見つかる前に
月曜日の朝、樹は七時二十分に家を出た。
修は台所の窓から、それを見ていた。樹は玄関を出て、カーポートの横を通った。自転車置き場の前で、一度だけ歩く速さが落ちた。止まりはしなかった。そのまま門を出て、バス停のある大通りの方へ歩いていった。紺のブレザーの背中に、黒いリュックが揺れていた。
四月に入学してから、樹は一度もバスで学校へ行ったことがなかった。
修は湯呑みの茶を飲み干して、流しに置いた。
その日の午後四時過ぎに、店で万引きがあった。
保安員の女の人が、中学生の男の子を事務所に連れてきた。駄菓子の棚で、グミの袋を二つ、学生服のポケットに入れて、レジを通らずに出たのだという。男の子は椅子に座らされても、ずっと床を見ていた。
「やってない」と男の子は言った。「払うつもりだった。忘れてただけ」
保安員は、防犯カメラの画面を修に見せた。男の子が棚の前で周りを見回し、袋をポケットに入れ、レジの列の横を通って出ていくところまで、映っていた。
「お母さんに連絡するから、番号を教えてくれるかな」と修は言った。
三十分ほどで、母親が来た。仕事着の上にダウンを羽織って、息を切らせていた。母親は画面を見る前に、うちの子はそんなことはしません、と言った。画面を見たあとは、払うつもりだったと言ってるじゃないですか、と言った。男の子は床を見ていた。
店の決まりでは、本人と家族が認めて謝れば、代金を払ってもらって帰す。認めなければ、警察を呼ぶ。修はその決まりを、母親にゆっくり説明した。母親は、決まりなんて、と言いかけて、男の子の方を見た。男の子は、やってない、ともう一度言った。
修は受話器を取って、警察に電話をかけた。
警官が来て、男の子と母親を連れていったのは、六時前だった。
修が事務所で報告書を書いていると、夕方のシフトに入った恵美が、段ボールを抱えて通りかかった。恵美は戸口で立ち止まった。
「さっきの子、警察呼んだんですか」
「認めなかったから」
「先月の子は、帰しましたよね。お母さんと一緒に謝りに来た子」
先月、小学校の高学年の女の子が、母親に手を引かれて事務所に来た。前の日に、消しゴムを一つ取ったのだという。店の誰も気づいていなかった。母親は代金を払い、女の子は泣きながら頭を下げた。修は、もういいよ、と言って帰した。
「あれは、自分たちから来たから」
「ですよね」恵美は段ボールを抱え直した。「見つかる前に来たら、許してもらえる。見つかってから嘘ついたら、いちばん駄目。もう、どうにもならない」
恵美は、修にというより、段ボールに向かってそう言った。
「うちのも、気をつけないと」
「拓真くん、元気?」と修は訊いた。恵美の息子の拓真は、樹と同じ小学校の、同じ町内の子だった。小さいころは、うちの台所でよくアイスを食べていた。妻がいたころの話だった。
「元気、元気。駅前のラーメン屋で、バイト始めたんですよ。夜遅くて、帰りが九時とかで。高校生なのに、ねえ」
恵美は笑った。笑ってから、何かを思い出したように段ボールを見て、品出し行ってきます、と言って売場へ出ていった。
修は報告書の続きを書いた。
認めなかったため、警察に通報。
ボールペンの先が、「認めなかった」の「認」のところで、少し止まった。
閉店後、事務所の小さなテレビで、地方局の夜のニュースが流れていた。
画面に、見覚えのある交差点が映った。東原交差点の東の、押しボタン式の横断歩道。路肩に、黄色い立て看板が立っていた。
『先週木曜日の夜、この横断歩道で、七十八歳の男性が自転車にはねられ、意識不明の重体となっています。自転車はそのまま走り去りました。警察は、当時この付近を通行した車両のドライブレコーダーの映像の提供を呼びかけています』
立て看板には、大きな字で「ドライブレコーダー映像の提供をお願いします」と書いてあった。
佐々木が、帰り支度をしながら画面を見上げた。
「あ、これ。うちに貼ってある」
「ああ」
「ドラレコか。今どき、みんな付けてますもんね。誰か映してるでしょ、たぶん」
佐々木はコートを着て、お先です、と言って出ていった。
修はテレビを消した。画面が黒くなって、そこに事務所の蛍光灯と、自分の顔が小さく映った。
翌日の火曜日、十一時過ぎに、店に警察が来た。
サービスカウンターから内線で呼ばれ、修が出ていくと、灰色の背広の男が一人、立っていた。五十前後で、髪を短く刈っていた。男は手帳を開いて見せ、県警の倉持です、と名乗った。
「柏木修さん。店長さんですね。少し、お時間いいですか」
修は倉持を事務所へ通した。パイプ椅子を出し、自分は机の椅子に座った。倉持は座る前に、事務所の中をひと通り見回した。壁の売上のグラフ。シフト表。窓の外の駐車場。
「先週の木曜日、十一月七日の夜九時ごろ、東原交差点を通られましたね。市道を南へ。白のミニバンで」
「……はい。会議の帰りで」
「交差点の手前で、赤信号で止まっておられた。後ろに停まっていた車の方が、ドライブレコーダーの映像を出してくださいましてね。柏木さんの車のナンバーが映っていた」
倉持はそこで言葉を切って、修の顔を見た。責める顔ではなかった。順番に確かめていく人の顔だった。
「その信号待ちのときに、柏木さんの車の前を、自転車が横切ったはずなんです。東から西へ。何か、ご覧になりましたか」
修は、机の上のボールペンを見た。
昨日書いた報告書が、まだ机の端に載っていた。
見ました、と言えばいい、と修は思った。白い自転車が、左から右へ横切りました。前かごが曲がっていました。それから、と言えばいい。それから。
「何か」と修は言った。「猫か何かが、飛び出したように見えました。白っぽいものが、さっと。暗かったので」
「猫」
「はっきりとは。ラジオをつけていて、ちょっとぼうっとしていたので」
倉持は手帳に何か書いた。書く手は速くも遅くもなかった。
「自転車ではなかった、ということですかね」
「……そう言われると、自信はないです。何か、横切ったのは確かです」
「そうですか」倉持は手帳から目を上げた。「歩道にいた方は、自転車だったとおっしゃってましてね。白っぽい自転車が、西へ。それで、柏木さんの車は、その直後に交差点を渡っている」
修は黙っていた。
「ドライブレコーダーは、付いてますか」
「付いてます」と修は言った。「でも、たぶん、もう上書きされてると思います。一時間ちょっとしか残らないって、付けたときに言われて」
「拝見してもいいですか」
二人で、駐車場へ出た。
倉持は運転席のドアを開け、身をかがめて、ルームミラーの裏の本体のメニューを押した。慣れた手つきだった。ファイルの一覧を、いちばん古いところまで送った。
「昨日の、月曜日の朝の八時半ごろからですね」
「……毎日、通勤で乗るので」
「ええ。そういうものです」
倉持は、イベント記録の一覧も開いた。空だった。カードを抜いて、日付の欄を確かめ、また差し込んだ。それから体を起こして、運転席のドアを閉めた。
「ありがとうございました。また何か思い出されたら、ここへ」
名刺を渡された。交通捜査係、と書いてあった。
倉持は駐車場を横切って、通りに停めた白いセダンへ歩いていった。途中で一度、店の入口の方を振り返った。入口の自動ドアの横の掲示板に、三浦のビラが貼ってある。倉持はそれを確かめるように少し見て、車に乗った。
修は駐車場に立っていた。
手の中の名刺の角を、親指でなぞった。
十一時半の陽射しが、駐車場の白線の上に落ちていた。昼の買い物の客が、カートを押して車へ戻っていく。修のミニバンの運転席の窓に、空と、店の看板が映っていた。
猫、と修は言ったのだった。
倉持の手帳の中に、その字が書いてある。書いてあって、もう消えない。
通用口へ戻る途中で、修は掲示板の前を通った。ビラの四隅の画鋲は、修が押したときのまま、まっすぐ刺さっていた。
――目撃者を探しています――
修は事務所に入り、机の端の報告書を、引き出しにしまった。




