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目撃者を探しています  作者: 久賀ラトル


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8/10

まだ貼っておいてください

 月曜日の午後四時に、三浦が店に来た。

 修は売場で、精肉の棚の値引きシールを確かめていた。サービスカウンターの佐々木が、店長、三浦さん、と小声で呼んだ。修が入口の方を見ると、三浦は掲示板の前に立っていた。

 黒い服を着ていた。コートの下に、黒いワンピースの裾が見えていた。

 修は、値引きシールの台紙を持ったまま、入口まで歩いた。歩きながら、それを棚に置いてくればよかったと思った。置きに戻ることはしなかった。

 三浦は、修を見て頭を下げた。

「父、今朝、亡くなりました」

 自動ドアが開いて、客が二人入ってきた。三浦は、少しだけ掲示板の方へ寄って、道を空けた。

「朝の五時に、病院から電話があって。間に合いませんでした。行ったときには、もう」

「……」

「この前、目を開けたでしょう。あれから、少しずつ、手を握る力が強くなってて。先生も、もしかしたらって。でも、ゆうべ、急に熱が出て。肺炎だそうです。年寄りには、よくあることだって」

 三浦は、自分の手を見た。十日前、駅前で、握り返してきたと言っていた手だった。

「お店の方には、本当にお世話になったので。店長さんにも、何度も手伝っていただいて。それで、ご挨拶だけと思って」

 修は、何か言わなければならなかった。

「……ご愁傷さまです」

 言ってから、それが、店長が客の家族に言う言葉だと分かった。修は値引きシールの台紙を握っていた。

「ビラ」と修は言った。「外しましょうか。もう」

 三浦は掲示板を見た。真ん中のビラ。人の目の高さの、太い字の一行。修が先週、四隅に画鋲を押した紙だった。

「いえ」と三浦は言った。「まだ、貼っておいてください」

 三浦は、ビラから目を離さなかった。

「父はもう、顔を見られないけど。わたしは、まだ見たいので。その人の顔」

 それから、修の方を向いて、もう一度深く頭を下げた。

「本当に、ありがとうございました」

 自動ドアが開いた。三浦は出ていった。駐車場を横切って、バス停の方へ歩いていった。黒いワンピースの裾が、コートの下で揺れていた。

 修は、自動ドアの内側に立っていた。


 十分後、修は駐車場の自分の車の運転席にいた。

 仕事中に車に戻ったことは、これまで一度もなかった。佐々木には、銀行に行ってくる、と言った。エンジンはかけなかった。ルームミラーの裏の本体は、黒い画面のまま黙っていた。

 火曜日の夜だった、と修は思った。

 樹が、違う、と言った夜。布団の上で、背中の低さと、白い円と、駅前ののれんと、ガーゼの手を、一つにつないだ夜。あの夜、修は、あと一日、と思った。

 水曜日。木曜日。金曜日。土曜日。日曜日。そして、今朝。

 六日だった。

 火曜日の夜に倉持に電話をしていたら、と修は思った。思ってから、それが本当かどうかを考えた。警察は、駅前のラーメン屋へ行っただろう。黒い上着を調べただろう。拓真に行き着いただろう。それが何日かかったかは、分からない。行き着いたとして、拓真が病院へ謝りに行ったかどうかも、分からない。三浦の父が、目を開けているときに、その顔を見られたかどうかも。

 分からなかった。分からないことを、分からないまま、修は数えた。

 六日。

 それから、十一月八日の夜。駐車場のこの場所で、再生ボタンに親指を置いて、押さなかった夜。あの夜に押していたら、何日だっただろう。

 修は、数えるのをやめた。

 ダッシュボードの物入れに、倉持の名刺が入っていた。財布から出して、そこへ移してあった。財布に入れておくと、金を払うたびに目に入るからだった。

 こういうことは、あとになるほど、重くなる、と倉持は言った。

 樹は、日曜日に警察で何も言わなかった。言わないまま、また呼ばれる。呼ばれるたびに、父親が猫と言ったことが、樹の横に置かれる。父親が息子を庇っている。その筋の中に、樹は立たされている。修が立たせている。

 修は、名刺を取り出さなかった。

 物入れの蓋を閉めて、車を降りた。


 その夜、修は台所のテーブルで待たなかった。

 十時に、階段を上がった。

 樹の部屋の戸の前に立った。戸の下から、細く明かりが漏れていた。中は静かだった。音楽も聞こえなかった。

 修は戸を叩いた。

 二度。

 中で、何かが動く音がした。それから、静かになった。

「樹」と修は言った。「下に来てくれ。話がある」

 返事はなかった。

 修は、戸の前に立っていた。もう一度叩こうとして、やめた。階段を下りて、台所の明かりをつけ、テーブルの椅子を二つ、引き出した。片方に座った。

 五分ほどして、階段の音がした。

 樹は台所の戸口に立った。スウェットの上下で、裸足だった。修が引き出した椅子を見て、それから修を見た。座らなかった。戸口の柱に、肩を預けた。

 修は、テーブルの上で手を組んだ。

「明日、警察に全部話す」

 樹は、柱にもたれたまま、動かなかった。

「あの夜、俺は東原の交差点にいた。赤信号で止まってた。お前の自転車が、車の前を横切った。前かごが曲がってて、ライトが消えてた。シールが見えた」

 修は、テーブルの木目を見ていた。顔を上げると、話せなくなる気がした。

「お前だと思った」

 台所の時計の秒針の音がした。

「次の日、店の駐車場で、ドライブレコーダーで見た。十五秒だけ見て、止めた。続きを見なかった。カードを抜けば残るのは知ってた。抜かないで、次の朝、いつもどおり運転して、店に行った。それで、消えた」

 修は、息を吸った。

「警察には、猫だと言った。二回」

 樹は、何も言わなかった。

 修は、顔を上げた。

 樹は、柱にもたれたまま、修を見ていた。何かを堪えている顔ではなかった。何かを待っている顔でもなかった。ただ、聞いている顔だった。十年前、この台所で、修が仕事の話をするのを、テーブルの端から見上げていた顔に、少しだけ似ていた。

「……なんで、今なんだよ」と樹は言った。

「三浦さんが、今朝、亡くなった」

 樹の肩が、柱から少し離れた。

「はねられた、おじいさん。娘さんが、店に来た。今朝の五時だって」

 樹は、戸口の床を見た。裸足の指が、床板の継ぎ目の上で、少し縮んだ。

「……それ」と樹は言った。「知ってんのかな」

 誰が、とは言わなかった。修も、訊かなかった。

 しばらく、二人とも黙っていた。冷蔵庫のモーターが唸りはじめて、止まった。

「誰が乗ってたか」と樹は言った。「言うのか」

「見たものを言う」

「見たもの」

「背中だ」と修は言った。「背中しか見てない。顔は見てない。背中に、白い円があった。黒い上着の」

 樹は、修の顔を見ていた。

 修は、それ以上説明しなかった。白い円が何の印なのか、樹は知っている。誰がその上着を着て働いているのかも、知っている。

「拓真の母さん」と樹は言った。「あんたの店で、働いてるんだぞ」

「知ってる」

「毎日、会うんだぞ」

「知ってる」

 樹は、柱から肩を離した。戸口に、まっすぐ立った。

「言ったら」と樹は言った。「一生、許さない」

 修は、樹を見ていた。

 何か言おうとは、もう思わなかった。言うことは、さっき全部言った。言わずに決めることも、できた。明日の朝、樹が学校へ行っているあいだに、黙って警察へ行くこともできた。そうしなかった理由を、修は説明しなかった。説明できる言葉を、持っていなかった。

「分かった」と修は言った。

 それは、行かないという意味ではなかった。樹にも、それは分かったようだった。

 樹は、何か言いかけて、やめた。戸口を離れて、階段を上がっていった。足音は、途中で一度止まった。それから、また上がっていった。戸が閉まった。大きな音ではなかった。

 修は、台所のテーブルに一人で座っていた。

 向かいの、引き出した椅子は、誰も座らないまま、そこにあった。修は立ち上がって、その椅子を、テーブルの下へ戻した。


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