見たもの
火曜日の朝、修が起きたとき、樹はもう家を出ていた。
台所のテーブルには、何も置いていなかった。修は顔を洗い、着替えて、店に電話をかけた。佐々木に、午前中は休む、と言った。佐々木は理由を訊かなかった。
カーポートの車に乗り、ダッシュボードの物入れから倉持の名刺を出した。携帯で、名刺の番号を押した。
「柏木です。東原の交差点の件で、話したいことがあります」
電話の向こうで、倉持は少しのあいだ黙った。それから、十時に署へ来てください、と言った。
通されたのは、取調室ではなかった。
廊下の奥の、窓のある小さな部屋だった。会議用の長机が一つと、パイプ椅子が四つあった。壁に、交通安全の標語のポスターが貼ってあった。倉持は修の向かいに座り、若い刑事は、机の端でノートパソコンを開いた。
「どうぞ」と倉持は言った。
修は話した。
十一月七日の夜、東原交差点の手前で赤信号を待っていたとき、白い自転車が車の前を横切ったこと。息子の自転車だったこと。次の夜、店の駐車場で、ドライブレコーダーの映像を十五秒だけ見て、止めたこと。歩道の端で止まった乗り手の背中は、息子より小さく、細かったこと。黒い上着の背中の真ん中に、白い円があったこと。それが、駅前のラーメン屋「轍」の、のれんと同じ印だと思うこと。
続きを見ずに、カードを抜かずに、翌朝いつもどおり運転して、映像を消したこと。十一月十二日と二十二日に、猫だと言ったこと。両方とも嘘だったこと。
話し終えるまでに、二十分かからなかった。三週間近く、黙っていたことだった。
若い刑事のキーボードの音が止まった。
倉持は、手帳から目を上げた。
「乗っていたのが誰か、ご存じですか」
「見たのは、背中だけです」と修は言った。「見たものを、話しました」
倉持は、修の顔をしばらく見ていた。
「柏木さん。正直に申し上げますと、今のお話を、そのまま信じることは、私にはできません」
「はい」
「二度、猫だとおっしゃった方ですから。息子さんの疑いを晴らすために、別の話を作っておられる。そういうふうにも、聞こえる」
「……はい」
「ですが」と倉持は言った。「背中の印は、確かめられます。店の上着なら、店が誰に渡したか分かる。上着は、どこかにある。あれば、見れば分かる」
倉持は手帳に、何か短く書いた。
「あなたの言葉ではなく、それを確かめます」
修はうなずいた。
「それから」倉持は手帳を閉じた。「あなたが話さなかったこと、二度嘘をつかれたこと。それは、それで、別にお話を伺うことになります。今日の調書にも、そのまま残ります」
「はい」
倉持は、少し間を置いた。
「どうして、今になって」
修は、窓の外を見た。駐車場の向こうに、葉の落ちた低い木の植え込みがあった。日曜日に、修が車の中から見ていた植え込みだった。
「三浦さんが、昨日、亡くなったので」と修は言った。
それから、もう一つ言おうとした。息子に、先に話してから来たかったので。それは、倉持に言うことではない気がした。
倉持は、それ以上は訊かなかった。
午後から、修は店に出た。
五時に、恵美が通用口から入ってきた。
修は事務所にいた。窓から、恵美が自転車を停めて鍵をかけ、手提げを持って表へ回るのを見ていた。いつもと同じ順番だった。
恵美は今日、何も知らない。修は、それが分かっていた。倉持は、まず駅前の店へ行く。誰に上着を渡したかを確かめる。それから、恵美の家へ行く。今日か、明日か。
恵美は、表の入口から入ってきて、掲示板の前を通った。今日は立ち止まらなかった。売場を抜けて、事務所の前を通るとき、戸口から顔を出した。
「お疲れさまです。今日、昨日より暖かいですね」
「……ああ。お疲れさま」
修は、恵美の顔を見られなかった。パソコンの画面を見ていた。恵美は、ちょっと首を傾げて、休憩室へ入っていった。ロッカーの扉の音がした。
その日、恵美は閉店まで働いた。修は一度も、恵美と同じ通路に立たなかった。十時に、恵美は事務所の前を通って、お先に失礼します、と言った。修は、お疲れさま、と言った。恵美の自転車のライトが駐車場を横切って、道路へ出ていった。
家に帰ると、樹の部屋の明かりはついていた。戸の前を通るとき、修は足を止めなかった。
水曜日、恵美は五時に通用口から入ってこなかった。
五時を十分過ぎて、修が事務所の窓から駐車場を見ていると、表の入口の方から、恵美が売場を抜けて歩いてくるのが見えた。
エプロンをしていなかった。ベージュのコートを着て、手提げを持っていなかった。自転車は、通用口の脇になかった。歩いてきたのだった。
恵美は事務所の戸口に立った。中に入らなかった。
「店長」
修は椅子から立ち上がった。
「今朝、警察の人が来ました。うちに」
恵美の声は、ふだんと同じ大きさだった。売場の音楽が、恵美の後ろで小さく鳴っていた。
「拓真の、お店の上着を、出してくださいって。駅前のお店で、拓真に二枚渡してるって。一枚は洗い替えで家にあるけど、もう一枚はって」
恵美は、コートのポケットに両手を入れていた。
「出しました」
修は、机の端に手をついていた。
「押し入れの奥に、しまってあったんです。あの夜から。右の肘のところが、破れてて。袖口に、泥がついてて。洗おうと思って、洗えなくて。捨てようと思って、捨てられなくて」
恵美は、少し笑った。笑ったように、口の端が動いた。
「なくしたって、言うつもりだったんです。ずっと。刑事さんが来たら、なくしましたって。どこでなくしたか、いつ気づいたか、ちゃんと考えて、言う練習も、したんです。お風呂で」
恵美は、戸口の枠を見ていた。
「でも、玄関開けて、刑事さんの顔見たら。ああ、もう、見つかってるんだって。見つかってから嘘ついたら、いちばん駄目でしょう」
恵美の目が、修に戻った。
「拓真、話しました。全部。刑事さんの前で、上着見て。泣いて」
修は、何も言えなかった。
「店長が、言ったんですよね」
「……言った」
恵美はうなずいた。分かっていた、という顔だった。
「刑事さん、何も言わなかったけど。でも、分かりました。駅前のお店の上着だって、すぐ分かる人なんて、ほかにいないもの」
恵美は、ポケットから手を出した。両手を、コートの前で組んだ。
「樹くん、ずっと疑われてたの、知ってました。わたし」
恵美の声が、少しだけ低くなった。
「掲示板の、あのビラの、シールの一行。読んだとき、樹くんの自転車だって分かった。拓真が乗って帰ってきた自転車だって。分かってて、黙ってました。樹くんが警察に呼ばれても、黙ってました。拓真が借りてないって言ったのも、黙って聞いてました。土曜日、店長に、樹くん大丈夫ですよねって訊いたの。大丈夫じゃないの、知ってて」
修は、恵美を見ていた。
「店長も、黙ってたでしょう」と恵美は言った。「三週間」
「……ああ」
「同じですね」
恵美はそう言って、それ以上は言わなかった。
売場の音楽が、次の曲に変わった。
「今日は、休ませてください」と恵美は言った。「明日からのことは、また」
恵美は頭を下げた。深くはなかった。顔を上げて、修を一度見て、それから売場の方へ歩いていった。棚のあいだを抜けて、入口の自動ドアへ。掲示板の前で、少しだけ歩く速さが落ちた。止まりはしなかった。自動ドアが開いて、閉じた。
修は、机の端に手をついたまま、立っていた。
夜、家に帰ると、樹の部屋の明かりは消えていた。
戸の下からも、光は漏れていなかった。修は階段の下に立って、二階を見上げた。寝ているのか。起きていて、明かりを消しているのか。分からなかった。
台所の流しに、マグカップが一つ置いてあった。底に、牛乳の膜が乾いて張りついていた。
修はそれを洗った。洗いながら、今朝、警察が恵美の家の玄関に立っていたころ、樹は学校にいたのだろうか、と思った。拓真は学校へ行かなかっただろう。樹は、それをいつ知ったのか。誰から聞いたのか。
修は、マグカップを水切りかごに伏せた。
二階は、静かなままだった。




