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目撃者を探しています  作者: 久賀ラトル


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7/10

台所のテーブル

 土曜日の夕方、恵美は出勤してすぐ、事務所の戸口に立った。

 エプロンの紐を後ろで結びながら、戸口から動かなかった。修がパソコンの画面から顔を上げると、恵美は結び目を作り終えた手を、そのまま後ろに回していた。

「店長。昨日、拓真も、警察の人に話を聞かれたんです」

 修は、マウスから手を離した。

「学校で。樹くんの自転車のことで」恵美は言った。「よく借りてたでしょうって。その日も借りたんじゃないかって。拓真、借りてないって言ったって。その日は借りてないって」

 恵美は、修の顔を見ていた。

「あの子、借りてないって」

 事務所の外で、カートの車輪の音がした。品出しの台車が通り過ぎていった。

 修は、恵美を見ていた。恵美の目は、修の目から逸れなかった。何かを確かめようとしている目だった。修が何を知っているのか。知っていて、どうするつもりなのか。それとも、何も確かめていないのかもしれなかった。ただ、言わずにはいられなかったのかもしれなかった。

「……そうか」と修は言った。

「樹くん」と恵美は言った。「大丈夫ですよね」

 それは、問いの形をしていた。

 修は、自分がいま、扉の前に立っているのが分かった。恵美のほうから開けてきた扉だった。拓真くんは、あの夜、何を着てた。そう一つ訊けば、恵美は答えなければならなくなる。答えなくても、答えないことが答えになる。

「……大丈夫だと思う」と修は言った。

 恵美は、少しのあいだ黙っていた。

「そうですよね」

 恵美は頭を下げ、売場へ出ていった。

 修はパソコンの画面に目を戻した。来週の特売の発注の表だった。数字の列を、上から下まで見た。何も頭に入らなかった。扉は、修が自分で閉めたのだった。


 その夜、十時過ぎに、樹が台所へ下りてきた。

 修がテーブルにいるのを見て、樹は戸口で止まった。それから、下りてきた。冷蔵庫には行かなかった。テーブルの向かいに立って、言った。

「明日、警察行く」

「……」

「学校から電話あった。担任から。警察が、もう一回話を聞きたいって。日曜の十時。家族と一緒にって」

「俺が行く」と修は言った。

「いい」

「樹」

「母さんに来てもらう。もう電話した。朝の電車で来るって」

 樹は、修を見ていた。火曜日の夜と同じ目だった。

「あんた、来なくていい。来たら、また猫って言うんだろ」

 修は、何か言おうとした。言うことは、いくつもあった。どれも、言えば別のことを言わなければならなくなることだった。

「……分かった」と修は言った。

 樹は、それを聞いて、少し意外そうな顔をした。何か言い返されると思っていた顔だった。それから、何も言わずに階段を上がっていった。


 日曜日の朝、修は車で駅へ迎えに行った。

 樹は、来なくていいと言った。修は、駅から警察署までの道を知っているのは自分だけだから、と言った。樹は何も答えなかった。玄関を出て、後ろの座席に座った。

 妻は、改札の前に立っていた。

 三年ぶりだった。髪が短くなっていた。グレーのコートを着て、小さな鞄を一つ持っていた。修の車を見つけて、一度だけ目を細め、それから後ろの座席のドアを開けて、樹の隣に座った。

「久しぶり」と妻は言った。修にではなく、樹に言った。樹は、うん、と言った。

 警察署までの十五分、車の中で話したのは妻と樹だけだった。朝ごはん食べた。食べた。寒くない。寒くない。修はハンドルを握って、前を見ていた。ルームミラーの裏で、赤い丸が点滅していた。

 警察署の駐車場に車を停めた。

 樹が先に降りた。妻は、ドアに手をかけて、それから修の方を向いた。

「樹に、何か訊いた?」

「……訊いた。火曜日に」

「火曜日」と妻は繰り返した。「事故は、七日でしょう」

 修は黙っていた。

「樹から電話があったの。昨日の夜。お父さんがずっと、俺がやったと思ってたって。警察に、嘘ついてるって」

 妻は、修の横顔を見ていた。

「あなたは、訊かないのね。いつも」

 責める声ではなかった。三年前に、同じことを言ったときと同じ声だった。何度も言って、言い尽くした人の声だった。

「ここで待ってて」と妻は言った。「入ってこないで。樹が、嫌がるから」

 妻は車を降りた。樹と並んで、警察署の正面の階段を上がっていった。ガラスの扉が開いて、二人を入れて、閉じた。


 修は、運転席に座っていた。

 日曜日の警察署の駐車場には、車が少なかった。正面の植え込みの、葉の落ちた低い木の向こうに、ガラスの扉が見えていた。

 あの扉の向こうに、三十一年前にも、修は入っていったことがある。この警察署ではない。生まれた町の、もっと小さな警察署だった。


 十七歳の冬だった。

 夜の九時過ぎ、友達の家から原付で帰る途中、修は角を曲がったところで、道の端を歩いていた人をはねた。近所の、一人暮らしのおばあさんだった。ハンドルに、ぐにゃりとした手応えがあった。修は転ばなかった。止まらなかった。そのまま走った。

 一度だけ、振り返った。

 街灯の下に、黒い塊が見えた。動いているのか、動いていないのか、分からなかった。修は前を向いて、アクセルを開けた。

 家に帰ると、台所に明かりがついていた。

 父がテーブルにいた。郵便局の局長をしていた父は、夜、台所で書類を読むのが習いだった。テーブルには、母が掛けたビニールのクロスが掛かっていた。花の模様の、角のところが擦り切れたクロスだった。

 修が台所に入ると、父は書類から顔を上げなかった。

 しばらくして、遠くで救急車の音がした。音は近づいてきて、すぐ近くで止まった。

 父は顔を上げた。窓の外の、音のした方を見た。それから、修を見た。修の顔と、修の手を見た。修の手は、震えていた。

「お前か」と父は言った。

「うん」と修は言った。

 父は何も言わなかった。

 湯呑みを持ち上げて、冷めた茶を一口飲んで、クロスの上に置いた。置くとき、湯呑みの底が、こつ、と小さな音を立てた。それから、また書類に目を落とした。修は台所の戸口に立っていた。父がもう一度顔を上げるのを待っていた。父は顔を上げなかった。修は二階へ上がって、布団をかぶった。一晩じゅう、眠れなかった。

 次の朝、父は修を車に乗せて、警察署へ行った。

 車の中で、父は一言も話さなかった。警察署の受付で、父は、息子がゆうべ人をはねました、と言った。それだけ言って、あとは、修が警官に話すのを、廊下の長椅子に座って聞いていた。

 おばあさんは、腰の骨を折っていた。命は助かった。修は家庭裁判所へ行き、保護観察になり、高校をやめた。町では、局長さんが自分で息子を突き出したそうだ、と言われた。父は、修にも、誰にも、そのことについて何も言わなかった。なぜ連れていったのか。なぜ何も言わなかったのか。修は訊かなかった。父も言わなかった。

 十八で、修は町を出た。父は止めなかった。

 二十八で結婚したとき、父は祝儀だけを送ってよこした。式には来なかった。修は礼状を書かなかった。

 三十八のとき、母が死んだ。

 修は、喪主の父の隣に座った。通夜でも、告別式でも、二人は隣に座っていた。修は、父が何か言うのを待っていた。父も、修が何か言うのを待っているような気がした。火葬場の待合で、父は一度だけ修の方を見た。湯呑みを持ち上げて、置いた。こつ、と小さな音がした。

 それきりだった。

 父は今、七十八歳で、隣の市に一人で暮らしている。生きていることは、年賀状が来なくなっていないことで分かる。年賀状には、印刷の字しかない。


 植え込みの向こうで、ガラスの扉が開いた。

 出てきたのは、樹と妻ではなかった。知らない家族だった。扉はまた閉じた。

 修は、ハンドルの上に両手を置いていた。

 父は、なぜ連れていったのだろう。三十一年、修はそれを、体面のためだと思ってきた。局長の息子が、人をはねて逃げた。隠しても、いずれ分かる。分かる前に、自分で差し出した。そう思えば、父を憎むことができた。憎んでいれば、訊かなくて済んだ。

 訊いて、答えが返ってくるのが怖かった。体面のためだ、と言われたら、それで終わる。違うと言われたら、それも、それで終わる。

 お前か、と父は訊いた。

 うん、と答えた。

 答えたから、決まったのだった。

 だから修は、十一月八日の朝、樹に訊かなかった。あの夜、再生ボタンを押さなかった。答えが返ってきたら、決まってしまうから。決まったら、自分は、父と同じことをするのか。しないのか。それを、知りたくなかった。

 知りたくなかったから、見なかった。見なかったから、消えた。

 消えたものの中に、樹ではない顔があった。


 十二時を過ぎて、ガラスの扉が開いた。

 樹と妻が出てきた。階段を下りて、駐車場を横切ってきた。樹は、修の車の手前で立ち止まった。妻が、助手席の窓を叩いた。修は窓を下ろした。

「何も言わなかった」と妻は言った。「貸した相手の名前。最後まで」

 妻は、窓枠に手をかけた。

「刑事さんが、お父さんは何か知っておられるんじゃないかって。わたしに訊いたの。知りませんって言った。知らないから」

 妻は、修の顔を見ていた。

「あなた、何か知ってるでしょう」

 修は、ハンドルを見ていた。

「……」

「そう」

 妻は窓枠から手を離した。

「樹と、お昼を食べて帰る。駅まで、自分たちで行くから」

 樹は、修の車を見ていなかった。駐車場の出口の方を見ていた。

「それから」と妻は言った。「冬休みから、しばらくうちに来るかって、樹に訊いたの。考えるって」

 妻と樹は、並んで駐車場を出ていった。大通りのバス停の方へ歩いていった。修は、その二つの背中を、見えなくなるまで見ていた。

 どちらも、振り返らなかった。


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