監視任務:日向少尉の正体
次の日、出勤してきた日向少尉は、待ち構えていたお目付け役を一目見て、皮肉っぽく笑った。
「――なるほど、これはお早い出勤ですね。入待ちとは恐れ入りました」
源一郎の椅子に深く腰掛けていた黒鷺は日向少尉を一瞥すると、顎をしゃくって自分の席に着くように指示を出す。日向少尉の挑発的な笑みに惑わされることなく、彼の一挙手一投足に集中して監視を始めた。
外套を脱ぎ、制帽を被ったまま本棚の引き出しから書類を取り出し、机の上に広げて報告書の作成を開始。
一定の速度を維持したまま黙々とペンを走らせている様子は、不気味なほど静かで、まるで黒鷺のことが見えていないかのようだった。
しばらくして、黒鷺は一瞬だけ壁にかけられている時計に目を向ける。
すでに監視から1時間が経過している。だが、日向少尉の相棒である源一郎はまだやってこない。
いつも通り千夏を探して外を彷徨っているか、酒を飲んでいるかだろうと、黒鷺は特に気にも留めずに日向少尉の行動観察を再開した。ジッと彼の様子を監視する。それが黒鷺の任務だ。
「あら何か御用ですか?」
「あっ……いや」
日向少尉と目が合う。
彼はすでにペンを置いて書類をまとめる作業に入っていた。
書類の束を机にトントンしながら話しかけてくる。
「黒鷺警察官、ずっとそこに座ってても何もありませんよ」
「俺の仕事は監視だ。お前がまた変なことをしないようにな」
「変なことですか? 私は捜査に協力していただけなんですけどね」
ぶっきらぼうに言い放って、席を立つ日向少尉。椅子に座ったままの黒鷺を一目見て、作成した報告書とともに本棚の引き出しに収納する。ちょうど隣の部屋にいる捜査員たちの笑い声が聞こえてきた。
日向少尉が本棚のほうに顔を向けたまま嫌味っぽく鼻を鳴らす。
「お隣は盛り上がっているようですね。何が面白いのかわかりませんが」
「関係ない。また班長がふざけたことでも言ったんだろ」
「そうですか。実は大洗警察官がここにやってきたときも、隣から大笑いする声が聞こえてきたので気になってしまって。なぜだか馬鹿にされているような気がして少し癪なんですよ」
「はぁ?」
「いえ……もしかして、この部屋に送られてくるということは、島流し扱いなのではないかと思っただけです」
「だとしたら、少尉殿には罪人らしく神妙にしてもらいたいもんだな」
「あぁ……私が罪人ですか。それでアナタが看守と」
「悪いがここでは俺の命令に従ってもらう。俺の命令は、班長の命令であり、君の上官の命令だと思え」
かなり強い警告のつもりだった。
だが、日向少尉は冷めた視線を黒鷺に送って鼻で笑う。
「ははっ、そうですか。まぁいいでしょう」
意味深に笑って椅子に腰を下ろす日向少尉。
将校の制服のおかげか、腕を組んで椅子に深く腰掛ける姿に妙に威厳が出ている。金井家の支援もあるのか、軍服に使われている生地はどれも高級そうで、涼しげに執務を進める姿は、まさに貴公子のようだった。
だが、机の下に視線を落とすなり、身体の動きがピタリと止まってしまう。
「黒鷺警察官、質問よろしいですか?」
妙に丁寧な口調。
黒鷺は眉を顰めて鋭い視線を日向少尉に突きつけた。
「馴れ合う気はない。質問は一つだけだ」
「では、一つだけ……」
ここで日向少尉は、自分の机の引き出しを開けて、中から業務日報を取り出す。そして、黒鷺にもはっきり見えるように高く掲げた――その意図を黒鷺は瞬時に理解し、大きく目を見開く。
黒鷺の驚く様子を前にしても、日向少尉は落ち着きを保ったまま彼に尋ねる。
「では、任務に忠実な黒鷺警察官に質問です。今日、私が出勤するときに、この引き出しを開けた形跡がありました。黒鷺警察官、アナタですか?」
「――ッ!」
刹那、黒鷺は血の気が引くような感覚に襲われた。
すぐに否定の言葉を口から出さないといけない。
ただ、日向少尉が手にしている業務日報と確信を持った質問を前に、咄嗟の言葉が出てこない。
実は、日向少尉が出勤してくる直前まで、黒鷺は日向少尉の情報や目的を探るために日向少尉の席の捜索を行い、引き出しの中に入っていた業務日報にも目を通していた。
しかし、黒鷺は完璧に元の位置に戻していたつもりだった。
直接目撃しない限り、発覚するはずがない。
「黒鷺警察官?」
「あっ、いや……」
ハッと我に返り、再び意識を目の前に突きつけられた質問に集中。一瞬だけ視界の中心に入れた日向少尉は、相変わらず涼しげな表情を保ったまま、黒鷺の回答を急かすように業務日報を掲げている。
時間はないと、黒鷺は賭けに出た。
「……俺はそんなもの知らん」
これが黒鷺の出した結論だった。
日向少尉がわざとらしく溜息を吐く。
「……そうですか」
黒鷺の引き攣った顔が答えになっていた。
日向少尉はそれ以上は追及せず、退屈そうに業務日報を机の上に広げて執務を再開する。
黒鷺は焦った。
「おい、もっとなにか聞かないのか?」
「質問は一つと言われましたので」
「なんだと、テメェ!」
思わず机をバンと叩いて立ち上がった。
「証拠もなく疑いやがって! 俺より年下だろうが!」
「……はぁ」
黒鷺には日向少尉の溜息がはっきりと聞こえた。
日向少尉が再びペンを置く。
そして大きな瞳をまっすぐ黒鷺に向けて、親指ほどの大きさの紙の切れ端を見せつけてきた。
「実は机の引き出しにコレを挟んでいましてね。誰かが開けると、これが床に落ちるようになっているのです。そして本日私が出勤してきたとき、これが床に落ちていました」
「だからって、俺が業務日報を見たと疑うのか!?」
「あー、まだ気づいていないですか?」
嘲り笑うような冷たい視線が黒鷺を釘付けにした。
凍りつく室内で、天井に突き出すように掲げられた日報がぱらりぱらりと揺れる音だけがこだまする。
「私は別に業務日報を見たかなんて聞いていませんよ。引き出しを開けたかどうか……それしか質問していません。しかし、アナタはなぜか業務日報を見たかと質問を変換して回答してしまった」
「お、お前……!」
「まぁ、もちろん私が業務日報を手にした状態だったため、そう誘導されてしまった側面もあるでしょう。しかし、それでも違和感は残ってしまう」
「なんだと!?」
「黒鷺警察官が私に誘導されてしまうということは、アナタの中で「引き出し」と「業務日報」が記憶の中で強く結びついてしまっていたから。別に引き出しを開けたのなら正直にそう言えばいいの……しかし、アナタは咄嗟にそれを隠そうとした。理由は、引き出しを開けたことを認めたら私の業務日報を見たことを認めることになるから……違いますか?」
「お、おまえ……」
黒鷺は椅子に尻が張り付いたかのように、しばらく動けなくなった。
気まずい沈黙はしばらく続く。
だが、緊張が最高潮に達した瞬間、日向少尉の冷めた表情が一転した。
「ふふっ……面白い人ですね」
日向少尉は満面の作り笑みのまま、しっとりと椅子から立ち上がって固まった黒鷺の横に移動する。
右手には業務日報。
「どうぞ」
わざわざ黒鷺の右手に業務日報が差し込まれた。
視線が日向少尉と業務日報の間を忙しく往復する。
「ほら、これをご覧になりたいのでしょう?」
さらに、妖しい笑みを保ったままわざとらしい敬礼を黒鷺に送る。
「これからは一言いただけると幸いに存じます」
やましいものはない。自信たっぷりにそう言いたげな落ち着き払った声色だった。
腕を下ろす瞬間に、日向少尉が意味ありげに片目を閉じたのを見た。
だが、あまりにも堂々とした日向少尉の姿に、それ以上の黒鷺の言葉は見事に奪われてしまう。
黒鷺は何もいえなくなっていた。
ピンと張った背筋を目で追いかけるしかできない。
咄嗟に班長を呼んで助けを乞おうと思ったほどだった。
しばらくの静寂の後、日向少尉が突然腕時計を確認する。
「そろそろあの人も帰ってくる頃でしょう」
席に戻った日向少尉がホッと息を吐く――その直後。
「おーい、戻ったぞ……って、黒鷺、ここでなにしてんだぁ?」
明らかに酒が入っている源一郎だった。
ヨレた制服の襟元を見て、反射的に黒鷺は眉を顰めた。時間を見ると、もうすでに昼飯時。
予測不可能な不良警官を一瞥して、黒鷺は制帽を被り直して源一郎に席を譲った。
「まぁお目付け役を……」
「ははっ、俺のお目付け役のお目付け役ったぁ面白い話だ」
酒気を振り撒きながらどかっと椅子に腰を下ろす源一郎だったが、新しい書類作成に入っていた日向少尉が不満げに口先を尖らせる。
「大洗警察官殿、お疲れのところ申し訳ないですが、書類がたくさん溜まっております」
「へいへーい……ったく、謹慎中も仕事とはたいしたもんだなぁ」
「ご負担をおかけしてしまい申し訳ございませんが……今日中に確認していただきたい書類が、本棚の引き出しに入っておりますので」
「へっ! 書類仕事ばっかりやっても捜査は進まねぇーぞ!」
「それでもゲンさんにしか頼めないのですよ」
刹那、陽気に肩を回していた源一郎の動きがピタリと止まった。
源一郎はしばらく日向少尉の瞳をジッと見つめる。日向少尉が静かに頷く。
途端に源一郎は落ち着きを取り戻して、目線を捜査資料が並んでいる本棚に向ける。
「ゲンさん、今日中に対応をお願いしますよ」
「んぇ?……ったく、しょうがねーな。人使いが荒くてこまっちまうよ」
椅子に座ったばかりの源一郎は露骨に嫌そうに鼻を膨らませて、本棚の引き出しを開けて中を覗く。
そこには紐で閉じられた書類の束がどすんと鎮座していた。
「えーと、どれどれ……」
ペラペラと書類をめくって内容を確認する源一郎。
だが、あるページを開いたところで、まるで時を止められたかのように動きが止まる。
「…………っ!」
源一郎の表情が一変するのに、さほど時間はかからなかった。酒にやられて落ちかけていた瞼が一気に引き上がり、彼は無言のまま日向少尉に驚愕の視線を向けたのだ。
日向少尉も源一郎の行動を予期していたのか、真剣な眼差しを彼に送った。
「大洗警察官、書類はたんまり残っておりますよ」
それが合図だった。
源一郎はすぐに書類に視線を戻して、納得したように小さく頷く。
「……へへっ、そういうことかよ」
「どうぞ、アナタのセリフですよ」
黒鷺は二人の独特なやりとりを見て、ハッと息を飲んだ。
本棚の引き出しまでは確認していない。
なぜ日向少尉は引き出しを開けられたことに全く動じなかったのか、わざわざ引き出しに細工までして注意を自分の机に向け――源一郎を待っていた。
突然、黒鷺は血の気が引くような感覚に襲われた。
書類を確認しなければならない――黒鷺が一歩前に出る。
だが、そのときだった。
「――ふっざけんじゃねぇ! なんでこんなめんでくせぇ書類を押し付けられなきゃいけねぇーんだ! お前が処理しろ!」
突然、源一郎が顔を真っ赤にして怒鳴り出す。
さらに続けて、書類をくしゃくしゃにまとめて引き出しに叩きつけ、そのまま本棚ごと足蹴にして強引に書類を引き出しの中に押し込めてしまった。ドカンと部屋に響く音が鳴り止む前に、日向少尉が慌てて立ち上がる。
「大洗警察官なんてことを!」
「っるせぇ! 俺は誰の指図も受けねぇーよ!」
急に激怒した源一郎は、頭を降りながら部屋を出て行こうとする。日向少尉も黒鷺もさすがに止めに入ろうとしたが、そんな二人を軽々と振り払って源一郎はドアノブに手をかける――その瞬間、廊下側から突然ドアが開かれた。
「おいおーい大丈夫かい? こっちにも凄い音が聞こえてきたけど……」
現れたのは隣の部屋にいるはずの班長。
本棚を蹴飛ばす音が隣の部屋にまで響いてしまったのだろう。
黒鷺は班長に目配せをする。
班長もそれで全てを理解したかのように、小さく頷いた。
「へへっ、なんだお前か……はははっ!!!」
今度は大笑いする源一郎。
相当酔っ払っているのか、黒鷺もさすがに対応に悩んでしまう。
しかし、班長は呆然としている黒鷺を一目見てから一歩前に進み出て、両腕を前に差し出してカタカタと体を揺らす源一郎の両肩をしっかりと支える。
「ゲンさん、あんたさすがに飲み過ぎだよ?」
「はいはい……班長さんよぉ、俺はこいつとやってらんねぇーよ」
「まぁまぁゲンさん、ちょ、ちょっと、こっちで話そう。黒鷺くん、あとはよろしくね!」
「は、はい……」
こうして源一郎は班長に連れられて廊下に出されてしまう。
嵐が去った後の静けさを取り戻した室内。
二人は同時にホッと大きく息を吐いて席につく。
すっかり呆れた様子の日向少尉を見つめていると、再び目が合った。
「あの人はずっとあの感じですか?」
「い、いや……今日はさすがにひどいというか……」
「誠に遺憾ですが、今日の出来事も報告書に書かないと……まぁ別にいいか。どうでもいい」
黒鷺は大きな独り言だと思って返事はしなかった。ただ、横目で見た日向少尉の表情はどこか冷め切っていた――「どうでもいい」という言葉だけが妙に頭の中に滞留する。
「さぁ、私たちは私たちの仕事をしましょうか」
また大きな独り言。まもなく日向少尉は再び机の引き出しから新しい紙を用意して、報告書の作成を開始し、黒鷺は渡された報告書に目を通す。源一郎がくしゃくしゃにした書類は、日向少尉が帰ったときに見ようと決めた。
カリカリとペン先が紙に擦れる音が空間を支配する。
今のところ進捗はなし――黒鷺は視界の端に日向少尉を捉えながら、ひたすらに退屈な時間を過ごしたのだった。
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