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第一章1 「泥の底から見上げる空」

 呼吸の音が、やけに大きく耳に届く。

 吸って、吐いて。ただそれだけの生命活動が、今の自分にとってはひどく重労働のように感じられた。


 伊藤アノル、十八歳。

 それが俺の、現時点における全属性だった。肩書きという名の社会的記号は、今の俺には一つも存在しない。


「……はぁ」


 漏れ出た溜め息が、四畳半の自室の天井にぶつかって消える。

 高校を卒業できなかった。正確にいえば、二年の秋から学校に行かなくなり、そのまま出席日数が足りずに中退した。理由は、今思い出しても自分自身でよく分からない。いじめがあったわけでも、明確な体調不良があったわけでもない。ただある朝、どうしても布団から出られなくなった。靴を履いて、ドアを開けて、見慣れた通学路を歩くという行為のすべてが、まるで何十キロもの重りを引きずって歩くかのような絶望的な徒労に思えてしまったのだ。

 一度休むと、二日目はもっと行きづらくなった。一週間休むと、もう教室での自分の席が消滅したような錯覚に囚われた。そうして、俺は脱落した。


 以来、二年間。俺は実家の自室という名の檻の中で、ただ時間を浪費するだけのニートとなった。

 昼夜が逆転し、家族が起きる頃に眠り、家族が寝静まる頃に活動を始める。ネットの海をあてもなく漂い、他人の輝かしい日常や、匿名掲示板の醜悪な罵り合いを眺めては、自分の存在の希薄さを再確認する毎日。

 そんな俺が、その夜はどうしてか、不意に思い立ってしまったのだ。


「……外、出るか」


 本当に、気まぐれだった。深夜二時を回った頃、部屋の窓から差し込む月光が、妙に白く、そして冷たく部屋の床を照らしていたからかもしれない。あるいは、このまま部屋の中でじっとしていると、自分の身体がそのまま腐って床板と一体化してしまうのではないかという、根拠のない恐怖に襲われたからかもしれない。


 足音を立てないように細心の注意を払いながら、階段を下りる。玄関で、かかとを潰したスニーカーに足を突っ込んだ。二年間、ろくに外を歩いていないせいで、靴の感触すらどこか他人のもののようだった。

 ガチャリ、と小さな音を立ててドアを開ける。

 外の空気は、部屋の中の澱んだ空気とは違って、ひやりと冷たかった。季節は春の終わり。夜風が、伸び放題になった俺のボサボサの髪を揺らす。


「あ……」


 一歩、アスファルトを踏み締めた瞬間、妙な高揚感が胸を突いた。

 世界のすべてが眠っている時間。誰も俺を見ていない。俺がニートであることも、高校を中退した社会のゴミであることも、この暗闇の中では何の意味も持たない。

 俺は歩き出した。目的などない。ただ、夜の静寂に紛れて、自分の存在を少しだけ確かめたかった。


 街灯が等間隔で並ぶ住宅街を、影を引きずりながら歩く。自販機の明かりが、妙に眩しく感じられた。ポケットの中には、いつ入れたのかも分からない擦り切れた千円札が、一枚だけ入っている。

 自動販売機の前に立ち、冷たい缶コーヒーのボタンを押した。ガコン、と重い音が静まり返った夜に響き渡り、俺はビクッと肩を揺らした。誰もいないと分かっていても、泥棒でもしているかのような罪悪感が付きまとう。


 缶コーヒーを握り締め、ぬるい夜風を浴びながら、俺は近くの小さな公園へと向かった。錆びついたブランコと、小さな砂場があるだけの、どこにでもある公園だ。

 ブランコに腰を下ろし、チェーンを軋ませながら缶コーヒーのプルタブを引く。カシャ、という小気味いい音。口に含んだ液体は、ひどく苦くて、そして少しだけ甘かった。


「何やってんだろ、俺」


 ぽつり、と言葉が漏れた。

 十八歳。同世代の奴らは、大学に進学してキャンパスライフを楽しんでいるか、あるいは社会人として働き始めて自分の金で遊び回っている頃だ。それなのに俺は、深夜にこっそりと家を抜け出し、公園のブランコで一人、缶コーヒーを飲んでいる。

 この二年間の空白は、どうやっても埋められない。俺の時間はあの高校二年の秋から止まったままだ。身体だけが無駄に大きくなり、心は置いてけぼりのまま、ただ老いていく。


 そんな自己嫌悪の沼に沈み込みそうになっていた、その時だった。


「……あれ? もしかして、アノル?」


 暗闇の向こうから、聞き覚えのある声がした。

 俺の身体は、完全に硬直した。心臓がドクンと大きく跳ね上がり、嫌な汗が全身から噴き出す。

 声のした方、公園の入り口を見る。そこには、コンビニの袋を手に提げた、一人の男が立っていた。

 街灯の光が、その男の顔を照らす。


「やっぱりそうだ! アノルじゃん! 久しぶり!」


 男は親しげな笑みを浮かべて、こちらに歩み寄ってきた。

 忘れるはずがなかった。幼馴染の、タカシだった。

 小学校、中学校とずっと同じで、毎日のように泥だらけになって遊んだ親友。高校は別々になったが、俺が引きこもる直前までは、たまに連絡を取り合っていた。


 だが、今のタカシは、俺の知っているタカシとは決定的に違っていた。

 髪はお洒落に整えられ、流行りの服をスマートに着こなしている。その立ち姿からは、充実した日々を送っている者だけが持つ、独特の「陽」のオーラが放たれていた。おそらく、大学生活か何かが上手くいっているのだろう。肌の艶も、目の輝きも、すべてが俺とは正反対だった。


「タ、カシ……」


 声が、掠れてうまく出なかった。

 何を見られた? こんな深夜に、ヨレヨレのTシャツとスウェット姿で、髪もボサボサのままブランコに揺られている姿を。

 タカシの目が、俺の全身をスキャンするように動いた気がした。いや、それは俺の被害妄想だったのかもしれない。タカシは純粋に、懐かしい友人に会えたことを喜んでいるような顔をしていた。


「お前、今何してんの? 連絡も全然つかなくなるし、みんな心配してたんだぞ? あ、俺さ、今都内の大学に通っててさ、今はサークルの飲み会の帰りで――」


 タカシの言葉が、耳の奥で歪んだ雑音となって響く。

 大学。サークル。飲み会。

 彼が口にする単語の一つ一つが、鋭い刃となって俺の胸を突き刺した。

 眩しすぎる。直視できない。

 それに対して、俺はどうだ?

 高校中退、無職、ニート、引きこもり、深夜徘徊。

 情けなさが、波のように押し寄せてきた。羞恥心で、顔がカッと熱くなる。自分が信じられないほど惨めで、汚らしく、価値のない存在に思えて仕方がなかった。


「あ、いや……その……」

「アノル?」

「……ごめん」


 俺はそれだけを絞り出すと、手にした缶コーヒーを地面に落とし、タカシに背を向けて走り出した。


「おい、アノル!? 待てよ!」


 後ろからタカシの呼ぶ声が聞こえたが、振り返る余裕なんてなかった。

 逃げなきゃいけない。この場所から、タカシの視界から、そして自分の現実から。

 二年間、まともに運動なんてしていない身体は、悲鳴を上げていた。足がもつれそうになり、息がすぐに上がって胸が痛む。それでも、俺は必死に足を動かした。

 全力で公園を飛び出し、夜の住宅街の路地へと逃げ込む。ハァ、ハァ、と荒い呼吸が夜気を乱す。心臓が破裂しそうだった。


 情けない。本当に、どこまでも情けない男だ、俺は。

 幼馴染に声をかけられただけで、まともに会話もできずに逃げ出すなんて。

 どうしてあんなところで外に出たんだ。どうして部屋に引きこもっていなかったんだ。

 涙が視界をにじませる。羞恥心と自己嫌悪で、頭がおかしくなりそうだった。


 俺はただ、タカシから少しでも遠くへ離れたくて、交差点へと差し掛かった。赤信号か青信号か、そんなことを確認する余裕すら、その時の俺にはなかった。一刻も早く、誰も俺を知らない暗闇の奥へと隠れたかった。


 その時。


キィィィィィィィィィィッッッッッ!!!


 夜の静寂を完全に切り裂く、猛烈なスキール音が鼓膜を震わせた。


「え――」


 そっちを見た。

 視界の端から、猛烈な速度――文字通り爆速で突っ込んでくる、二つの巨大な光の玉が見えた。

 高級車の、フロントライトだった。

 暗闇の中で、その漆黒の車体は信じられないほどの質量と速度を持って、俺の目の前に迫っていた。


 ブレーキの音。だが、その速度は全く落ちていない。

 時間が、極限まで引き延ばされたかのようにゆっくりと進む。

 フロントガラスの向こうで、運転席の男が目を見開いてハンドルを必死に切っているのが見えた。


 あ、死ぬ。


 そう思った。

 逃げることも、避けることもできない。


 ドンッ、という、肉体と金属が衝突したとは思えないほどの、鈍く巨大な衝撃が俺の身体を襲った。

 自分の身体が、ふわりと宙に浮く感覚。

 視界がぐるぐると回転し、夜空の月が、街灯が、アスファルトが、滅茶苦茶にかき混ぜられる。

 痛みは、不思議となかった。ただ、強烈な衝撃の残響だけが脳を揺さぶっていた。


(ああ、俺の人生、ここで終わりか……)


 最後に思ったのは、そんな諦念だった。ニートのまま、親に迷惑をかけたままで、深夜に車に轢かれて死ぬ。これ以上ないほどに無様で、ふさわしい最期だ。

 視界が、急速に真っ暗になっていく。

 全ての音が消え、俺は深い、深い闇の底へと落ちていった。






「――おい! どけ! 邪魔だ!」


 鼓膜を揺らす、ひどく耳障りな怒鳴り声。

 それが、俺の意識を引き戻す最初のきっかけだった。


「……う、あ……」


 うめき声が漏れる。

 頭が割れるように痛い。全身が、まるで鉄板で叩かれたかのようにズキズキと痛む。

 死んだんじゃ、ないのか?

 俺は、爆速の高級車に撥ねられたはずだ。あの衝撃からすれば、即死していてもおかしくなかった。ここは病院のベッドの上だろうか。それとも、集中治療室とかいう場所か。


 そう思いながら、俺はゆっくりと目を開けようとした。

 だが、目に飛び込んできたのは、病院の白い天井ではなかった。


「ぶふっ!?」


 目を開けた瞬間、強烈な太陽の光が網膜を刺した。眩しさに顔をしかめると同時に、鼻と口に、妙に生臭く、ドロドロとした感触の何かが飛び込んできた。


「げほっ! ごほっ、ごほっ!」


 激しくむせ返りながら、俺は手をついて上半身を起こした。

 いや、起こそうとした。だが、手がズルリと滑り、再び元の場所に顔から突っ込む。


「な、んだこれ……?」


 視界が泥で濁っている。

 俺は今、床に伏せているのではない。地面に、それも激しくぬかるんだ泥水の中に、文字通り尻もちをつき、這いつくばっているのだと気づいた。

 自分の手を見る。泥まみれだ。着ているTシャツも、スウェットも、すべてが茶色い泥と、何やら動物の糞の臭いが混ざったような最悪の液体で汚れておる。


「おい、耳が聞こえねえのかって言ってんだよ、このドブネズミが!」


 再び、上空から怒声が降ってきた。

 俺は泥を拭いながら、おそるおそる顔を上げた。


「……え?」


 そこに広がっていた光景に、俺の思考は完全に停止した。


 目の前にあったのは、車ではなかった。

 それは、巨大な、そして古めかしい「木製の馬車」だった。

 精巧な彫刻が施されているが、どこか泥跳ねで汚れた、中世の貴族が乗るような代物。それを牽いているのは、見たこともないほどに筋骨隆々とした、二頭の巨大な馬――いや、馬にしては頭部に小さな角が生えているような気がする。


 そして、その馬車の御者台に座り、手綱を握っている男が、俺を上から見下ろしていた。

 男は、革製の奇妙なベストを着込み、頭には三度笠のような形の帽子をかぶっている。その顔は怒りで真っ赤に染まっており、額に青筋を浮かべて俺を睨みつけていた。


「おい! ぼさっとすんじゃねえ! ルードルフ子爵閣下のご移動の邪魔だ! さっさとその薄汚い身体をどけろ、この乞食が!」


 男の口から放たれるのは、聞いたこともない言語だった。

 日本語ではない。英語でもない。全く知らない、奇妙な響きの言葉。

 それなのに、なぜかその言葉の意味が、ダイレクトに脳内に翻訳されて理解できてしまう。その異常事態が、さらに俺の混乱に拍車をかけた。


「え? あ、え……?」


 俺は辺りを見回した。

 アスファルトの道路はない。あるのは、わだちの刻まれた、泥だらけの広い街道だ。

 周囲には、見たこともない形の、石造りと木材を組み合わせた古風な建物が立ち並んでいる。行き交う人々はみな、麻のような粗末な布で作られた服を着ていたり、あるいは奇妙な外套を羽織っていたりした。誰もが、スマホなんて持っていない。それどころか、電柱も、自販機も、信号も、何一つとして「現代」の要素が存在しなかった。


 空を見上げる。

 そこには、遮るもののない青空が広がっていたが、その中心近くに、妙に巨大な、そしてうっすらと緑色がかった「二つの月」のような天体が、昼間だというのに白く浮かんでいた。


「ここ……どこだ……?」


 呆然とした。頭の中が真っ白になる。

 俺は、深夜の住宅街で車に撥ねられたはずだ。

 なのに、どうしてこんな場所にいる?

 この馬車はなんだ? この人だかりはなんだ?

 映画の撮影か? それとも、タカシたちが仕掛けた、質の悪いタッキリか何かか?


「おーい、アノル! 冗談だろ、出てきてくれよ!」


 俺は無意識に、そんな声を期待して周囲を探した。だが、そこにタカシの姿なんてあるはずもなかった。あるのは、冷ややかな、あるいは忌々しげな視線を俺に向けている、見知らぬ異国の群衆の目だけだった。


「……固まってんじゃねえぞ、おい!」


 御者台の男の、耐えかねたような声が響いた。

 男は手綱を座席に固定すると、身軽な動作で御者台から飛び降りた。その足元が、泥を跳ね上げる。

 男の体躯は、引きこもりで筋肉の落ちきった俺とは比べ物にならないほどに強靭だった。一歩、また一歩と近付いてくる男の放つ威圧感に、俺の身体は恐怖で硬直した。


「ま、待って、ください……俺、よく分からなくて……」


 俺は必死に日本語で抗弁しようとした。しかし、声は掠れてうまく出ない。

 男は俺の前に立つと、容赦なくその右足を振り上げた。


「――グハッ!?」


 鋭い衝撃が、俺の脇腹を直撃した。

 泥まみれの硬いブーツが、俺の肋骨を容赦なくへし折らんばかりの勢いでめり込む。

 息が完全に止まった。肺の中の空気が強制的にすべて押し出され、俺の身体は泥の上をゴロゴロと二、三回転して転がった。


「がはっ、ごほっ……! あ、あつ……」


 熱い。痛い。

 痛烈な痛みが、遅れて神経を駆け抜ける。

 だが、男の暴行はそれだけでは終わらなかった。


「言葉が通じねえフリか? ああ!? このクソガキが!」


 男は転がる俺の髪を、容赦なく鷲掴みにした。


「痛っ、痛ええ!」


 頭皮が引きちぎれるかと思うほどの力で、無理やり顔を上げさせられる。泥と涙と鼻水で、視界がぐちゃぐちゃだ。

 男の凶悪な顔が、目の前にあった。酒臭い息が顔にかかる。


「貴族様の馬車の前に飛び出して、ただで済むと思ってんのか? おい! 当たり屋か? それとも暗殺の類か!? こんな貧相なガキが!」

「ち、違う、俺は、ただ……!」

「黙れ!」


 男の分厚い手のひらが、俺の頬を激しく張り飛ばした。

 パシィィィン!!!

 脳を直接揺さぶるような衝撃。視界の中で火花が散る。

 続いて、反対側の頬にもビンタが飛んできた。

 ゴッ、と鈍い音がして、俺の口内が切れ、鉄の味が広がった。


「う、あ、あああ……!」

「この、クソ虫が! どけと言ったら、すぐに這いつくばって失せるんだよ!」


 男は俺の髪を地面に叩きつけると、今度は俺の背中や腹を、何度も、何度も踏みつけ始めた。

 ドカッ! バキッ! ゴッ!

 容赦のない、純粋な暴力。

 現代日本で、ぬるま湯のような引きこもり生活を送っていた俺が、生まれて初めて経験する「本物の暴力」だった。

 痛い。死ぬ。本当に死んでしまう。

 泥の中に顔を埋めながら、俺はただ両手で頭を抱え、身体を丸めることしかできなかった。


「ひぃ、あ、ごめんなさい、ごめんなさい……!」


 涙と泥にまみれながら、必死に謝罪の言葉を口にする。だが、男の足蹴りは止まらない。

 周囲の群衆の声が、遠くで聞こえる。


「また当たり屋か」

「無礼者が、子爵様の馬車を止めるからだ」

「自業自得だな」


 誰も助けてくれない。それどころか、俺が殴られ、蹴られている様子を、まるで路傍のゴミが片付けられているのを見るかのような、冷淡な目で見物している。

 

 その時、馬車の窓が開く音がした。


「――おい、ハンス。それくらいにしておけ。遅れる」


 低く、しかし妙に威厳のある声。

 俺を痛ぶっていた男――ハンスと呼ばれた御者は、ピタリと動きを止めた。そして、馬車の窓に向かって、深く頭を下げた。


「はっ! 申し訳ありません、ルードルフ様! すぐにこのゴミを片付けます!」


 ハンスは最後に、俺の腹を思い切り蹴り飛ばした。


「ぶふっ!」


 俺の身体は、街道の脇にある、さらに深い泥溜まりの中へと転がり落ちた。


「二度と 面を見せるなよ、ドブネズミ」


 ハンスは忌々しげに吐き捨てると、御者台へと戻っていった。

 すぐに、ピシィィィンと鞭の鳴る音が響き、二頭の角馬が嘶く。巨大な木製の車輪が泥を跳ね上げながら、馬車はゆっくりと動き出し、俺の目の前を通り過ぎていった。

 馬車の窓から、一瞬だけ、豪奢な服を着た初老の男が、俺を蔑むような目で見下ろしたのが見えた。


 馬車が去り、周囲の群衆も、興味を失ったように散っていく。

 後に残されたのは、街道の脇の泥溜まりの中で、ピクリとも動けずに震えている俺だけだった。


「……う、ぐ……あ、ああ……」


 全身の激痛に、自然と涙が溢れて泥水と混ざり合う。

 口の中からは、絶え間なく血が溢れてくる。肋骨がいっているのか、息を吸うたびに脇腹に激痛が走った。


 だが、その肉体的な苦痛以上に、俺の脳内を支配していたのは、冷酷なまでの「理解」だった。


(ああ……そうか……)


 夢じゃない。

 ドッキリでもない。

 映画の撮影でもない。


 俺は、異世界に来てしまったのだ。


 ネットの小説やアニメでよくあるような、女神から最強のスキルを貰ったり、イケメンのチート勇者として歓迎されたりする、そんな都合のいい異世界じゃない。

 命の価値が信じられないほど軽い、剥き出しの暴力と格差が支配する、本物の異世界。


 そして何より、俺には何の能力もない。

 魔法が使えるわけでもない。身体能力が上がっているわけでもない。

 ただの、高校中退の、二年間部屋に引きこもっていただけの、体力の衰えきった凡人――いや、凡人以下のニートだ。


「なぁ、んで……だよ……」


 泥の中に顔を埋めたまま、俺は声にならない声を絞り出した。

 タカシから逃げ出したかっただけだ。

 自分の情けなさから、目を背けたかっただけだ。

 それなのに、どうしてこんな目に遭わなきゃいけない。


 青い空に浮かぶ二つの月が、泥まみれの俺を、ただ静かに見下ろしていた。






 どれほどの時間が経っただろうか。

 太陽の位置が少し変わり、街道を照らす光が傾き始めていた。


「……動け……」


 俺は歯を食いしばり、泥の中に深く沈んだ身体を、這うようにして動かした。

 このままここにいたら、また別の馬車に轢かれるか、あるいは夜になって冷え込み、そのまま死ぬか、どちらかだ。現代日本とは違う。ここに救急車は来ない。警察も助けてくれない。


 ずり、ずり、と両手で泥を掻き分けながら、俺は街道の脇にある、建物の隙間の路地裏へと這い進んだ。

 ゴミや木箱が散乱し、異臭の漂う薄暗い路地裏。

 だが、今の俺にとっては、そこだけが唯一、他人の視線から隠れられる「安全な檻」のように思えた。


 木箱の陰に背中を預け、ようやく一息つく。


「カハッ、ヒュー、ヒュー……」


 喉が鳴る。呼吸をするたびに、肺がひっくり返るような痛みが走る。

 泥を拭うために、自分のTシャツの裾で顔を拭いた。だが、Tシャツ自体がすでに泥と血で汚れているため、かえって顔が汚れるだけだった。


「ステータス……とか、ないよな……」


 ぽつりと、虚しい言葉を口にしてみる。

 よくある異世界ものの知識を頼りに、頭の中で「ステータス」と念じてみた。あるいは、目の前に半透明のウィンドウが現れるのを期待した。

……何も起きない。

 ただ、路地裏の壁に、一匹の奇妙な多足の虫が這っているのが見えるだけだった。


「分かってたよ、クソが……」


 俺は膝を抱え、頭を深く埋めた。

 能力スキルなんてない。魔法もない。

 あるのは、痛む肉体と、ドロドロに汚れた服と、ポケットに入ったままの、この世界では何の価値もないであろう「千円札」が一枚だけ。


 ぐぅぅぅ、と。

 空気が抜けるような音が、俺の腹から響いた。

 猛烈な空腹感だった。考えてみれば、昨日の夜から(いや、この世界での時間の経過が分からないから正確には不明だが)、まともな食事をしていない。おまけに、あれだけハンスにボコボコに殴られたのだ。体力の消耗は限界を超えていた。


 水が飲みたい。

 何か食べたい。

 家に戻りたい。


 あの、四畳半の、狭くて暗くて、でも安全だった部屋。

 文句を言いながらも、毎日ご飯を作って置いてくれた母親の姿が、脳裏に浮かぶ。

 当時はそれが鬱陶しくて、自分が情けなくて、顔を合わせることすら避けていた。だが、今にして思えば、あの場所は天国だった。社会から隔絶されているという恐怖はあったが、少なくとも、理不尽に殴られることも、泥水を飲まされることもなかった。


「う、うう……うぁぁぁ……」


 声を出して泣いた。子供のように、声を上げて、涙と鼻水を垂らしながら。

 だが、その泣き声すら、路地裏の壁に吸収されて消えていく。誰も気に留めない。この街にとって、俺のような行き倒れのガキが一匹泣いていようが、死んでいようが、どうでもいいことなのだ。


 しばらく泣き続けていると、涙も枯れ、代わりに頭の芯が冷えていくのを感じた。

 泣いても何も解決しない。

 生きるために、動かなきゃいけない。


 俺は壁に手をつき、震える足で何とか立ち上がった。

 一歩歩くたびに、脇腹に電撃のような痛みが走るが、それを無視して路地裏の外へと一歩を踏み出す。


 街は、活気に満ち溢れていた。

 露店からは、肉を焼く香ばしい匂いや、見たこともない果物の甘い香りが漂ってくる。


「さあ、安いよ! 獲れたてのファングラビットの肉だ!」

「奥さん、この布、東方の絹にも劣らない上物だよ!」


 威勢のいい商人たちの声。買い出しをする主婦たちの笑い声。

 そのすべてが、俺を完全に「異物」として排除しているように感じられた。


 俺はふらふらと、肉を焼く匂いがする露店の前へと歩み寄った。

 串に刺さったジューシーな肉が、炭火の上でパチパチと音を立てて脂を滴らせている。

 唾液が、口の中に溢れた。


「あの……それ、一つ……」


 俺は店主の男に、声をかけた。言葉は、この世界の言語として自然に口から出た。

 店主の男は、俺の姿――泥まみれで、血の跡がこびりつき、見たこともない奇妙な衣服を着たガキ――を一瞥すると、露骨に顔をしかめた。


「あぁ? なんだお前。金はあるんだろうな?」

「金……」


 俺はポケットから、擦り切れた千円札を取り出した。

 日本の、偉人の肖像画が描かれた、緑色の紙切れ。


「これ、じゃ……ダメ、ですか……?」


 店主は、俺の手にある千円札をひったくるようにして受け取ると、光に透かしたり、匂いを嗅いだりした。そして、ふんと鼻で笑うと、その紙切れを俺の顔に向けて投げつけた。


「ふざけてんのか、ガキ! こんな見たこともねえ薄汚い紙切れで、肉が買えるわけねえだろ! 失せろ、失せろ! 商売の邪魔だ!」

「あ、でも、これ……」

「しっ、しっ! 衛兵を呼ぶぞ!」


 店主が、肉をひっくり返すための大きな鉄製のトングを振り回した。

 俺はビクッと身体を縮め、地面に落ちた千円札を拾うと、逃げるようにその場を離れた。


 やっぱり、使えない。

 この世界での通貨は、おそらくコイン――金貨や銀貨の類だ。現代日本の紙幣なんて、ただの珍しいゴミに過ぎない。


 俺はまた、あてもなく歩き始めた。

 お腹が、痛いほどに鳴る。喉はカラカラで、ツバも出ない。

 街行く人々は、俺が近づくだけで、スカートの裾を引いたり、露骨に距離を取ったりした。まるで、歩く疫病神でも見るかのような目だ。


(俺は、何のためにここに来たんだ……)


 日本にいた時も、社会の底辺だと思っていた。ニートで、未来がなくて、親の脛をかじるだけの粗大ゴミ。

 だが、ここではそれ以下だ。

 ただの、言葉が分かるだけの「ノラ犬」と同じ。いや、ノラ犬の方が、まだ生きる術を知っているだけマシかもしれない。


 ふらふらと歩いているうちに、街の中心と思われる大きな広場に出た。

 広場の中央には、巨大な石造りの噴水があり、澄んだ水が勢いよく吹き上がっていた。


「水……!」


 俺は周囲の目も気にせず、噴水へと駆け寄った。

 バシャバシャと、冷たい水の中に両手を突っ込む。手の泥が溶け出し、水面が少し濁るが、そんなことはどうでもよかった。

 両手で水を掬い、貪るようにして口に運ぶ。


「ぷはっ! う、うめぇ……!」


 冷たい水が、渇ききった喉を潤し、熱を持った身体の内側に染み渡っていく。

 何度も、何度も水を掬って飲んだ。生き返るような心地だった。


「おい、そこの汚いガキ。何をしている」


 背後から、冷徹な声が響いた。

 振り返ると、そこには金属製の胸当てを着込み、腰に立派な長剣を帯びた、二人の男が立っていた。

街の衛兵だった。


「ひっ……!」


 ハンスの暴力の記憶が蘇り、俺はとっさに身をすくめた。


「その噴水は、市民の共有財産だ。お前のような浮浪者が、身体の泥を落としたり、直に水を飲んだりしていい場所ではない。さっさと離れろ」

「あ、す、すみません……!」


 俺は慌てて噴水から離れ、後ずさりした。

 衛兵の一人が、俺の格好をじろじろと見つめる。


「見ない顔だな。服の仕立ても奇妙だ。どこから来た? 通行証か、身分を証明できるものはあるか?」

「み、身分証……? ない、です……」

「浮浪者か、あるいは不法入国者か。おい、こいつを連行して――」

「待って、ください!」


 連行される? そんなことをされたら、そのまま奴隷にされるか、牢屋で野垂れ死ぬかだ。

 俺は恐怖のあまり、全力で踵を返した。


「あ、おい! 待て!」


 後ろから衛兵の怒鳴り声と、甲冑が擦れ合うガチャガチャという音が聞こえる。

 俺は痛む脇腹を押さえながら、広場を横切り、再び入り組んだ路地裏へと飛び込んだ。

 死に物狂いだった。日本にいた頃、タカシから逃げた時よりも、ハンスから殴られた時よりも、もっと強い「生への執着」が、衰えきった俺の身体を動かしていた。


 曲がり角を何度も曲がり、狭い隙間を通り抜け、階段を駆け下りる。

 背後の追っ手の音が、徐々に遠ざかっていく。

 どれくらい走ったか分からない。気づけば、周囲の建物の雰囲気が、先ほどまでの活気あるエリアとは一変していた。


 建物はどれも老朽化し、壁はひび割れ、窓ガラスの代わりに汚れた布が掛けられている。

 道にはゴミが散乱し、漂う異臭も、先ほどの比ではない。

 行き交う人々の目も、濁っていた。虚ろな目で地面を見つめる老人、痩せこけた体でこちらを睨む男たち。


――スラム街。

 この街の、最も暗く、淀んだ底辺の場所に、俺は迷い込んでしまったようだった。





 走る体力が完全に尽き、俺は崩れるようにして、ある建物の壁際に座り込んだ。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 喉から血の味がする。脇腹の痛みは増し、視界がチカチカと明滅していた。

 もう、一歩も動けない。衛兵が追ってきたら、今度こそ終わりだ。


 だが、幸いなことに、衛兵たちはこのスラム街までは追ってこなかったようだった。彼らにとって、この治安の悪いエリアにわざわざ踏み込んで浮浪者を一人捕まえるのは、割に合わない労働なのだろう。


「おい、新顔。死にかけか?」


 上から、カサついた声が聞こえた。

 見上げると、そこにはボロ布を幾重にも纏った、老人が立っていた。

 髪も髭も真っ白で、泥と埃で汚れきっている。その手には、半分に割れた木製のお椀が握られていた。


「……あ……」


 俺は声を出そうとしたが、かすれた吐息しか出なかった。


「ふん。まあ、この街(王都グランセル)のスラムに流れ着く奴なんて、どいつもこいつも死にかけか、犯罪者さ。お前さんのその格好……見たことねえな。どこの国の生まれだ?」

「……に、ほん……」

「ニホン? 聞いたこともねえな。はるか東の果てか? それとも、海の向こうか」


 老人は興味を失ったように、俺の隣の壁際に腰を下ろした。

 不思議と、この老人からはハンスや衛兵のような、明確な「敵意」や「攻撃性」は感じられなかった。あるのは、ただの「無関心」と、底辺を生きる者特有の「諦め」だった。


「おじいさん……俺、お腹が空いて……何か、食べるものは、ないですか……?」


 恥も外聞もなかった。ニートとしてのプライドなんて、泥水と一緒に吐き捨ててきた。今はただ、胃袋に何かを入れたかった。

 老人は、俺をジロリと見た。


「食べ物? ハハッ! こいつは傑作だ。このスラムで、他人にタダで恵んでやる食い物なんて、あるわけねえだろ。俺だって、三日まともに食ってねえんだ」


 老人はお椀をカンカンと地面に打ち付けた。


「生き延びたきゃ、自分で何とかしな。ゴミを漁るか、運よく仕事を見つけるか、あるいは……誰かから奪うかだ」

「奪う……」

「ああ。だが、お前さんのその細い腕じゃ、逆に身ぐるみを剥がされて、裏路地でネズミの餌になるのがオチだな」


 老人の言葉は、残酷なまでに真実だった。

 俺には、誰も力がない。この世界で生き抜くための、最低限の筋力すら。


 俺は再び、ポケットの中の千円札に触れた。


「あの、おじいさん。これ……何かに、使えませんか?」


 俺は千円札を老人に差し出した。

 老人はそれを受け取り、不思議そうに眺めた。


「ほう……奇妙な紙だな。手触りが妙に滑らかだ。それに、この描かれている男の顔……見たこともない。上質な紙だが……これじゃあ、パン一切れにもならんな」

「そうです、よね……」

「だが、まぁ……珍品を買い取る物好きな古物商なら、銅貨一枚くらいにはしてくれるかもしれんぞ。西通りの『片目のジャック』の店なら、あるいはな」

「本当ですか!?」


 俺の目に、小さな希望の光が宿った。

 銅貨一枚。それがこの世界でどれほどの価値を持つのかは分からない。だが、少なくともパン一切れくらいにはなるかもしれない。


「西通り……片目のジャック……」

「ああ。だが、行くなら気をつけな。その奇妙な紙を持って歩いてるのがバレたら、ジャックの店に着く前に、その辺のゴロツキに刺されて終わりだ」


 老人は千円札を俺に返すと、壁に頭を預けて目を閉じた。それ以上、話しかけるなという合図だった。


「……ありがとう、ございます」


 俺は千円札を、靴下の中へと隠した。ポケットよりも、ここならまだ見つかりにくいだろう。

 痛む身体を引きずりながら、俺は老人が教えてくれた「西通り」を目指して、スラムの狭い路地を歩き始めた。


 スラムの空気は重く、暗い。

 物陰から、鋭い視線が俺を突き刺すのを感じる。

 俺はできるだけ小さくなり、周囲の奴らと目を合わせないようにして、足早に歩いた。

 日本にいた頃、学校の廊下を歩く時や、たまにコンビニに行く時に、周囲の視線が怖くて俯いていた。あの時の「防衛本能」が、まさかこんな場所で役に立つとは思わなかった。俯き、気配を消し、ただの背景になりきる。それが、今の俺にできる唯一のサバイバル技術だった。


 しばらく歩くと、スラムの雰囲気が少しだけ和らぎ、小さな商店が並ぶ通りに出た。ここが「西通り」だろうか。

 看板を見ながら歩く。文字は読めないはずなのに、なぜか「片目のジャック」という看板の文字(奇妙な図形のようなもの)の意味が理解できた。

 その店は、通りの隅にある、ひどく薄暗い店構えの古物商だった。


 チリン、と錆びついた鈴の音を立てて、俺は店の中へと入った。

 店内には、埃を被った奇妙な置き物、古い剣、錆びた鎧、怪しげな本などが雑然と積み上げられていた。


「……誰だ」


 奥のカウンターから、低い声がした。

 そこにいたのは、右目に黒い眼帯をつけた、大柄な男だった。顔には無数の傷跡があり、見るからに堅気ではないオーラを放っている。


「あの……珍しい、ものを、買い取ってほしくて……」


 俺は震える手で、靴下から千円札を取り出し、カウンターの上に置いた。

 ジャックは、その千円札を一つ、手に取った。眼帯のない左目が、細められる。


「なんだ、これは。紙……か? だが、この手触り、この精密な印刷……グランセル王国の技術ではないな。帝国のものでもない。東方のものか?」

「はい……遠い、ところの、お金です……」

「お金? ふん、こんな紙切れが通貨か。笑わせるな」


 ジャックは千円札を机に叩きつけた。


「だが、まぁ……この透かしの技術、それにこの細密な模様は、偽造防止のためのものか。魔導具のスクロールの素材としても、使えんことはないな」


 ジャックは顎を撫でながら、俺を見た。


「どこで手に入れた」

「俺の……元々、持っていたものです」

「そうか。お前の着ているその服も、見たことのない素材だな。浮浪者の分際で、奇妙なものを持っている」


 ジャックの目が、鋭く俺を品定めする。


「いいだろう。銅貨三枚で買い取ってやる」

「銅貨、三枚……」

「不満か? こんな出所の分からん紙切れ、他所じゃあゴミ扱いだぞ。嫌なら他へ行け」

「いえ! お願いします!」


 俺は必死に頭を下げた。銅貨三枚がどれほどの価値か分からなくても、今の俺にとっては命綱だ。

 ジャックはカウンターの奥から、くすんだ茶色の金属製のコインを三枚、放り投げた。

 チャリン、と鈍い音がして、俺の手の平に収まる。

 ずっしりとした、金属の重み。これが、この世界で俺が初めて手に入れた「価値」だった。


「……ありがとうございました」


 千円札引き換えに、俺は銅貨三枚を手に入れ、店を飛び出した。






 手に入れた銅貨を握り締め、俺は近くのパン屋へと向かった。

 先ほどのような高級な店ではなく、スラムの境界近くにある、ひび割れた粗末なパンを並べている店だ。


「これ、これで、パンは買えますか?」


 俺は銅貨を一枚、店主の老婆に差し出した。

 老婆は銅貨を受け取ると、無言で、俺の頭ほどの大きさの、黒くて硬そうなパンを一つ、差し出してきた。お釣りはないようだった。つまり、銅貨一枚で黒パン一個。それがこの世界の物価の基準らしい。


「ありがとう、ございます……!」


 俺はパンをひったくるように受け取ると、近くの路地裏へと駆け込んだ。

 木箱の陰に座り込み、黒パンにかぶりつく。


「――っ! 硬っ!」


 それは、日本のフワフワしたパンとは全く違っていた。まるで粘土か石を噛んでいるかのように硬く、酸味が強く、ボソボソとしていた。

 だが、今の俺にとっては、どんな高級料理よりも美味に感じられた。


「もぐもぐ、ごくん……っ、げほっ!」


 喉に詰まらせそうになりながら、必死に噛み砕き、胃袋へと流し込んでいく。

 胃が、急に食べ物が入ってきたことに驚いたのか、キュウと痛んだが、すぐに強烈な幸福感が全身へと広がっていった。

 生きている。

 俺は今、自分の力で(千円札を売っただけだが)、食べ物を手に入れ、命を繋いでいる。


 半分ほど食べたところで、俺は手を止めた。

 残りの半分は、明日のために取っておかなければならない。手元には、あと銅貨が二枚。これで明日と明後日は生き延びられる。だが、その先は?

 その先は、どうすればいい?


 パンを食べ終え、落ち着きを取り戻すと、再び重い現実が俺の肩にのしかかってきた。


 俺は、この世界でどうやって生きていけばいいんだ?


 異世界転生、あるいは転移。

 ネットの物語なら、ここから何らかのきっかけで能力に目覚めたり、美少女の冒険者に助けられたりして、成り上がっていくストーリーが始まる。

 だが、現実は違った。

 俺を助けてくれたのは、汚いスラムの老人と、眼帯の古物商だけ。手に入ったのは、硬くて酸っぱい黒パンだけだ。美少女なんてどこにもいないし、俺の身体には何の魔力も宿っていない。


 試しに、近くに落ちていた手頃な大きさの石を拾い、路地裏の壁に向かって投げてみた。


「せいっ!」


 フワリ、と力のない軌道を描いた石は、壁に当たって、カランと虚しい音を立てて落ちた。

……普通の、ただの非力な男の投擲だった。

 身体能力の向上なんて、1パーセントも起きていない。


「はは……本当に、何もないんだな、俺」


 涙すら出なかった。ただ、深い、深い諦めが胸を満たしていく。

 日本にいた頃、俺は「自分はいつか、何か特別な存在になれるんじゃないか」という、根拠のない万能感をどこかで抱いていた。引きこもっていながらも、「本気を出せば、いつでも社会に戻れる」「俺にはまだ見ぬ才能があるはずだ」と、自分に言い訳をしていた。


 だが、この世界は、その甘い幻想を完全に粉砕した。

 ここでは、本気を出そうが出さまいが、能力のない者はただのゴミだ。馬車に撥ねられそうになれば罵倒され、殴られ、泥の中に捨てられる。衛兵からは浮浪者として追われ、スラムでネズミの餌になるのを待つだけの存在。


 日本での引きこもり生活は、親という絶対的な安全網セーフティネットがあったからこそ成立していた。

 どれだけ部屋に引きこもっていようが、餓死することはなかった。雨風を凌ぐ屋根があった。

 ここには、それがない。

 明日、明後日、その次の日。自分で動き、何かを稼がなければ、本当に、あっさりと死ぬ。


「生きなきゃ……いけないのか……」


 ぽつりと、呟いた。

 日本にいた頃は、死にたいとすら思っていた。こんな無価値な人生、終わってしまえばいいと。

 なのに、どうして今、俺はこんなに必死に、硬い黒パンを齧り、生き延びようとしているのだろう。

 ハンスに殴られた時、確かに俺は「死の恐怖」を感じた。あの恐怖を、もう二度と味わいたくない。泥の中で、誰にも知られずに腐っていくのだけは、嫌だ。


 その時、路地裏の奥から、数人の足音が近づいてくるのが聞こえた。


「おい、さっきのガキ、こっちに逃げ込んだぞ」

「奇妙な服を着てた奴だな? 何かいいもん持ってるかもしれねえ」


 ゴロツキたちの声だった。

 俺の身体は、瞬時に緊張で強張った。

 千円札を売ったことが、どこかでバレたのか。あるいは、単に目立つ格好をしているから狙われたのか。


 俺は残りの黒パンを大事に懐に抱え、銅貨の入ったポケットを片手で押さえながら、背中を丸めて路地裏のさらに奥へと足音を立てずに走り出した。


 走る。ただ、走る。

 脇腹が激しく痛む。呼吸が苦しい。

 でも、止まれば死ぬ。


(タカシ……俺、今、めちゃくちゃ必死に走ってるよ……)


 脳裏に、あの夜、公園で出会った幼馴染の顔が浮かんだ。

 あの時、俺は羞恥心から逃げ出した。

 でも、今の俺が逃げているのは、そんな高尚な感情からじゃない。ただの「命」を守るための、泥臭い、醜い逃走だ。


 路地裏を抜け、さらに暗く、深いスラムの迷宮へと、俺は落ちていく。

 伊藤アノル、十八歳。

 異世界に飛ばされた、何も能力を持たない凡人の青年。

 彼の、本当の「地獄」は、ここから始まるのだった。



 ゴロツキたちの足音から逃れ、俺が辿り着いたのは、スラムのさらに最奥――もはや建物としての体をなしていない、腐った木材や破れたテントがひしめき合う、文字通りの「棄民の巣窟」だった。


 夜の帳が、容赦なくグランセルの街へと降りてくる。

 昼間、あれほど眩しかった太陽は地平線の彼方へと没し、代わりに空には、あの緑色がかった不気味な二つの月が、妖しい光を放ちながら冷然と輝き始めていた。

 夜風が吹く。昼間の暑さが嘘のように、急激に気温が下がっていくのが分かった。衣服が昼間の泥水で湿っているせいもあり、身体の芯からガタガタと震えが止まらなくなる。


「さ、寒い……」


 俺は破れた荷馬車の荷台の下、かろうじて雨風を凌げそうな隙間へと潜り込んだ。

 懐から、残しておいた黒パンの半分を取り出す。硬く冷え切ったそれを、少しずつ、少しずつ、前歯で削り取るようにして口に運んだ。水分がないため、喉に張り付いて酷く苦しい。しかし、この苦痛こそが、自分がまだ生きているという唯一の証明だった。


 日本にいた頃の、深夜二時。

 俺は部屋のPCの前で、お気に入りの配信者の声を聴きながら、温かいカップ麺を啜っていた。あの時も、心は十分に死んでいたと思っていた。だが、あのぬるま湯の地獄と、この氷の地獄とでは、決定的に何かが違っていた。


 あそこには、「明日」があった。

 何も変わらない、何の進展もない、退屈で、絶望的な、しかし確実に保証された「明日」が。

 ここには、それがない。

 この夜を越えられるかどうか、それすらも、俺のひ弱な肉体の耐久力次第だった。


「……ぃ……」


 ふと、遠くから細いうめき声が聞こえた。

 荷台の隙間から外を覗き見る。

 そこには、俺と同じようにボロ布を纏った、まだ十歳にも満たないであろう小さな子供が、地面に横たわっていた。その身体は小刻みに震えており、母親らしき痩せこけた女が、必死にその身体を抱きしめている。


「耐えるんだ、チコ……明日の朝になれば、炊き出しが……教会が、きっと……」


 女の声は、祈りというよりは、崩れ落ちそうな自分を繋ぎ止めるための呪文のように聞こえた。

 その子供――チコと呼ばれた少年の顔は、月の光に照らされて土色に変色していた。明らかに、何らかの病気か、あるいは極度の栄養失調だ。


 俺のポケットには、まだ銅貨が二枚ある。

 これを渡せば、あの子供は明日の朝、まともなスープくらいは飲めるかもしれない。この世界に来て、初めて出会った、俺よりも「弱い」存在。


(……助ける、か?)


 脳内で、偽善的な声が囁いた。

 ここで彼らを助ければ、俺は「異世界転移者」としての、最低限のプライドや人間性を保てるのではないか。

 だが、その思考は、即座に冷酷な現実によって打ち消された。


(馬鹿言うな。俺の手元には、あと二日分の命しかないんだぞ)


 銅貨二枚を渡せば、俺が死ぬ。それだけの話だ。

 この世界は、他人に優しくできるほど甘くはない。それを、俺はハンスの拳と衛兵の長剣、そしてスラムの住人たちの濁った目から学んだはずだ。

 俺はそっと目を逸らし、荷台の奥へとさらに身体を縮めた。耳を塞ぎ、親子の声を意識からシャットアウトする。


 自己嫌悪?

 そんな贅沢な感情、もうどこにも残っていなかった。

 あるのは、ただ「俺が生き残る」という、剥き出しの利己主義だけだった。


 長い、長い夜だった。

 脇腹の痛みで、一睡もできなかった。寝返りを打つたびに激痛が走り、寒さで筋肉が強張るたびに悲鳴を上げた。

 それでも、時間は無情に、そして確実に進んでいく。



 二つの月が沈み、朝靄の中に、再びあの巨大な太陽が顔を出した。

 俺は硬直した身体を無理やり動かし、荷台の下から這い出した。全身の関節が錆びついたようにギチギチと鳴る。

 昨日の親子がいた場所を見る。

 そこには、もう誰もいなかった。ただ、子供が着ていたと思われる、破れたボロ布だけが地面に残されていた。彼らがどこへ行ったのか、それは俺が知る由もないし、知る必要もなかった。


「……仕事、探さなきゃ」


 俺は靴下の中の銅貨二枚を指先で確認し、スラムの外縁へと歩き出した。

 この二枚が尽きる前に、何らかの「継続的な収入」を得なければ、俺の命はそこで途絶える。


 スラムの住人たちが集まる、臨時の口入屋(職業紹介所)のような広場があった。

 そこには、粗末な木製の台の上に立った、肥満体の男が、羊皮紙の束を片手に大声を張り上げていた。


「おい! 今日も東区の水路掃除の人員を募集するぞ! 日給は銅貨二枚だ! 体力のあんの奴から順に並べ!」


 銅貨二枚。黒パン二個分だ。

 周囲の痩せこけた男たちが、一斉にその台へと群がった。


「俺にやらせてくれ!」

「こいつ、昨日サボってたぜ! 俺の方が動ける!」


 怒号と、互いを押し退ける肉体のぶつかり合い。


 俺も、その群れの後方に並んだ。しかし、引きこもり生活で体力の落ちきった十八歳の身体では、スラムの修羅場を生き抜いてきた男たちの力に対抗できるはずもなかった。


「どけ、ガキ!」


 大柄な男に肩を小突かれ、俺は簡単に地面に尻もちをついた。


「痛っ……」


 ハンスに殴られた脇腹が、再びズキリと痛む。


 肥満体の口入屋は、群がる男たちを上から冷淡に眺め、次々と指差していった。


「お前、お前、そこのお前。よし、これで十人だ。終わりだ!」

「クソッ!」

「今日もハズレかよ!」


 選ばれなかった男たちが、忌々しげに唾を吐き散らしながら散っていく。

 俺は、地面に座り込んだまま、その様子を呆然と眺めていた。

 労働の機会すら、俺には与えられない。日本なら、アルバイトの面接に落ちても「次を探そう」と思えた。だが、ここではその一回の落選が、直接「死」へのカウントダウンを意味していた。


「おい、そこの奇妙な服のガキ」


 口入屋の男が、台から下りて俺を見下ろした。


「……え?」

「お前、動けるのか? 見たところ、酷く不健康そうなツラをしてるが」

「う、動けます! 何でもやります!」


 俺は必死に立ち上がり、男にアピールした。ここで「できません」と言えば、本当に明日がない。

 男は、俺の細い腕と、泥まみれのTシャツをじろじろと見た。


「ふん。水路掃除はもう埋まったが……西区の屠殺場とさつじょうで、廃物の片付けの人手が一人足りん。死体の臓物や骨を、裏の穴まで運ぶ仕事だ。臭いはきついし、病気をもらうリスクもあるが……やるか? 日給は銅貨一枚と、余ったクズ肉だ」

「やります! やらせてください!」


 銅貨一枚と、クズ肉。

 贅沢なんて言っていられる立場ではない。


「よし。じゃあ、これを持っていけ」


 男は俺に、小さな木製の札を渡した。


「西区の『鉄の胃袋』って呼ばれてる屠殺場だ。親方のバドにその札を見せろ。サボったらブチのめされるからな」

「はい、ありがとうございます……!」


 俺は木札を握り締め、教えられた西区へと向かった。



 西区の片隅にある「鉄の胃袋」は、近づくだけで鼻が曲がりそうなほどの、強烈な血生臭さと、腐敗臭が漂う場所だった。

 巨大な木造の建物の前には、次々と大きな台車が運び込まれており、その上には、見たこともない巨大な魔獣や、家畜の死体が山積みにされていた。


「なんだ、お前が臨時のガキか」


 現れた親方のバドは、身長が二メートル近くありそうな、全身筋肉の塊のような大男だった。そのエプロンは、乾燥して黒ずんだ血跡で完全に染まっている。


「仕事は簡単だ。あっちの解体台から出た、使い物にならん内臓や骨、皮の切れ端を、この大きな手桶に入れて、裏庭にある巨大な廃棄穴まで運べ。穴に捨てたら、上から石灰を撒け。いいか、一滴も外に溢すなよ。衛兵に見つかったら面倒だからな」

「わ、分かりました……」


 手渡されたのは、俺の胴体ほどもある、巨大な木製の桶だった。何も入っていなくても、それだけで数キロはありそうな重さだ。


「さっさと動け! 時間は金だ!」


 バドの怒声に背中を押され、俺は解体場の中へと足を踏み入れた。


 そこは、文字通りの地獄絵図だった。

 天井から吊るされた巨大な家畜の死体。職人たちが、巨大な包丁を振るい、手際よく肉を切り分け、骨を断ち切っていく。

 グチャリ、バリバリ、という、肉と骨が破壊される音が絶え間なく響き、床は一面、赤黒い血の海と化していた。


「おい、ガキ! これを運べ!」


 職人の一人から、ドサリと桶の中に何かが投げ込まれた。

 それは、灰色に変色した、巨大な家畜の「腸」の山だった。まだ生温かく、奇妙な粘液を分泌している。その中には、未消化の排泄物も混ざっているのだろう、強烈な悪臭が俺の鼻腔を直撃した。


「うっ……!?」


 激しい嘔吐感が胃の底から突き上げてきた。

 日本で、パックに入った綺麗な肉しか見たことのなかった俺にとって、これはあまりにも刺激が強すぎた。


「何突っ立ってんだ! さっさと運ばねえと、その頭を叩き割るぞ!」

「ひっ……!」


 俺は涙目を浮かべながら、両手で重い桶を持ち上げた。

 ずっしりとした、生々しい質量。

 一歩、歩くたびに、桶の中の腸がグチャグチャと不気味な音を立てて揺れる。

脇腹の痛みが激しく自己主張を始めるが、それを無視して、俺は裏庭へと向かった。


 裏庭には、直径五メートルほどの、深い穴が掘られていた。

 穴の底を覗くと、そこにはすでに無数の骨や、腐りかけた臓物がうごめいており、無数の巨大なハエが羽音を立てて飛び回っていた。


「う、あ……」


 俺は桶を傾け、中身を穴へとぶちまけた。

 ドチャリ、という最悪の音がして、腸の山が死体の山へと同化していく。

 続いて、近くにある袋から白い石灰をスコップで掬い、上から振り撒いた。シュウシュウと、化学反応のような音がして、悪臭が少しだけ抑えられる。


「よし……一回目……」


 俺は空になった桶を抱え、再び解体場の中へと戻った。


 それを、何度も、何度も、文字通り太陽が沈むまで繰り返した。

 腕の筋肉は引き千切れそうになり、腰は自分のものとは思えないほどに硬直した。

 何度も足がもつれて、床の血の海に膝をついた。そのたびに、職人たちから「ぐずぐずするな!」と罵声を浴びせられ、蹴り飛ばされた。


 手の皮が剥け、そこから家畜の血が染み込んで、傷口がズキズキと痛む。

 だが、俺は止めなかった。止めるわけにはいかなかった。

 ここで倒れたら、俺自身が、あの裏庭の廃棄穴に放り込まれる。そんな確信があったからだ。


「よし、今日はここまでだ」


 夕暮れ時、バドが俺を呼び止めた。

 俺は、その場に崩れ落ちるようにして座り込んだ。全身、自分のものではない血と、臓物の粘液でドロドロだった。Tシャツの本来の色(白だったはずだ)なんて、どこにも残っていなかった。


「ほらよ、約束の分だ」


 バドは、俺の前に銅貨一枚を放り投げた。

 そして、傍らにあった、赤黒く変色した、お世辞にも綺麗とは言えない「肉の切れ端」を、油紙に包んで俺に手渡した。


「それはファングラビットの首肉の余りだ。硬くて筋っぽいし、よく火を通さねえと腹を壊すが、まぁ、ガキの飢え凌ぎにはなるだろ。明日も来るなら、朝に来い。遅れたら別の人員を雇う」

「は、はい……ありがとう、ございました……」


 俺は銅貨をポケットに入れ、肉の包みを大切に抱きしめた。

 身体はボロボロで、死にそうだった。

 だが、その手には、確かに今日の「対価」があった。



 屠殺場を出た俺は、ふらふらと、昨夜の荷馬車の下へと戻ってきた。

 周囲のスラムの住人たちは、俺の全身から漂う、強烈な血と臓物の臭いに、さすがに眉をひそめて距離を取った。だが、今の俺にとっては、その「臭い」こそが、周囲のゴロツキから身を守るための、一時的な防壁バリアのようにも機能していた。


 俺は落ちていた乾燥した木切れを集め、古物商のジャックの店でこっそりと分けてもらった(銅貨を貰った際、無理を言って一個だけ貰い受けた)魔導具の「火打ち石」を擦り合わせた。

 パチ、パチ、と小さな火花が散り、何度目かの挑戦で、ようやく小さな火がおこった。


 油紙を開く。

 バドがくれた、ファングラビットのクズ肉。

 俺はそれを木串に刺し、火の近くでじっくりと炙った。

 ジジジ……と、肉の表面から脂が染み出し、香ばしい匂いが漂い始める。もちろん、屠殺場の悪臭が染み付いているため、日本の上質な焼肉とは比べるべくもない。だが、今の俺にとっては、これ以上ない「ご馳走」だった。


 十分に火が通ったのを確認し、俺は肉に噛みついた。


「――っ、硬え……!」


 バドの言う通り、ゴムのように硬く、筋が多くてなかなか噛み切れない。

 だが、噛めば噛むほど、濃厚な「肉の味」が、血の味が、俺の口の中に広がっていった。

 俺は、それを必死に咀嚼し、胃袋へと送り込んだ。


「うまい……うまいよ……」


 自然と、涙がこぼれ落ちて、肉の表面を濡らした。


 伊藤アノル。

 高校中退、ニート、引きこもり。

 日本にいた頃の俺は、何もしていなかった。何も生み出さず、何も消費せず(親の金は消費していたが)、ただ呼吸をしているだけの幽霊だった。

 だが、今、この異世界の地獄で、俺は生きている。

 自分の腕で重い桶を運び、罵倒され、殴られながらも、銅貨一枚と、この一切れの肉を勝ち取った。


 チート能力なんて、やっぱりない。

 明日になれば、またあの地獄のような屠殺場に行き、血と臓物の海の中で、身体を壊す一歩手前まで働かなければならない。

 いつまでこの生活が続くのかも分からない。ある日突然、感染症にかかって、あの路地裏で静かに死ぬかもしれない。


 それでも。


(俺は、まだ死にたくない)


 肉を全て平らげ、俺は油紙を綺麗に畳んだ。

 靴下の中には、まだ銅貨が三枚(昨日からの残りと、今日稼いだ分)ある。

 これで、あと三日は確実に生きられる。いや、明日も働けば、さらに増える。

少しずつ、本当に少しずつだが、俺はこの世界に、自分の「足跡」を、泥の中に刻み込み始めている。


 見上げる夜空には、やはりあの二つの月が、冷たく輝いていた。

 あの月は、俺が日本にいた頃に見ていた月とは違う。この世界が、全く別の残酷な場所であることを、毎夜毎夜、俺に突きつけてくる。


「見てろよ、クソ世界……」


 俺は膝を抱え、荷台の下の暗闇の中で、静かに目を閉じた。

 明日も、朝には起きなければならない。

 チートもない、魔法もない、ただの凡人。

 だけど、俺は。

 この泥の底で生き残ってみせる。


 伊藤アノルの、本当の「異世界生活」の最初のページが、ここに、血と泥のインクで、確かに書き込まれたのだった。

初めてちゃんとした作品を書きました。かなりの長編になると思われますのでよろしくお願い申し上げます。

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