第一章3 「夜陰を這うドブネズミ」
スラム街の夜は、文字通り『死の帳』そのものだった。
頭上を見上げても、煤煙と分厚い雲に遮られて月明かりすら届かない。ただ、湿った生暖かい風が、腐った生ゴミと汚水の臭いを引き連れて、迷路のように入り組んだ路地を吹き抜けていくだけだ。
伊藤アノル――いや、今の俺は、その劣悪な闇の底を、音も立てずに這い進む一匹のドブネズミと化していた。
「ハァ、……ハァ……」
荒くなる呼吸を、必死に歯の隙間から押し殺す。
一歩踏み出すたびに、履き潰したボロ靴の底が泥濘を吸い、ねっとりとした音を立てそうになる。そのたびに心臓が跳ね上がり、冷や汗が背中を伝って流れ落ちた。
目指しているのは、スラム街の最果て、外縁部に位置する『見捨てられた地区』だ。かつては皮革職人たちの集落があったらしいが、今では土台ごと腐り果てた廃屋が不気味な影を晒しているだけの、浮浪者すら寄り付かない吹き溜まりである。
なぜ、行ったこともないその場所へ迷わずに進めるのか。
理由は、俺の脳裏に焼き付いている『彼』の記憶があったからだ。
(……この先の角を左だ。そこにある肥溜めの裏を通れば、衛兵の巡回ルートからも、他の徒党の目からも外れて、奴らの根城へ裏から近づける)
意識の奥底から、自分のものとは明らかに違う不骨な声と、鮮明な映像が割り込んでくる。
バド親方。
数日前まで、この糞溜めのようなスラムで唯一、俺を『人間』として扱ってくれた解体職人の老人。彼の命が奪われた瞬間に、俺の脳内へ濁流のように流れ込んできた記憶の断片が、今の俺の身体をナビゲートしていた。
視覚だけではない。足元の泥の硬さ、空気の湿り気、どの路地の影に凶暴な野良犬が潜んでいるかといった、長年このスラムの底を這いずり回ってきた人間だけが持つ『生存の皮膚感覚』が、今の俺には完全に『理解』できていた。
まるで、自分の人生をもう一周生き直しているかのような、悍ましいほどの既視感。
「……見えてきたな」
物陰に身を潜め、俺は前方の暗闇を凝視した。
周囲の廃屋よりも、わずかに補強された形跡のある小さな木造の小屋。歪んだ扉の隙間から、頼りない蝋燭の光が漏れている。
そこが、バドを殺害した張本人――『ハイエナのガイル』とその仲間たちが根城にしている、文字通りの悪党の巣窟だった。
脳内の記憶が、激しく警告を発するように脈打つ。
あの日、この小屋からバドの後をつけ、解体場の闇の中で容赦なくその喉を掻き切った男の姿。顔の左半分を覆う酷い火傷の痕、爬虫類のように冷酷で、獲物をいたぶることを愉しむような濁った瞳。
胸の奥から、ドロドロとした熱い衝動が突き上げてくる。
(あの野郎……絶対に許さねえ。ぶち殺して、バドの無念を晴らしてやる……!)
激しい怒りが四肢を駆け巡り、俺は無意識のうちに、懐に忍ばせた解体包丁の柄を強く握りしめていた。それはバドの作業場から形見代わりに盗み出した、ずっしりと重い鋼の刃だ。これがあれば、奴の首筋を――。
「――待て」
突如、頭のてっぺんから冷水を浴びせられたような感覚が走り、俺の足がピタリと止まった。
「……何を、考えてるんだ、俺は?」
握りしめた刃の冷たさが、急激に俺の正気を取り戻させる。
今、俺の胸を満たしていたあの猛烈な殺意は何だ?
あの沸騰するような『ぶち殺してやる』という凶暴な思考は、本当に、元の世界でただのしがない学生であり、凡人に過ぎなかった『伊藤アノル』の感情なのか?
額から、別の種類の冷たい汗が噴き出してくる。
俺は物陰に深く身を沈め、自分の荒い呼吸を整えようと試みた。しかし、一度生じた疑問は、暗闇の中で急速に膨れ上がっていく。
落ち着け。まずは現状を把握するんだ。
俺はバドの記憶を脳内で慎重に再生した。特に、バドがガイルに襲撃された、あの最後の数分間の光景を。
それは、凄惨という言葉すら生ぬるい『蹂躙』だった。
バド親方は、老いていたとはいえ、毎日巨大な家畜の骨肉を叩き切ってきた屈強な男だ。腕力だけで言えば、スラムの若いゴロツキなど足元にも及ばない。その親方が、不意打ち気味だったとはいえ、ガイルという男の前では、まるで赤ん坊のように無力だった。
ガイルの動きは、ただのストリートの喧嘩のそれではない。
バドの記憶を通じて見る奴の身のこなしは、信じられないほど滑らかで、かつ一切の無駄がなかった。暗闇のノイズに完全に同化し、気配を消して間合いを詰める技術。バドが放った渾身の殴打を、紙一枚の差でかわしながら、流れるような動作でナイフをその肉体に突き立てる正確さ。
それは、何十人、何百人という人間を効率的に『屠ってきた』者だけが持つ、本物の殺人術の輝きだった。
「勝てる、わけがない……」
呆然と、呟きが漏れた。
自分の両手を見る。バドの記憶が流れ込んだおかげで、確かに包丁の握り方や、肉の断ち切り方は『知って』いる。だが、俺の肉体そのものは、この世界の劣悪な環境で栄養失調気味の、ただの18歳の貧弱な少年のままだ。
技術のイメージがあっても、それを駆動する筋力も、実戦の経験も圧倒的に足りていない。
そんな俺が、あのバド親方を子供扱いで殺害したプロの殺人鬼に、正面から挑む?
笑えない冗談だ。小屋に突入した次の瞬間には、俺の喉笛がガイルのナイフで切り裂かれ、明日の朝にはスラムのゴミ捨て場に転がっている未来が、あまりにも鮮明に予見できた。
「無茶だ。こんなの、ただの自殺志願じゃないか……!」
急激に恐怖が鎌首をもたげ、膝がガタガタと震え出す。
さっきまでの、あの燃え盛るような復讐心はどこへ行ったのか。ただガイルの『強さ』の本質を思い知らされただけで、俺の心は完全にへし折れ、その場から逃げ出したい衝動に駆られていた。
四畳半の部屋で、ネットの画面を見ながらブツブツと文句を言っていた頃の、臆病な『伊藤アノル』が、俺の芯のところで悲鳴を上げている。
(帰るんだ。今すぐここを離れて、あの解体場でただの泥水すすりの新入りとして生き延びればいい。バド親方のことは悲しいが、俺が命を捨てる義理なんて――)
そう思考が逃げ道を作ろうとした、その時だった。
『――アノル、おめえは、泥水をすするだけの人生で満足なのかよ』
脳裏に、生前のバドが笑った顔が、その掠れたダミ声が、鼓膜を震わせんばかりの音量で響き渡った。
それは幻聴ではない。俺の中に定着したバドの『記憶』が、俺の意志とは無関係に、状況に応じて再生されているのだ。
「う、あ……」
頭痛がする。脳の奥が、ギリギリと締め付けられるように痛む。
同時に、消えかけそうになっていたあの激しい怒りと、這いつくばってでも生を掴み取ろうとする『猛烈な執念』が、再び俺の胸の内に濁流となって注ぎ込まれた。
「ちくしょう、なんだこれは……! 何が起きてるんだ!?」
俺は頭を抱え、廃屋の壁に背中を打ち付けた。
狂いそうだ。自分の感情のコントロールが、全く効かなくなっている。
ガイルが恐ろしくて逃げ出したいという『俺』の思考と、奴を八つ裂きにしなければ気が済まないという『バド』の衝動が、一つの脳みその中で激しく衝突し、混ざり合っていく。
――いや、『混ざり合っている』んじゃない。
『侵食』されているんだ。
「これは、本当に、俺の心なのか……?」
恐怖の対象が、前方の小屋に潜むガイルから、自分自身の『内側』へと切り替わった。
脳裏をよぎったのは、恐るべき仮説――『人格の汚染』だ。
俺が手に入れた、死者の記憶を脳内に受け継ぐという、この世界のバグのような現象。それは単に「本をめくるように他人の過去を閲覧できる」といった、都合の良い便利な能力などではなかった。
記憶とは、その人間の人格を形作る基礎そのものだ。
数十年にわたり、スラムの暴力と理不尽の中で揉まれ、荒々しく、喧嘩っ早く、泥臭く生き抜いてきたバドという男の、膨大な経験と、それに伴う『感情の起伏』。それがそのまま俺の脳の未開拓領域にダウンロードされたのだ。
それが、ただの情報として大人しく眠っているはずがない。
バドの喧嘩っ早く、一度火がついたら引かない頑固な性格。他人に舐められたら殺し返してでも面子を通すという、スラムの住人特有の狂暴な倫理観。
それらが、俺の元々の、どこまでも冷めていて臆病な『伊藤アノル』の人格を、ジワジワと泥水で塗りつぶすように汚染しているのではないか。
「今の俺の復讐心は……本物なのか?」
包丁を握る手が、恐怖とは別の理由で激しく震える。
俺はバドが死んで悲しかった。それは事実だ。だが、自分の命を投げ打ってまで、プロの殺人鬼に復讐を誓うほどの熱い人間だったか?
違う。俺はもっと冷酷で、他人の不幸には一歩引いて、自分が安全な場所にいることだけを最優先する、そんなつまらない男だったはずだ。
なのに、今の俺は、まるで自分がバドそのものになったかのように、ガイルへの憎悪に身を焦がしている。
これは、バドの残滓に脳をハッキングされ、操られているだけの『人形』の躍動ではないのか。
このままバドの記憶に従ってガイルを殺せば、その先に残る『俺』は、一体誰なんだ?
伊藤アノルなのか? それとも、18歳の少年の皮を被った、バドの亡霊なのか?
「疑心暗鬼」という言葉では足りない。自分の足元が、底なしの沼になって崩れ落ちていくような感覚だった。
自分という存在の輪郭が、他人の記憶という泥水によってドロドロに溶かされていく。
(やめろ……俺の中に入ってくるな……!)
心の中で叫ぶが、脳内のバドの記憶は容赦なく、彼がこれまでの人生で味わってきた理不尽の数々をフラッシュバックさせる。
飢え、裏切り、暴力、仲間の死。そのたびに拳を固め、血を流しながら戦ってきた男の記憶が、俺の神経細胞を強制的に発火させる。
その精神的負荷は凄まじく、俺はついに耐えかねて、泥の中に膝をつき、胃の中の酸っぱい液を吐き出した。
「う、ぇ、……ハァ、ハァ……!」
汚泥に塗れた手を地面につき、自分の荒い息遣いだけを聞く。
目の前には、ただ暗いスラムの現実があるだけだ。
神も、チート能力を説明してくれるナビゲーターもいない。ただ、狂いそうな自分と、目の前にある殺人鬼の小屋があるだけ。
どのくらいの時間、そうして蹲っていただろうか。
吐瀉物を拭い、冷え切った夜気の中で、俺の脳は徐々に、奇妙な『凪』を迎えていた。
バドの人格汚染による狂暴な熱情と、伊藤アノルとしての冷めた臆病さ。その二つが極限まで衝突し合った結果、まるで台風の目のように、不気味なほど冷徹な思考空間が、俺の頭の中に構築され始めていた。
「……待て。汚染されていようが、いまいが、今ここで立ち止まっていても、何も変わらない」
俺は泥を舐めるような思いで、強制的に思考を前へと進めた。
人格がどうのこうのと悩むのは、生き延びた後の話だ。今、この瞬間、俺が直面しているのは『ガイルという脅威が厳然として存在している』という現実だ。
バドの記憶から得た情報によれば、ガイルという男は、単なる衝動殺人犯ではない。
奴はスラムの「ハイエナ」と呼ばれている。その名の通り、弱った者、孤立した者を執拗に観察し、最も安全で、最も確実なタイミングで背後から仕留め、その身ぐるみを剥ぐハイエナそのものの生態を持っている。
そして、バド親方を殺害した今、奴の次の標的が誰になるか。
考えるまでもない。バドの作業場に残された、事情を知るかもしれない新入りの小僧――つまり、この俺だ。
「俺がここで逃げ出しても、ガイルが俺を生かしておく保証はどこにもない」
奴は執念深い。バドの記憶の中のガイルは、一度目をつけた獲物を決して逃がさなかった。俺がスラムを出ようと、解体場に引きこもろうと、いずれ奴は闇から現れ、俺の喉を掻き切るだろう。
つまり、俺が生き残るためには、どのみちガイルを排除するしかないのだ。これは復讐云々の前に、絶対的な『生存競争』だった。
「なら、どうする?」
正面突破は100%不可能だ。それはさっき結論が出た。
無策で突っ込めば、バドの二の舞になるだけ。ガイルの卓越した殺人技術の前に、俺の肉体は一瞬で無力化される。
ならば、奴の土俵で戦ってはならない。奴が最も得意とする「闇からの奇襲」を、逆に奴に対して仕掛けるしかない。
俺は脳内のバドの記憶を、今度は『データベース』として冷徹に検索し始めた。人格に汚染されるのを恐れるのではなく、その膨大なスラムの知識を、単なる『道具』として利用してやる、という強い意志を持って。
(ガイルの行動パターン……奴らのようなハイエナ共が、一番隙を晒す瞬間はどこだ?)
記憶のページが目めまぐるしくめくられる。
バドが長年見てきた、スラムの犯罪者たちの生態。彼らが最も警戒を怠り、同時に肉体的な隙を晒す瞬間。
「……獲物を、襲っている最中だ」
閃きが、脳裏を白く染めた。
ガイルのような冷酷な捕食者であっても、標的に刃を突き立て、その命が消えゆく瞬間――あるいは、身ぐるみを剥ぐために死体に夢中になっている瞬間だけは、意識のベクトルの大半が『獲物』へと向く。背後への警戒は、通常時の数分の一にまで低下するはずだ。
「奴が、他の誰かを襲うタイミングを狙う」
それは、恐ろしく人道に外れた、冷酷な作戦だった。
誰かがガイルに襲われるのを、俺は見殺しにするということだ。その人間が犠牲になり、ガイルの意識がその獲物に完全に囚われた瞬間、俺が闇から音もなく近づき、バドの包丁でその延髄を叩き切る。
最悪の奇襲作戦。だが、この貧弱な肉体と、相手との圧倒的な実力差を埋めるには、これ以上の好機は存在しない。
他人の命をデコイにして、勝利を確実にする。
「……本当に、これでいいのか?」
再び、伊藤アノルとしての良心が、微かな抵抗を試みる。他人の死を利用して生き延びるなんて、そんな怪物のようになってもいいのか、と。
だが、その躊躇は、すぐに脳内のバドの冷徹な声によって掻き消された。
『綺麗事で腹は膨れねえ。スラムじゃ、生き残った奴が正しいんだよ』
「そうだ。綺麗事は終わりだ」
俺は作戦を切り替えた。小屋への突入を放棄し、ガイルが「狩り」のために動き出す瞬間を待つ、ストーカーへと徹することに決めたのだ。
方針が決まった。しかし、俺の胸の中の泥々とした感情は、まだ完全に収まってはいなかった。
人格汚染の恐怖。バドの亡霊に操られているという不快感。それらが、作戦を練る俺の思考の端々で、常にノイズのように囁き続けている。
(お前はバドの復讐人形だ)
(ガイルを殺したいのは、お前の中にいるバドの衝動だ)
(お前自身の意志は、どこにある?)
その精神的な責め苦に、俺は再び押し潰されそうになっていた。
小屋の見える物陰に息を潜めながら、俺は必死に自分の胸に手を当て、自問自答を繰り返した。
このままでは、たとえ作戦が成功しても、俺の精神はガイルを殺した瞬間に完全に崩壊するか、あるいは本当に『バド』という怪異に完全に乗っ取られてしまうかもしれない。
それだけは嫌だった。俺は、俺として生きたい。異世界に転移させられ、泥水をすする羽目になったとしても、この人生は『伊藤アノル』のものだ。他人の復讐のために、自分の魂の主導権を明け渡してなるものか。
「……じゃあ、俺は何のために、あいつを殺すんだ?」
バドの復讐のためじゃないとしたら。
単に自分が生き残るためだけか? 確かにそれもある。だが、それだけなら、スラムを完全に捨てて、遠くの街へ命がけで逃亡するという選択肢だって、ゼロではなかったはずだ。わざわざ殺人鬼の後を追いかけ、命がけの奇襲を仕掛ける理由としては、何かが足りない。
俺は、じっと前方の小屋を見つめた。
漏れ出る明かり。時折聞こえる、ガイルとその仲間たちの、下卑た笑い声。
バドの記憶を通じて、俺は知っている。ガイルという男が、これまでどれだけの無辜の人間を、ただの小銭のために、あるいは単なる娯楽のために殺してきたかを。
そして、もしここで奴を野放しにすれば、明日、明後日、来週、来月……このスラムのどこかで、またバド親方のような犠牲者が、確実に増え続けるということを。
バド親方は、俺に言った。
『おめえ、いい目を残してるな。スラムのドブネズミはみんな死んだ魚の目をしてるが、おめえの目はまだ死んじゃいねえ』
あの人は、俺の中にある『何か』を信じてくれた。
それは、スラムの暴力に染まりきっていない、元の世界の、人間としての真っ当な倫理観や、尊厳のようなものだったのかもしれない。
脳裏に浮かぶバドの記憶が、今度は怒りではなく、深い哀愁を伴って俺の心に染み渡っていく。
そこで、俺は気づいた。
記憶が流れ込んできたのは事実だ。性格が影響を受けているのも事実だろう。だが、それをどう解釈し、どう行動するかを決める『最後の舵取り』だけは、今も確実に俺の手の中にある。
「俺は、バド親方の復讐をするんじゃない」
声に出して、明確に定義した。
バドの記憶にある猛烈な殺意を、俺は自分の意志で『拒絶』する。奴への個人的な憎しみに身を任せるのを、ここでやめる。
「俺は……あのガイルっていう化け物を、ここで止めたいだけだ」
これ以上、あなたのような人間を増やしたくない。
俺を人間として扱ってくれたあの場所を、これ以上汚されたくない。
これはバドの怒りではなく、他でもない『伊藤アノル』という一人の人間が、この理不尽な異世界に対して、初めて自分の足で立ち上がり、突きつける『拒絶』の意志だ。
そう決意した瞬間、脳内を支配していたあの激しい頭痛と、ドロドロとした人格の混濁が、嘘のようにスッと引いていくのが分かった。
バドの記憶は、依然としてそこにある。職人の技術も、スラムの知識も、鮮明に残っている。だが、それはもう俺を脅かす汚染物質ではなかった。俺という主人が使いこなすべき、強力な『武器』へと昇華されたのだ。
「……よし。脳の整理はついた」
俺は懐の包丁の柄を、今度は静かな、しかし絶対に揺るがない力で握り直した。
もう疑心暗鬼に陥ることはない。俺は俺だ。俺の意志で、あの化け物を狩る。
夜がさらに更けた頃、前方の小屋の動きに変化があった。
歪んだ扉がギィと不快な音を立てて開き、中から数人の影が出てくる。
「おい、本当にあっちの地区に、いい獲物がいるんだろうな?」
「あぁ、間違いない。商人の馬車から荷を掠め取ったばかりの、間抜けな浮浪者の集団だ。今夜あたり、仕分けをしてるはずさ。衛兵の目も届かねえ場所だ、やりたい放題よ」
聞こえてきたのは、バドの記憶にあるあの声――ガイルの、擦り切れたような不気味な声だった。
奴は仲間の男を一人連れ、暗闇の路地へと歩き出し始めた。手には、夜光を鈍く反射する長いナイフが握られている。
ハイエナが、次の『狩り』を始めたのだ。
「……行くか」
俺は物陰から音もなく這い出し、奴らの後を追った。
距離は慎重に保つ。バドの記憶が、ガイルの並外れた警戒範囲を教えてくれている。これ以上近づけば気配で気づかれる、その限界の境界線を維持しながら、俺は闇に同化して進んだ。
道中、ガイルたちの足取りは軽快だった。彼らにとって、スラムの夜の殺人は、ただの日常の延長線上に過ぎないのだろう。その傲慢さが、ほんのわずかな、しかし致命的な隙を生むはずだ。
奴らが目指したのは、やはりスラムのさらに奥深く、崩壊しかけた倉庫が立ち並ぶエリアだった。
周囲の物音が遮断され、ただ風の音だけが響く不気味な場所。その一角にある、半壊した建物の内部から、微かに人の話し声が聞こえてくる。ガイルたちの目的である『獲物』が、そこにいるようだった。
ガイルが仲間に手で合図を送り、二手に分かれて建物へと近づいていく。
奴らの背中が、完全に建物内の獲物へとロックオンされた。
「ここだ……」
俺の心臓が、静かに、しかし力強く鼓動を刻む。
恐怖はない。人格の混濁もない。
ただ、バドの記憶から得た解体職人の正確な身体技法と、伊藤アノルとしての冷徹な生存への意志が、奇跡的なバランスで噛み合っていた。
俺は作業用の包丁を逆手に持ち替え、ガイルの背後へと、音もなく距離を詰め始めた。
一歩、また一歩。
泥濘を踏み締める足元は、もう一切の迷いなく、ただ確実に、悪党の息の根を止めるための軌道を描いていた。




