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目撃者を探しています  作者: 久賀ラトル


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4/10

父が起きているうちに

 倉持が来た日から、修は夜に台所の明かりを消すのが遅くなった。

 店から帰って、風呂に入り、台所のテーブルで缶ビールを一本だけ開ける。テレビはつけない。二階で、樹の部屋の戸が開いて閉まる音や、トイレの水の音や、階段の軋む音を聞いている。樹が下りてきて、冷蔵庫を開けて、何か取って上がっていく。そのあいだ、二人とも何も言わない。修は缶を持ったまま、樹の背中を見ている。

 何を訊くつもりなのかは、自分でも分からなかった。訊かないために、そこに座っているのかもしれなかった。

 水曜日の夜、樹は冷蔵庫の前で、少しだけ動きを止めた。

「……ゼリー、食った?」

「いや」

「そう」

 樹はみかんのゼリーを一つ持って、上がっていった。それが、その週に二人が交わした、いちばん長い会話だった。


 木曜日は修の休みだった。

 昼過ぎまで家の片づけをして、夕方、二階の窓のカーテンを閉めようとしたとき、門の外に人がいるのが見えた。

 樹と、もう一人。自転車置き場の前だった。

 もう一人は、拓真だった。恵美の息子。樹より頭半分ほど背が低く、肩も細い。小さいころから、二人並ぶと兄弟のように見えた。いまも、並ぶとそう見えた。

 二人は、樹の白い自転車の前に立って、何か話していた。声は聞こえなかった。拓真が何か言い、樹が首を振った。拓真がもう一度何か言い、樹は前かごの曲がったところに手を置いて、それきり黙った。

 修はカーテンの端を持ったまま、それを見ていた。

 樹は、拓真には話したのかもしれない、と修は思った。あの夜のことを。何があったのかを。父親に言えないことを、子どものころからの友達には言う。そういうものかもしれない。そう思ったら、胸の奥の、どこか分からないところが、すっと冷えた。

 修は階段を下りて、勝手口から外へ出た。ゴミ袋を一つ、手に持っていた。持っていく理由が要った。

「こんばんは」と拓真が言った。

 拓真は修を見て、頭を下げた。下げる前に、右手をパーカーのポケットに入れた。入れる途中で、手のひらに白いガーゼが当ててあるのが見えた。テープで、四隅を留めてあった。

「久しぶりだね」と修は言った。

「はい。お母さんが、いつもお世話になってます」

「いや。こっちこそ」

 樹は、修を見なかった。自転車の前かごを見ていた。

 修は拓真のポケットの膨らみを見た。どうしたの、それ、と訊けば、拓真は何か答えるだろう。転んだとか、バイトで火傷したとか。何と答えられても、修はそれを恵美に話すわけでもなかった。

 修は訊かなかった。

「もう帰れよ」と樹が言った。拓真に言ったのだった。

「うん。じゃあ」

 拓真は修にもう一度頭を下げて、門を出ていった。歩いて帰っていった。団地へ続く坂を下りていく後ろ姿が、街灯の下を一つずつ通っていった。

 樹は前かごから手を離し、修の横を通って、玄関から家に入った。

 修はゴミ袋を持ったまま、自転車の前に立っていた。前かごの曲がったところに、さっきまで樹の手が置かれていた。金網に、うっすらと泥がついていた。

 修はゴミ袋を、収集日でもない集積所へ持っていって、置いた。


 金曜日、修は六時で店を上がった。閉店は佐々木に任せた。

 三浦から、平日は夕方の六時から七時まで、駅前で配っていると聞いていた。店の掲示板の前で一度、三浦はビラを補充しに来て、そのときに言っていった。来てください、とは言わなかった。

 駅前のロータリーは、帰りの人で混んでいた。バス停の屋根の下に、三浦がいた。修を見て、驚いた顔をしなかった。来ると思っていた顔でもなかった。ただ、ビラの束を半分に分けて、差し出した。

 七時近くまで配った。暗くなると、受け取る人はさらに減った。顔の見えない相手から紙を差し出されるのを、人は嫌がる。修は、受け取ってもらえないビラの数を、途中から数えるのをやめた。

 隣のラーメン屋の裏口から、店員が空き瓶のケースを運び出してきた。黒い上着の背中に、白く何か染め抜いてあった。店員はケースを路地の奥に積み、腰を伸ばして、また中へ入っていった。修は、そのとき三浦の方を見ていた。

 七時になると、裏口から、別の店員が出てきた。同じ黒い上着のまま、路地に停めた自転車にまたがって、駅の向こうへ帰っていった。


「今朝、父が、目を開けたんです」

 三浦は束を胸に抱えたまま、修の方を見ずにそう言った。

「病院から電話があって、行ったら、目を開けてて。何も言えないんです。管が入ってるから。でも、わたしの顔を見て、手を握ったら、握り返してきて」

 三浦は、自分の右手を見た。

「先生は、喜んでいいかどうかは分からないって。今は一時的なものかもしれないって。年も年だし。でも、目を開けたんです」

「……よかった」と修は言った。

「はい」

 三浦はうなずいた。それから、改札から出てきた人に、お願いします、とビラを差し出した。受け取ってもらえなかった。三浦は手を引っ込めて、また修の方へ向き直った。

「それでね、思ったんです。父が起きているうちに、その人に、父の前で謝ってほしいって」

 修は、手の中のビラを見ていた。

「許すとか、許さないとかじゃないんです。それは、わたしには分からない。父が決めることだから。でも、父は、自分が誰にはねられたのかも知らないまま、あそこに寝てるんです。それが、嫌で」

 三浦は息を吸った。

「顔を見せてほしい。父に。その人の顔を。父が、まだ、見られるうちに」

 改札から、また人が出てきた。高校生の一団だった。紺のブレザーが三人、四人。修の前を、笑いながら通っていった。一人がビラを受け取り、歩きながら読んで、隣の子に見せた。何これ、と隣の子が言った。ひき逃げだって。ふうん。紙は、その子の手からリュックの横のポケットに押し込まれた。

「店長さん」と三浦が言った。

 修は顔を上げた。

「手伝ってもらって、ほんとうに助かってます。一人だと、立ってるのが、つらくて。誰も見てくれないから」

 修は、何か言おうとした。

 口を開けて、閉じた。

 三浦は答えを待っている顔ではなかった。言いたいことを言った人の顔で、またロータリーの方を向いた。お願いします、と頭を下げた。

 修は、自分の手の中の束から、いちばん上の一枚を取って、通りかかった人に差し出した。お願いします、と言った。声が、自分の耳に遠かった。


 七時を過ぎて、三浦は残りのビラを布の鞄にしまった。

「明日は病院に行くので、配れないんです。月曜からまた来ます」

「はい」

「店長さんも、無理しないでくださいね。お店、大変でしょう」

 三浦は頭を下げて、バス乗り場の方へ歩いていった。修はそれを見送ってから、駅の反対側の駐車場へ歩いた。

 車に乗り、エンジンをかけた。ルームミラーの裏で、赤い丸が点滅を始めた。修はそれを見ないように、前だけを見て、駐車場を出た。

 家に着くと、樹の部屋の明かりはついていた。

 台所の流しに、ゼリーの空の容器が一つ、水を張って置いてあった。修はそれを洗って、プラスチックのゴミの袋に入れた。

 父が起きているうちに、と三浦は言った。

 修は、台所のテーブルの前に立ったまま、二階の天井を見上げた。樹の部屋の真下だった。上で、椅子の脚が床を擦る音がした。

 修は、自分がいま何を待っているのか、分からなかった。樹が下りてくるのを待っているのか。下りてこないのを待っているのか。

 その夜、樹は下りてこなかった。


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