白い円
火曜日の昼、三浦が新しいビラを持って店に来た。
事務所の戸口に立って、束から一枚抜いて差し出した。
「書き直したんです。古いのと、替えていただけますか」
紙は前と同じ大きさだった。見出しも、日付も、横断歩道の場所も同じだった。違うのは、真ん中に一行、太い字が足されていることだった。
自転車は白っぽい色で、後輪の泥よけに、青い四角のシールが貼ってあったそうです。
「土曜日に、電話をいただいたんです。ビラを見た方から」と三浦は言った。「あの夜、交差点の西の歩道を歩いていて、自転車に追い抜かれたって。すごい勢いで、危ないなと思って見たら、後ろに青いシールが光ってたって。それで、警察に伝えたら」
三浦は束を抱え直した。
「高校の、自転車通学のシールかもしれないって。今、市内の高校に問い合わせてるって、警察の方が」
修はビラを受け取った。
手の中で、紙の端が少し震えた。修は、それが自分の手のせいだとは思わなかった。事務所の暖房の風のせいだと思った。
「替えておきます」
「すみません、お忙しいのに」
三浦が帰ってから、修は入口の掲示板の前へ行った。
古いビラの四隅の画鋲を、一つずつ抜いた。自分で押した画鋲だった。抜くと、紙の角に小さな穴が四つ残った。修は新しいビラを同じ場所に当てて、四隅を押した。真ん中の一行が、ちょうど人の目の高さに来た。
後輪の泥よけに、青い四角のシール。
今年の春、台所のテーブルで、修はそのシールの台紙を剥がした。樹が横で見ていた。まっすぐ貼れよ、と言った。
古いビラを四つに畳んで、修はエプロンのポケットに入れた。
その夜、修は台所のテーブルで待っていた。
缶ビールは開けなかった。十時を過ぎて、二階の戸が開いた。階段を下りてくる足音がした。樹は台所に入ってきて、修がいるのを見て、少しだけ足を止め、それから冷蔵庫を開けた。
「樹」
樹は冷蔵庫の扉に手をかけたまま、振り向かなかった。
「座れ」
「なんで」
「いいから」
樹は扉を閉めた。麦茶のボトルを持ったまま、テーブルの向かいに立った。座らなかった。
修はポケットから、四つに畳んだ古いビラを出して、テーブルに置いた。広げなかった。樹はそれを見た。見ただけで、何の紙か分かった顔をした。
「警察が、高校を回ってる」と修は言った。
樹は何も言わなかった。
「自転車のシールで」
台所の時計の秒針の音がした。冷蔵庫のモーターが唸りはじめた。
修は、テーブルの木目を見ていた。ここで訊いたら、答えが返ってくる。返ってきた答えは、もう取り消せない。三十年前にも、こういう台所があった。
「お前か」
声に出したのは、それだけだった。
樹は、修を見た。
修が顔を上げると、樹はまっすぐこちらを見ていた。何年ぶりかで、正面から、息子の顔を見た気がした。頬の線が、いつのまにか大人に近くなっていた。
「違う」と樹は言った。
修は、樹の顔を見ていた。
「俺じゃない。貸してた」
「誰に」
「言わない」
樹は麦茶のボトルを、テーブルの端に置いた。手を離さなかった。
「誰にかは言わない。言うつもりもない」
それから、樹は少し笑った。笑ったように、口の端が動いた。
「……ずっと、俺だと思ってたのか」
修は答えなかった。
答えられなかった。何か言わなければいけないと思った。そうじゃない、と言えば嘘になる。そうだ、と言えば、それが答えになる。
「いつから」と樹は言った。「あの日の朝から? 自転車どうしたって訊いたとき、もうそう思ってたのか」
「……」
「それで、訊かなかったのか。十日以上」
樹はボトルから手を離した。
「訊かないで、何してたんだよ」
修は口を開けた。
樹はそれを待たなかった。ボトルを取って、台所を出ていった。階段を上がる足音は、いつもより速くも遅くもなかった。二階の戸が閉まった。
テーブルの上に、畳んだビラが残っていた。
修は寝室の布団の上に座っていた。
明かりはつけなかった。カーテンの隙間から、隣の家の外灯の光が細く差していた。
俺じゃない、と樹は言った。貸してた。
修は、あの十五秒を思い出していた。
何度も思い出さないようにしてきた十五秒だった。停まっている車の前の、夜の交差点。左から飛び込んでくる白い自転車。曲がった前かご。消えたライト。泥よけの青いシール。そこまでは、何度でも浮かんできた。浮かぶたびに、その先を押し戻した。
今は、その先を思い出そうとした。
自転車は右の歩道へ上がって、止まった。乗り手は片足をついて、肩で息をしていた。ライトの端に、斜め後ろからの背中が入っていた。
背中。
修は、その背中の幅を思い出そうとした。肩の位置。片足をついたときの、膝の高さ。
樹の背中を、修はこの十日あまり、毎晩、台所から見ていた。冷蔵庫の前に立つ背中。階段を上がっていく背中。肩が、ドアの枠のどのあたりに来るか。
あの背中は、それより低かった。
肩も、細かった。頭半分くらい、と修は思った。思ってから、その言葉を、どこで思ったのかを思い出した。木曜日の夕方、自転車置き場の前だった。二人並ぶと、兄弟のように見える。樹より頭半分低く、肩の細い。
黒い上着の背中の真ん中に、白い円があった。
樹の持っているどれかの服だろう、と、あのとき修は思った。思って、流した。
白い円。
金曜日の駅前で、ラーメン屋の裏口から空き瓶のケースを運び出してきた店員の、黒い上着の背中。白く何か染め抜いてあった。その前の日曜日、開店前ののれん。黒い布の真ん中を、白く丸く抜いて、その中に字が一つ入っていた。
駅前のラーメン屋で、バイト始めたんですよ、と恵美は言った。帰りが九時とかで。
右の手のひらの、白いガーゼ。ポケットに入れる途中の手。
修は布団の上で、膝を抱えるように手を組んでいた。指の関節が白くなっていた。
あの夜、運転席の窓が鳴って、修は一時停止を押した。
恵美が去って、修は再生ボタンに親指を置いた。画面の中で、乗り手の肩がこちらへ回りかけていた。あと一秒か二秒進めれば、顔が見えた。
あの続きに、顔があった。
振り返った顔があって、それは樹の顔ではなかった。
修はそれを見なかった。見ないで、カードを抜かずに、家まで運転した。次の朝、カードを半分引き出して、押し戻した。いつもの道を、いつもの速さで走った。信号で止まるたびに時計を見て、何を数えているかを知っていて、アクセルを踏んだ。
あの一秒か二秒が、樹ではないと言える、ただ一つのものだった。
修はそれを、自分で消したのだった。
倉持に、猫だと言った。樹の自転車が目の前を横切ったのに。それは、もう倉持の手帳に書いてある。
カーテンの隙間の光が、少し動いた。隣の家の誰かが、外灯を消したのだった。部屋が暗くなった。
修は、明日のことを考えた。
警察に電話をする。倉持の名刺は、財布に入っている。猫は嘘でした、と言う。本当は自転車が見えました。白い自転車でした。乗っていたのは、たぶん息子ではありません。背中に、白い円がありました。
そう言えば、警察は駅前のラーメン屋へ行く。黒い上着の店員を一人ずつ当たる。拓真に行き着く。
それは、樹が、言わない、と言ったことだった。
それから、恵美の顔が浮かんだ。毎日、夕方の五時に通用口から入ってきて、お疲れさまです、と頭を下げる顔。見つかってから嘘ついたら、いちばん駄目、と段ボールに向かって言った顔。
そして、猫だと言った自分が、今になって、何と言うのか。
修は布団に横になった。天井は見えなかった。
あと一日、と修は思った。
明日の夜、もう一度樹と話してから。それからでも、遅くはない。
そう思うと、少しだけ、息ができた。




