猫ですか
水曜日の夕方五時、恵美はいつものように通用口から入ってきた。
修は事務所の窓から、それを見ていた。恵美は自転車を通用口の脇に停め、鍵をかけ、前かごから布の手提げを取った。それから店の表へ回った。夕方のシフトの人は、たいてい表の入口から入って、売場を抜けて事務所へ来る。そのほうが、売場の様子が分かるからだった。
修は事務所を出て、売場の端から入口の方を見た。
恵美は、掲示板の前に立っていた。
手提げを肘にかけたまま、真ん中のビラを見ていた。新しいビラだった。人の目の高さに、太い字の一行がある。恵美は、その一行のところで目を止めていた。止めたまま、動かなかった。自動ドアが、恵美の背中のあたりで開いて、閉じた。客が一人、恵美の横をすり抜けて入ってきた。恵美は、すみません、と言って半歩よけた。それから、またビラを見た。
修は、売場の棚の陰に立っていた。
恵美が何を読んでいるのかは分かった。後輪の泥よけに、青い四角のシール。
恵美は、樹の自転車を知っている。拓真が乗って帰ってくる自転車を、知っている。
恵美は手提げを肘から手に持ち替え、掲示板から離れた。売場を抜けて、事務所の方へ歩いてきた。棚の陰の修に気づいて、ちょっと驚いた顔をして、それから笑った。
「お疲れさまです。今日、寒いですね」
「ああ。お疲れさま」
恵美は修の横を通って、休憩室へ入っていった。ロッカーの扉が開く音がした。
修はしばらく、棚の陰に立っていた。
六時の休憩のとき、休憩室には恵美しかいなかった。
恵美は長机の端で、家から持ってきたおにぎりを食べていた。修は自動販売機で缶コーヒーを買って、恵美の斜め向かいに座った。店長が休憩室で座ることは、あまりなかった。恵美はおにぎりを持ったまま、少し背を伸ばした。
「あ、すみません、散らかして」
「いや」
修は缶を開けた。開けて、口をつけずに机に置いた。
「拓真くん」
恵美の手が、おにぎりの包みのところで止まった。
「最近、どうしてる」
恵美は修を見た。
修も恵美を見ていた。三十秒くらい、だったかもしれない。もっと短かったかもしれない。休憩室の壁の時計の音がした。
「相変わらずですよ」と恵美は言った。「バイトばっかりで。勉強しなさいって言っても、ねえ」
「……そうか」
「樹くんは? 最近、拓真、あんまり樹くんの話しないんですよ。喧嘩でもしたのかな」
恵美はそう言って、おにぎりの包みを丁寧に畳んだ。畳んで、また広げて、もう一度畳んだ。
修は、何か言おうとした。
手のひらの怪我は、どうしたの。
あの夜、拓真くんは、何時に帰ってきた。
黒い上着は、今、どこにある。
どれを言っても、恵美は何か答えるだろう。そして答えたことを、修は聞いてしまう。聞いたら、その先がある。
「……いや。俺も知らない」と修は言った。「あいつ、何も話さないから」
「男の子って、そうですよね」
恵美は笑った。休憩が終わる五分前に、恵美は立ち上がって、お先に、と言って売場へ戻っていった。
修は缶コーヒーを飲んだ。ぬるくなっていた。
木曜日も、修は何も言わなかった。
朝、樹は修より早く家を出た。夜、樹は修より遅く台所へ下りてきた。修がテーブルにいると、下りてこなかった。修が寝室に入ると、階段の音がした。冷蔵庫の扉の音がした。修は布団の中でそれを聞いていた。
あと一日、と火曜日の夜に思った。それが水曜日になり、木曜日になった。
毎晩、明日、と思った。明日の朝、倉持に電話をする。明日の夜、樹ともう一度話す。明日。そう思うと、眠ることができた。
金曜日の夜八時に、家の呼び鈴が鳴った。
修が玄関を開けると、倉持が立っていた。後ろに、若い男がもう一人いた。二人とも、背広の上にコートを着ていた。
「夜分にすみません。柏木さん。息子さん、ご在宅ですか」
修は、玄関の土間に立ったまま、倉持を見た。
「市内の高校に、自転車通学の許可の記録を問い合わせていましてね。シールの番号の範囲と色で、学校が分かりました。今日、学校を通じて、何人かの生徒さんにお話を伺って」
倉持は穏やかな声で言った。
「その中で、息子さんの自転車を、ちょっと拝見したいと思いまして」
修は、外に出た。
倉持と若い刑事は、カーポートの横の自転車置き場の前に立った。若い刑事が懐中電灯をつけた。光の輪の中に、白い自転車が浮かんだ。曲がったままの前かご。割れたライト。泥よけの、青い四角のシール。
あの夜から、二週間、誰も直していない自転車だった。
若い刑事が、何枚か写真を撮った。フラッシュが光るたびに、前かごの影が波板の屋根に跳ねた。倉持は黙ってそれを見ていた。それから、家の方を振り返った。
玄関の戸口に、樹が立っていた。
居間で、倉持は樹に話を聞いた。
修は、樹の隣に座った。未成年なので、ご家族の方に同席していただきます、と倉持は言った。若い刑事は、手帳を膝に置いて、壁際の椅子に座った。
「この自転車は、きみのだね」
「はい」
「十一月七日の夜九時ごろ、これに乗っていたのは、きみ?」
「違います」と樹は言った。「貸してました。その日の昼から」
「誰に」
「言いません」
倉持は、少し間を置いた。
「言いたくない理由があるのかな」
「友達なんで」
樹はそれだけ言った。膝の上で、手を組んでいた。修は、その手を横から見ていた。指の関節が白かった。火曜日の夜、寝室の布団の上で、自分の手がそうなっていたのを、修は思い出した。
倉持はそれ以上、名前を訊かなかった。樹の学校のこと、帰りの時刻、あの夜家にいたかどうか。樹は短く答えた。九時には家にいた。部屋で寝ていた。それを見た人は、いない。父は会議で遅かった。
倉持は手帳を閉じた。
「柏木さん。少し、外でいいですか」
自転車置き場の前で、倉持は修と向き合った。若い刑事は、少し離れた門のところに立っていた。
「柏木さん」と倉持は言った。声は、居間にいたときと変わらなかった。「あの夜、あなたの車の前を横切ったのは、息子さんの自転車なんですよ」
修は黙っていた。
「シールも、前かごも。こうして、ここにある。あなたは、毎日これを見ていたはずです。二週間」
倉持は、自転車の前かごに目を落とした。
「それでも、猫ですか」
波板の屋根の端から、水が一滴落ちた。昼のあいだに降った雨の残りだった。
修は、口を開けた。
猫ではありませんでした。自転車でした。乗っていたのは、たぶん息子ではありません。背中に、白い円が。
門のところで、若い刑事が手帳を開いていた。玄関の戸は、少し開いていた。
「……猫だと、思いました」と修は言った。「暗かったので」
倉持は、修の顔をしばらく見ていた。
「お父さんが、自分の息子の自転車を見間違えるとは、私には思えないんですがね」
修は答えなかった。
「庇っておられるなら」と倉持は言った。「それは、息子さんのためになりませんよ。こういうことは、あとになるほど、重くなる」
倉持は軽く頭を下げた。また伺います、と言った。二人は門を出て、通りに停めた白いセダンに乗った。エンジンがかかり、ライトがつき、車は坂を下りていった。
修が玄関に戻ると、樹が戸のすぐ内側に立っていた。
樹は、全部聞いていた顔をしていた。
「なんで、猫なんだよ」
修は、靴を脱ごうとしてかがんでいた。かがんだまま、止まった。
「俺じゃないって、言っただろ。火曜日に」
「……」
「なのに、なんで猫なんだよ。見たんだろ。チャリが前を通るの」
修は顔を上げた。
樹は、修を見下ろしていた。玄関の明かりが、樹の後ろから差していて、顔が暗かった。
「俺のこと、庇ってるつもりかよ」
なぜ猫と言い続けるのかを言えば、背中の白い円のことを言うことになる。修は黙っていた。
「……俺のせいにすんなよ」
樹は階段を上がっていった。戸が閉まった。今度の音は、いつもより大きかった。
修は、玄関の土間にかがんだまま、片方だけ脱いだ靴を見ていた。




