バドだった。

 二メートル近い巨体を誇り、スラムの荒くれ者たちからも恐れられていた、あの頑強な男が、床に大の字になって倒れていた。

 その胸部には、巨大な、抉られたような刃物の傷跡があり、そこから流れ出た赤黒い血が、解体場の床一面を完全に覆い尽くしていた。

 目は大きく見開かれ、虚空を睨みつけたまま、完全に濁りきっている。肌は、生命の温もりを全て失い、土気色に変色していた。


「親、方……?」


 俺は膝をガタガタと震わせながら、バドの遺体へと近づいた。床の血の海に、俺の靴がピチャリと浸かる。

 触れたバドの手は、驚くほどに冷たく、そして硬かった。


「嘘だろ……なんで……誰が……」


 心臓が、狂ったように鐘を鳴らし始める。

 あの時、俺が元の世界で事故に遭った時と同じ。この世界において、死は絶対的な終着点だ。どれだけ泣こうが、叫ぼうが、バドが目を覚ますことは二度とない。俺に水を恵んでくれた、あの無骨な神様は、もうこの世界のどこにもいないのだ。


 すぐに他の職人たちや、街の衛兵が集まってきた。しかし、衛兵たちの対応は、驚くほどに冷淡だった。


「親方が殺されたか。よくあることだ」

「店の金庫が空だな。強盗の仕業だろ」


 大した捜査もせず、バドの遺体は、まるで荷物のように粗末な布に包まれ、そのままスラムの共同墓地へと運ばれていった。

 残された俺は、ただ、血の臭いが残る解体場の隅で、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。


 また、一人になった。いや、それ以上の、激しい「怒り」と「無力感」が、俺の胸の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜていた。

 その夜、俺は絶望と疲弊の極致の中、荷馬車の下で、泥に塗れて深い眠りへと落ちていった。








──暗い。酷く、暗くて、寒い場所だった。


「……ここは?」


 気がつくと、俺は自分の知るどの場所でもない、見知らぬ空間に立っていた。周囲の景色は、歪んだ水の中にいるかのように揺らめいている。

 俺の目の前に、一人の「少年」が座り込んでいた。年齢は十歳前後。ボロ布を纏い、痩せこけた体で、地面に落ちている「何か」を必死に貪っている。


 少年が食べているのは、街のゴミ捨て場に捨てられた、カビの生えたパンの切れ端と、腐ったネズミの肉だった。


「うぐっ……、もぐ……、ごくん……」


 少年は涙を流しながら、それを胃袋へと押し込んでいく。その少年の顔を見て、俺は息を呑んだ。

面影があった。あの、二メートル近い巨体を誇っていた、バドの少年時代の姿だった。


(これは……バドの、記憶……?)


 その瞬間、俺の脳内に、凄まじい質量の「情報」がダイレクトに流れ込んできた。それは、語られる言葉ではなく、感情と、経験の、生々しい濁流だった。


 バドは、このグランセルのスラムの最底辺で生まれた。親の顔も知らず、物心ついた頃から、ゴミを漁り、他人から盗み、生き延びてきた。周囲は悪意の塊だった。少しでも弱みを見せれば、大人のゴロツキに殴られ、稼いだ銅貨を奪われた。生き残るために、バドは狂犬のように荒くれ者として振る舞うしかなかった。拳を固め、牙を剥き、自分を大きく見せることで、ようやくナワバリを手に入れた。


 しかし、そんな荒くれだったバドの根底にあったのは、驚くほどに「真面目」で、不器用な生き方だった。彼は、誰も信用しなかったが、自分が「やる」と決めた仕事だけは、決して裏切らなかった。屠殺場の職人として拾われてからは、誰よりも早く解体場に入り、誰よりも正確に骨を断った。その結果として、彼は「鉄の胃袋」の親方という地位を築き上げたのだ。


 画面が、急速に切り替わる。記憶の中のバドの視界。そこに映っていたのは……俺、伊藤アノルの姿だった。

 二週間前、泥まみれで、血と臓物の臭いに吐き気を催しながら、涙目で重い桶を運んでいた、あの無様な俺の姿。


『……ケッ、いけすかねぇガキだ』


 バドの、心の声が聞こえる。


『細い腕しやがって。どうせ、どこかの温かい田舎から逃げ出してきた、お坊ちゃんだろ。こんな地獄、三日も持たずにのたれ死ぬのがオチだ』


 最初のバドの評価は、酷く冷淡なものだった。しかし、記憶は進む。

 三日経っても、一週間経っても、俺は屠殺場へ来続けた。病気になりかけながらも、泥水を啜りながら、必死に食らいついていく俺の姿。その姿を、バドは解体台の奥から、じっと見つめていた。


『……チッ。まだ来やがるか、あのクソガキ』


 バドの感情に、奇妙な「変化」が生まれ始める。それは、同情。高度な既視感だった。


『……昔の、俺に、似てやがる』


 バドは、俺の姿に、かつてゴミ捨て場でカビたパンを齧りながら、死に物狂いで生き延びようとしていた「少年時代の自分」を重ね合わせていたのだ。誰も手を差し伸べないスラムの底で、一人で震えながら、それでも生きることを諦めない、あの無様な足掻き。


『誰も、手を差し伸べねえからな、この街は。……一回くらい、綺麗な水を浴びさせてやったって、バチは当たらねえだろ』


 あの日の、バドの、不器用な優しさの理由が、すべての感情のグラデーションを伴って、俺の脳内へと流れ込んでいく。

「お前のための水じゃねえ」と言ったあの言葉の裏にあった、本物の、温かい同情の念。


 そして。記憶は、最後の「瞬間」へと至る。

 夜の解体場。バドが一人で包丁を研いでいるところへ、足音を立てずに近づいてくる、一人の男の影。


『──誰だ、お前。夜の解体場に何の用だ』

『へへ、バドの親方。あんた、最近随分と稼いでるらしいじゃねえか。その金を、少し分けてもらおうと思ってな』


 現れたのは、顔に大きな火傷の跡がある、痩せこけた男だった。その手には、不気味に光る短剣が握られている。スラムで暗躍する強盗の一人、通称「ハイエナのガイル」。


『すっこんでろ、小悪党が。俺の金を奪いたきゃ、その細い首を置いていきな』


バドは巨大な解体包丁を構え、ガイルへと飛びかかった。しかし、ガイルの動きは異常なほどに速かった。何らかの、身体能力を向上させる「魔導具」を使用しているかのような、不自然な加速。


 ザシュッ!!!

 ガイルの短剣が、バドの巨体をすり抜け、その胸部を深く切り裂いた。


『がはっ……!?』

『ひははっ! いくら強くても、寄る年波には勝ねえなぁ、親方!』


 ドサリ、とバドの巨体が床に崩れ落ちる。視界が、血の赤で染まっていく。

 バドの、最後の、急速に薄れゆく意識の中で、彼が思ったのは、自分の死への恐怖ではなかった。


『……クソ、が……。あのガキ……明日から、また、泥水の、臭いに……』


 バドが最後に遺した思考は、俺の、アノルの今後の身を案じる、あまりにも不器用で、温かい無念だった。


「──あ、あ、あああああああ!!!」


 俺は、悲鳴を上げながら跳ね起きた。


「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……!」


 自分の荒い呼吸が、荷馬車の下の狭苦しい暗闇に響き渡る。全身が冷や汗でびっしょりと濡れそぼり、心臓が肋骨の内側を壊さんばかりの勢いで鐘を鳴らしていた。


「今のは、なんだ……? 一体、何が起きた……?」


 俺はガタガタと震える手で自分の頭を抱え込んだ。

 脳が焼け付くように熱い。まるで、一度も使ったことのない未知の領域に、強制的に巨大なデータファイルを流し込まれたかのような、凄まじい膨張感と頭痛が俺を襲っていた。あまりの負荷に、視界の端がチカチカと明滅する。


 夢、にしてはあまりにも生々しすぎた。

 目を閉じれば、カビたパンの酸っぱい腐敗臭や、床を転がる大量の人血の温かさが、まだ網膜の裏に、手のひらの皮膚感覚に、べっとりと張り付いている。

 何より異常なのは、俺の頭の中に「伊藤アノル」としての18年間の記憶とは明らかに異なる、もう一つの【人生の記録】が厳然と存在していることだった。


「スラムの裏路地にある、あの崩れかけたレンガ壁の三つ目の隙間。あそこに、バド親方がガキの頃に盗んだ銀貨を隠した……。いや、待て、なんで俺がそんなことを知っている?」


 呟いた瞬間、背筋に総毛立つような戦慄が走った。

 行ったこともない場所、見たこともない光景、そしてバドという男の、誰にも明かさなかったはずの孤独な内面。それが、まるで自分が体験したことであるかのように、完璧なグラデーションを伴って脳内に定着しているのだ。


「俺は……頭がおかしくなったのか……?」


 恐怖が、じわじわと全身の血を凍らせていく。

 異世界に転移させられ、チート能力も魔法も与えられないまま最底辺のスラムで這いつくばってきた。その過酷すぎるストレスと、唯一自分に人間らしい温もりをくれたバドの凄惨な死。そのショックで、俺の脳はついにぶっ壊れて、ありもしない「バドの幻覚」を作り出しているのではないか。これは、過酷な現実から逃避するための、ただの精神異常なのではないか。


 しかし、頭の中の『バドの記憶』は、狂人の妄想にしてはあまりにも緻密で、あまりにも整合性が取れすぎていた。


 俺は暗闇の中で、恐る恐る自分の両手を見つめた。

 手桶を運ぶだけで悲鳴を上げていた細い腕。それなのに、今の俺には「巨大な解体包丁をどう握れば、最も効率よく肉を断てるか」「牛の骨のどの隙間に刃を滑り込ませれば、抵抗なく解体できるか」という、職人の『指先の感覚』がリアルに理解できた。

 親方の手のタコの位置、手首のスナップの利かせ方、長年の労働で痛めた左膝の庇い方まで――そのすべてが、まるで長年連れ添った自分の肉体のように馴染んでいる。


「いや、違う。これは妄想じゃない……」


 冷たい汗が頬を伝う。

 もしこれが脳の防衛反応による幻覚なら、なぜ俺が知り得るはずのない「解体職人の極意」が肉体に宿っているんだ?

 ならば、これはこの世界特有の現象――『魔法』や『呪い』の類なのか?


 俺は泥だらけの地面を見つめながら、必死に思考の糸を紡いだ。

 バドは、ほんの数時間前に死んだ。そして、俺が眠りについた直後、この『記憶』が雪崩のように脳内に流れ込んできた。

 このふたつには、確実に因果関係がある。


「バドが死んだから、俺にこれが移った……? だけど、なぜ他の職人じゃなく、俺なんだ?」


 バドの元で何年も働いていた年長の職人たちは他に何人もいた。バドの死を最初に発見したのだって、俺だけじゃない。それなのに、なぜ「昨日今日入ったばかりのドブネズミのような新入り」である俺に、バドの魂の残骸が流れ込んできたのか。


 その境目を分けた「条件」を、狂いそうな頭で必死に掘り下げる。

 他の奴らと、俺の違い。

 バドが他の奴らには見せず、俺にだけ見せたもの。


「……水だ」


 ハッとして息を呑んだ。

 あの日、バドは俺を家に呼び、貴重な井戸水でタライの水を浴びさせてくれた。周囲の誰もが俺を「歩く腐肉」と蔑む中で、あの人だけが、俺を同じ『人間』として扱い、不器用な同情を向けてくれたのだ。

 そして、俺もまた、理不尽なこの世界で、バドのことを本物の「神様」のように慕い、親しみを感じていた。


「『心を通わせた相手』が死んだとき、その人間の記憶が、俺の中に流れ込んでくる……?」


 仮説を立てた瞬間、心臓が冷たく跳ね上がった。

 だとしたら、これは何という悪趣味な現象だろうか。自分に優しさをくれた人間が、自分を人間として扱ってくれた唯一の「大切な人」が、無残に殺され、その命が完全に途絶えた瞬間に、初めて発動する力。


 念じるだけで発動する便利な魔法なんかじゃない。

 誰かの「死」と、その死によってもたらされる激しい喪失感を対価にして、初めて機能する歪な法則。


「あぁ、クソッ……! もしこれが俺の持っている異世界ものの『チート能力』なんだとしたら、とんでもない呪いだぞ……!」


 俺は泥だらけの地面に拳を叩きつけた。

 バドの人生の重みが、彼が数十年の地獄で培ってきた生存の執念が、俺のちっぽけな器にドロドロと流れ込んでいる。知ってしまった。あの無骨な言葉の裏にあった本当の温かさを。死がすぐ隣にあるこの世界で、彼はもう二度と戻らないのに、その魂の残骸だけが、俺の脳内でいつまでも鳴り響いている。


「……待てよ。バドの記憶がここにあるってことは」


 押し寄せる困惑と怒りの波の中で、俺の考察はさらにその先へと至った。

 バドの記憶は、彼の人生の終着点まで克明に記録されていた。ということは、彼を襲ったあの夜の出来事も、彼自身の目を通して俺の頭の中に残されているということだ。


 思考を鋭く研ぎ澄まし、脳内の記憶の断片を、貪るように手繰り寄せる。

 見えた。夜の解体場。研ぎ澄まされた包丁の銀光。そして、足音もなく近づいてきた、顔に大きな火傷の跡がある痩せこけた男の姿――。


「ハイエナのガイル……!」


 その名前が、自然と口をついて出た。俺の知らないはずの、けれどバドがその生涯の最後に最も深く憎悪し、警戒した男の識別名。


 バドの解体技術、筋肉の動かし方、刃物を握る際の間合いの感覚。そして、犯人の顔と名前。

 これが偶然の産物だろうが、呪いだろうが、あるいは俺に宿った異世界のバグだろうが、今の俺には関係ない。凡人だった俺の肉体に、バドの「生きた証」という名の、最初の爪痕が刻まれた。それがすべてだ。


「ガイル……」


 恐怖で足は震えていた。相手は人を殺すことに躊躇のないプロの悪党だ。それでも、脳内に残るバドの「明日から、また、泥水の、臭いに……」という最後の、あまりにも不器用な無念の言葉が、俺の胸の奥からドロドロとした昏い怒りを呼び覚ます。


 この世界は、誰も助けてくれない。衛兵も、神様も、誰もガイルを裁かない。

 だったら、あの人が遺した無念は、誰が晴らすんだ?


「俺が、お前を…」


 俺は、靴下の中から銅貨を三枚、震える指で取り出した。

 四畳半の部屋で怯えていた伊藤アノルは、少しずつ変わりつつあった。

 死者の記憶を、その遺志をその身に宿した青年が、スラムの最も深い闇へと、静かに足を踏み出した。

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