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目撃者を探しています  作者: 久賀ラトル


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2/10

いつもの道

 土曜日の朝、修が起きたとき、樹はもう出かけていた。

 七時前に、玄関の戸が閉まる音を、修は布団の中で聞いていた。どこへ行くとも書いていなかった。台所のテーブルに、食パンの袋が口を開けたまま置いてあった。修は袋の口を留め具で閉じ、パンを一枚焼いて、立ったまま食べた。


 八時十分に、カーポートの車に乗った。

 キーを回す前に、修はルームミラーの裏を見た。ドライブレコーダーの本体の横に、カードの差し込み口がある。細い溝の奥に、カードの端が、薄く灰色に見えていた。

 修は指を伸ばした。

 爪の先をカードの端に掛けて、押した。かちり、と小さな音がして、カードが半分、外へ出てきた。切手よりも小さな板だった。これを抜いて、ポケットに入れて、店まで行けばいい。電車でもいいし、今日だけ佐々木に迎えを頼んでもいい。

 抜いて、それから、と修は思った。

 家に帰ってパソコンに差して、昨日の続きを見るのだろうか。見て、それから。

 カーポートの屋根の向こうで、隣の家の犬が吠えた。

 修はカードを、指先で奥へ押し戻した。かちり、と同じ音がした。

 キーを回した。画面の右上で、赤い丸が点滅を始めた。

 いつもの道を走った。団地の前の信号で止まり、ホームセンターの角を曲がり、川を渡った。信号で止まるたびに、修は時計を見た。八時十八分。八時二十一分。何を数えているのか、自分では分かっていた。分かっていて、アクセルを踏んだ。


 店の駐車場に車を停めて、時計を見ると、八時三十五分だった。

 修はエンジンを切らずに、しばらく運転席に座っていた。

 メニューを押せば、ファイルの一覧が出る。それを見れば、おとといの夜九時のファイルが、まだあるのか、もう無いのかが分かる。

 修はメニューを押さなかった。

 店員は、一時間ちょっと、と言っていた。おとといの夜から、修は一時間ちょっとより長く、この車を運転していた。

 エンジンを切った。赤い丸が消えた。

 修は車を降り、通用口から店に入って、タイムカードを押した。


 その日、店は普段の土曜日と変わらなかった。

 開店前に青果の担当と並べ方の話をし、昼前に卵の特売でレジが混んだ。午後、副店長の佐々木が、事務所で伝票を書きながら言った。

「入口の、ひき逃げのビラ。あれ、昨日の人、明日の日曜に駅前で配るって言ってましたよ。うちのパートさんで、見かけた人いたら手伝ってあげてって」

「そうか」

「おじいさん、まだ意識戻らないんですって。ひどい話ですよね。逃げるかな、普通」

 佐々木はボールペンの尻で、こめかみを掻いた。

「自転車でしょ。高校生とかじゃないですか、たぶん」

 修は発注の画面を見たまま、そうかもな、と言った。


 夜、家に帰ると、樹の部屋の明かりはついていた。

 自転車置き場の白い自転車は、前かごの曲がったまま、昨日と同じ場所にあった。修は車を降りて、その前に立った。

 直してやろうと思えば、前かごはペンチで戻せる。ライトは、ホームセンターで千円もしない。

 修は自転車に触れなかった。カーポートの奥に、雨よけの青いシートが畳んである。それを掛けてやることもしなかった。掛ければ、隠したことになる。直せば、直したことになる。何もしなければ、何もしなかっただけになる。

 修は勝手口から家に入った。

 夜中に一度、二階で戸が開く音がした。階段を下りてくる足音がして、玄関の外へ出ていく気配があった。しばらくして、戻ってきた。自転車置き場のあたりで、何かを確かめたのかもしれない。修は布団の中で、天井を見ていた。


 日曜日は、修の休みだった。

 十時過ぎに、修は歩いて家を出た。駅までは二十分かかる。車で行けば五分だが、車には乗りたくなかった。乗っても、もう何も残っていないことは分かっていた。分かっているから、乗りたくなかった。

 駅前のロータリーには、バスが二台停まっていた。

 三浦は、バス停の屋根の端にいた。灰色のコートを着て、肩から布の鞄を提げ、胸の前でビラの束を抱えていた。通る人に、お願いします、と小さく頭を下げて一枚ずつ差し出していた。受け取る人は、五人に一人くらいだった。受け取らない人は、三浦の手の少し手前で、歩く向きを変えた。

 修は、ロータリーの向こう側の歩道を歩いていた。

 そのまま通り過ぎれば、駅の向こうの商店街へ出る。修はそちらへ何の用も持っていなかった。

 ロータリーの角まで来て、修は立ち止まった。

 バス停の隣は、ラーメン屋だった。まだ開店前で、シャッターは半分上がっていた。若い店員が、内側から黒いのれんを出して、竿に掛けているところだった。黒い布の真ん中を、白く丸く抜いて、その中に字が一つ入っていた。店員はのれんの裾を手で払って、中へ引っ込んだ。

 修はロータリーを渡った。


「三浦さん」

 三浦は顔を上げた。一瞬、誰だか分からない顔をして、それから、あ、と言った。

「たかのの。店長さん」

「休みなんで。手伝います」

 三浦は束を抱えたまま、修を見た。

「そんな。お休みの日に」

「家にいても、することがないんで」

 それは本当だった。三浦はしばらく迷う顔をしていたが、やがて、束を半分に分けて、修に差し出した。紙の束は、思ったより重かった。

「ありがとうございます。……あの、渡すとき、何て言えばいいか、わたしも分からなくて。お願いします、しか言えなくて」

「じゃあ、それで」

 修は、三浦から三メートルほど離れて、バス停の柱の横に立った。

 改札から人が出てくるたびに、ビラを差し出した。お願いします。お願いします。受け取る人は、やはり少なかった。受け取った人も、歩きながら一度目を落とし、ロータリーの角のゴミ箱の前で、少し迷う顔をした。

 昼が近づくと、ラーメン屋の前に列ができた。並んでいる人たちは、ビラを受け取ってくれた。並んでいるあいだ、することがないからだった。修は列の後ろから順に一枚ずつ配った。のれんの白い丸が、人の頭の向こうで揺れていた。


 一時を過ぎて、人通りが減った。

 三浦は自動販売機で缶のお茶を二本買って、一本を修に渡した。二人で、バス停のベンチに並んで座った。

「父、元は市役所で水道の仕事をしてたんです」と三浦は言った。「この辺の道は、どこに何の管が通ってるかまで知ってるような人で。だから、夜でも道は分かってたはずなんです。あそこの押しボタンも、ちゃんと押して、青で渡ってたって。見てた人がそう言ってくれて」

 修は缶のお茶を両手で持っていた。

「目撃者の方がいたんですか」

「ええ。信号を待ってた会社員の方が、目の前で見たって。救急車も、その方が呼んでくれて。でも、暗くて、乗ってた人の顔は見えなかったって。フードをかぶってたって」

 三浦はお茶の缶を開けずに、膝の上に置いていた。

「白っぽい自転車が、西の方へ走っていったって。それだけなんです。それだけじゃ、警察も、なかなか」

「……そうですか」

「交差点の角に、コインパーキングがあるの、ご存じですか。あそこのカメラにも、何か映ってたらしいんですけど、遠くて、よく分からないって。だから、あの時間にあそこを通った人が、ほかにもいるはずなんです。車でも、歩きでも。その人が何か見てたら」

 三浦は言葉を切って、ロータリーを見た。

「店長さんも、あの交差点、通られます?」

 修は缶を持ち直した。

「……たまに」

 三浦はうなずいた。それ以上は訊かなかった。修の顔を見てもいなかった。改札から、また人が出てきた。三浦は立ち上がり、束を抱え直して、お願いします、と頭を下げにいった。


 三時過ぎに、ビラは残り二十枚ほどになった。

 修の前で、買い物袋を提げた年配の女の人が立ち止まった。ビラを受け取って、眼鏡を額に上げて読んだ。

「何、これ。事故?」

「ひき逃げです。木曜日の夜に」と修は言った。

「まあ。それで、何してるの、あんたたち」

 修は、手の中の束を見た。いちばん上の一枚の、いちばん上の行。

「目撃者を、探してるんです」

 声に出してから、修は、自分がいま何と言ったかを聞いた。

 女の人は、ご苦労さまねえ、と言って、ビラを買い物袋の中に入れて行ってしまった。

 三浦が、少し離れたところから、こちらを見て頭を下げた。

 修も頭を下げた。


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